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 大正期の紡績工場を描いたルポルタージュ「女工哀史」。筆者の細井和喜蔵(わきぞう)には内縁の妻、高井としをがいた。岐阜県出身の女性の半生をまとめた「わたしの『女工哀史』」が、発刊35年になる今年、岩波文庫に収録された。貧しさの中で働き続け、労働運動に尽くした生き様は今も語り継がれる。

 としをは1902年に生まれ、10歳で岐阜・大垣の紡績工場に働きに出た。各地の工場を転々とし上京、18歳で細井に出会う。

 女工や女中を続けながら、病弱な細井に自らの体験も伝えて執筆を支えた。「女工哀史」は25年7月に発刊されベストセラーになったが、細井は翌月28歳で亡くなる。としをは入籍しておらず、印税を手にすることはなかった。

《女工の実態を何とか世に訴えたいと、一つの目的に結ばれてともに努力していたので、内縁の妻などということは、気にもかけていなかったのです。》(「わたしの『女工哀史』」より、以下も同じ)

 27年に労働運動の活動家だった高井信太郎と入籍したが、高井も終戦翌年に死去。としをは兵庫県伊丹市で、日給240円で「ニコヨン」と呼ばれた失業対策の日雇い労働をして5人の子を育てた。労働組合を立ち上げ、市役所と交渉し賃上げや健康保険の加入などを実現させた。

《私の一生は、女工哀史とニコヨン哀史の連続でした。なかでもニコヨン生活の二十年は、働いても働いても、食わなんだり食わなんだりの生活で、(中略)だから労働組合をつくり、団結して助けあい、生活を守りぬいたのでした。》

 「わたしの『女工哀史』」は80年に草土文化(東京)から発刊。きっかけは、当時の聖徳学園女子短大の教員と学生らでつくる「現代女性史研究会」の聞き書き調査だった。

 メンバーだった大津市の福田ひとみさん(64)もかつて愛知県一宮市の紡績工場で働き、寮から短大に通った。聞き書き調査でとしをを訪ねたころを思い出す。「プライバシーがないのはとしをさんのころと変わっていないと思った。私も寮で6人が10畳1部屋に入り、私物は鍵のかからないタンスにしまっていた」