お寺に生まれる無数の関係性を編集する/應典院 秋田光彦さん(1/3)
2010年06月03日- 合掌して微笑む秋田さん。
私が秋田さんに出会ったのは、学生時代に見た映画『狂い咲きサンダーロード』を通してです。後に、友人から「大阪に『呼吸する寺・應典院』オモロい寺がある」と教えてもらって、そのお寺の住職が秋田さんだとわかったときは本当にビックリしました。今回のインタビューでは、秋田さんの映画プロデューサー時代、お寺に戻られて自らの立ち位置を確立し、應典院を若いアーティストたちの寺にしようと構想されるまでのこと、そして再建から13年後の應典院を秋田さんがどう見ておられるのかについてをじっくり伺い、全3回に分けて掲載いたします。第一回は、秋田さんという人の礎を作りあげた映画プロデューサー時代のお話です。
映画とともに80年代を駆け抜けて
――最初に映画に触れられたのはいつごろだったんですか?
父が映画好きでしたから、小さい頃からよく連れていってもらってたんです。黒沢明の『天国と地獄』や『赤ひげ』も小学生の時にリアルタイムで見ましたね。当時は、映画はたいてい二本立て上映ですから、行けば4時間近く過ごせるわけです。映画館は、僕にとって唯一の憩いの場でした。高校時代は、映画サークルに入って年間200本以上見てましたよ。
高校を卒業すると東京の大学に進みました。シナリオを勉強して身を立てるんだという思いを持ってね。当時の東京は、学生運動の火は消えていて、大学へ行っても何の刺激もない。だから、学生が集まれば麻雀か自主映画だったんです。そこで、大学を超えて連携する映画サークル『狂映舎』に参加して、そこで石井聰亙という凄い才能に出会うんです。
――石井聰亙監督の初期名作『狂い咲きサンダーロード』や『爆裂都市 Burst City』で脚本とプロデュースをされていましたが、当時、映画を通して表現したいテーマは、どんなものだったんですか?
あの2作品は石井聰亙の感性ですね。当時、石井は自分でシナリオを書かなかったから、彼のモチーフを聞き取りながら僕が代筆していたという感じです。いずれも映画としては素晴らしい作品だし、『爆裂都市』なんて20年早かった。でも、あの映画は僕の感性ではない。
――両作品とも、「とにかくどこかへ突き抜けよう、走り抜けていこう」というイメージが非常に強かったです。すごくスピード感があって。
- 映画『狂い咲きサンダーロード』DVDジャケット
人生のどん底に響いてきた父の言葉
――その頃に作られたのが『狂い咲き』ですね。
自主制作した『狂い咲き』は、大ヒットしてメジャー公開されて。「これからは映画だけでやって行こう」と、『ぴあ』もやめて、作った『爆裂都市』が全くヒットしなかった。『爆裂都市』は事業としてやっていたから、予算が尽きたらフィルムも買えなくなります。それでも、映画が当たればすべてはチャラだったんですけど、興行的に失敗したら残るのは借財、しかも若者が背負うにはあまりにも大きな借財だった。残念ながら、映画に自爆したわけです。それが26歳か27歳の頃ですね。
でも、お金のことよりも人間関係がズタズタに切り裂かれてしまったことが、いちばん大きなショックでした。若さゆえの無理解や誤解がたくさんあって石井とも別れましたし、周囲にいた大人たちも手のひらを返したように裏切って去っていきました。
そんなときに父が上京して「おかげさまできたんだから、おかげさまを返さなければいけない」と。不思議なもので、それまで寺の息子として吹きこまれてきた言葉なんて、馬耳東風で体に入ってこなかったのに、ボロボロになっているときには同じ言葉がすーっと落ちてきて。「ああ良かった、自分には帰るところがあるんだぁ」って思いました。父は、いいタイミングで来てくれて、僕が離脱していく道筋を上手に作ってくれたのかもしれませんね。
――でも、その後『アイコ16歳(今関あきよし監督/富田靖子主演』のようなヒット作も手がけておられます。もう少し、映画でがんばろう、やってみようとは思われなかったんですか?
- 應典院の階段に置かれた石のお地蔵さん
――じゃあ、お寺に戻られたときは「お坊さんになろう」というよりは「家に帰ろう」という気持ちで?
お坊さんをやるしかないかと。父も活躍していましたから、カバン持ちをやりながら好きな原稿を書いたりね。当時、僕はマンガの原作も書いていて、賞をとって100万円もらったこともあるんですよ。「マンガの原作なら大阪でもできるな」と。
ただ、帰ってきて仏教界なるものとつきあいはじめると「なんだこれは?」って感じで。それまで、映画を作っているときも、『ぴあ』にいるときも、自分の会社をやっているときも、基本的にすごく感性の高い人たちと出会っていて、時代の先っぽに自分は立っているという自覚はあったわけです。だから、旧態依然とした世界とまったくかみ合わなくてね。
このまま、適当にこなしていけば、気軽にやっていけるんじゃないか。そう思いながらも、東京で作られてきた自分の物差しみたいなものがその環境になじむことを許さない。そのズレに悩んでいる間は、ずいぶん遊んだりして不埒なこともやっていました(つづきはこちら)。
プロフィール
秋田光彦/あきた みつひこ
1955年大阪市生まれ。明治大学文学部演劇学科卒業。現在は大蓮寺住職・應典院代表、パドマ幼稚園園長。情報誌『ぴあ』にて自主映画の登竜門『ぴあフィルムフェスティバル』事務局を経て、石井聰亙監督と『ダイナマイトプロ』を創設、最若手プロデューサー兼脚本家として『狂い咲きサンダーロード』『爆裂都市』を送り出し、日本映画界にインディーズ旋風を巻き起こす。30代で加行、浄土宗教師として『教化情報センター21の会』の事務局長として、数々の宗教イベント・メディアのプロデュースを手がける。97年、大蓮寺塔頭・應典院を、NPOを若いアーティストの拠点として再建。共著に『生命と自己』『つながりのデザイン』など。
浄土宗 大蓮寺 塔頭 應典院
http://www.outenin.com/
1614年、大蓮寺三世誓誉在慶の隠棲所として創建。1997年に再建される際、一般的な仏事ではなく、かつてお寺が持っていた地域の教育文化の振興に関する活動に特化した寺院として計画。「気づき」「学び」「遊び」をコンセプトとした地域ネットワーク型寺院として生まれ変わった。音響・照明施設を備えた円形型ホール仕様の本堂をはじめ、セミナールームや展示空間を備えており、演劇活動や講演会など様々活動に用いられるほか、一般に開放された交流広場(玄関ロビー)には芝居や講演会のチラシが置かれ、文化情報の発信および人々の交流の場として機能している。また、『應典院寺町倶楽部』の拠点施設として、コモンズフェスタや寺子屋トークの舞台にもなっている。
秋田光彦さんの映画時代
狂い咲きサンダーロード(脚本・プロデュース/1980年公開)
石井聰亙監督のデビュー作品。『狂映舎』の自主制作映画として製作され、のちに東映が劇場公開してヒットし一気に各方面から脚光を浴びた。『おくりびと』で遺族役を演じた山田辰夫の主演デビュー作でもあり、泉谷しげるやTHE MODSの楽曲
が音楽として使用された。ストーリーは、幻の街「サンダーロード」を舞台に、暴走族・魔墓呂死(まぼろし)の特攻隊長・ジン(山田辰夫)があらゆる体制に屈することを良しとせず、絶望をも超えていくスピードでバイクに乗り、どこまでも走り抜けていく姿が描かれている。秋田さんいわく「ポップなカルト映画」。
爆裂都市 Burst City(脚本・プロデュース/1982年公開)
『狂い咲き』のヒットを受けて、東映セントラルフィルムの配給を受けて制作された。石井聰亙監督の第二作であり、当時『ザ・ロッカーズ』のボーカルを務めていた陣内孝則が初主演作品した、荒れ果てた近未来都市が舞台のSFアクション映画。過激なパフォーマンスを繰り広げるロックバンド、熱狂する若者を取り締まる警察、原子力発電所の建設を巡って対立した暴力団と貧民たちとの抗争......燃える街のなかをコマンド佐々木(陣内孝則)はバイクで疾走していく。キャストには、ザ・ロッカーズ、ザ・ルースターズ、スターリンなど、扇動的なロックバンドがむき出しの姿で登場。疾走感あふれる画面の応酬は、石井聰亙監督「パンクイヤーズ」の傑作として高評価を受けてはいるが、秋田さんが「20年早かった...」と言うように、興行的には失敗。秋田さんの人生を大きく変えた作品でもある。
カーテンコール(原案/2004年)
「僕はどちらかというと人間と人間の深い関わりを自分の作品テーマのなかに据えていた」と言う秋田さんが大学卒業後に書いたシナリオを、盟友の佐々部清監督がずっと温め続けて映画化。上記2作品とは打って変わって、昭和30?40年代のあたたかな記憶に包まれた映画館が舞台となっている。子どもの頃の「唯一の憩いの場」だったという映画館への愛を背景に、全盛期だった昭和の映画館の記憶に揺り動かされるように紡がれた"幕間芸人"の父と娘の別れと再会のストーリー。「ぜひ見てください」(秋田さん)。
杉本恭子 (すぎもと きょうこ) >>プロフィールを読む 大阪生まれ東京経由京都在住のライター。同志社大学文学部社会学科新聞学専攻卒業。お寺取材を経験するうちに「お坊さん」に興味を持ちインタビューを始める。