2015.10.06 唯一絶対の神アッラーが下す「最後の審判」をまた目指して生きる
「イスラム断章」

伊藤力司 (ジャーナリスト)

われわれ現代の日本人は宗教を無視したような生き方ができる。よく言われるように、結婚式はキリスト教式で挙げ、葬式は仏教の坊さんにお経を上げてもらう。何かの折に神社を訪れれば二礼二拍手の拝礼も欠かさない。だが外国ではキリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教をはじめ諸々の宗教が人びとの生活を律している。中でもイスラム教徒は、1日5回のメッカを拝む礼拝や女性のヒジャブ(かぶりもの)など目に見える形で信仰を実践しており、その姿は平均的日本人には少し異様に映る。

とりわけ動乱の中東・シリア、イラクで暴れている「イスラム国」を名乗る過激派が、TVカメラの前でオレンジ色の囚人服を着せられた外国人人質の首を掻き切って惨殺するシーンが全世界のネット画面に流されたことで、イスラム教への違和感が広がった。こうして惨殺された人質の中に後藤健二さんと湯川遥菜さんの2人の日本人がいたことで、日本ではイスラムへの反感と広がったようだ。国際情勢を取材・報道してきたジャーナリストの端くれとして、イスラムについて学んだことを「イスラム断章」と銘打って折節紹介したい。

イスラムとは、万物の創造主であり唯一の神である「アッラーに絶対帰依する」という意味である。イスラム教徒のことをムスリムというが、これは「アッラーにすべてを委ねる人」を意味するという。ここが天照大神から山の神、海の神、さらには氏神様に至るまでの八百万の神がいて、通りすがりの神社・仏閣に手を合わせてお加護を祈る日本などの多神教の世界とは決定的に異なる点だ。ムスリムの誰もがアラビア語で唱える「アッラーのほかに神はない。ムハンマドは神の使徒である」という言葉は、すべてのイスラム教徒にとって、その信仰の出発点であり、根本理念である。

(ムハンマドは従来マホメットと表記されていたが、これは西欧人がアラビア語のムハンマドをローマ字で表記したのを、明治の日本人がマホメットと読んだためだ。アラビア語の発音をカタカナにすればムハンマドが原音に近い。先年ケニアで大学の寮を襲ったイスラム過激派のテロリストが、学生たちに「アッラーのほかに神はいない…」の文言をしゃべらせてこれを唱えられない者を射殺した事件があった。)

さてイスラム教の預言者ムハンマド(西暦570年ごろ-632)はちょうど聖徳太子と同時代に、アラビア半島のメッカで生まれて生きた商人である。聖徳太子が朝鮮半島を経由して渡ってきた仏教を本格導入して大和朝廷の治世を固めたのとほぼ同時期、ムハンマドはアッラーの啓示を受けてアッラーの言葉を伝える預言者として活動を展開した。商売に成功したムハンマドは時々洞窟にこもって瞑想することを好んだが、瞑想中の彼の脳裏には頻繁に異様な言葉がひらめいた。それはアッラーがムハンマドに下した啓示であった。この啓示
を文章化したのがイスラム教の聖典コーランである。

当時のアラビア半島は多神教がはびこっていたために、アッラーのみを神と認める一神教の信仰を広めようとしたムハンマドはひとかたならぬ迫害を受けた。そのため彼は紀元622年に、それまでに彼の周りに集まった信徒を連れてメッカから西方400キロのメディナに避難した。それから632年にムハンマドが没するまでの10年間に、イスラム教を奉じる信徒はアラビア半島西部全域を支配するに至った。ムハンマドとその1党がメディナに移住して勢いを盛り返しメッカに戻ったことが、その後のイスラム教の隆盛を招く結果になった。そのためイスラム教ではメディナ移住をヒジラュ(聖遷)と呼び、この年をイスラム歴元年としている。

ムハンマド没後のイスラム教は、カリフという名の後継者(教主兼総司令官)を押し立て、7世紀から数世紀の間にアラビア半島から中東全域に布教と支配権を拡大した。その勢いは北アフリカからサヘル地帯を越えて中部アフリカ、さらに北転してイベリア半島にまで及んだ。さらに俗に言うところの「剣とコーラン」をかざしたイスラム勢力の聖戦(ジハード)は、西アジアから中央アジア、インド亜大陸、東南アジア(インドネシア、マレーシア、フィリピン南部)や中国の一部(ウイグル自治区と回教徒地域)を席巻した。

これだけ拡大したイスラム世界の人口は、現在17億人から18億人の間と推定されている。キリスト教徒がプロテスタント、カトリック、ギリシャ、ロシアなどの東方正教会を合わせて24億人に次ぐ人数だ。キリスト教圏にくらべイスラム教圏は多産系が多く、いずれはキリスト教圏の人口を追い抜くのでは、と予測されている。

イスラム教には、根底に神のもとでは人間はみな平等だという教えがある。これが破竹の勢いでイスラム世界が拡大した要因の一つだろう。さらにムスリムは神の言葉に沿って戒律を守りきちんと生活していれば、死後にアッラーの「最後の審判」受けて天国に行けると信じている。しかしアッラーはすべてお見通しである。定められた戒律を守っても審判にパスするという絶対的な保証はない。

よく知られているように、ムスリムには豚肉を食べてはならないとか飲酒厳禁といった戒律がある。1日に5回のメッカ礼拝が義務付けら、ラマダン(断食月)の間は日の出から日没まで飲食を禁じるなど、日本人の普通の生き方からすれば「苦役」としか見えない戒律もある。これらの戒律をきちんと守ったつもりでも「最後の審判」で、すべてをお見通しのアッラーから死後の天国行きが許されるとは限らないのだ。だが、もし「最後の審判」で天国行きがOKとなれば、永遠の天国暮らしが許される。

俗世でいくら長生きしたとしても70年か80年。それに比べると天国では永遠の生命が保証され、しかも肉は食べ放題、葡萄酒は飲み放題。麗しい乙女(処女)たちといくら交わっても、美女はまた次の日は処女に戻る世界なのだという。あちこちのイスラム過激派が、年若い少年たちに強力爆弾を抱かせて自爆攻撃をさせる例が起きているが、純真な少年たちは「この行いはアッラーの御心にかなうので必ずお前の天国行きを許してくれる」と言い含められて、自爆を決行する例が出ているという。幼少時から来世の天国のために今を生きることを教えられて育つイスラム少年たちの悲劇である。
2015.10.05 同義語と反義語
come と go, bring と take

松野町夫 (翻訳家)

「旅」と「旅行」のように意味がほぼ同じ語を同義語といい、「戦争」と「平和」のように意味が反対になる語を反義語という。日本語の同義語や反義語には、以下のように様々な呼び方がある。
同義語=同意語、類義語、類語
反義語=反意語、対義語、反対語

英語では同義語をシノニム(synonym)、反義語をアントニム(antonym)という。
synonym [sínǝnìm] シノニム
a word that has the same meaning as another word, such as "big" and "large."
訳: シノニムとは "big" や "large" のように別の語と同じ意味になる語のこと。
antonym [ǽntǝnìm] アントニム
a word that means the opposite of another word, such as "good" and "bad."
訳: アントニムとは "good" や "bad" のように別の語と意味が反対になる語のこと。

ここでは英語の基礎語である come と go を通して、同義語や反義語を見てみよう。
come は日本語の「来る」に、go は「行く」に相当する。“come” の反義語は “go”。 come は “move near” 「近づく」、go は “move away” 「遠ざかる」。両者とも動くことは変わりはないが、前者は何かに向かう動きだが、後者は何か から離れる動きである。何かを○で、動きを矢印で表すと、次のように図示できる。 come = ○ ← ;  go = ○ →

この概念は日本語の「来る」「行く」と同じだ。しかし英語のcome はもうひとつ重要な用法があるので注意が必要だ。それは相手を中心にして相手の思う場所に「行く」ときにはcome を使うということ。つまり、「行く」を come と訳す場合がある。たとえば、「一緒に行きます」は、 I'm coming with you. となる。

A: あなた、夕食、できたわよ。 Dinner's ready, darling.
B: OK、今、行くよ。 OK. I'm coming. (not I'm going)

A: 今週末、京都に行こうと思っている。 I want to go to Kyoto this weekend.
B: いいね。ぼくも一緒に行ってもいいかい。 Great! Can I come with you? (not can I go)

この come と go の用法は、come や go の同義語(bring, take)にも当てはまる。たとえば、
bring: (持って来る、連れて来る) → come の同義語
take: (持って行く、連れて行く) → go の同義語

駅に着いたら雨が降っていた場合: (携帯での会話)
妻: 今、駅に着いたの。雨、すごいのね。 I've just arrived at the station. It's raining hard.
夫: わかった。傘、持って行ってあげるよ。 I know. I'll bring you an umbrella. (not take)
*話し相手に何かを「持って行く」ときは、take ではなく bring を使用する。
I'll bring you something. (not take) となる。

ある語の同義語や反義語がひとつとは限らない。類語辞典や反対語辞典をひくと、たいてい数個の単語が表示される。たとえば、go の同義語は get, head, pass, move, travel, advance、 go の反義語は come, stay, stop, halt ... というように。以下は反義語(go ↔ stay)の例である。

A: Are you going out tonight? 今晩、出かけますか?
B: No, I’ll stay home. いいえ、家にいます。

シソーラス(thesaurus)は、単語を意味によって分類・配列した一種の類語辞典だが、最近では、同義語や反義語を収録したオンラインの「同意語・反意語辞典」もあり、重宝する。

2015.10.04 「本日休載」

今日 10月 4日(日)は休載します。

リベラル21編集委員会


2015.10.03 当面シリア・アサド政権の存続を許容か
ロシアとフランスがシリア領内ISの拠点を空爆

伊藤力司 (ジャーナリスト)

このところEU(欧州連合)は、トルコからギリシャに渡りバルカン半島を北上して欧州諸国に押し寄せるシリア難民に忙殺されている。中東で枢要の地を占めるシリアでは2011年の春以来4年半に及ぶ戦乱が続いており、総人口2200万人の2割に当たる440万人が難民または国内避難民として故郷を逃れた生活を強いられている。

戦乱の発端は2011年3月、折からの「アラブの春」がシリアに及び、1970年以来父子相続で40年以上続いたアサド家独裁政権に対し、国内多数派のイスラム教スンニ派による民主化運動が起きたことだ。アサド政権はこれに徹底した武力弾圧で臨み、反体制派の拠点がある都市に猛烈な空爆を続けた。これに対しシリア民主化を望む欧米諸国とサウジアラビアなどスンニ派の湾岸諸国が物心両面で反体制・民主化運動を支援してきた。

こうして戦乱が続く中、アルカイダをはじめとするイスラム教過激派がシリアに潜入して、反アサド武力抗争に加わる中で過激派の中でも最も恐ろしい「鬼っ子」というべき「イスラム国」(IS)を名乗る集団が、イラクとシリアにはびこることになった。アメリカを先頭とする有志国連合50余カ国が2014年からISを征伐する戦いに参加しているが、現状でははかばかしい成果が上がっていない。

ISは昨2014年6月10日、イラク第2の都市モスルを占領した。ISはその後さらに、イラク北部と西部の広範な地域を制圧しただけでなく西に国境を接するシリアの北東部・北部にも勢力範囲を広げた。シリア北部、トルコとの国境に近いラッカを制圧して「イスラム国」の首都と定めた。6月29日には指導者アブ・バクル・アル=バグダディがカリフに就任したと宣言した。

指導者がカリフを名乗ったということはイスラム法からすれば、イラクとシリアで実際に制圧した領域だけでなく全世界のイスラム教徒(ムスリム)の政治的指導者としての地位を主張したことになる。バグダディは、イスラム教の預言者ムハンマド(日本では以前マホメットと表記)の血筋を意味する黒いターバンをかぶってインターネットの画像に登場、全世界のムスリムに対してISを支援するよう訴えた。

ISはその後シリアで拘束した欧米人人質にオレンジ色の囚人服を着せてTVカメラの前にひざまずかせ、殺害予告を語らせたのちに覆面をした欧米系のIS要員が人質の首を切断して殺害する映像を全世界にネットで流した。この公開処刑に、ジャーナリストの後藤健二さんと民間軍事会社の湯川遥菜さんの2人の日本人が含まれていたことは記憶に新しい。

さて有志国連合に加わっていないロシアの国防省は9月30日、「プーチン大統領の決定で、ロシア空軍がシリア領内のISの施設に対しピンポイント攻撃を始めた」と発表した。一方フランス国防省は9月27日、フランス空軍が同日シリア領内のIS拠点に空爆を加えたことを明らかにした。アメリカは1年前からイラク領内のIS拠点に激しい空爆を加えてきたが、シリア領内への空爆は控えてきた。それはアメリカはじめ西側諸国が敵視するシリアのアサド政権を助けることになるという理由からだ。

ロシアがシリアのアサド政権を支持していることは周知の事実だ。チェチェンなど、カフカス(コーカサス)地方のロシア連邦を構成するイスラム共和国群からISに加わっている過激派がいることも周知の事実だ。かつて激発したチェチェン発の国内テロ事件に悩まされたロシア政府が、ISを敵視していることは当然だ。しかしプーチン大統領はこれまで、ロシアがIS撃滅のために具体的行動に出ることは控えてきた。それが一転したのは、9月28日ニューヨークでプーチン大統領がオバマ米大統領と会談したことにナゾを解く秘密がありそうだ。

「アサド大統領は暴君だ。内戦で20万人の国民が死亡し、数百万人が難民化した事態を招いた張本人だ」と、オバマ大統領は国連総会の一般演説でアサド政権を厳しく非難した。一方で、シリアとイラクにはびこるISのメンバーには、1000人以上とも言われるアメリカ市民権を持つイスラム過激派が参加しており、国内治安対策上でもIS掃滅が、オバマ政権の至上課題でもある。

9月28日の米ロ首脳会談で、オバマ、プーチン両首脳はシリア問題の解決策を今後も探ることで合意した。空爆による掃討作戦が手詰まりになっているオバマ大統領は、アサド政権の即時退陣よりも、ロシアの手を借りてでもIS掃討の突破口を開く方向に重心を移したのかもしれない。それがロシア、フランスのシリア領内IS拠点への空爆開始につながったのではあるまいか。とすれば、アサド政権の延命に目をつぶってもIS掃滅を優先するべきだと米ロが暗黙の合意に達し、フランスもそれを見てシリア領内のIS空爆に踏み切った可能性がある。

2015.10.02 権威とは何か――それはときどき間違うものである
――八ヶ岳山麓から(159)――

阿部治平(もと高校教師)

かつて私は高校の地理教師だった。
地理教科書には、必ず北アメリカ・ヨーロッパ・中国の3つの農業地域区分図があった。中国の区分図は、1930年代金陵大学農学院教授L.バック(『大地』の作者パール・バックの夫)の研究をもとに若干の手を加えたものである。その核心は、南の水稲と北の小麦(田と畑)の境界を秦嶺山脈と淮河を結ぶ線(800~850㎜の等降水量線/年)とするものである。だが、30年40年たっても農作物分布に変化がないということがあるだろうか。
1960年代半ばに河野通博関西大学教授が中国農業の変化は、L.バック図を過去のものにしたと指摘した(『現代農業学習の構想』)。1970年代にも、文化大革命に陶酔したらしい某大学教授の「中国に農業区分はない」という奇説が教科書会社の宣伝誌に載った。
以前私は権威ある大学の先生や研究者の方々を大いに尊敬していた。尊敬しすぎて間違った言説を信じたこともある。しかしこのとき、私は「やはりL.バック図は生きている」という結論に達していたので、その批判を地理関係の雑誌に頼みこんで掲載してもらった。これに対して河野先生が自説再検討の意向を示されたときは、大いに恐縮したものである。
今日の「権威」の言説についても疑問や批判がないわけではない。

中国の少数民族問題に関する本や論文には、毛里和子早大名誉教授の『周縁からの中国』(1998)からの引用が多い。この分野では、毛里先生の論考は必ず通過しなければならない関門である。
彼女は中国共産党の民族政策を総括して、「中国は一時期を除いて小数民族の言語・宗教・風俗習慣を尊重する政策をとってきている。とくに(19)50年代はそのためにかなりのエネルギーを使い、注意深い措置もとられた。だが区域自治は政治的自治というには程遠く、あくまで文化的自治にとどまっており、……」という。
また「このように1950年代前半は、……緩やかな社会改革によって、辺境の住民を新政権に引きつけ、民族融和をある程度実現することができた。非漢民族たちは旧時代とは違う『何か』を感じ取ったにちがいない」ともいう。
しかし私は、毛里先生の著作からしても事実は逆であると思う。むしろ「中国は一時期を除いて少数民族の言語・宗教・風俗習慣を尊重する政策をとって来なかった」という方が正しい。毛里先生は「文化的自治」があったといわれるが、それはいつごろ存在したのだろうか。
1953年に中共中央が大漢民族主義批判を行なうと指示したのは、国民党との違いを示す必要もあっただろうが、解放軍の少数民族への対応が目に余るものであったからでもあろう。57年からの地方民族主義批判では、大漢民族主義として批判されたものが一人もいなかったのに、多くの少数民族知識人が失脚・投獄・殺害された。58年から各地に生まれた叛乱とその鎮圧では、村の人口が半減したとか、村が消滅した地域も生まれた。大躍進・文化大革命期は民族政策はなくなった。
文革後いったんは復活した民族語による教育も、今日新疆やチベット自治区では廃止された地域がある。ほかの地域でも、いま民族語による教育を公然と求めてごらんなさい、どんなことになるか。

神戸大教授の王柯先生(新疆出身の漢人。現地調査中、中国当局に拘束された人)は『東トルキスタン共和国研究』で名を馳せた人である。
彼も『多民族国家中国』(2005年)のなかで、毛里先生同様、中共の新政権は宗教の上層、俗政権の支配者など、旧来の社会上層部に対し適当な政治的地位を与えたという。これに関連して、解放軍に抵抗をつづけた首長を十数回説得して帰順させたとか、果洛や玉樹では首長らに忍耐強い説得工作をしたなどという。――不正確である。
旧支配者はいったんは「有職無権(おかざり)」の地位に就いたが、地方民族主義批判、叛乱につづく「民主改革」によってたちまち失脚し、つるしあげ・投獄・殺害されたのである。
さらに、解放軍にしつこく抵抗したのはナンチェンというチェンザ(尖扎)の一首長で、説得にあたったのは老紅軍ザシ・ワンチュクである。ザシはナンチェンを降参させるのに最後は迫撃砲を使ったし、果洛や玉樹では解放軍の武力を背景に帰順工作をした。
また王柯先生は「(古代?)中華文化は周辺の人々を……受入れて共存共栄することを正当な政治権力の象徴とする文化となった」という。――ほんとうかね?といいたいが、私には検証も反論も不可能だ。さらに、古代中国の東夷・南蛮・西戎・北狄などは蔑称ではなかったという。私は蔑称以外の意味を見つけられない。これについては、どなたからかご教示を得たい。

さらに京都大学教授(現在早稲田大学教授)大西広先生は中国の少数民族問題を論じて独特の位置にある方である。以下『チベット問題とは何か』(2008)から大きな問題二三を拾うことにする。
大西先生は、「ダライ・ラマには過去のおぞましい『農奴制』への責任を明確にする義務もある。この『農奴制』のおぞましさはちょっと特別で、それはあまりに度が過ぎているためにここで文章として表現できないほどである」という。
すでに1960年代にはA・L・ストロング女史や赤旗記者高野好久氏、写真家田村茂氏などが、70年代にはハンス―イン(韓素音)女史もラサを訪問し、中共当局の言い分を鵜呑みにしてその「おぞましさ」を語っている。
私にはかねてから「農奴制」下の搾取が中共当局がいうほど「おぞましい」ものなら、チベット社会は歴史のどこかで消えたはずだが、という疑問があった。
『西蔵農業地理』(科学出版社1984)には、農奴は収入の70%の地代を納め、多種の重税と「ウーラ(勤労奉仕)」と高利貸の搾取があり、人身の自由はなく農牧業も停滞したと書いてある。70%を越える搾取なら人は確実に飢え、チベットの人口は確実に縮小したはずである。だがチベット社会は停滞はしたかもしれないが消滅しなかった。
チベット人地域の青海省チェンザ県では土地改革直前、90%の農家が耕地の80%を持っていた。土地占有農民が大多数と判断してもおかしくはない。また茶馬貿易も盛んで、土地に緊縛されたはずの農民もこれに従事し、大衆のラサ巡礼も行われた。これでチベット人はがんじがらめではなかったことがわかる。チベットの「農奴制」は、今日学者が冷静に再検討すべきものだと思う。
さらに牧畜生活について、大西先生は、(今日)「遊牧文化を残している」民族は、移動生活の邪魔にならないように余計なものを一切持たない。重いものをもたない文化だから本というものを好まない。そのために「子供たちが教師や医者になる可能性を最初から排除した生活になっている」という。だから「移動生活」のような(歴史の流れに)障害となるような文化は捨てられねばならない、と強調している。――奇抜である。

私は遊牧をステップやツンドラに適応した生業形態だと思っている。結論を急ぐと、遊牧生活が非文化的で子供の将来を制約するというのは、知識が生半可であるからである。今日の教育問題はいつに政府の政策にかかっている。
ちなみに、牧民出身の私の学生はごろごろしており、教師・工場経営者・学者がおり、日本に留学して化学分野で研究業績を上げたものもいる。知人にも大学教授はもちろんその指導者がいる。
また、大西先生は中共は1953年の毛沢東の大漢民族主義批判以来、「中国政府は大躍進期・文化大革命期を除いて『主として反対すべきは大漢民族主義の方である』との立場を基本としてきた」と毛里先生に通じる見解をもっている。現政権もこの道を踏襲しているとして、チベット自治区総生産の70%にあたる多額の補助金の事実をあげている。たしかにチベット自治区への多額の政府投入は80年代から続いているが、どうして人々はあんなにも貧しいのか。――住民の側にカネが回らない仕組みになっているからである。
それにチベット人地域では、投入の増額を期待して民族問題を捏造する連中が絶えないこともいっておきたい。

個別研究では大きな業績を上げておられる方でも、歴史を総括するとなると「疑わしい」結論を出すのはどういうわけだろうか。中国の「公式見解」に引きずられるのか、日中関係がうまくゆくことを願うあまりか。私も日中友好を願うものだが、学問研究は別物としていただきたい。
いま、中高の教師は年に2,3冊の本を読む時間さえ取れないくらい忙しい状態に追い込まれている。だから無駄かもしれないが、やはりいっておきたい。権威ある人の言説はまず疑うべきであると。ゆめゆめ油断してはなりません。
2015.10.01 障害者は生きて行けない
――重度の知的障害を持つ娘の親から

舩橋春子 (介護福祉士)

安保関連法案で揺れた第189回通常国会で、この法案の影に隠れる様に厚生労働省が10個もの法案を提出していたのをご存じの方はそう多くはなかろうと思います。その中の一つがいわゆる内部留保(法案では社会福祉充実残額)のある社会福祉法人には、地域貢献などを盛り込んだ社会福祉充実計画の策定と実施を17年度から義務付けるという内容を含んだ「社会福祉法改正案(社会福祉法等の一部を改正する法律案)」です。この法案は、障害当事者、その家族、支援者にとっては、生存権という基本的人権を保障する憲法25条との整合性を問わざるをえない深刻な内容を含んでいた法案でした。

法案は7月31日に衆議院本会議で可決、参議院に送られました。直前まで反対と思われていた民主党が賛成に回り、前日まで、衆議院各議員部屋を回って議員要請行動を続けてきた関係者は大いに落胆したものです。私も7月の酷暑の中、作業所の職員さんや利用者のお母さんたちと一緒に自民党、公明党、民主党、維新の会を回ってお願いに行きました。私達は議員秘書にしかお会いできなかったのですが、お会いしたさる民主党の秘書は「問題のある法案だと思っている。」と仰っていたし、自民党のある秘書も地元の支持者に社会福祉法人関係の方がいるらしく、4月から法案に問題があるというFaxが支持者から届いていると仰っていました。でも、結局反対してくれたのは共産党と社民党だけでした。当日傍聴に駆け付けた、娘と同じ作業所に通うお母さんは、民主党が賛成に回った時には「みんななんか、ええ(裏切られた!)・・・・って感じでどよめいたんだよ」と報告してくれました。

市や県に色々な事をお願いする私達なのですが、何回も何年も交渉を重ねて「大丈夫ですよ」とか、「やれますよ」なんて内々のお約束を取り付けたのに土壇場で「ええええ?」という思いをしたり、約束を頂いた次の年度でいきなり担当者が異動しているからできませんとかいうことは少なくないのです。だから願いを裏切られる経験の一つと言えば言えないこともないのですが、それにしてもこの法案の影響は大きすぎるのです。なぜか。

その前に自己紹介です。私には21歳になる知的障害を伴う自閉症という障害を持った娘がおります。娘は特別支援学校の高等部を卒業して、30年ほど前に当時の卒業生6名と支援者が立ち上げた地元の作業所で生活介護という支援を受けながら働いています。無認可から始まった作業所はやがて「社会福祉法人」という法人格を取り、現在、作業所以外にも入所施設やグループホーム、相談支援センターを併せ持ち、施設利用者も200名近い大所帯となっています。私は利用者の親として、施設の福祉事業活動をささえる資金作りのための活動に日常生活のかなりの時間を割いています。親たちは担当を決めて地元の保育園、小中高等学校や企業に学期ごと、あるいは文化祭などのイベントの際に授産品を売りに行ったり、お中元、お歳暮の企画販売、チャリティコンサートの企画チケット販売、地域の企業や家庭を回って不用品を頂いてそれを売る為のバザー、寄附金、賛助会員を集めたり、地域のお祭りに出店して、焼きそばやフランクフルト、かき氷なんぞを売ったりもしています。要するに、私達はひたすら資金調達のための活動をしています。

私達の施設は200人弱の利用者のうち、療育手帳という知的障害の重さの指標になる手帳の等級の4段階の上の段階の○A(最重度)、A(重度、娘はここに該当します。)が6割を越しており、他の施設で手に負えないと見なされて追い出された人、特別支援学校新卒の段階でここ以外の受け入れの無かった人、ようするに「手のかかる」人たちの最後の砦となる施設だからです。施設の二階の窓から飛び降りてしまったりしていたため、結局そこを追い出されて、我が施設以外に行き場を失い、仲間となった「猛者」もいます。

このような重い知的障害や行動障害を持つ人にとっての視覚障害者の白い杖や身体障害者の車椅子に該当する物は、「人」そのものです。その「人」は本人の障害を理解し、見守り、手を添え、意思を代弁する専門性を持った「人」でなければなりません。それゆえ法人の人件費比率は7割を超えます。ちなみに二階から飛び降りた彼をクビにした施設は、公開された収支決算表では5割5分の人件費比率でした。

人件費比率が高いからといって、一人当たりの職員さんの給料が高いわけではありません。職員さんの給料は同年齢の一般職より9万円位低いそうです。一人一人障害の重さや抱えている問題の異なる利用者の支援や授産活動や親の会の活動の手伝いと昼夜問わず親たちと一緒に働いてくれる優秀な頼もしい職員さんたちなのですが。そんな訳で、今年は職員の募集をかけても、九月現在未だ応募者が0の状態です。そりゃそうだろうとも思います。給料は低い、退職金も今まで国が負担していた共済掛金3分の1を負担しなくなるそうで先行き不明です。国が負担をやめた分は、結局法人が負担することになるでしょう。経営悪化を防ぐために、親がこれまで以上に活動を頑張れるかというと…無理です。

親の高齢化も進みました。親の会で「若い」と言うのは50代、普通が60代、70代超えてやっとベテランかもねという感じです。古くからの会員さんのお葬式のお知らせも年に何回か回るようになりました。親亡き後を迎える利用者はこれから増えて行くでしょう。このような状態の我が法人に、この「社会福祉法改正案」ではこんな条項を突き付けているのです。

「社会福祉法人は、社会福祉事業及び第二十六条第一項に規定する公益事業を行うに当たっては、日常生活又は社会生活上の支援を必要とする者に対して、無料又は低額な料金で、福祉サービスを積極的に提供するよう努めなければならない。」
ここでいう「日常生活又は社会生活上の支援」を必要する者とはどんな人たちなのでしょうか?いわゆる生活困窮者ですが、本来この人達の支援は国が請け負うべきではないでしょうか?これを国は一円も出さずに社会福祉法人に職員と資金を出して行えと言っているわけです。

但し「社会福祉充実残高(いわゆる内部留保)」に見合う形で行えばよく、儲かっていない法人は大丈夫ということらしいのですが、この社会福祉充実残高というのが未だに定義が定まっておらず、かつ実際どれだけの法人が社会福祉残高を持っているかなどの公的調査や実態把握は行われていないのです。そして、仮にそんな「残高」があるなら本来業務の質や量の拡充や職員さんの処遇改善に使って欲しいと思います。

入所施設やグループホーム(民間のアパートを借り上げる等して、4~5人の障害者が世話人の支援を受けながら共同生活をする場所です。)を持つわが法人でも、未だ親許から作業所に通う利用者が半数以上で「親亡き後」の生活の場作りは急務です。法人内アンケートでは、六割の親が自身の健康状態と家庭での介護に不安を感じています。また、特別支援学校からは毎年卒業生が送り出されるのですが、日中活動の場も実は定員を超えている状態です。今ある施設も老朽化しており改修の必要があります。「社会福祉残高」があるなら、この施設の本来対象とする利用者の為に使って欲しいと思うのは、そんなにわがままなことでしょうか?本来業務こそが「公益」ではないかと、毎日楽しげに作業所に通う、未だ「言語能力2歳半、要24時間見守り介助」の娘の笑顔を見ながら思うのです。

「社会福祉法改正案」より先に審議された「派遣法改正案」はこの国会で可決成立してしまいました。この結果正規職員が減り生涯派遣社員のままという低所得者が増えて行き、結果彼らは社会保障や社会保険の担い手にはなりきれず、むしろ高齢者になったり病気になったり障害を負った時点で「日常生活又は社会生活上の支援」を必要とする人となるでしょう。そして、このような国の政策によって生まれた生活困窮者の支援を社会福祉法人にやらせようする意図を持って提出されたのが「社会福祉法改正案」ではないかと思っています。

この法案は結局、参議院では時間切れ審議未了で継続審議となりました。私達は自分の子供の働く場、暮しの場を守るために、また国会に足を運ぶ事になるでしょう。そして、それは私達の子供達のためだけではない広がりを持たせなければならないものなのかもしれないと思う今日この頃です。

私は厚労省の提出した法案を含めて「戦争法案」だと思っています。社会保障や福祉にお金を出さないという方法で緩慢に政権にとっての「価値の無い命」を殺していくという訳で、それはファシズムが始まった事を意味しているのではないかと思います。ドイツではユダヤ人虐殺の前に、合法的に障害者が殺されました。その数は30万人に上ると言われています。そして、貧困に追いやられた健康な若者は経済的徴兵に応じざるを得なくなるでしょう。

9月半ばに厚労省に生活の場に関しての交渉に行きました。社会保障審議会の議事録などを読んだうえで幾つかの質問をしてきました。全国から集まった親たちから切々と、時には怒りを込めて実情を訴えられていた厚労省の若い官僚はしどろもどろになりながら、時にはうつむきながら、最終的には 「予算が無い」「方針は変えられない」という事を答えていました。結果から言えば無駄足なのかもしれませんが、それでも日々の仕事の合間に、障害 を持った子どもの親として、11月末にも再びこの若い官僚たちに窮状を訴えに行きます。こんなふうに「自分の持ち場」を守る事が情勢に抗う事にも繋がっていると信じたい気持ちで日々の忙しさに追われる生活をしています。
                       (2015年9月29日)
2015.09.30  安保法制攻防戦の中から中国を見る
    ――八ヶ岳山麓から(158)――

阿部治平 (もと高校教師)

9月3日北京天安門広場で「反ファシズム戦争・抗日戦争勝利70周年記念」の軍事大パレードが行われ、新華社通信は「中国の抗日戦争が反ファッショ戦争勝利に重大な役割を果たした」という習近平主席のことばを伝えた。
中国はこの催しのために世界中に招待状を送ったが、天安門楼上にのぼった要人は、国連のパン・ギムン事務総長、ロシアのプーチン・韓国の朴槿恵両大統領など中国とつながりが深い23カ国にとどまった。「反ファシズム戦争」とはいえ、フィリピンなど日本が占領した国家・地域の首脳の姿はなく、日米EUは閣僚か大使が参加したのみであった。北京オリンピックでは、胡錦濤政権が欧米各国の最高首脳を綺羅星の如く並べたのと比べれば見劣りのする結果となった。

日本のメディアはこの盛大な軍事大パレードをかなり細かく紹介した。テレビはパレードに登場した最新鋭兵器などを解説したが、日中戦争の実態についてはほとんど言及せず、中国侵略への反省の言葉は爪の垢ほどもなかった。
私が見たテレビ・チャンネルでは、兵士の行進について、女性アナウンサーが「ああもしたんですって」「こんなことまでしているんですよ」と、儀仗兵の選抜や訓練をことさらにちゃかしたが、このパレードはからかったりバカにしてすむような性格のものではない。中国共産党の命運がかかっている。

その2日後、安保法制の国会討論と反対デモの昂揚のなか、私は乳加工の専門家とともに技術援助のため中国奥地へ向かった。道々見た各地の様子は、たしかに今年は抗日戦勝利70周年だと思わせるものだった。青海省西寧市には目抜き通りのビルの壁に「抗日戦勝利70周年」の垂幕があり、チベット人地域の町でもタクシーの屋根の広告ライトは、「抗日戦争勝利70周年」という文言を点滅させていた。
中国滞在中、私たちは「抗日反日」のために不愉快な思いをすることはまったくなかった。例年通り温かく迎えられ、こころよく仕事をした。
パレードが終わってからも、テレビでは日本軍の残虐行為と、それを攻撃殲滅する内容のドラマ、ドキュメント番組が連日放映された。中央テレビCCTV「国際中文」チャンネルは、連日中国のステルス型戦闘機など最新鋭兵器をほこり、解放軍の軍事演習、さらには中露海上演習が登場した。また自衛隊とフィリピン軍の合同演習に関するニュースがくりかえし放映され、安保法制をめぐる対日批判とともに、いまにも日中戦争がはじまりそうな解説があった。
これを日本で放映したら、「だから中国の軍事攻勢に対する抑止力、安保法制は絶対必要だ」と安倍政権を喜ばせただろう。ただ習近平総書記の訪米を控えているためか、日比合同演習の背後にあるアメリカに対する非難はなかった。
一方日本の反安保抗議デモを好意的に取り上げ、「戦争法制反対」をかかげて国会を取巻く人々の映像が登場した。中国では政権批判のデモはもちろん、一般大衆が政府に陳情することすら取締りの対象になるが、「老百姓」はこれをどう見ただろうか。

9月18日中国は「日本当局は国内と国際社会の正義の声に耳を傾け、歴史的教訓を忘れず、平和発展の道を歩むことを私たちは期待する」とコメントしたが、安倍政権にとっては屁でもない。19日安保法制は参議院を通過した。
安倍首相は軍事パレードに招待されたがにべもなく蹴り、中国を仮想敵とする安保関連法を強引に成立させたのである。
日本にはアメリカやNATOの有力国のように、年中どこかで戦争をする道が開かれた。これからは政府は日本国民の戦争アレルギーを治療するため、メディアを通して世論操作を巧みにやり、軍事予算を年々増大させ、自衛隊は憲法に逆らうものの安保関連法に従って、国際紛争への軍事的介入を計画するだろう。

だが、これは護憲派の敗北ではない。安保法制が成立することははなからわかっていたことだ。集団的自衛権問題はこれからだ。私は1960年新安保条約が国会を通過したとき、「知識人」のなかから「挫折だ、挫折だ」と騒ぐ人が生まれたことを苦々しく思い出す。こんな脆弱な精神では対米従属的軍国主義の完成を目指す連中とは戦えない。
安保法制成立後のメディア各社の世論調査では、反対はほぼ50%を越え、賛成は30%前後だった。まもなくアメリカの要請で自衛隊が海外に派遣される時が来る。少なくともその日まで、我々は集団的自衛権反対の世論を維持しなければならない。最初の海外派兵を阻止できれば、安保法制空洞化への道は大きく開ける。
それにはいくつか克服すべき課題がある。
まず、次の参院選挙で護憲派が過半数を越えること。日本共産党が選挙協力を呼び掛け野党間の話し合いが始まったが、実現までには紆余曲折があるだろう。なにしろ野党第一党の民主党は護憲民主そのものの党ではなく、党内に日米同盟強化・改憲・対中対決など自民党に通じる政治的見解をもつ勢力がある。
また安保法制をめぐる国会内の論戦のなかで、反対論はことの本質を突くに至らなかった。議論は法案自体の問題点と違憲性に集中し、そこにとどまった。
「堅固な日米同盟は抑止力である」という定理は現実には成り立たないこと、この議論が軽視されるか抜けていたから、安保法制賛成30%の壁を突破できないのである。力による抑止力とは、敵の攻撃に対しそれを壊滅する報復能力と戦争をする強固な意志を誇示することである。当然それは軍拡である。軍拡は国民の貧困と国際緊張状態をともない、戦争に限りなく接近する。今日では反米テロを日本に招き入れる危険がある。
さらに護憲各派共通の対案が形成できなかった、あるいは曖昧だったことも弱点の一つとなった。ここは積極的に「村山談話」と「河野談話」を基礎とした「親米であると同時に親中」「日中韓の友好親善」の外交政策を掲げるべきだった。オバマ・習近平会談でも明らかなように米中双方が軍事的対決を避けようとする今日、「親米・親中」外交は日本が容易にとりうる政策である。
また日本の財界は安保法制を支持して、中国敵視が日本の経済的繁栄にとってマイナスであることを語らなかった。早い話が中国にとって日本の経済はかつての最重要性を失っているが、日本にとって中国は依然として第一の貿易相手国である。財界は軍拡によって景気を良くし、国民の血税を略取するほうを選んだのか。そうでなければ骨のある人物がいなかったのだ。ならば我々がこれをもっと語らなければならない。

もうひとつ護憲派にとって難物がある。中国の現政権である。
中国の政治指導者は「中共がなければ今日の中国はない」と説くが、「いや別な中国があったはずだ」という密やかな声がある。仰天すべき汚職腐敗、相変わらずの官尊民卑、ひどい生活格差を味わってきた、「爆買」などできない底辺の人々の声である。
景気の減速と共にその声は拡大している。それを反映するのは、脅迫や弾圧にもかかわらず次々に生まれる民主・人権派の存在である。習政権はこれをよく知っているから高級官僚の腐敗を取締り、民主・人権派を弾圧し、同時に支配の正統性を毎日のように強調するのである。
正統性とは抗日戦争を勝利に導き、封建制を打倒し、強力な中国に至らしめたのは(国民党ではなく)中国共産党であるという建国神話である。その中心は愛国すなわち抗日反日である。我々は中共政権がこの建国神話による限り、国内矛盾を対日関係に転嫁する潜在的可能性は絶えず存在することを知らなければならない。当面は東シナ海・南シナ海で強硬策に出る危険である。
かつて中国政府は、小泉首相の靖国参拝に反対するデモ隊が日本大使館や領事館、日本企業を襲撃するのを黙認したことがあった。中国国内の事情から再びこうした事態が起きたとき、日本の保守派は安保法制の合理性を高らかに歌い、一気に改憲世論を高めようとするだろう。
だからこそ憲法擁護派は、「親米・親中」を掲げ、日本政府にだけでなく中国に対して、力づくの外交でなく平和的交渉で国際紛争を解決する道を求めるなど、東アジア平和のための提言を積極的に行なう必要がある。これが中国の強硬策を抑え、日本における改憲派への抑止力になると私は思う。
2015.09.29  エピソードと「美談」で難民問題を理解することはできない(下)
盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

なぜハンガリーだけが非難されるのか
 ハンガリーがことさら非難の対象になる理由は二つである。一つはまさに難民が到着するシェンゲン条約国として矢面に立っているからである。本来は、難民のEU到着国であるギリシアで難民登録されなければならないが、ギリシアがその仕事を事実上、放棄しているので、その仕事がまるまるハンガリーに押しつけられている。二つは、ハンガリーの現政権は、周辺国のみならず、西欧諸国との関係が良くないことである。
 長い国境線を共有するセルビアは、残虐な国内戦争を終結して、それほどの時間が経っていない。内戦後には、コソボ独立問題で、首都に爆撃を受けた国である。ヨーロッパ大陸にありながら、いまだEUに加盟できない理由は数え切れないほどある。ハンガリー国境に近いセルビア領内には、ハンガリー人が多数居住しており、セルビアはハンガリー人少数民族問題を抱えている。したがって、セルビアとハンガリーの外交関係はとても良好とはいえない。
 セルビアはクロアチアとの内戦やコソボ紛争に、ハンガリー人少数民族から徴兵して、一石二鳥で民族問題を解決しようとした経緯もある。今回の難民問題でも、セルビアは国家として難民対処を一切おこなわず、マケドニア国境からハンガリー国境へ難民を輸送するだけである。しかも、それは人道支援としてではなく、難民からバス料金を徴収する政府公認の有料ビジネスとして展開している。口ではハンガリーの国境フェンス設置を、19世紀の暗黒時代に引き戻すものと批判しているが、難民を厄介払いするかのように、ハンガリー国境に集結させるだけの仕事を行っている。
 クロアチアの現政府とハンガリー政府は、ハンガリーのガス石油会社(MOL)のクロアチア企業民営化にあたって、MOL社役員とクロアチア前政府要人との間で贈収賄があったとして、MOL社幹部の引き渡しを求めるなど、ぎくしゃくした関係にある。そのため、ハンガリーがセルビア国境にフェンスを構築した際も、セルビアと同調してハンガリーを非難し、クロアチアが難民を受け入れることに何の問題もないと見栄を張ってきた。しかし、実際に難民がクロアチアに迂回し始めた途端、1日半でその姿勢が崩れてしまったことは周知の事実である。
 現在のところ、ルーマニア国境からの難民流入は見られないが、ルーマニアのハンガリー人少数民族問題は、チャウシェスク独裁時代から続く深刻な問題であり、両国の関係はお世辞にも良いとは言えない。
 ハンガリーと国境を接するオーストリアの東の地域(ブルゲンランド)には第一次大戦や第二次大戦で母国から切り離されたハンガリー人が多く住んでいる。1956年動乱でオーストリアに亡命し、ウィーンのメディア界の重鎮になったポール・レンドヴァイは、ハンガリー社会党政権(ジュルチャーニィ)時代に、補助金を受けて書籍を出版するなど、社会党の政治家と親密な関係を築いてきた。だから、社会党に代わって政権を担っている現在のハンガリーの右派民族主義的政権を、事ある度に激しく批判している。レンドヴァイの入れ知恵で、オーストリア社会民主党政権もまた、ことある度に、ハンガリー首相オルバンを批判するのが恒例行事になっている。だから、大量難民が押し寄せた9月に、オーストリア行きの最初の列車を出発させたハンガリーが列車を途中で止め、難民を収容所に誘導したことを、ナチスの収容所行きに例えて批判した。だが、オーストリアも同じことをせざるを得ない羽目に陥ったことは、すでに記した通りである。
 ハンガリーに国境を接しない国のメディアからもハンガリー批判が行われるのは、ハンガリーの右派民族政権は、社会民主主義の西欧の伝統に反するものだという「常識」によるものである。ハンガリーを訪問したこともないジャーナリストが、「恐怖と無知におびえる中東欧」などと知ったかぶりに批判するのは、それこそ噴飯物である。

「難民に催涙弾」の作り話
 ハンガリーがセルビアとの国境検問所(リュスケ-ホルゴシュ国境)を閉鎖した9月15日の翌日、国境開放を求める数十名の難民集団が、投石を始めて国境の門扉と鉄条網を破壊し始めた。門扉が壊され、ハンガリー側は装甲車から断続的な放水を行い対抗したが、破壊行動が収まらないので催涙弾が発射された。国境線から10m~15mの地帯での出来事である。
 ところが、国際メディアは国境線の狭い地帯で起きている出来事を配信するのではなく、催涙弾の影響で涙を流す少女を撮影し、「ハンガリーは放水と催涙弾で難民を攻撃・排斥している」というニュースを流した。また、難民を厄介払いしたいセルビア政府は、ハンガリーの対応はセルビアへの野蛮な攻撃であり、国際的に批判されるべき行動だとハンガリーを批判した。足蹴りのハンガリー人女性撮影者の報道からそれほど間もない出来事で、「無慈悲なハンガリーなら然もありなん」という難民への同情とハンガリー批判を増幅させることになった。
 ハンガリーのテレビはこの事件の様子を、セルビア側から撮影した映像で見せている。この国境地帯の狭い地帯で生じた衝突のビデオのなかに、婦女子はいない。数十名の男子が、入れ替わり立ち替わり、投石を繰り返し、門扉を足蹴にする状況が見えるだけである。催涙弾のガスが流れて、遠くでこの出来事を見守っていた人々が涙腺を冒される被害を受けた可能性はあるが、衝突そのものは非常に狭い地帯の攻防に過ぎなかった。しかし、国際メディアは難民を狙った無慈悲で残酷な仕打ちとして、世界に配信したのである。
 この検問所襲撃にあたっては、ハンドスピーカーをもった男が2名、繰り返しハンガリーを批判し、検問所襲撃を煽っている。このハンドスピーカーはどうやって入手したのだろうか。まさか、シリアやイラク、あるいはアフガニスタンから持ち込んだはずはないだろう。だとすれば、どこから入手したのか。セルビアの警官から借りたと考えるしかない。
 この検問所襲撃にあたって、セルビア側の警察は何の措置もとらず、傍観するのみだった。厄介払いするように、難民は早くハンガリー側に送り出すのが一番と考えているから、難民が暴徒化して、検問所を突破しても、セルビアには何の痛みもない。
 「EUに加盟していないから、俺たちは知らないよ」というのが、セルビアの態度だ。難民をマケドニア国境からハンガリー国境へ運ぶことだけをせっせとやっている。とにかく、可能な限り短期間で、難民を他国に押し出すのが、セルビアの仕事になっている。
 この国境での出来事の後、ハンガリー政府は検問所襲撃を煽った人物の顔写真を公開し、国際的なテロリスト組織との関係がないかどうか、関係国に問い合わせている。その後、首謀者2名を含む検問所襲撃に加わった人物9名が、ハンガリー国内を移動中に拘束されたと報道されているが、その詳細は公表されていない。

クロアチアの混乱
 9月15日のセルビア-ハンガリー国境閉鎖に伴って、難民は隣国クロアチアへ移動した。当初、クロアチアはダブリン条約のもとづく難民登録を実施するために、難民の収容を始めたが、次から次へとセルビアから送り込まれてくる万を超える難民に対応できず、受入れから2日も経たないうちに国境管理と難民登録を放棄してしまった。セルビアに難民を留める措置を要請したが、セルビアは一切聞く耳を持たなかった。残虐な殺し合いを終えて、それほど時間が経ってない二つの国である。セルビアにとって、クロアチアの窮状を喜ぶことはあっても、助けるなど論外である。
クロアチアの混乱から、メルケル首相がクロアチア首相と電話会談したと報道されている。メルケル首相はクロアチアに2万人の難民を引き受けることを要請したようだが、収容能力がないという理由で、クロアチアはメルケル首相の要請を断った。
 この後、クロアチアは難民をハンガリー国境とスロベニア国境に、バスと列車で送り出すことを決めた。この輸送すら待ちきれない難民たちが、タクシーで国境に向かうことも容認することになり、セルビアのような難民輸送ビジネスが始まった。政府が運行するバスは無料のようだが、タクシーは無料ではない。
 ハンガリー国境ではハンガリー政府がバスを用意し、クロアチア国内からバスで次々と到着する難民の乗換え作業を行っている。ハンガリーでは難民をいったん収容所に運ぶが、難民審査することなく、登録だけ済ませてオーストリア国境に送り出している。なにしろ、1日5千人もの難民が押し寄せているから、飲料や食料の支給や登録処理だけでもたいへんで、難民審査ができる状況にない。
 現在、ハンガリーでの登録を済ませた難民はオーストリアとの国境(ヘジェシュハーロム-ニッケルスドルフ)に送られているが、オーストリアは数千人の難民を、いったん昔の国境検問地帯にある貨物トラックの広大な駐車場に留め置き、そこからオーストリア各地の難民収容所に運んでいる。しかし、1日数千人単位で到着する「難民」をいつまで受け入れることができるのか、ドイツへの出国をスムーズに行えるのか、収容能力と時間との競争になっている。
 こうして、ハンガリーが一手に引き受けていた難民問題は、周辺国すべてが当事者になることで、負担が拡散されている。関係国の処理能力を遙かに超える移民者の流入をどうやって食い止めることができるのか。その根本的な政策措置が急がれる。当事者の国々にとって、「難民」をめぐるエピソードや「美談」に一喜一憂している余裕などない。         (2015年9月21日)
2015.09.28  エピソードと「美談」で難民問題を理解することはできない(上)
盛田常夫 (在ブダペスト、経済学者)

転倒した父子の「美談」
 9月19日、サッカースペインリーグのレアルマドリッドの試合開始にあたって、ロナウドがシリア人の子供の手を引いて入場した。その子はハンガリーで父親と共に警官に押し倒されてニュースになった難民の子供で、レアルマドリッドは「難民」との連帯を示すために、ロナウドとの入場というご褒美を与えたようだ。
このエピソードの始まりは、CNNの配信ニュースである。「ハンガリーで幼い息子を抱えて国境を目指すさなか、地元の女性カメラマンに足をかけられ、転倒させられたシリア人難民の男性が、事件をきっかけにスペインで新たな生活を始めることになった」(日本語版の引用)と世界に配信している。
このニュースによって、ハンガリーは難民を虐待していると、世界を敵に回すことになった。ビデオを良く見ると、確かにビデオ撮影の女性は現場にいるが、この父子は警官に肩を押され、その勢いで畑の盛り土に足を取られて転倒している。女性のビデオ撮影者は父子が転倒する直前に足を出しているが、この父子には届いていない。もちろん、件の女性はこれ以外にも、逃げる少女を足で止めようとするなど、ジャーナリストとして許されない行動をとっている。しかし、この女性の行動がことさらに大きく報道された結果、難民問題の本質が完全に見逃されることになった。
どのメディアも、この状況がどのようにして発生したのかをまったく伝えていない。CNNは、「国境を目指すさなか」と書いているが、これは間違いである。ハンガリー国境を不法に侵入した難民が、警官の拘束(難民収容所への連行)を逃れるために、逃げ出したところを世界のメディアが映し出したものである。
 
難民と不法入国
 ハンガリーはここ8ヶ月、ギリシア、セルビアを経由してハンガリーに不法入国する難民の取り扱いに対処してきた。この8月から9月にかけての難民大移動以前に、ハンガリーは今年すでに20万人の合法あるいは不法に入国する「難民」に対応してきた。ハンガリーがとった措置は、二つの国際条約の義務に従ったものである。
 一つは難民の取り扱いを決めた「ダブリン条約」にもとづく難民対処であり、もう一つはEUの自由移動圏の境界を定めた「シェンゲン条約」にもとづく国境管理である。前者は難民認定作業を行うことを定めたものであり、後者はEU自由移動圏への入国管理を定めたものである。
 シェンゲン条約のヨーロッパ南東の境界であるハンガリーは、ウクライナ、ルーマニア、セルビア、クロアチアの非シェンゲン条約国から入国する人々を、厳格に管理することが求められている。ルーマニアとクロアチアはEU加盟国であるが、シェンゲン条約国ではない。この二つの国はシェンゲン条約国に「昇格」するために、国境管理の厳格化を試運転しており、クロアチアはこの7月にシェンゲン条約加盟の申請を行っている。
 ハンガリーと非シェンゲン条約国との国境には、「ここはシェンゲン条約国ハンガリーの国境であり、指定の検問所を通過しない国境通行は不法入国となる」という看板が設置されている。ハンガリーはこの夏から急増した難民に対処するために、セルビア国境に鉄条網を設置してきたが、そのフェンスを破ることは難しくない。ハンガリーにとって、検問所に押し寄せる難民のみならず、検問所以外の200km近いセルビアとの国境線を破って、不法に入国する人々の対処に迫られてきた。
 他方、セルビアからハンガリーに押し寄せる難民たちは、警官に捕まって国外に送還されることを恐れて、難民収容所へ誘導されるのを嫌い、警官の制止を振り切って逃げようとする。国境管理を厳しくした直後に発生した難民拘束事例が、世界の報道陣に撮影され、世界中に配信された。
 合法・不法入国を問わず、ハンガリーに入国した難民は、ハンガリーで登録されなければならない。これが「ダブリン条約」の規定である。そしてその規定にしたがって、ハンガリーは難民に対処してきた。しかし、世界のメディアはそのことを伝えることなく、特殊な状況で生じた不幸な出来事をあたかもすべてを表現しているかのように伝え、難民への同情を呼び起こし、ハンガリーの対応を非難することになった。
 それでは、ハンガリーは不法に入国する難民にどう対処すべきなのか。その点についてメディアはなにも語らない。これではあまりに不公平ではないか。ここ数週間ではなく、8ヶ月にわたって難民に対処してきたハンガリーの努力を伝えることなく、ハンガリーを非難すれば難民問題が解決するかのような報道は虚偽の報道である。現在の「難民」問題はお涙頂戴の人道支援で解決できるようなものではない。
 シリア、イラク、アフガンのほか、さまざまな国の人々が、一緒になってヨーロッパへ入り、生活の糧を得ようとしているのだから、厳密な「政治難民」のカテゴリーに当てはまる人は極めて少数である。「難民」の中核となるシリア人すら、「難民」の3割以下だといわれている。その実態に即して、ハンガリーではもはや「難民」と呼ばずに、「移民者」と読み替え始めている。     (2015年9月21日)
2015.09.27  「本日休載」
  今日 9月27日(日)は休載します。

  リベラル21編集委員会