久しぶりに加藤諦三著『自分に気づく心理学』読書メモ。
自分に気づく心理学―幸せになれる人・なれない人 (PHP文庫)
- 作者: 加藤諦三
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2000/05
- メディア: 文庫
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しばらく前に読了し、今は合間の時間に、特に印象に残った部分を飛び飛びで読み返すのが主だ。
最近は、次のくだりが頭から離れない。
甘えの欲求が激しいにもかかわらず、甘えを自らに禁じて生真面目に振舞っている人間には、人間としての魅力がないのである。どうしようもなくひかれるというところがない。同性にしろ異性にしろ、いつでも別れられる人間でしかない。
甘えた性分を持ちながら、それを生真面目さでごまかす。
そうした人間は、他者と密なかかわりを築けない…ということは、前回の読書メモに記した。
今回取り上げた「人間的魅力がない」ことに関する記述は、こうして文章を書いていると、ひときわ重くのしかかる。
「読みやすい」は、正義か
自分の文章に対する評価で、もっとも多いと感じるのが「読みやすい」だ。
読みやすい。その内実は、
「読者の私が読みやすいと感じる文章を書けている、あなたの力量を評価する」
ということであり、言われた側は「褒められた」のだと、好意的に受け取るべきものなのだろう。
だが、自分はこう考える。
「ああ、やはり自分の書くものは“書かれていること”より、“体よく書かれた文章そのもの”のほうが目につくのだ」
邪推なのは承知のうえ。
しかし、その「内容」よりもまず「文章そのもの」がクローズアップされる構図に、自分は先の「生真面目な者には、人間的魅力がない」という論の説得力を見てしまうのである。
自分は結局、いかに体よく文章を書くかを重視してしまう。これが「生真面目さ」の表れだ。
そして、その「生真面目な書き方」に重きを置くあまりに、色々なものを排除する。
このギャグは寒い、却下。
ここに句点を打つと誤読されやすい、修正。
この単語をかな書きすると前後のつながりがあいまい、修正。
これと似たような悩みは以前書いた、却下。
このニュース、記事について思うところあるが、言及するのもおこがましい、却下。
かくして、「読みやすい文章」はできあがる。
それはけっして「書きたい」ものを積み上げていったプラスの産物ではなく、「書きたくない、書くべきではない」ものをヒステリックなまでにつまみだして完成させた、マイナスの産物。
丁寧な文章を構築する。そのためのセオリーを「生真面目に」履行しながら、理屈抜きに「心」で感じたもの、人間的魅力のあらわれとなりうる「芽」と呼ぶべきものまで、頭ごなしにもみ消している。
淡白で、味気ない。中身があるようで、ない。
そんな文章に対する評価が、「読みやすい」という表面的(失礼な言い回しだが)なものになるのは、当然の帰結だ。
他方、そこから「書かれていること」を汲み、「感動して泣いた」「心を揺さぶられた」などと踏み込んで評価をくれた方もいるが、ごく数えるほど。
わずかであれ、そのような評価をいただけたのはありがたい。
だが、そうして読者の読解力、「汲む姿勢」にばかりすがったような文章は、生真面目に書かれていながら、その実、極めて不真面目なものとは言えないだろうか?
本末転倒もはなはだしく、自分に幻滅する。
生真面目さに代わるものは?
また、次の記事に似たようなことを記したが、自分は対人関係において、「自分を出さない」ことを意識してしまう。
その場ごと、無難に振る舞い、適切な行動をとることで、「自分のみっともなさ」が表に出ないことを重視する姿勢。
これも結局は生真面目さによって、誠実に振る舞うという名目のもと、人間的魅力を殺してしまう行為といえよう。
自分は文章のうえだけでなく、実際の対人関係における振る舞いも味気ない。
いや、実際の生きる姿勢がそうであるからこそ、文章に味を出す、人間的魅力をにじませることが困難なのだろう。
当該記事の冒頭、ブログやツイートの面白さうんぬん…という記述があるが、それらにしても結局は、対人関係のスタンスのあらわれ。
Twitterにせよブログにせよ、人に向けて言葉を発信するツールである。
それを、対人関係のスタンスが生真面目=すなわち逃げ腰、独りよがりな自分が使ったところで、人を強くひきつける言葉は紡げないのではないか。
思うままに自己表現しようと始めたブログ。
しかし、その向こう側の「人」に対する意識が次第に過剰になり、前項で述べたような「読みやすい文章」を脱せなくなった。
そして、その「読みやすい文章」しか書けない自分に辟易し、更新もまばらになっている。
自分以外の多くの人が紡ぐ言葉には「色」がある。
ブログ。ツイート。そして先日触れた*1ツイキャス。
人によって、言葉選びも、句読点の使い方も、しゃべりの間も様々。
そして、いい意味で「とらわれていない」。多少の筆致の乱れや、言い間違いなどを気にしていない印象だ。
それにひきかえ、自分は「とらわれ続けて」いる。
たとえば、句読点ひとつで、意図したことが伝わらないのではないか…などと恐れ、まるで大量生産された品物のように、乱れのない、画一的な文章を追い求めてしまっている。
仮に、自分の声を使ってしゃべるとしても、その傾向自体は変わらないように思う。
自分の「言いたい」よりも、「伝わるか、伝わっているか」を気にする。
返答が適切か、話し言葉に破綻がないかを重視する。
そのため、自分のしゃべりはおのずと説明口調になりがちだ。
幸か不幸か、最近は仕事などの事務的なやり取りがほとんどなので、説明口調でも何ら問題ない。
そして、そんな自分のしゃべりは、しばしば「論理的」「わかりやすい」と評価される。
先の「読みやすい」と同様のニュアンスで、である。
自分の言葉がまったくの無色、無味乾燥とまで言うつもりはない。
ただ、過剰なまでの「生真面目さ」が、その色を薄め、紡がれる言葉から人間味を奪ってしまっているのは事実であろう。
おわりに
思えばずっと「自分が対外的に売り込める要素は、生真面目さしかない」と信じて疑わなかった。
そして実際、その生真面目さで「一応の」評価を勝ち取ってきた。
しかし、そうした観念に基づいた努力は、「人間的魅力を殺す努力」でもあったのだ。
甘えの欲求が激しいにもかかわらず、甘えを自らに禁じて生真面目に振舞っている人間には、人間としての魅力がないのである。どうしようもなくひかれるというところがない。同性にしろ異性にしろ、いつでも別れられる人間でしかない。
根底にある甘えを認めず、うわべだけの生真面目さで立ち回る。
それは、自分で自分を「どうでもいい人間」に仕立て上げる行為。ゆるやかな自殺と言ってよいほどの、忌まわしいものなのだと思える。