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 朝日新聞が大阪で夕刊の発行を始めて、10日でちょうど100年を迎える。当時は欧州で戦乱が続き、京都では未曽有の大イベントが間近だった。そんな情報の激増から発行を1日2回に増やすメディアの速報競争の行方は、結局早さ以外の要素に左右された。

■毎日と同日に発行

 1915(大正4)年10月7日から3日間連続で、特大サイズの社告が大阪朝日(大朝)、大阪毎日(大毎)の1面を飾った。

 大朝の見出しは「本紙の大発展/頁(ページ)数増加/夕刊発行」。「欧州の大乱は……生活に一段の複雑と繁忙とを加え」、通信の発達で国内外の情報が激増した事情を説明。翌11月に京都御所で開かれる大正天皇の即位式典の記念事業として、夕刊を発刊すると宣言した。

 新聞は当時、ニュースを伝えるほぼ唯一の媒体。各紙は激しい速報競争のさなかにいた。東京朝日が1897(明治30)年に夕刊を発行した例はあったが、配達や取材体制が追いつかず7カ月で中断している。

 折しも14年に第1次世界大戦が勃発。日本は同盟国だった英国の求めでドイツに宣戦布告し、ドイツが権益を持つ中国・青島を占領した。戦況への関心の高まりに加え、天皇の即位式典は皇室典範が作られて以来初めてだった。

 「もはや時の要求」(村山龍平伝)と夕刊の発刊を決めた大朝は、最大の競争相手だった大毎に通告。同社も、「大朝が発行する以上本社も発行しなければ」(毎日新聞七十年)と同日発行に踏み切った。