李朝古代から日本近代への大改革
1745年、「替囚(たいしゅう)の弊」甚だしと、報じられた。これは何かというと、罪人に替えてその親族が入獄するのである。夫の替りに妻が入るのを「正妻囚禁」、子の替りに父が、弟の替りに兄が入るのを「父兄替囚」といった。
後者は人倫に反するというので粛宗代に「制書有違律」で処罰された。これも大明律の官吏の罰則で、王の言を制、それを記したものを書という、「詔(制書)を奉じてその施行にたがうものがあれば、棍棒で百回殴る」という律で、替囚とは何の関係もない、こじつけである。
本場シナの方にしても、王言がそのまま錯誤・遅滞なく実行されたとはとても思われない。東洋の法治はこのようなファンタジーとこじつけに満ちているのである。
正祖王の8年(1784)、獄囚に飢餓迫る。獄中の食事は自弁できない者には官給せよと命じた。これはこれまで何度か命じたが効果なし。食事の官給はなかった。
高宗王の8年(1866)に天主教(カトリック)弾圧に遭い、補盗庁の獄舎につながれた仏宣教師リデルの記録『京城幽囚記』によれば、食事はクワンパン(たぶん官飯(クワンパプ)の意)という朝夕に米ほんの少しばかりの食事で、二十日もたてば骸骨となってしまうという。
当時、囚人には盗賊、負債囚、天主教徒の三種類がいた。収監されるとチャッコー(着庫)という足枷(あしかせ)をはめられるが、盗賊以外はチャッコーから足を抜く方法を獄卒から教わり、夜は仰臥できる。盗賊は昼夜足枷をはめられ、疥癬(かいせん)に侵され、杖毒(杖刑の不潔な棍棒で打たれ病原菌に感染すること)で肉は腐り、飢餓に苦しむ。死が近づけば獄卒が蹌踉(そうろう)とした囚人を屍体部屋に連れ出し、死ねば菰(こも)にくるんで城外に捨てに行った。女囚は足枷をしないが、チフスなど疫病にかかりやすい。乳飲み子を連れている女もいた。
東学党の乱など内政が乱れる朝鮮をめぐって清と対峙する日本政府は、日清戦争勃発直前の明治27年(1894)6月、清からの朝鮮独立を促す改革案を閣議決定し、翌七月に官職の綱紀粛正、裁判の公正化、警察・兵制の整備などの内政改革を朝鮮政府に求めた。
朝鮮では高宗王の31年(1894)、甲午改革を進めるために置かれた軍国機務所から、大小官員で贈賄を犯したものが下僕を替囚して罰金を払い、そのまま下僕を獄囚延滞するという弊害があるから、今後は本人を収監せよという命令が出た。
1895年の改革で、未決囚と既決囚を区別して収監すること、共犯者は監房を別にすること、収監には裁判所または警察署の文書が必要であること、携行の乳飲み子は3年までこれを許すことなどが決められた。典獄署は監獄署と改名、義禁府は法務衙門権設裁判所と改名し、両獄の罪囚は全部監獄署に移した。地方は官制を定めなかった。日清戦争と下関条約の結果、朝鮮はシナから独立開国し、ようやく近代化の途についたのだった。
1896年の改革(乙未改革の一環)で、日本東京府の各監獄が警視庁の所轄であったことにならい、警務庁を設けて監獄署を一分課として所属させた。この警務庁時代に丸山警務顧問が進言し、西大門外の仁旺山(におうさん)麓、金鶏洞に5万円で監獄を新築し、1907年竣工した。木造、庁舎80坪、獄舎480坪、監房は丁字型、工場あり、浴室あり、500人収容可だった。
明治37年(1904)、第一次日韓協約で統監府を置き、1906年、地方に13カ所の理事庁を設け、日本人の犯罪者を獄舎に収監した。1905年の第二次日韓協約で、1908年から監獄官制が施行された。
刑政を控訴院検事長の管轄下に置き、地方裁判所在地と同様に監獄を全国8カ所(計293坪にすぎなかった)に設置し、事務室、監房、炊事場、浴場を設備した。水原(スウォン)の京畿監獄のみが完備されていた。また典獄以下の職員の大部分は日本人を採用した。法務大臣に趙重応、京城控訴院検事長に世古祐次郎が任官した。
1908年の改革(刑法大全改正)のとき、典獄(鐘路の庶人監獄)に拘留されていた者は309人(未決囚123人、既決囚186人)だった。各地方の監獄はすでに2千人を超え、大邱監獄の監房は全部で3室総面積15坪しかない所へ収監者150人だった。房内に縄を張り、それに両足をかけて上半身だけ床に横たえさせた。公州監獄では房内へ便器を入れる余地なく、外に四樽を備え、漏斗で内から放尿させていた。
朝鮮総督府監獄官制の実施、大正8年(1919)11月1日より3カ月で監房面積は1479坪、収監人数7021人、一坪当たり収容人員は4・7人で、半分以下に緩和され、房内衛生も大幅に改善された。
放政ゆえの苛政と「恨」の起源
統監府は設置から5年後の明治42年(1909)、新たな戸籍制度を導入した。賤民層にも等しく姓を名乗らせる一方、身分記載を廃して身分解放を進め、教育の機会均等も促した。独立した司法制度を敷いて私刑を廃した。水原の京畿道地方裁判所に赴任後、残酷な拷問をたびたび目にした日本人法務補佐官の建言で1908年に取り調べにおける拷問を禁止している。
日本の朝鮮に対する改革は、古代を近代にする改革だった、とひとまず言えるだろう。その初期の目的は日本の安全保障のための併合だったとしても、これを放置するにはあまりにも浪費が多く、コストがかかりすぎた。近代的な改革を施さないわけにはいかなかったのである。
これはロシアとの開戦の最中も、着々と朝鮮統治の施策を実施していたことから明白であろう。
李朝の政治は苛政というよりは放政ゆえの苛政というべきである。古代経済社会のうえに、中国古代のファンタジーを権威模倣として採用し、地政学上の「廊下」を往来する異民族の来襲から王は民衆を放りだして逃走した。
国政混乱・綱紀紊乱のさなか、為政者不信の民衆を強権強圧する官僚を王が儒教の徳目で牽制する(これには両者の役割が逆の時代もあった)という形で、李朝は500年間崩壊することなく、放政と苛政の均衡を保ったのである。
これにはおそらく、「行き止まりの廊下」の行き止まり部分が有効に働いている。民衆は逃げ出そうにも廊下の先は海なのである。これが民衆の耐性を育てた。この無念と諦めの鬱屈を「恨(ハン)」という。
私はよく読者から、朝鮮が本当に好きなのかと、問われる。嫌いならば40年間もの研究生活を送れたはずがない。ただ、私は、好きなものの味方はしないのである。好きなものの味方をすれば、好きなものが悪くなったときに、その悪いところを隠そうと、良い部分をデフォルメして喧伝するようになるだろう。
今の中国研究者、朝鮮研究者には、そのような運動家となった人々が叢生している。悪いものの敵になる運動家ならば筋が通るのだが、悪いものの味方をする運動家はいただけない。これは嘘つきである。
今の韓国をつらつらみるに、法治主義の失敗と民主主義の破綻、過去の東洋的専制主義への退行は明らかなのだから、韓国がどんどん悪くなっていることは否定できない。そのとき、韓国の歴史がどんなに苛政だったか、それを知らなければ韓国の行き先も見えないことになってしまうだろう。そのような立ち位置で今回の仕事を引き受けたのである。
それでは立ち位置を明らかにしたので、われわれは先に進むことにしたい。つぎに李朝の刑罰の歴史に入って行こう。斬首から始めたい。
斬首刑は光武9年(1905)の刑法大全制定により廃止された。それまで、大逆犯の処刑は南大門や鍾路の辻で行われることがあった。1896年の国王毒殺事件の犯人、金鴻陸(きんほうりく)を処刑して梟(きゅう)したのも鍾路だった。梟(ふくろう)の棒先にとまるように首をさらすので梟刑という。逆賊を誅するときには、首を切り、臂(ひじ)を断ち、脚を断ったので、五殺といった。
斬首刑の場合、「待時囚(たいじしゅう)」と「不待時囚」と二種類があった。待時囚は、春分前、秋分後に執行し、不待時囚は判決後、時を待たず直に執行した。
十九世紀後半の高宗時代には刑場は龍山(ヨンサン)近くに二カ所、待時囚用があった。セナムトとタンコゲである。刑木に髷(まげ)を吊りさげて首と胴を断った。不待時囚用は武橋洞(ムギョドン)、待時囚の緊急用は西小門(ソソムン)外だった。刑木に吊りさげずに斬るので首と胴は離れなかった。
執行方法は、まず罪人を監獄から引き出して、車に乗せて牛に牽かせる。車に乗せるには、罪人の両手を広げ、両脚を揃えて踏み台の上に起立させ、牛車の箱に縛りつけておく。途中南大門を過ぎる時に踏み台を取り除き、牛を疾駆させる。罪人は両手のちぎれるばかりに振られ、舌は歯の振動で鮮血がほとばしり、刑場につく頃は死人同然となった。
執行日は家族に知らせる。家族が来て、刑吏に賄賂をおくり、なるべく苦痛がないように一遍に斬ってもらうためだ。後年、斬刑は獄内でも密行されるようになり、構内でうつぶせにして斬った。「行刑刀子」といい、薙刀(なぎなた)のような大きさの鈍刀で、ただの重みで叩き斬った。朝鮮人もシナ人も、刀に刃をつけるのがどうも苦手のようである。
かわって薬殺は得意だった。王族や士大夫の罪人の面目を重んじて王より毒薬を賜い、これを嚥下させる。砒素(ひそ)を用いたらしい。流刑で外地に出した場合、後の報復が予想されるときには到着する前に、使者に薬をもたせて途中で罪人に服毒させて殺した。儒者官僚・宋時烈が済州島に流される途中で客死したのも、粛宗に廃妃を諌めた朴泰輔らが配流の途中死んだのも賜薬(しやく)による。
磔刑(たっけい)や絞首刑は、朝鮮人には物足りなかったためほとんど行われなかった。日本人の逆である。絞首刑が行われるようになったのは、比較的新しい。
高宗3年(1866)に天主教弾圧に遭い、補盗庁の獄舎につながれた仏宣教師リデルの記録によれば、補盗庁左獄で刑場は監房に隣接し、刑場の中央を板壁で仕切り、その壁の上部に穴をあけて縄を通して縄の端に受刑者の首をくくり、隣室から縄を引いて絞め殺したという。