正法眼蔵 現成公案 9
道元禅師の説示は続きます。
魚が水の中を泳いでいく場合に、その水に限界があるわけではない。鳥の飛ぶ空間もほとんど無限といってもいいほど広い。鳥が飛ぶ場合にも、空という場所を離れて鳥の存在というものはない。鳥が空を飛んだ場合に、鳥が広範囲に飛べば、それだけ空が広い事が確認できる。魚が長い距離を泳ぐならば、水がそれだけ広範囲であると言うことが実際に確認できる。行動範囲が広ければ世界も広くなり、行動範囲が狭ければそれに応じてその世界というものも狭くなる。
このように、鳥の飛ぶ様子、魚の泳ぐ様子とは、あるいは大きく、あるいは小さく様々ではあるが、個々の鳥、個々の魚がそれぞれ自分自身の行動を通して無限の世界に住んでいる。大きな空間に羽ばたいている鳥は、その鳥の飛んでいる瞬間瞬間に広い範囲の世界を自分のものとしている。また鳥が小さな世界に住んでいれば、その小さな世界が自分自身の世界であり、それはその鳥にとって無限の世界でもある。
鳥にしても、魚にしても、飛ぶあるいは泳ぐという姿で、それぞれが無限の世界で自由自在に泳いだり飛んだりしているが、鳥がもし自分の本来住むべき場所から外れてしまうとたちまち死んしでまう。魚にしても、水があって水の中で泳いでいればこそ魚として生きていける。水から飛び出してしまえば、たちまち死んでしまう。そのような状態を考えてくると、水が魚の命だという考え方も成り立つし、空が鳥の命だという考え方も成り立つ。
また立場を変えて考えてみれば、鳥そのものが命、魚そのものが命だという見方もできる。そして命とは何かといえば、鳥そのもの魚そのものだという捉え方もある。この他にもさらに進んだ見方があるであろう。鳥が空を飛び、魚が水の中を泳ぐと同様に、人間が日常生活において実際に行動し、実際に体験するという場面というものがある。我々のいま問題にしている年齢や生命についても、今述べた様な様々な複雑なあり方というものがある。
この様に魚は水の中を泳ぎ、鳥は空を飛んでいるのであるけれども、水が一体何かとよくわかってから泳ぎましょうと言う魚は一匹もいない。空がどういうものかよくのみ込めた上で飛びましょうという鳥もいない。鳥も魚も理屈抜きで泳いだり飛んだりしている。しかし、水や空を探求し尽くした後、泳いだり、飛んだりしようとする魚や鳥がもしあったならば、魚として泳ぐこともできないし、鳥として空を飛ぶこともできない。
このことは単に魚や鳥だけの問題ではない。人間そのものが、この世の中とは一体何かと疑問を持って、そのことがわからないうちは行動しないという事を考えるならば人間の生活そのものが成り立たない。現在行動している具体的な場所を確保するならば、人間の行動に伴って目の前の宇宙というものが現実の姿を現す。 したがって、手を動かし体を動かして実際に行動する事を身につけるならば、その日常の行動そのものが、現に我々の目の前にあるところの宇宙の秩序そのものである。
次回に続きます。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
「直下に第二人がないことを知るべし」について、ご説明願います。
先生
「直下」と言うのは、今日の言葉でいえば現在の瞬間ということですね。「第二人」と言うのは何かというと、我々の意識と言うものはよく二つに分かれて、自意識と言うものがありがちなんです。それはものを考える自分と、考えられる自分と二つに分かれている状態、これが第二人があると言う状態。ところが仏道では、そういう自分自身の意識を持った反省の状態というものが本当の人間の状態ではないと言う主張がある。
そういうものを振り捨てて、無我夢中で一所懸命やっている状態が仏道の主張する人間のあり方。だからそういう点では反省的に「これでいいのかな」「これじゃいけないのかな」と頭の中でいろいろとグズグズ考えておる状態と言うものが本当の人間の生き方ではないという主張。もう日常生活において全く自分が統一された一つになって、滞りなくあらゆる瞬間をこなしていくのが仏道の生活。その状態に入っていくということが坐禅をやる狙いです。坐禅をやることによって何を狙っているかと言うと、グズグズと反省する形の日常生活を振り捨てるということ。もっと行動に没入して、一所懸命、疑いなく、迷いなく、せっせと日常生活をやっていくというのが仏道修行。そういう状態に入った事を第二人がないという。
ところが我々は、頭の働きが優れているから、「これでいいのかな」「あれでいいのかな」とグズグズ考える。「人はどう思っているかな」とか「将来どうもみこみがないんじやないか」とか「あれは失敗だったな」とかという事で、年がら年中先を考えたり、後を考えたりして、グズグズものを考えて、行動の方がそれに伴っていかないというのが我々の日常生活のあり方です。そういう事を礼賛する考え方もあるわけです。今日の文明と言うのは割合それが多い。だから小説家が中々及びもつかないような深いことを考えて、それを文章にすれば「なるほど、なるほど」と皆読んで喜ぶわけです。 そういうことが唯一の文明かと言うところに仏道の主張があるわけだ。そういう頭が発達していろいろ考えることも大切かもしれないけれども、もっと大事なことは、そういう悩みや惑いを振り捨てて、日常生活に取り組んでいくことだと。日常生活にそういう迷いなく、惑いなく取り組んでいく状態が、第二人のいない生活だということであります。
だから、仏道において釈尊の教えを把んだ人と言うのは、そういう点での惑いや迷いがないということ。そういうふうに理解してもいいと思う。そういうことです。
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魚が水の中を泳いでいく場合に、その水に限界があるわけではない。鳥の飛ぶ空間もほとんど無限といってもいいほど広い。鳥が飛ぶ場合にも、空という場所を離れて鳥の存在というものはない。鳥が空を飛んだ場合に、鳥が広範囲に飛べば、それだけ空が広い事が確認できる。魚が長い距離を泳ぐならば、水がそれだけ広範囲であると言うことが実際に確認できる。行動範囲が広ければ世界も広くなり、行動範囲が狭ければそれに応じてその世界というものも狭くなる。
このように、鳥の飛ぶ様子、魚の泳ぐ様子とは、あるいは大きく、あるいは小さく様々ではあるが、個々の鳥、個々の魚がそれぞれ自分自身の行動を通して無限の世界に住んでいる。大きな空間に羽ばたいている鳥は、その鳥の飛んでいる瞬間瞬間に広い範囲の世界を自分のものとしている。また鳥が小さな世界に住んでいれば、その小さな世界が自分自身の世界であり、それはその鳥にとって無限の世界でもある。
鳥にしても、魚にしても、飛ぶあるいは泳ぐという姿で、それぞれが無限の世界で自由自在に泳いだり飛んだりしているが、鳥がもし自分の本来住むべき場所から外れてしまうとたちまち死んしでまう。魚にしても、水があって水の中で泳いでいればこそ魚として生きていける。水から飛び出してしまえば、たちまち死んでしまう。そのような状態を考えてくると、水が魚の命だという考え方も成り立つし、空が鳥の命だという考え方も成り立つ。
また立場を変えて考えてみれば、鳥そのものが命、魚そのものが命だという見方もできる。そして命とは何かといえば、鳥そのもの魚そのものだという捉え方もある。この他にもさらに進んだ見方があるであろう。鳥が空を飛び、魚が水の中を泳ぐと同様に、人間が日常生活において実際に行動し、実際に体験するという場面というものがある。我々のいま問題にしている年齢や生命についても、今述べた様な様々な複雑なあり方というものがある。
この様に魚は水の中を泳ぎ、鳥は空を飛んでいるのであるけれども、水が一体何かとよくわかってから泳ぎましょうと言う魚は一匹もいない。空がどういうものかよくのみ込めた上で飛びましょうという鳥もいない。鳥も魚も理屈抜きで泳いだり飛んだりしている。しかし、水や空を探求し尽くした後、泳いだり、飛んだりしようとする魚や鳥がもしあったならば、魚として泳ぐこともできないし、鳥として空を飛ぶこともできない。
このことは単に魚や鳥だけの問題ではない。人間そのものが、この世の中とは一体何かと疑問を持って、そのことがわからないうちは行動しないという事を考えるならば人間の生活そのものが成り立たない。現在行動している具体的な場所を確保するならば、人間の行動に伴って目の前の宇宙というものが現実の姿を現す。 したがって、手を動かし体を動かして実際に行動する事を身につけるならば、その日常の行動そのものが、現に我々の目の前にあるところの宇宙の秩序そのものである。
次回に続きます。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
「直下に第二人がないことを知るべし」について、ご説明願います。
先生
「直下」と言うのは、今日の言葉でいえば現在の瞬間ということですね。「第二人」と言うのは何かというと、我々の意識と言うものはよく二つに分かれて、自意識と言うものがありがちなんです。それはものを考える自分と、考えられる自分と二つに分かれている状態、これが第二人があると言う状態。ところが仏道では、そういう自分自身の意識を持った反省の状態というものが本当の人間の状態ではないと言う主張がある。
そういうものを振り捨てて、無我夢中で一所懸命やっている状態が仏道の主張する人間のあり方。だからそういう点では反省的に「これでいいのかな」「これじゃいけないのかな」と頭の中でいろいろとグズグズ考えておる状態と言うものが本当の人間の生き方ではないという主張。もう日常生活において全く自分が統一された一つになって、滞りなくあらゆる瞬間をこなしていくのが仏道の生活。その状態に入っていくということが坐禅をやる狙いです。坐禅をやることによって何を狙っているかと言うと、グズグズと反省する形の日常生活を振り捨てるということ。もっと行動に没入して、一所懸命、疑いなく、迷いなく、せっせと日常生活をやっていくというのが仏道修行。そういう状態に入った事を第二人がないという。
ところが我々は、頭の働きが優れているから、「これでいいのかな」「あれでいいのかな」とグズグズ考える。「人はどう思っているかな」とか「将来どうもみこみがないんじやないか」とか「あれは失敗だったな」とかという事で、年がら年中先を考えたり、後を考えたりして、グズグズものを考えて、行動の方がそれに伴っていかないというのが我々の日常生活のあり方です。そういう事を礼賛する考え方もあるわけです。今日の文明と言うのは割合それが多い。だから小説家が中々及びもつかないような深いことを考えて、それを文章にすれば「なるほど、なるほど」と皆読んで喜ぶわけです。 そういうことが唯一の文明かと言うところに仏道の主張があるわけだ。そういう頭が発達していろいろ考えることも大切かもしれないけれども、もっと大事なことは、そういう悩みや惑いを振り捨てて、日常生活に取り組んでいくことだと。日常生活にそういう迷いなく、惑いなく取り組んでいく状態が、第二人のいない生活だということであります。
だから、仏道において釈尊の教えを把んだ人と言うのは、そういう点での惑いや迷いがないということ。そういうふうに理解してもいいと思う。そういうことです。
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