別冊正論「総復習『日韓併合』」より
古田博司(筑波大学大学院教授)
朝鮮はずっと古代の「廊下」だった
さて今回、『別冊正論』編集部の私への依頼は、朝鮮の法治、とりわけ刑政について語ってほしいということである。なるべく分かりやすく説明したいのだが、煩瑣な専門用語がどうしても邪魔になる。李朝は漢文の世界だから、下手をすると突兀(とつこつ)とした文字面になってしまう。それを何とか避けながら語ってみよう。
まず押さえておきたいのは、朝鮮の地政学的な位置である。大陸からここを通ってくる敵に対しての自然の防壁が全くない。ただの「廊下」である。異民族の侵入に抗することができないので、朝鮮半島の歴代の王はみな逃亡してしまう。
李朝では、海沿いの江華島に逃亡用の王宮までしつらえられていた。10世紀から11世紀に遼(契丹(キタイ)族)が高麗を攻めたときも、16世紀の豊臣秀吉の朝鮮の役でも、17世紀の後金(後の清、女真(ジュシェン)族)の侵攻でも、王は逃げた。
これは近代でも変わっていない。20世紀、朝鮮戦争の時も北の侵攻に対し南の大統領・李承晩は民衆や軍隊を置き去りにしたまま、漢江にかかる橋を爆破して南に逃げてしまう。逆にアメリカ軍がくると、今度は金日成が軍事を中国援軍の彭徳懐将軍に丸投げにして、中朝国境まで逃げこんでしまった。
このような国では安定した国家運営はむずかしい。民衆が為政者を信頼した歴史をもたない。国政混乱・綱紀紊乱(びんらん)・強権強圧がふつうなのである。
日本が来るまでシナ・コリア地域たる東洋は、ずっと古代だった。現在の中国共産党がアヘン戦争までを古代とし、歴史認識に「中世」期をもたないのはある意味で正しい。ただ、日本に敗けた日清戦争からが近代なのだ。それが嫌でアヘン戦争からだと言い張っている。でも、彼らがずっと古代の王朝国家だったことに変わりはない。まず土地の所有権がない。長期間継続する使用収益を根拠とする文書の交換だけである。これは社会主義政権下の中国では、土地の国家所有や集団所有に引き継がれた。
一方、朝鮮に民法典を与え、私的所有権を認めたのは近代日本である。さかのぼって李朝時代には、売買が成立せずに小売商さえいなかった。京城・平壌・開城その他の重要都市には商人がいたが、官府の貢進物を売買する御用商人のみである。
では一般では日常品をどうするかといえば、ぜんぶ市場での物々交換でまかない、物品供給は行商人がになっていた。今のソウルの南大門や東大門の市場は、その市の名残だ。清は「少しましな古代」、李朝は「ひどい古代」と思うとよいだろう。
次に、シナ・コリア地域の関係性が問題になる。これは例を挙げながら述べてみたい。
朝鮮の法令もシナ事大主義だった
李朝では国初より14世紀の明国の法令、「大明律」をもって自国の法律と同一視した。それでも足りないところは、その都度、補助法規集を刊行し、これを補ったのである。
それらには、経国大典(1470)、大典続録(1492)、大典後続録(1543)、受教輯(しゅう)要(よう)(1698)、続大典(1744)、大典通編(1785)、大典会通(かいつう)(1865)などがあり、「大典」と名付くものの「刑典」部分には、全て「大明律を用う」と、ある。
結論から言えば、異国の法律を事大主義で正典として適用したものであるため、非常な無理が生じた。たとえば、18世紀の続大典に「(墓の)坑処を穿ち放火し、あるいは穢物(わいぶつ)を投げ込んで戯(ざれ)をなした者は、(大明律の)『穢物、人の口と鼻に灌ぐ律』により(罪を)論ず」とある。
この背後には、李朝後期になると、山争いが頻発し綱紀紊乱するという時代背景があった。朝鮮では墓は土饅頭で山にある。一族で山を占拠し、代々の墓を守るのである。山の数には限りがあるから、自然、他族との闘争が始まる。ひどい時には、前の墓を掘りかえして棺桶を焼いてしまう。風水信仰で棺のなかの骨には一族繁栄のパワーが宿っていると信じていたので、焼かれた側は激怒する。こうして一族郎党で鎌や棍棒をもって山にせり上がり大乱闘が始まるのである。
この条文は、その闘争の初期を封じているのだ。人の墓に放火したり、汚物を投げ込んだものを大明国の律で罰しようというのである。
問題の大明律の条文の方を見てみよう。大明律刑律闘殴条にある。「人の一歯および手足一指を折り、人の一目を眇(つぶ)し、人の耳鼻を抉毀(えぐ)り、人骨を破り、銅鉄汁(スープ)で人を傷つけるがごとき者は、杖(こんぼう)一百。穢物を以て人の口鼻内に灌ぐ者、またかくのごとし」という私闘の際の罰則規定であり、山争い・墓争いとは何らの関係もない。

李氏朝鮮の拷問。右から角形枡に膝を突っ込ませ棒で打つ「跪膝方斗」、足指の間に熱した鉄棒を挟む「足指灸之」、逆さに吊るし鼻孔に灰水を注入する「鼻孔入灰水」(朝鮮総督府『司法制度沿革図譜』昭和12)
明国の方もヘンである。平成22年11月11日付産経新聞「産経抄」に、中国密航船員が脱糞して女性海上保安官に投げつける話があるが、それを彷彿させる。
目くそが鼻くそをまねるというと私が品格を失ってしまいかねないが、両国の関係とはこのようなものだった。朝鮮は法令で、シナ人の顔面を朝鮮人の墓面に置きかえるという無理をしてまで、シナの権威にすがろうとしたのである。
シナ・コリア地域を過大評価して、朝鮮は中国に「挑戦すれば討伐されるが、朝貢すれば共存できる」という関係を維持したのだと、思いこんでいる方が日本にはおられるが、そうではない。朝鮮はシナに「挑戦など考えられない、臣従して生きるしかない」という、もっと切実な関係に甘んじてきたのである。
第一、派兵能力がちがう。シナは5万人、朝鮮は1万5千人。勝てるわけがない。だからシナの王朝は朝鮮を征伐したこともなければ、する必要もないのである。
第二に朝鮮には権威がない。「行き止まりの廊下」の地勢で国民を守れたことがない。与(くみ)しやすしと見られると、満州のジュシェン(女真)族が直ぐに鴨緑江を越えて、物を奪い、人を狩って農奴にする。
ジュシェンと交流して友好策を図ろうとすると、シナの王朝が邪魔をする。「お前は忠貞なる、うちの東の家来だったではないか」と、文書でしかりつけてくる。シナはシナで一緒になって攻めてくることを恐れている。「夷を以て夷を制する」にしくはなし、と見る。
ジュシェンの方は諸部族に分かれ満州で暮らしていた。甲賀者や伊賀者の里のようなところで、捕まえてきた明人や朝鮮人に農耕をさせる。根拠地も忍者の砦のように城をもたず、時々移動するので居場所がよくわからない。朝鮮はシナの権威で国内を押さえ、同権威で国境に睨みを利かせるしかなかったのである。