日本人と異なる東洋の処刑法


 1908年から監獄官制が施行された。当時残っていた旧八監獄を改修したが、水原(スウォン)の京畿監獄のみ、施設が完備された。
 中橋政吉の見たところ、水原の京畿監獄だけ、刑場が二階式だった。鍾路監獄では物置のような場所の低い天井の梁に鉄製の井戸車を吊るして縄をかけ、床下3尺ばかり掘り下げて縄巻き器をすえ、回転させて巻き上げた。大邱監獄では丸太3本を三叉に組んで、その中央に縄を吊るして執行した。

 海州監獄では監房の一つをあけて、上記の補盗庁のようにしていた。平壌監獄では元の観察使、後の平壌地方裁判所の構内の建物の一つをあけて上記の梁木・滑車式で殺した。そこには死刑囚が暴れたときに殴るため洗濯棒のような棒が備え付けられていた。

 凌遅(りょうち)刑という、日本人には聞き慣れない刑罰がある。シナ清代では阿片を吸引させ陶酔したところで四肢から生きたまま切り刻むのだが、朝鮮では死者に対してこれを科した。

 大逆罪の屍骸の頭、左右腕、左右脚、胴の順で六つに断ち、残骸を塩漬けにして各地に分送する。この刑罰は17世紀、光海君の代に隆盛を見た。仁祖王代に厳禁としたが廃するに至らず、英祖王代に叛逆を謀った尹光哲と李夏徴なるものの屍骸に凌遅の刑を施した。

 19世紀の高宗王代、金玉均(きんぎょくきん)にも凌遅の刑が科せられた。

 日本の明治維新を手本に朝鮮の近代化を目指し、1884年、閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こしたが清の介入で失敗し、三日天下で日本に亡命してきた。各地を転々とした後、上海に渡る。1894年3月28日、上海で閔妃の刺客洪鐘宇に銃で暗殺された。

 遺体は清国軍艦咸靖号で朝鮮に運ばれ凌遅刑に処せられた。頭と胴は漢江の楊花津頭に梟し、手足は八道に分梟し、躯(むくろ)は漢江に投げ入れ魚腹に葬らせた。

 日清戦争後の下関条約で朝鮮は独立し、1895年の改革で、「処斬凌遅」等の刑の廃止令が出て凌遅刑は終わった。だが今日でも「殺してもあき足らない奴」というときに、「凌遅之刑(ヌンチヂヒョン)・当(タン)ハル奴(ノム)」と韓国語で悪口を言うことがある。

 最後に、追施刑という刑がある。追施刑とは死者の棺を掘り起こして加える刑罰である。

 15世紀、燕山君の史獄のとき、刑曹判書(=刑曹長)金宗直を大逆罪とし、その棺をこわし屍骸を掘り出して斬った。その後、燕山君の生母、尹氏を廃妃にした謀議に加わった数十人を捕え処刑したが、そのうちすでに死んだ者は棺を壊し屍骸を引きずりだして斬り、骨を砕いて風にさらし屍は江に投じた。

 追施刑の結果は罪人の子または親も同時に連座させられるので、英祖32年(1756)に王政の忍ばざるところとして廃止されたが、これで終わった形跡はない。なぜこのような刑罰をしたのかというと、風水信仰で屍骸の骨には一族繁栄のエネルギーが宿っていると信ずる。そこで生きている親族を連座させてこれを行い、残族に還流するエネルギーを根本から断つのである。

 この刑罰もシナが本場である。日本と提携し、シナの近代化を求めた政治家・汪兆銘(おうちょうめい)は、死後の民国35年(1946)1月15日、国民党軍により墓のコンクリートの外壁を爆破され、棺とともに遺体を引き摺りだされ、灰にされ野原に捨てられた。

賄賂次第の笞刑、身代わりの下僕


 ここらあたりで日本の普通の読者は、胸糞がわるくなって、もううんざりということになるのではないだろうか。お気づきとは思われるが、日本人は地理上は“東アジア”人であっても、歴史文化上の“東洋”人では決してない。独立採算制の地域分業とでもいうべき「封建制国家」の子孫であり、「王朝国家」は遥か12世紀に終わっている。

 その王朝の頃でも、シナの肉刑・宮刑・奴隷制など「人間の家畜視」は受け入れなかった。風水信仰も湿潤な日本では発達しなかった。陰宅(死後の家、墓)の骨など埋めても腐るから、一族のエネルギーの元などにはなり得ようもない。陽宅(生きているときの家)の方角などの吉凶占いだけが残った。

 というわけで、私もこの辺で終わりにしたいのだが、別冊正論編集部から依頼された紙幅にはまだ届かない。申し訳ないがもう少し陰惨な東洋の話をつづけることにする。つぎは、笞(むち)と杖(こんぼう)から始まる。

 朝鮮の打撃刑は、高麗時代から笞刑と杖刑が区別されていた。軽いものには笞を用いる。李朝ではいずれの官庁も、刑具も執行方法も勝手放題。賄賂の多寡により刑を加減したためバラバラになったのである。
犯人の夫を捕えた刑吏に牛と反物を賄賂として渡し釈放を願い出る妻(『写真帖朝鮮』)
犯人の夫を捕えた刑吏に牛と反物を賄賂として渡し釈放を願い出る妻(『写真帖朝鮮』)
 賄賂をした者は始めの三打まで手加減し、四打以降は外観のみ強く打つように見せ、受刑者にわざと号泣させた。賄賂しない者には強打し、賄賂を促した。賄賂しない者は永久に消えない傷跡を臀部に残した。中橋政吉はこれを当時の前科者から目撃したという。

 杖でも笞でも、硬質の木材のものもあれば、桐のような軟木もあり、甚だしきは紙製のものに朱漆を塗って外観だけ丈夫にしたものもあった。これを朱杖(しゅじょう)という。刑具は受刑者の負担として自分で作って官へ持参させた。笞は自然に繊弱に流れ、すぐ折れるので数十本の予備の笞を要することがあった。

 1673年、広州府尹(=府知事)の李世華の検田に過失があり、杖刑の命が下ったが、判義禁(=義禁府長)の金寿恒が上大夫に杖刑は奴隷と同じだから他の刑に代えてほしいと上奏し、王はこれを許した。このような例はいくらでもあった。

 両班に対して笞刑を加える時にはその名誉を重んじ、庶民のように臀部を打つことはせず、「楚撻(そたつ)」といって、木の小枝で両脚の前脛部を打って済ませたものだった。それが、後には代人を出し、下僕が笞刑を受けるようになった。

 17世紀、粛宗王代に「累次の兵乱を経て法制みだれ、杖を大きくするの弊がひどい。これからは笞を用いよ。軍律処断以外の者に棍棒を用いてはならない」と、命じた。18世紀、正祖王代に欽恤(きんじゅつ)典則が制定され、笞刑の改正を行ったが、濫刑の弊は治まらなかった。

 1896年、刑律名例を制定し、刑罰を死・流(る)・徒(ず)・笞(ち)の四種に改め、古来の杖刑を廃し、笞刑は従来の回数10ないし50を、範囲を広めて10ないし100とし、十等に区別した。1905年制定の刑法大全では、死・流・徒・禁獄・笞の五種とし、杖刑は認めず。笞刑は刑量を定め、婦女に対しては水に濡らした衣を着せること、姦通罪の場合は衣を着せずに執行とした。

 日韓併合後も、刑法大全の笞刑は朝鮮人に限り適用されていたが、明治45年(1912)9月制令第三号をもって、笞刑は代用刑に改められ、懲役・拘留・および金刑(金額に代える)に代えて行うこととしたため、自然に磨滅していった。