官庁ごとに私設の監獄があった
さて話は変わって、日本統治時代の朝鮮に、元京城刑務所長だった中橋政吉という人物がいた。日韓併合後に朝鮮にわたり、大正12年(1923)頃刑務官となり、近代日本が彼の国を近代化する有様をつぶさに見た。文献を集め、沿革の史料を求め、『朝鮮旧時の刑政』(昭和11年)一冊を書き残している。
貴重なのは、李朝末期を生きた朝鮮人の古老からの聞き書きである。二十八、九歳の時、典獄署の書吏をしていた金泰錫氏から監獄の見取り図を得、地方の郡守だった朴勝轍氏から斬刑の目撃談を聞き、李朝時代の前科者の尻に残る笞(むち)痕(あと)を見、隆煕2年 (1908)の旧軍隊の解散の際の暴徒の首謀者で、島流しにされた鄭哲和氏から当時の配流生活を知る。史料価値も一級である。
今この書を読者に紹介しつつ、私の知るところを織りこんで、以下綴(つづ)ることにしたい。
今のソウルは、李朝では京城あるいは漢城と漢語で書き、時の発音ではショヴォルといった。語尾のオルを同じくする地方はシゴル(郡)といい、対立概念である。両方合わせて「中外」と称する。
京城の公式の監獄には二つあった。義禁府の禁府獄(きんぷごく)(今の鍾路(チョンノ)の第一銀行(チェイルウネン)の場所)は官人の犯罪者を拘留し、国王の命令がなければ開くことができない特別裁判所だった。構内に南間、西間の獄舎があり、オンドル式だった。四方の内側は板壁、外側は土壁、前面のみ高窓があり、出入口には戸扉がはめられた。これを金吾獄ともいう。
刑曹(けいそう)所属の典獄署の典獄(てんごく)(金吾の道を挟んだ対面)には庶人の犯罪者を拘留していた。構内の円形の墻(しょう)内に半分オンドルの獄舎を設け、庁舎はその周りに配されていた。シナの六部の縮図が六曹で、所轄の刑曹はその一つ、裁判と刑罰担当である。
その他に、兵曹、司諌府、備辺司、補盗庁などにも各権限に応じて日中の逮捕の権があった。煩瑣なので各官庁の説明は省く。その獄舎は留置場程度で、そうでない立派な監獄は兵曹所属の補盗庁(ほとうちょう)のみで、左獄・右獄といわれ恐れられた。
京城の夜は外出禁止なので補盗庁が夜回りと盗賊逮捕をになっていた。構内には五間ばかりの板場の獄舎と隣接して絞首刑執行場があった。獄舎の四方の内側は板壁、外側は土壁、前面のみ高窓、出入口は板戸に横木でカンヌキがしてある。舎内の壁には丸木が露出していた。
こうした各官庁の監獄は時代を経るにつれてどんどん増えていった。つまり分業がうまくできず、あちこちの官庁が勝手に留置場を設けてしまうのである。これを「私獄濫設の弊」という。1725年、軍関係の五つの軍営にまで拘留の間があると報じられ、英祖王はこれを禁じた。
18世紀前半に各官庁の擅囚(せんしゅう)の弊が極に達した。「擅囚」とは読んで字のごとしで、「ほしいままに捕えた囚人」のことである。百司百官で私獄のないものがない状態になった。庶民はいつ役人に捕縛されるやも知れず戦々兢々(きょうきょう)としていた。
1740年の報告では、各官庁の私事の逮捕監禁がひどい、私的な怒りで捕えたものばかりだ、とあった。翌年、王は濫囚するものがあれば報告せよと命じた。これを「擅囚の弊」とか「濫囚の弊」といったが、改まらなかった。
地方官も六曹の縮図のように六房を置き、刑房に裁判・禁令・罪囚・監獄の事務をさせていた。道獄、府獄、郡獄と呼ばれる地方獄があった。地方官に司法権を兼掌させたために、司法と行政が区別されず錯綜していた。地方では観察使(かんさつし)(=道知事)以下の行政官が、裁判権をほしいままにしていた。彼が何を観察するかと言えば、民衆の儒教道徳実践を観察するのである。
裁判は役所の前庭のお白州で行われ、審理には拷問が付き物だった。審理は、死罪は30日、流刑は20日、笞杖(ちじょう)(鞭と棍棒)刑は10日の期限を定め、故意に延ばすものは誤決と同罪として処罰することとし、中央の刑曹には毎月1日に判決の月日を報告させることにしていた。
みだりに捕え、放っておく弊害
ところが、監獄で憂慮されたのは、国初から「違法濫刑」、「獄囚延滞」にともなう凍死と疫病であった。これも読んで字のごとく、「濫(みだ)りに刑罰を科し、判決を出さずに延ばし延ばしする」のである。審理・判決の期日は、結局守られなかった。
1427年の冬には凍死の恐れがあるから囚人を解き放てと命じている。つづく世祖王代には官吏を派遣して地方の監獄を調べさせたが、先の濫刑、延滞の二項がとくに甚だしかった。1457年には、獄囚延滞が無きようにと地方に命じた。この王さまはわりと良い人だった。

役所ごとに勝手に行われた李朝からの〝お裁き〟
1567年には、濫刑の官吏をひどく罰せよと王が命じた。この頃より、各役所が濫りに人を逮捕して監禁し、権勢を振るう弊害が表面化した。この後、30年で豊臣秀吉軍の侵攻にさらされることになる。治まって、1625年、仁祖王が擅囚の弊をいさめたが、効き目なし。債務強制のための監禁の弊が表面化した。つまり負債を返せないと、どしどし投獄した。貸す方も悪(わる)だが借りる方も踏み倒しの悪である。
そんなことをやっているうちに、翌々年、ジュシェン(女真、後の清)のヌルハチの子、ホンタイジが攻めてきた。仁祖王は、江華島に逃げた。寝返った朝鮮人の武将が船でやってきて、「お前は泥人形か」と、王を侮辱した。王は降伏したふりをしたがばれて、もう一度攻められた1636年、京城は落城した。
時はたったが、監獄は変わらない。1651年、ソウルの獄で衣服、薪炭が行き届かず凍死するものが多かった。翌年、獄にいるハンセン病患者に薬物を与えた。獄内では不潔不衛生により伝染病その他の病魔に襲われる。獄内に充満する吸血虫の弊害で皮膚病にかかり命をおとすに至るのである。
第一、ソウル自体が不衛生の巣だった。だいぶ下って、19世紀の英紀行家マダム・ビショップに世界第二の不潔都市と紀行文に書かれた、「誇り高き不潔都市」である。ちなみに第一位は、シナの紹興だった。

ソウルのメーンストリート鐘路も併合前はこんなだった(東京朝日新聞『ろせった丸満韓巡遊紀念写真帖』明治39)
1680年、獄囚延滞で89人も死んだと粛宗王は報告を受け、責任を問うた。地方はもっとひどい。罪が重いと処決せずに数十年延滞しているとの報告があり、1697年には、疫病が京城の典獄(庶人監獄)にも広まった。刑曹の報告により保釈する。禁府獄(官人監獄)も重病の者を上に報告して保釈した。
1707年、監獄で湿所に病を発する者が多いので板を敷けと命じられた。つまり朝鮮の監獄は土間だったのだ。朝鮮おそるべしである。粛宗王代には王室の祭祀忌辰(先祖の祭や命日)で裁判の開廷を止めることが多く、獄囚延滞の弊が特にひどかった。