鍵盤の返りを指先に感じること

     自分で考えた基礎練習ですが、この頃は、ピアノのふたを開けて、まづ最初にピアニッシモ、というか、最弱音で音階をひくことから始めます。
     その際、鍵盤を押したあとの、鍵盤の返る力を指先で感じるようにしています。
     というのも、打鍵後に無意味に鍵盤を圧していますと、この返りの力を指先に感じません。指先で感じるということは、鍵盤を圧していないことのバロメーターです。

     鍵盤を、指と下の板との間で(ぎゅうぎゅうと)サンドイッチ状態にするのは、避けるべきことでしょうね。次の動きへ向かう時の自由度が減ります。(スコダやリヒテルは、レガートの時は指先が白くなるまで押し付けろ、と、正反対のことを言っていますが。これは極端な事例でしょう)。

     音階で鍵盤の返りを感じることのもう一つのメリットは、親指でどう打鍵しているかがわかることです。2から5の指では、きちんと付け根を屈曲させてひいているのに、親指は関節を使わず、形を固めたまま、手を下げて鍵盤を圧していることがあります。
     ほんとうは親指も、手首にあるCM関節から曲げるべきなのに。→そのときは、親指でも鍵盤の返りを感知できるので、正しくひいたと判ります。

    基礎練習は自分で考えたものしかしない

     風邪のために四日くらい潰れた感じですが、ようやく治って来ますた。
     キッチンタイマーの電池を替えようと、裏蓋を開けて取ろうとしたら、すごい勢いで飛んで行って、所在が分からなくなりました。まさか猫が飲み込んだりはしないだろうけど。
     買い物に出たら、1軒目で買った物を2軒目で忘れてくるなど、ボケがひどいです。

     ピアノの基礎の話ですが、ハノン・ツェルニーには疑問があり、やりませんが、自分で考えた基礎練習はしています。(少しづつ公開します。)
     たとえば、生ピアノを使える時間が少ない日などは、手の維持を優先し、基礎練習をメインにすることがあります。(曲の練習は極端な話、楽譜だけでもできますので。)

     たとえば音階ですが、通常の練習法とはかなり違います。右手の上昇音階、左手の下降音階では、親指くぐりが問題にされますが、ぼくは親指くぐりはしません。
     親指くぐりを主唱する人でも、高速にひく時は親指くぐりになっていません。→単に手の平行移動です。
     高速の時、つまり、困難な時にやっていないことを、ゆっくりのときにだけ練習する意味があるのでしょうか。
     困難な時にやっていることを、形を変えずにできるだけ忠実に、ゆっくりの状態で再現して、細部を見極めつつ練習するのが本来のあり方のはず。
     次の2つが参考になります。

     ・音階を弾く~親指の動き
     ・音階を弾く~手首の移動

     ここに書かれているように、親指がくぐらなくても(=親指を手のひらの下へ折り込まなくても)、ドレミと来て、ミを弾いた3の指を残したまま、手の甲を進行方向である小指側に傾斜させていけば、次のファを1で弾けます。〔ぼくもこのやり方をトライしましたが、どこか不全感が残り、マスターするまでには至らなかった。〕

     ぼくが最近試しているのは、バルトークが教えたというやり方ですが、手の甲の傾斜もほとんど行わないんです。手と指の全体的な形も(殆ど)保ちます。やるのは単に手の平行移動、ただし素早い平行移動、だけ。一見ダメなようだけど、うまく行きます。それに副産物的なメリットもあるようです。

    重い風邪でリセット

     丸二十四時間経った今になって、やっと小康状態になりました。こんどの風邪は根を張る感じで、菌が強かったのかな?
     それにしても、丸二十四時間は重病人状態で、こんなことも珍しい。

     日曜日、自分の考え方が行き詰まり、エアポケットの中に入ったようになり、気がつくとショッピングモールや街の中をうろついていました。
     そこで、からだが風邪になり、苦痛のために何も考えられなくなり、、、つまりハードウエア的にリセットされたのです。
     今回の風邪は自分から求めたのでしょう。

    風邪?

     週初めから風邪気味だったが、今になって額の発熱がすごいことになっている。頭痛もあるが頭痛はそれほどでもないのは、まだ救われている。
     腹巻をして、横になっているしかないね。(苦笑)

    基礎についての考え方

     「ピアノの基礎」とか、それが「できている・できていない」という言い方がされますが、何を意味するのでしょうかね?

     たとえば音階にしても、重音にしても、<ピアノの要素技術を、必要な考察を行ったうえで、ひじょうにゆっくりと、隅々まで納得しつつ実行し、からだにしみこませる>--それが基礎でしょう。必然的に、基礎はその時点の本人にとっては容易に行えるものです。

     問題は基礎をどう使うかで、実際の曲でむずかしい部分にぶつかった時に、基礎練習でからだに覚え込ませたものを思い出し、それと同等の容易さで弾けるように近づけていく→そのことでそのパッセージをこなせるようになる。
     要するに、基礎をやってあれば、容易さの感覚が喚起され、実際にも、同じ譜面がより少ない苦労で弾けるようになるわけ。

     ところが、これと正反対の考え方が横行しています。「課題曲が弾けない。急がばまわれで、ハノンやツェルニー○○番をマスターすれば、手・指が強化されて、曲も弾けるようになる」、みたいな。その結果、電子ピアノでハノンのテンポを上げていって指を壊したりする。
     「困難なものは困難なまま、変わらない。だったら、困難なものをへっちゃらと思えるまで自分を強化する」。そういう前提があるのでしょう。

     そうではなく、困難なものを容易に感じられるようになるための下地(それが基礎)を作ることが求められているわけです。

    荒れる世界

     ちょっと事務手続き的な用事があって、こちらには書けずにいました。
     難民、ドイツ自動車会社の不正、、、など、世界情勢は荒れています。
     テレビニュースで安倍氏の露出が多く、個人的にはこれが嫌です、苦笑。この方は一面的にしか物事が見えない・考えられない人。外交では対中国にかぎらず、対ロ、対米でも失点する定めにあります。
     新三本の矢?がでましたが、ちょっと失笑ものです。

    動画の不便

     またも雨が続きますね。きのうの朝の洗濯物が乾きません。
     ところで、fc2動画。6本目をアップして以降、画像が悉く劣化してしまいます。前のを消して、アップし直しても、変わらず。
     ブログに動画ファイルを直接アップできればいいんでしょうが、それはどのブログでもできないらしい。動画サイトに上げたものから「共有」でブログに持ってくる形式のみ許されます。
     youtubeが定番でしょうが、あれも色々面倒ですね。自動で著作権のクレームを付けられ、一つ一つに実名を書いて異議申し立てするなんて、面倒くさすぎ。だいたい僕はグーグルアカウントも今は持っていません。(便利すぎる物があっても、依存症になります。)
     ひとつ考え中なのは、vimeo(ヴィメオ)というやつ。自分で制作したものしかアップロードできないそうですよ。

    濃すぎる演奏会

     昨夜は渋谷でのインディーズ系?クラシック演奏会に行って来ますた。いつもの大井浩明さんと、バイオリンの甲斐文子さんのリサイタル→http://ooipiano.exblog.jp/24641581/
     調律師兼在野の音楽プロデューサーであった人の追悼記念というけれど、人間くさい話にはあまり興味がないのでスルーさせていただく。
     クラシックをバイオリンを中心に聴く人にとっても、甲斐史子という人はほとんど無名の存在では?(ぼくは現代音楽の動画は少々見ているので、この方の出ている演奏は幾つか聴いたことがあります。)実際には、バルトークからクセナキスの超絶技巧を要する曲をなんなく弾きこなす凄腕バイオリニストでした。
     プログラムは7曲、それにアンコールが1曲。そのうち4曲は甲斐説宗(1938-1978)の作品。甲斐史子はその娘さん。最初のピアノソロ曲は内部奏法(中高音部に割り箸状のものが刺さっていたし、低音部の弦群を直接てのひらで叩いたり)も入った意欲的な作品。聴いていて強い吸引力を感じました。
     そしてバルトーク。この人、晩年の数年は曲が易しくなっちゃったきらいがあるけど、バイオリンソナタ1番・2番は四十歳そこそこの充実期の作品で、音楽がまだまだ突っ張っている(、だから好い)。演奏時間も1番が40分、2番が30分ある。この2曲を両人の卓越したアンサンブルで聴いて痛感したのは、バルトークが飛び抜けたピアニストであり、またピアノ音楽の卓越した作曲家であったのだなあ、ということ。というのは、バルトークのピアノソロ作品にはあまりいいのはないんですね。バルトークは弦楽四重奏、打楽器やピアノの入った室内楽、一部のオペラで優れた音楽を遺しました。ピアノソロというスタイルでは、あまり乗り気になれなかったんでしょう。
     この2つのバイオリンソナタのピアノパートは、それはそれは、凄いものですよ。それでいて、(おそらくは)じゅうぶんに演奏可能なものなのです。そういうものは、(ショパンのような)ピアノを知り尽くした人でなければ書けません。スコアを買って(むろんひけないが)じっくり読み込んでみたいと、ちらりと思いました。
     クセナキス(1922-2001)。昔、mikkaという無伴奏バイオリン曲の楽譜は持っていたけれど。この作曲家はこのような作曲をするのが生理というか、当たり前だったのか、と。バイオリンとピアノの二重奏曲『ディフサス』、この名はしっかり心に刻んでおきます。
     大井浩明さんのピアノも、この日初めて真価を感じたと、いうか。(今年前半のマーラー編曲物ではピアニストの全貌はわかりようがなかった。)現代ものの膨大な音符の群れをこなしつつも、音が清楚なんですよ。これは自分のようなレパートリーが限定された初級者にとっても、何か学べる点があるかもしれません。
     観客は七十人くらい。この会場は後方の空調がうるさいことがある。奏者に近すぎであっても、自由席なので前のほうに移ったらよろしい。これだけの濃いプログラムが、演奏者の至近距離で、まるで自分も演奏に加わっているかのような錯覚の下で、味わえる。チケット代3000円は安い。

    「譜読み」は早くても「視奏」が苦手だった

     当然のことですが、楽器演奏の出発点であり原動力であるものは、心でしょう。

     その心が、最終的に(その心を反映した)楽音となっていくプロセスを、なるべくスムーズに通り抜けたい――そういう意図で、最近は書いています。

     ところで、ぼくはいわゆる「譜読み」は早いほうです。この一年で四回くらい?、先生に「ふよみは早いですね」と言われました。
     言葉がややこしいのですが、譜読みとは、新しい曲の譜面を調べて、ほぼ楽譜通りに弾けるまで――つまり表情付けの前段階まで持って行くこと。これは、十代からのめり込んでクラシックを聴いていたために、楽曲(=耳で聞いた楽曲のイメージ)への記憶力がいいからでしょう。
     一方で、視奏(=譜面を見ながら弾くこと)の習慣がなかったので、記憶して頭の中にある楽曲と、譜面上に記述された楽曲を一致させるのが困難だったわけです。楽曲への記憶・記銘が先行するために、なおさら困難になった面もあります。
     ですが、先日書いたように、この問題も、あれこれ考え、工夫した結果、数か月以内に(遅くとも半年以内に)解消するでしょう。

    演奏形態の分類

     まだ存在しない曲 → そのとき浮かんだ楽想を演奏する → 即興演奏

     既存の曲・知らない曲 → 楽譜なし → 演奏不可能
     既存の曲・知らない曲 → 楽譜あり → 高度の初見演奏

     既存の曲・知っている曲 → 練習したことがない → 楽譜あり → 初見演奏
     既存の曲・知っている曲 → 練習したことがない → 楽譜なし → 遊び弾き(耳コピ)

     既存の曲・知っている曲 → 練習した → 楽譜あり → 視奏
     既存の曲・知っている曲 → 練習した → 楽譜なし → 暗譜
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    諸パン

    Author:諸パン
     2011年初夏生まれの三毛猫マズルカ♀
    ww A- Oo D- ii -- B- C- SS L-
    体重 4.1 kg ('15.04.23)
    max 4.2 kg


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