佳苗が最後に姉弟の事務所を訪れてから、二週間が経った。
妖の体液によって廃人となった人を何人も見てきた麗華は、自分もそうなるのではないかと気が気ではなかったが、幸い、麗華の受けた媚薬はそう強力なものではなかったらしく、ときおり起こるバックファイアを除いては通常通りの生活を送ることができていた。
そのバックファイアも日を追うごとに弱くなっており、数日前からは意識してこらえるまでもなく、日常生活に支障を来すほどのものではなくなっていた。
この二週間の間も、通常の業務がひっきりなしに舞い込み、二人は忙しい毎日を送っていた。
探偵業というのは、景気に関係なく仕事があるものだ。好況のときに仕事があるのは当然であるし、一方、不景気になると人間は猜疑心が増す。ある意味では、その猜疑心を満足させてやることこそが探偵の仕事だとも言える。
「……姉さん、疲れてませんか?」
「あと2件すませば、それで一段落つくわ。それまでの辛抱よ」
「これ以上増えさえしなければ、ですけどね」
「ふふっ、そうね」
ある日の昼食時。テレビのニュースを聞き流しながらそんな会話を楽しんでいた二人の耳に、聞き覚えのある名前が飛び込んできた。といっても、芸能人や政治家の類ではない。もっと身近で、そしてあまり聞きたくない名前であった。
そうら、という名字はそうあるものではない。しかも、今は事件報道の時間だ……。
嫌な予感に囚われ、晴利は食事の手を止めてビデオを巻き戻す。
その手元にためらいはない。こんな場合に備えて、城見探偵局だけでなく姉弟の家でもニュースをビデオに録画しているのだ。
晴利が再生ボタンを押すと、ノイズ混じりだった画面がシャープに変わり、音声が流れはじめる。
アナウンサーは淡々と語る。
「行方不明になったのは、佐久原市に住む早良 佳苗さん、26歳です。早良さんは先日夫を何者かに殺されており、今回の失踪もその事件と関係があるのではないかとみて当局は……」
行方不明。
通常の社会においては、それは単に自分の目の前から消えるというだけのことを意味するに過ぎない。
しかし、二人が足を踏み入れている『影』の中では、失踪という事実は単純に消えることを意味するわけではない。むしろ、いつ、どこで、どのようにして姿を表すか予想することもできない、というニュアンスのほうが強いといっていいだろう。
とはいえ、ここで何が出来るわけでもなく……ただ、二人の脳裏に、狂気をはらんだ亡霊のような佳苗の表情が思い起こされていた 。
その夜。
夕食時にも、佳苗の失踪に関するニュースが報じられたが、しかし、それもほんのひとコマに過ぎなかった。
それはそうだろう。世の中の大多数の人にとって、佳苗の失踪は何の意味も持たないことなのだから。
そして、普段なら平穏なはずの夕食後のひとときに 事件は起こった。
晴利の浴びるシャワーの水音を聞きながら、麗華は台所で洗い物を片づけていた。
近くと遠くで水音が聞こえる、このひとときが麗華は好きだった。気のおけない弟とはいえ同一人物ではないのだから、いつも一緒にいると、どこかで気疲れする部分がでてくる。その無意味な疲労から開放される時間の一つが、この夕食後のわずかな時間なのだ。
鼻歌でも歌いそうなぐらい上機嫌に洗い物を片づけていく麗華の視界の片隅を、人間のパロディとでもいうべき醜怪な姿をした小鬼が横切る。
「式鬼!?」
妖ではない。妖とは異なる、人工的な波動。ある程度以上の能力を持つ妖か、あるいは麗華と同等以上の術者が用いる、使い魔とでも言うべき存在。今、麗華のいるキッチンに姿を見せたのは、まぎれもなくその式鬼であった。
麗華は、洗っていた皿をそっとシンクに戻すと、不審げな視線をその小鬼に向けた。
戦闘能力、ことに物理的な意味での攻撃力、あるいは耐久力は皆無と言ってもよい式鬼は、主に何らかの連絡に用いられることが多い。
今回も、また誰かからの連絡、あるいは『何か』からの警告なのだろう……麗華はそう判断し、視線をその式鬼に向ける。
式鬼はわざとらしいまでに恭しく一礼すると、麗華に向かってゆっくりと話しはじめる。……異界の言葉を。
「ekirts……vid……tnof elbat……k-nil」
どくんっ。
強烈すぎる肉の疼き。
麗華の下腹部に、焼け火箸で貫いたようなどす黒く重い性感が走る。
二週間前よりもさらに鮮烈さを増したその刺激は、まるで今まで麗華が油断するのを待ち構えていたかのようですらあった。
「はぅっ!」
快楽というよりもすでに苦痛に近い色を見せている、その短い吐息。
麗華は、一瞬でも気を抜くとその場に崩れ落ちそうになる膝を必死で支えながら、目の前にいる邪悪な小鬼を睨みつけた。この強烈な性感がこの式鬼のせいだとすれば、解決するのは簡単だ。気を込めた手で軽く払えば、それだけでこんな存在は消滅させることができるだろう。
ゆっくりと、そして慎重に、麗華は右足を床に滑らせ そして、その場にしゃがみこんだ。
「は、ぅあああっ!」
強烈すぎる刺激。ただ足を滑らせただけで、微かに揺らめいたスカートの裾。そして、わずかに身体を傾けただけで、敏感な突起に接する角度の変わったブラの裏地。あるいは、筋肉のねじれ具合が変わったことで微妙に動いたショーツ。
それらが、気も狂わんばかりの刺激となって麗華の全身を責め苛む。
いくらかは覚悟を決めていたとはいえ、ここまでとは予想していなかった麗華は、その鮮紅色の刺激に翻弄され、キッチンの冷たい床にぺたりと座り込んだ。
「……ククク……無駄なことはヨセ……」
式鬼は嬉しそうに もちろん、それに感情があるとしての話だが 笑い、そして地面にへたり込んだ麗華にいやらしげな視線を向ける。
「身体中が熱くなっている筈ダ……もう限界ダロウ」
「くっ……ううっ……」
地面に座り込んだまま、憎々しげな視線で式鬼を睨みつける麗華。しかし、その身体は燃え上がらんばかりに熱く火照っており、もし誰かに触れられたら それが例え血を分けた弟である晴利にであったとしても 容易に限界を超えてしまうだろう。
式鬼はニヤニヤと笑いながら続ける。
「……伝言ダ……覚悟シテオケ。私はいつでも狙ってイル」
死刑宣告にも似た言葉。
もし調査中にこの発作が起きたら、と思うと、目も当てられない。
麗華はすっと全身の血が引くのを感じた。
「姉さん!」
シャワーを浴びていた晴利が、全裸にタオルを巻いただけの姿で飛び出してくる。さっきの悲鳴を聞きつけたのだろう。
「……クク……助けが来タカ」
式鬼があくまでも邪悪な笑みを浮かべる。己の消滅をも受け入れているかのようなその態度に薄ら寒さすら覚えながら、晴利は式鬼に向かって拳を打ち付ける。
ふわっ、と、空気を斬る手応えだけを残し、音一つ、塵一欠片も残すことなく、式鬼が大気に混じるように溶け落ちていく。
いや、そうではない。晴利の手には、一筋の黒髪がつかみ取られていた。
おそらく、術者が式鬼を作りだすための核として用いたものだろう。晴利ほどの感知能力者ともなると、この髪の毛だけから、相手を特定することも不可能ではない。
晴利はもう一度その髪の毛を指ですくように流し、微かに残った術者の霊気をたぐる。
どこかで感じたことのある雰囲気。
しかし、その時はこれほどに鮮烈な印象を与えるものではなかった。少なくとも、この、研ぎたての剃刀にも似た鋭さと危うさをともに感じさせる感覚は、今までに対峙したことがあるものではない。
ともあれ、その思索を打ち切り、晴利はすっと背すじを伸ばし、目を開いた。
「式鬼か……姉さん、大丈夫ですか」
そして、その背後にへたり込んでいた麗華に視線を戻す。麗華は顔を微かに上気させたまま、視線だけで小さく頷いた。
晴利も木偶ではない。姉の状態が平常でないこと、そしてそれが恐らく件の妖の体液による後遺症であろうことぐらいは一目見ただけで判断していた。
「追撃の必要があると思います。……姉さんは……どうしますか」
晴利の表情に、苦渋の色が濃い。
麗華を連れていっても、足手まといになるだけだろう。逆にここに残していくと、自分の目の届かないところで危険に巻き込まれる可能性がある。といって、追跡を取りやめることは攻撃者の思う壷に嵌まることに他ならない。
一瞬の躊躇が『襲撃者』を取り逃がすことになりかねない瞬間。
「行きなさい、晴利」
麗華は小さくうなずくと、凛とした声で指示を下した。その声には張りがあり、極限が近い人間のものとは思えなかった。
晴利は驚いたような表情を浮かべ、そしてその次の瞬間にはジャケットを素肌に羽織って駆け出していた。
毛髪の質、そして霊気の感触からいって、十中八九襲撃者は人間、それも女性であると特定できる。
まだ微かに残っている霊気の流れを追って、晴利は夜の闇の中を駆ける。
肌を刺すような冷気も気にならなかった。ただ、姉の身だけが心配だった。
晴利が外に出ていってからおよそ15分が過ぎた。
その間、麗華の指はせわしなくその秘苑をまさぐり、摘み、ねじり、あるいはぷっくりと開いた秘裂の入り口付近を這い回っていた。
「くっ……はぁっ……ぅああっ……」
苦悩の色の滲む熱い吐息を漏らしながら、麗華はその理性に従おうとしない指の与える刺激に翻弄されていた。
指が触れているところだけでなく、触れている指への刺激までが性感となって麗華の精神を責めたててくる。
もっとも激しかったときに比べればいくばく和らいではいるものの、常人ならば狂っていてもおかしくない、いや、むしろ狂っているほうが普通といえるだけの強烈な性感が麗華の脳髄を責めたてていた。
ぐちゅぐちゅという濡れた音を立てて、麗華の指が自分自身の秘裂を激しく出入りする。
と、突然、その麗華の頭上から女性の声が投げかけられた。
「……あらあら……はしたないこと」
聞き覚えのある声。
しかし、その堂々たる態度は記憶にあるその声の持ち主とは似ても似つかないものだった。
麗華は跳ねとばされたように顔を上げ、その声の主を見た。
やはり、声の主は。行方不明になったと報道されていた早良 佳苗、その人だった。
その頃、晴利の手に握っていた髪の毛が、ふっ、と軽くなった。
晴利はそれに気付くと立ち止まり、油断なく周囲を見まわす。
いつしか、彼の追っていたはずの霊気の流れも途絶えていた。
「……まさか……罠!?」
今晴利が来ているところから踵を返して事務所へと急いでも、どうしても4分程度の時間はロスしてしまう。そして、こと心霊捜査においてその時間は充分に命取りになりうるということは晴利にも嫌と言うほどよく判っていた。
それでも、晴利に取れる行動はそれしかなかった。
油断。
その言葉が晴利の脳裏を埋めつくしていた。
晴利が事務所に戻ったとき。
そこには既に麗華の姿はなく、ただ一枚の紙が柱に打ち付けられていた。
曰く、「唐宮神社境内にて待つ 復讐者」と 。
mailto:三波 雄
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