流刑には妻や妾を随伴した
流刑には海と陸とがあり、海の島に流す場合も、有人島と無人島の別があった。その他に「安置」「囲籬(いり)安置」「充軍」の分類がある。安置は、配所で更に場所を指定して幽居させる。いわゆる閉門である。王族または高位高官の者に限られた。
罪の重いものは絶海の孤島に流す「絶島安置」があり、軽いものは本人居住の郷で幽閉する「本郷安置」があった。だが実際には政敵を葬るために、ほしいままに絶海流配することはいくらでもあった。
本郷安置には二種類があり、最初から本郷におかれるものと、いったん島に送られ、蕩滌(とうじょう)(罪名を除くこと)によって配流を解かれて本郷に帰還して安置されるものとがあった。また王命により遠島に処せられることなく自宅に置かれるものは、「杜門(ともん)不出」といった。
囲籬安置は「加棘(かきょく)安置」ともいい、棘のあるカラタチの木を周囲に植えて籬(まがき)とし、その内側に幽閉した。カラタチの木は全羅道に産するため、この道の島地で行われた。18世紀の景宗王代、壬寅の禍で、領義政(=首相)金昌集を巨済島に、領府事(=中枢府長)李頤命(りいめい)を南海に、判府事(=中枢府職)趙泰朱を珍島に囲籬安置した。
充軍は、辺境を守備する軍に投じて配流するものである。これはかなりきつい。国境付近で凍死して客死するので、遺体が行方不明になることがあった。
その他、流刑は千里以上だが、「遷徙(せんし)」といい、千里の外に配流するものがあった。ただし、流刑を二千里ないし三千里と定めたのは、シナの制度をそのまま持ってきただけで、朝鮮の千里は日本の百里ほどであるから、朝鮮の尺の二千里ないし三千里ということである。それでも狭い朝鮮では長距離になってしまうので、各地を大迂回して距離を積算して辻褄を合わせたこともあった。
また、「移郷」あるいは「放逐田里」というものがあり、居を田野に移し、居住地や王都に入ることを禁じた。1545年、清州人の父を救うために殺人した者を移郷に処した。明宗代には、権勢家の尹元衡の爵を削り移郷したことがあった。「全家徙辺(しへん)律」といい、罪人の全家族を辺境に移すものがあったが、英祖20年(1744)に、廃止されこの処分はなくなったという。
元々流刑の軽重は距離によるものであり、期間に制限はなかった。ゆえに恩赦や「量移(りょうい)」によって減刑されて帰還する以外なかったが、頻繁に行われたので大抵は帰還した。量移というのは、配流者が多数になったとき、整理するために減刑し帰還させるのである。運悪くどちらにもかからず一生を過ごす者もいた。
流刑者には家族の随伴を許していた。今の韓国の五千ウォン札の絵柄になっている儒者・李栗谷の時には、妾を伴っていたことが彼の日記に見える。正祖14年(1790)、重ねて流人の妻または妾が随従を願うときには許せと命じた。その他、士大夫で遠地に送られるものには衣食を給したこともあった。配流は日本に比べ、けっこう楽勝だった。
大典会通(1865)では、70歳直前の流刑者には、70までの期日に一日1両4銭をかけて金銭を納めれば帰還を許した。1905年の刑法大全制定では、本人が病気の時と親の喪に遭ったときは暫時の保釈を許した。婦女、70歳以上の男子、15歳以下の男子で、流刑10年以下の場合には、極寒猛暑の折には保釈とした。
流刑に処せられたものはすべて刑曹の帳簿に記載すべきことになっていた。流刑地で最も多かったのは、陸地では咸鏡南北道、平安北道の国境線の穏城・鐘城・三水・甲山(カプサン)・江界(カンゲ)が最も多く、島地では南沿岸の島地が最も多かった。
古来、陸海いずれに送るも適宜だったが、隔離するには島地が便利だったので、刑法大全では、原則として島地に押送するものとした。その頃の流配の島地は済州島・智島・珍島・楸子島・莞島・鉄島だけだった。島で商売や学塾経営で成功して気楽な余生を送るものもいた。
明治43年(1910)、日韓併合の恩赦で流刑者は全部流刑地から引き揚げ、最寄りの監獄に移した。次いで政治犯全部に大赦を行い、獄内においても流刑者はその姿を消した。
他に大明律記載の徒刑(配流して労働刑に処す)があったが、李朝では行われた形跡がない。
拷問は脚折りと緊縛が主流
拷問刑は法令上定めたところがない、法外の刑である。わが国の石抱きのような圧膝(アプスル)や、周牢刑(カセチュレ)といい両脚を緊縛しその中間に棒を挿入して左右に開く刑があり、補盗庁で行われた。棍棒で乱打する乱杖刑などもあった。18世紀の英祖王代に残虐の刑は廃止されたが、その後逆転し、依然無統制の状態から脱することができなかった。
現在の韓国で展示されている「日帝による拷問」では、周牢刑や乱杖刑などが再現されているが、これは伝統を日本のせいにする、お得意の「歴史の歪曲」である。
さて、正祖王代に欽恤典則を制定し、笞刑の改正を行ったが、濫刑の弊は治まらなかった。1905年の刑法大全制定により、次の六種の刑具が定められた。まず枷(かせ)(項鎖)、朝鮮語でモッカルといい、長さ五尺五寸の板に刳り抜かれたところに頭を挿入し、横より栓を施して鍵をかけた。長い板が首にかかっているので日中はほとんど動けない。

李氏朝鮮時代とみられる周牢刑の写真。人々の目前で交差した棒に体重を掛け、囚人の脛骨を折っている
杻(ちゅう)(手枷)は実際には使われなかった。鍾路監獄では麻縄で両手を束ね、これをさらに強く腹部に縛り付けておいたもので、食事に手が使えないため、犬のような格好で頭を垂れて直に口を付けて食べていた。桎(しつ)(足枷)、朝鮮語でチャッコー(着庫)といい、数人まとめて連施したもので、左右より交互に罪囚の左足または右足を一本ずつはめ込み、抜き差しできないよう鍵をかけた。
厠に行く場合には外すが、夜これを施したまま寝かせることもあった。その他、紅絲鎖(捕縄)、朝鮮語でオラチウルといい、紅色の糸を撚り合わせた縄で、端に龍頭飾りをつけ、12個の環を通してあった。環は肩先より腕に流れ、龍頭は胸に垂れ、威厳を感じさせたという。
厠に行く場合には外すが、夜これを施したまま寝かせることもあった。その他、紅絲鎖(捕縄)、朝鮮語でオラチウルといい、紅色の糸を撚り合わせた縄で、端に龍頭飾りをつけ、12個の環を通してあった。環は肩先より腕に流れ、龍頭は胸に垂れ、威厳を感じさせたという。