Mayさんからの質問
>菜穂さんはよく「起きていることは全て完璧」と言いますね。
>もし阿部さんが、今晩子供達に食べさせるお米がなかった時、阿部さんの目に現実はどのように映っているのですか?
これは古から繰り返されてきた質問です。
そしてこれからも問われ続けることでしょう。
「起きていることは完璧」
この言葉の意味は、分離意識の我々から見て、「起きることはいつでも最高」ということではありません。
それどころか、我々はどんなに素晴らしいことが起きても、さらなる素晴らしさを求め出します。
それを探求といいます。
完璧という言葉が指し示しているのは、いままさに起きている「これ」は、これ以外に在り様はなく、修正することもできず、修正できる人もおらず、ひとつの全体として、超バランスの中で起きている「これ」のことです。
「これ」は時間の中にはなく、まさにいまとして永遠の中にあるのです。
部分である分離意識からは、その見方によって「これ」に対して様々な判断が生まれます。
さらに、分離意識は時間の中に在るので、その現象に前後のストーリーを見ます。
「あのとき、ああしていれば、こんな事態にはならなかった」
「米がなければ飢えて死んでしまう」
「この先は絶望的だ」
こうして、いま米がないという現実が、何倍もの苦しみとなって襲ってきます。
マインドはどんな想像もできるので、このような質問はさらに、
「戦争も完璧か」
「人殺しも完璧か」
という風に続きます。
これらは人間社会において最悪な出来事ですが、それが起きていた時はそれが起きていて、それ以外には在りようがないのです。
「あのときこうしていれば」
「もしあの人がこうだったら」
という想いはまったくの無力であり、起きることしか起きないのです。
もちろん人間は、そうならないように何千年もの間、平和に対する思いを捨てずに生きてきました。
しかしいまだにそれは実現していません。
なぜなら、分離意識は自と他を分けるので、そこには対立構造が生まれるからです。
分離意識(自我)は、どんなに立派なことを言おうが、どんなに立派な功績を残そうが、つまるところ自分の為に生きています。
人は正直に自分を見れば、誰もが心の奥で「自分が一番大切」という思いを持っているのです。
相手に違和感を持てば、自分は正しく相手は間違っているというふうに考えがちなので、タイミングによっては、それが争いの種になります。
なぜなら、どのように見えようとも、相手には相手の言い分があるからです。
そして対立したときは、いつだって、正しさと正しさの戦いになるのです。
これは口喧嘩から戦争に至るまで、すべて同じ構造です。
したがって、人間から分離意識が消え、我々が同じ一つのものであることを知らない限り、この先も様々なもっともらしい争いが繰り返されることでしょう。
では多くの人がこの先、存在の究極的真実に目を向けだすのでしょうか。
それはわかりません。
たとえいまのまま、分離意識のままで何も変わらないとしても、それで完璧なのです。
もう一度言いますが、それは最高ではなく、修正の余地がない、何者も修正できない、という意味において、起きている「これ」しかなく、「これ」が完璧なのです。
「いやそんなことはない。人の心がけ次第でできるはずだ」
そのような想いは、「これ」そのものではなく、時間の中に生じるストーリーの中にしかありません。
話を理解していますか?
とても簡単なことですが、すっかりストーリー(時間の世界・夢の世界)に魅惑されてしまった個人には、解りにくいことだと思います。
完璧なる全体の表現が、どこに向かっているのか誰も知りません。
先のことは誰にもわからないのです。
でもまさにいま、ことの全体性と完璧さを見抜くことは可能です。
たとえ一瞬でも、あなたという分離意識が消えたとき、いま述べたことが訪れます。
そのとき、世界中の分離意識が消えます。
自らの個人が消えると、そこから見て、すべての個人という幻想が消えてなくなるのです。
ですから菜穂さんのような人の目から見ると、すでに誰もいません。
肉体はあるけれど、その中に誰もいないことを知っているのです。
しかし各々の肉体の中には、脳の作用により、
「この肉体は私だ」
「この肉体の中に私が宿っている」
という偽のイメージが起きていて、それを自分だと信じています。
脳科学者の保江さんからは、講演会でそのあたりのことを引き出してみようと思います。
>菜穂さんはよく「起きていることは全て完璧」と言いますね。
>もし阿部さんが、今晩子供達に食べさせるお米がなかった時、阿部さんの目に現実はどのように映っているのですか?
そうなってみなければわかりませんが、たぶんその時できる精一杯を生きると思います。
それは誰でも同じではないでしょうか。
ブッダたちもそうする可能性があります。
ブッダも我々も、いま目の前のことを生きることに変わりはありません。
でも何が起きているかという認識が違います。
ブッダは判断を伴った認識(ストーリー)を持ちません。
ただ「いま」に在ります。
「いま」を生きなければと自分に言い聞かせるのとも違います。
「いまを一生懸命生きよう」
一見まともな宣言ですが、分離した個人にはいまを生きることはできません。
分離した個人からは、時間しか見えません。
なぜなら
分離意識が時間だからです
いまに在るか、ストーリーの中に在るか。
両者にはその違いがあるので、同じ現実を前にした時の体験が変わってくるのです。
「完璧」とは、個人から見ての「最高」とは違うという話でした。
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10月11日・12日の「大和田菜穂・大阪サットサン」
詳細は
コチラから