かつてはよく婚活や告白の場において「僕が幸せにしてあげる」という言葉を聞くと虫酸が走る、という言葉を聞いた。これは一種の流行を産んで普遍的な問いかけを残しながらも意識化に釘を差した。今では言えない空気を作り出しているという意味では一定の効果があったとものと思われる。しかし一方で目的なく生きつつ苦労はしたくないという層が一定層いるはずであるし、実際そうした人は前進力がないので現状維持でストレスを抱え込んだりする。こうした人が守ってあげるという人参をぶら下げられたらまず飛びつく。彼女たちは何しろ現状維持こそが目的なのだ。それがたとえ屈辱であったとしても目的がない以上甘んじざる得ない(断っておくが、こうした人種が日本女性の大多数とは言わない)。
アシスタントという仕事も基本的にこの構造に似ている。もちろん多くはそうでないと信じたいし、アシスタント開始の動機はぶら下がることではないだろう。東村氏の記事はこうした希望を打ち砕くに十分なモラトリアム表現があったし、実際ルーティンに飲まれて目的を失い現状維持を続けてしまう人も少なくはないはずだ。このことは才能がないことが第一義ではなく日常に飲まれて怠惰に走ってしまった事が第一義なのであり、氏はこれに「幸せにしてあげる」という助け舟を出したのである。
このような二者の関係性に類似した例がもう一つある。それが2011年ころのキーワード『ぶら下がり社員』である。ぶら下がり社員の定義は上記二者とさして変わらない。目的や生産性の指向性を持たず、現状維持のための活動しか興味を持てない鈍重なストレスを抱えた人々である。これらの人々の特徴はそれほど難しいものではなく、「ある母体に依存する目的なき(目的喪失した)人々の決まりきった行動維持姿勢」と言える。
従って東村の意図がどうあれ半ば目的なくたむろする、と言っても過言ではない、幸せになるビジョンも目標も喪失したアシスタントに手を伸ばすのは、不健全どころか健全であるとすら言える。需要と供給を読んだ上で動かないと気がすまない人々と、何もしたくない人々を噛みあわせているだけに過ぎないのだ。因みに目的なきものに目的を与えて使役するのだ、と言ってはばからないのがジブリの鈴木Pであり、事実目的のないものはカリスマが現れるとその色に染まるか、ちっぽけな自分を隠して何物にもなれないまま愚痴をいうかのどちらかである。それならば踊っていたほうが当人のためになるだろう(ヘイトを高めたいわけではない。自分にも当てはまることを言っている)。