グリーンレーンのプンスカ男

DSCN1058

「クラクションを鳴らせ!」と書いてある。
飛び跳ねて、腕をぐるぐる回したりしている。

ウインドーウォッシャーという。
信号でクルマが止まると、さっと寄っていって、無理矢理フロントウインドーを洗ってしまう。
1ドルでも2ドルでも、もらえるまで立ち去らない。
新聞に、女の人が声を荒げて怒ったら、ワイパーをもいで、おまけにドアを蹴っていったとある。
ニュージーランドの全然やる気がない警察も、ついに腰をえっこらせと上げて、ウインドーウォッシャーを駆逐することになった。
法律が極端に少ないニュージーランドなので、初めは条例で「やっちゃだめよ」と決めただけだったが、押っ取り刀で法律もつくって、罰金をとれるようにしたら、やっといなくなった。

ウインドーウォッシャーたちがいなくなったあとのスペースに立って、「クラクションを鳴らせ」というプラカードを掲げて、なにごとかに抗議している。

「きみも見たのか。でも、何に抗議しているか判らないんだよね。あれでは賛同のしようがない」と近所のおっちゃんが述べて笑っている。
「クラクションを鳴らす」というのは運転している人間が、通りに立って何事かに抗議している人達に賛同することを示す方法です。
ニュージーランドでは、普通の人が普通にデモをする。
ひとりで抗議活動をする人も、あちこちにいる。
「給料が安い」と怒っている人もいれば、「トラックをここで走らせるな。うるさい」と抗議している人がいる。
「神様はけしからん」と書いたプラカードを掲げていて、これは、誠にもっともである、と思ったので、わしも、派手にクラクションを鳴らしておいた。

二三日経ってもまだプラカードを持って、うけないで憔悴しているので、親切なわしはクルマを駐めて、話してみることにした。
「どうして、ニュージーランド人は、こう冷たいんだ!」とのっけから怒っている。
「だって、なにに賛同を求めているか、書いてないんじゃん」と、わし。
おっちゃんは、一瞬キョトンとしてから、
なにに賛同を求めてる、って、若者よ、いやさ若き友人よ、レンブラウンがレイツをあげまくっていることに決まっているだろうが!
という。
悪い癖で、ふきだして、ますますおっちゃんの機嫌を損ねてしまう、わし。

レンブラウンという人は、このあいだ愛人がいるのがばれていきなり次期の市長選をあきらめなければならなくなった、それまではビンボ人に手厚いので評判がよかったオークランドの市長で、レイツというのは、不動産税のことです。
この頃だんだん無茶苦茶な金額になってきて、わし家の近所でも、年に2万ドル(150万円)というような金額が普通になってきたので、だんだん家の主たちの人相が悪くなってきている。

そーかそーか、レイツが高すぎるのは、わしも同意なので、ほんじゃ、これから交差点で見かけたときにはクラクション鳴らすよ、と述べて立ち去るわしの背中に「サポートを感謝する!」と、おっちゃんが叫んでいる。

次の週に同じ交差点を通りかかって、おお、と思いました。
同じおっちゃんが同じところに立ってプラカードを上下させているが、今度はちゃんと「レイツが高すぎる!」と書いてある。
案の定、前とは打って変わって受けて、あちこちから盛大にクラクションの音が鳴り響いている。
おっちゃんのジャンプにも気合いがはいって、2cmほど高く飛び上がっているのではなかろーか。

じゃ、ガメ、いいことしたじゃない、とモニさんが賞めてくれた。
ちゃんと、ほっぺにチュが付いている。

ほら、ミナって帽子デザイナーの友達がいるでしょう?
と言うと、モニさんが、ああ、ガメがいつもあの人は偉いと感心してる日本の人ね、とおぼえている。
「ミナさん、近所の駅で、ひとりで立って、安保法案に反対してるんだって」というと、モニは、しばらく日本の駅の雑踏にひとりで抗議のサインを持って立っているミナの姿を思い浮かべているのがありありと判る表情をしてから、
「それは、偉いな」という。
日本では「抗議の意志」を示すことが、感情的な反撥を受ける禁忌であることを、わしが説明して、知っているからです。
SEALDsの運動には、日本的なやりかたにそぐわなくて違和感があるちゅう人がいっぱいいるみたい、と、うっかり説明したら、自由社会しか知らないモニは、???になってしまって、いくら説明しても、反発するがわの理屈がわからない。
理念や理論がない、という人もいるのね、と言ったら、笑いだしてしまう始末で、困ったが、ひとりで抗議行動をすることが日本のような諸事全体主義の社会では難しいことであるのは直観的に判るようでした。

モニさんがレモンチェロをつくりに立っていってから、しばらくグリーンレーンの交差点に立って、ぷんすか怒ってばかりいたおっちゃんと、少し青ざめた顔で、緊張して、唇をひきしめて、「安保法案反対」のメッセージを掲げるミナと、両方の姿を交互に思い浮かべた。

「今の時代は物質的の革命によりて、その精神を奪はれつゝあるなり。その革命は内部に於て相容れざる分子の撞突より来りしにあらず。外部の刺激に動かされて来りしものなり。革命にあらず、移動なり。人心自ら持重するところある能はず、知らず識らずこの移動の激浪に投じて、自から殺ろさゞるもの稀なり」
という北村透谷の一節を脈絡もなく思い出していた。

国会前に出かけていく大学生三浪亭も、ミナも、そう言えば、政治なんか嫌いだったな、と考えてみる。
ぷんすか男が、むかっ腹を立てて軽い気持ちでやれることが日本の社会ではたいへんな勇気が必要であることや、理念がない、理論がみえない、というしたり顔で、やさしい態度を装って、いやらしさに満ちた「忠告」をしていたクソけったくその悪い中年男たちの科白を思い浮かべている。

そういえば、明治という人間性に乏しい「選良」が君臨していた戦争国家に殺されてしまった透谷のあの「漫罵」という文章は、こんなふうに終わるのだった。

「汝を囲める現実は、汝を駆りて幽遠に迷はしむ。然れども汝は幽遠の事を語るべからず、汝の幽遠を語るは、寧ろ湯屋の番頭が裸躰を論ずるに如かざればなり。汝の耳には兵隊の跫音を以て最上の音楽として満足すべし、汝の眼には芳年流の美人絵を以て最上の美術と認むべし、汝の口にはアンコロを以て最上の珍味とすべし、吁、汝、詩論をなすものよ、汝、詩歌に労するものよ、帰れ、帰りて汝が店頭に出でよ」

透谷の声は、100年の時間を超えて、いまも日本語の洞窟に木霊している。
日本という孤立した文明のなかであらがう三浪亭やミナの苦難をおもう。
ミナ、風邪ひかないといいけど。
身体に気を付けて。
三浪亭は、もっと、おデートに行ったほうがいいとおもうぞ。

でわ

This entry was posted in Uncategorized. Bookmark the permalink.

Leave a Reply

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s