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版下屋風雲録・特別篇

夜に追われて
 しまい湯時間はいつも落ち着かない。
 まず、洗い場の明かりが少し消えて暗くなり、シャワーから出る湯が、「時間だぞー、早く出ろよー」と催促するように熱くなる。
 客はほとんどいなくなった。水道蛇口のある「特等席」も空いているので、そのことだけでは助かる。誰にも気兼ねなく湯舟の縁に片足引っかけ、水道管のひねり口につかまって一気に湯の中に滑り込む。
〈やあー、極楽、極楽……〉
などとのんびり湯に浸かれるのは束の間、すぐにデッキ・ブラシを持った釜焚きが掃除を始めにかかるので、いつ栓を抜かれるかと気が気でなくなり、あわてて湯舟から飛び出す段になるが、上がるときは湯の浮力に助けられてすんなりと着地する。
 脱衣所で衣服を着込み、丸めた着替えと道具一式入れた洗面器を前に前に押しやりながら、いざって番台の前を通る。
 湯上がりの火照りを、初夏の夜風で吹き飛ばして車いすをこぎ進める。
 合羽橋道具街と合羽橋商店街がクロスしている信号を突き抜け、銭湯からの延長である商店街をそのままなおも直進する。
 寿湯を出たときは12時を過ぎていた。この時間は要注意である。
 シャッシャッシャッシャッ……
 何かが地面にこすれるような音がして、アイツが近づく。
〈地獄の水まき車だ!〉
 定期的に巡回する散水車のことをそう称して恐れる。
 とっさに手近の路地へと入り込む。そして隠れるようにしてそれの過ぎるのを見届ける。
 暗い通りがオレンジ色の光でほんのりと明るくなり、商店街の看板の影が揺れて異様なエンジン音が近くなる。
 ゴオオォォンという音と、シャッシャッシャッという音が混じり合いながら大きくなり、路地づたいに大型タンクを付けた黄色い特殊車が現われ、道路に消毒水をまき散らしながら行き過ぎた。
 それが通るとき、なぜだか車いすごとさらわれてしまうような恐怖を感じ、反射的に物陰に隠れる習性が身についてしまった。
〈急がねば!〉
 もうすぐ『逃亡者』が始まる時間だ。
 それは毎回、次のオープニングで始まる。
 夜の闇の中を、警笛を響かせて列車が遠くから近づき、画面一杯に迫って走り過ぎる。
 その列車内。
 手錠の男と初老の警部が並んで座っている。
 手錠の男は警部にタバコをねだり、火を点けてもらう。タバコの火をくゆらせながら窓の外に目を向けるが、列車の窓に映る彼の目は、暗く深い絶望に沈んでいる。
 その場面にかぶさり、ナレーションが入る。声はナポレオン・ソロの吹き替えでも有名な矢島正明である。

 リチャード・キンブル。職業、医師。
 正しかるべき正義も、時としてめしいることがある。
 彼は身に覚えのない妻殺しの罪で死刑を宣告され、護送の途中、列車事故に遭って、からくも脱走した。
 孤独と絶望の逃亡生活が始まる。
 髪の色を変え、重労働に耐えながら、犯行現場から走り去った片腕の男を捜し求める。
 彼は逃げる。執拗なジェラード警部の追跡をかわしながら……現在を、今夜を、そして明日を生きるために。

 思い出のテレビドラマを振り返る『テレビ探偵団』という番組で、ゲスト出演したタレントの楠田枝里子さんは、ドラマ冒頭のナレーションをすべてそらで正確に言ってのけた。以来、いっぺんに楠田枝里子さんが好きになった。
 この『逃亡者』、ハリソン・フォード主演で93年に映画化もされている。しかし、わずか130分の映画はしょせん別物でしかない。ドラマは足掛け4年、通算120回の超ロングランだったのだから。
 思えば本放送から22年が経っていた。

『逃亡者』の時代
 デビッド・ジャンセンが主人公キンブルを演ずる『逃亡者』本放送は、1時間ドラマとしてTBSで土曜午後8時台に放映された。スポーツ中継を入れてのためだろうが、本国アメリカでの放送編成上、多少の間をおいた変則編成だった。
 1964(昭和39)年5月16日の記念すべき第1回を皮切りに、1965年6月26日までが第1次、第2次・同10月9日〜1966年5月28日、第3次・同12月3日〜1967年6月17日と足かけ4年にわたり、第4次・8月26日と9月2日は前・後編に分けた解決篇「裁きの日」と続き、全120話すべて終了した。
 その頃、俺は故郷・佐渡が島の家族と離ればなれになり、新潟市海老が瀬の新潟養護学校で寮生活を続けていた。
 当時、新潟でのテレビ放送はNHKが総合と教育、民放は新潟放送1局のみだった。
 5月16日の『逃亡者』第1回は、そのときのBSN新潟放送では放映されていなかった。それどころか、ちょうど1か月後の6月16日は、マグニチュード7・7の新潟地震に襲われた年で、ドラマどころではなくなった。
 鉄骨平屋の寄宿舎、校舎とも全壊はまぬがれたものの、すきま風や雨が吹き込む状況で寮生活を続けるわけにはいかず、同じ市内、山二つに建つ盲学校の一部を借り、その寮から新潟交通のバスで通学・下校する毎日が、翌年の3月まで続いた。
 『逃亡者』を知ったのは、新校舎・新寄宿舎での寮生活が再開されてしばらくたった頃のことだ。
 子供の施設では、外出・外泊は自由にできず、親からもらった小遣いで好きなものを買うときは、寮母さんなど職員に頼むほかはない。また、菓子なども買って食べることはできず、買い物にも制限が加えられていた。
 文房具などは言うまでもないが、本や雑誌もかなり自由に頼めた。年齢の割にませていた俺は、同年代者の指向よりは少し上を求めた。
 新生養護学校のスタートと共に俺も中学生となったが、中学卒業頃には「ヤングコミック」というかなりアダルトなコミック雑誌を取っていたが、中学なりたてのこの頃には、すでに「ボーイズライフ」を読んでいた。
 ボーイズライフは小学館から出た雑誌で、1963(昭和38)年4月、「中学生の友」をレベル・アップし、高校生等10代後半の年齢層をターゲットに、コミック一般に飽きたらず、政治・経済・ファッション等盛り込んだ総合誌として登場した。ところが、翌る1964年4月、ファッション・カー・セックスを3本柱に週刊「平凡パンチ」が創刊するや、以後「話の特集」(1965年)、「プレイボーイ」(1966年11月)とジャンル別雑誌が続々登場、年齢・性別・職業などに差異化されていくことによって本来の役割を失い、1969年8月で廃刊を余儀なくされる。
 平凡パンチ登場により、すでにその座を脅かされていたわけだが、そんなことはつゆ知らず、俺はそのなんでも屋的総合性にこそ惹かれて定期購読を続けていた。
 すでにボーイズライフでは『逃亡者』を取り上げ、「デビッド・ジャンセン物語」として、リチャード・キンブル役の金的を射止めるまでのシンデレラ・ストーリーを綴ったこともあったが、その内容に本格的に迫ったのが1965年10月号だった。
 「再開第1回」として、「全州非常警戒」(第58話)を挿し絵入り読み物として特集していたが、そのグラビア写真には、「リチャード・キンブル。職業、医師……」に始まる日本語ナレーション全文も載っていた。
 俺の目は吸い付けられるようにそのコピーに惹かれ、自分がナレーターにでもなったような気持ちで何度も心の中で朗読もした。
 そして、むさぼるように筋を追った。
〈素晴らしいドラマだ。愛と正義と勇気の物語だ!〉
 直感的にそう判断した。
〈放送はいつだろう〉
 当然、本編が見たくなる。
 しかし1局しかない民放のBSNが同じ土曜に放映していたのは、その名も『逃亡』という国産のドラマだった。加藤剛と三田佳子出演による松本清張原作のこの時代劇、何の符合か、やはり冤罪で逃げ回る男の話だった。
 新潟県内にいて『逃亡者』を見るには、それからさらにしばらくの月日を要する。
 がっかりしたものの、せめての慰めに例のグラビアを切り取って記念のアルバムに貼り、それは大事に大人になってしばらく後まで飾られた。

白球飛んで
 新潟養護学校は越後平野の真ん中に建っていた。その新生校舎で迎える2度目の秋。俺は中2になっていた。
 単調な施設の日々だったが、持ち前の好奇心から夢中になった学級新聞の編集・発行活動で多忙だった。
 それまでは生徒の自主性、創造性を養う目的をもって教師が指導的立場を演じる傾向が強かったこの活動を、俺はむしろ積極的、果敢に取り組んでいた。企画から構成、取材から執筆、編集、割り付けまで自分でこなしたので、教師は逆に形無しだった。
 秋晴れの放課後──。
 俺は学級新聞の印刷のため、校舎に向かわねばならなかった。自室のある寮からなら良かったものを、ヤボ用で食堂に立ち寄り、食堂からまた寮への渡り廊下をのろのろ歩いていたのがまずかった。
 ひょいとグラウンドの方に目をやったとき、体育館からクラッチをついた子や松葉杖の面々が、グランドに向かって出ていくところだった。みんなミットやグラブを手に引っかけ、杖を必要としない足の良い連中は、ベースやバットを小脇に抱えている。
 ガキ大将格である菜ッパこと星名敏夫が皆を振り返って員数を確認している。困った顔をしているところを見ると、野球の対戦にコマがひとつ合わないらしい。
 イヤな予感がした。
 と、星名の顔がこっちを向いた。
「ブラでもいいか」と言っているのは、いつものことだから口の形を見なくても判る。「来い、来い」と、松葉杖を上げ、大きな半円を何度も描きながら盛んに手招きした。
〈あーあ、捕まっちゃった〉
 星名の指図にゃ逆らえない。
「お前、目そらして逃げようとしたな」
「新聞の印刷しなきゃならないからさ」
「そんなの後で俺がやってやるよ」
 上級生との対抗では仲良しコンビの星名とハギこと萩原道夫がバッテリーを組むが、同級生が中心の人数も限られた対戦では、ふたりは分かれて両軍の主将を務めるのが常だった。
 ハギとのジャンケンに負けて、星名チームは後攻に回り、それに組みすることになった俺も守備に就くことになった。
 星名はピッチャー位置に、他の面々はそれぞれの守備位置に、片手に持ち替えた両松葉を支えに、いったん四つんばいになってからごろりと座り込むが、腕力のない俺は背を屈めて尻を突き出すかっこうで後ろに倒れ込む。少し痛い思いをするが、これが唯一自分から出来る座り込み方法だから仕方ない。
〈来るなよ、来るな〉
 守りに就きながらもひたすら念じていた。
「バッター、萩原!」
 体格のいいハギがバットを小脇に抱え、バッターボックスに立つ。足の良い代走者が横につき、いつでも走り出せるよう身構える。
「しまっていこうぜ!」
 星名が気合いを入れてモーションを振りかぶる。名前が星名ということもあり、『巨人の星』の星飛雄馬を気取りエキスパンダーで鍛えた投球力を誇っている。
 ハギは第一球から打ちに出た。
〈打った!〉
 軟式ボールは当たれば大きい。打球は内野を飛び越え、座り込んで守る松葉杖者の間を抜けて大きくバウンドした。それを足の良い仲間が追って取った。しかし、返球するまでにランナーはとっくに1塁を通り越し、易々とツーベースヒット。松葉杖連中はなすすべもない。
〈バカな野球だ〉
 俺はひそかにののしり、ほくそ笑んでいた。
 その後も打球が飛んで来ることはなく、従って失態を演じて恥をかくこともなかった。
 相手方の攻撃が終わった。
「久須見ーっ」
 俺は大声で加勢を呼んだ。座るのはニュートンの法則で転べば良いが、立つとなるとそうはいかない。久須見は片手が不自由なだけの軽い障害で、俺など難なくひょいと抱え上げる。
 彼には忘れがたい記憶が2つある。
 元気が良い上におっちょこちょいだった。地震で壊れた校舎で授業を受けていた頃だ。たてつけが悪くなって、なかなか開かないドアに突進して手を突いた。ガラスが割れて、割れたガラスで手首を切った。久須見の悲鳴の後で凄い場面が展開された。血が噴水のように吹き上げたのだ。静脈を切ったくらいであんなに血が吹き上がるなんて、後にも先にも見たことがなかった。
 そして腕を切る事件のだいぶ前──。昼休みが終わるわずか前の時間、教室廊下に置かれた訓練用自転車のペダルを勇ましくこいでいた。何をするにも加減を知らない。それで無理をして持病のてんかん発作を起こして倒れたりする。が、この時は発作ではなかった。ガタガタガタガタっと床が物凄い音を立てた。なんて乱暴な奴だ、床を自転車の振動でぶち抜く気かと初めは思った。しかし、間もなく大揺れが来てみんなその場に突っ伏した。あの新潟地震は久須見が招いた災害ではなかったかと、まじめにそう考えたことさえある。
 ともあれ久須見に助けられて起きあがり、攻撃の番になった。星名が打ち、他の足の良いメンバーもうまく継いで手堅く点を取ったものの、俺の手前でスリーアウト、チェンジ。
〈2回のトップは俺かよ〉
 重い気持ちを引きずってまた守りに就いた。
 北国の秋は日が落ちるのも早い。夕映えに赤く染まって、2階建て鉄筋校舎がでんとそびえている。
 あの地震のとき、そこにはずたずたに引き裂かれた元の校舎が体をくねらせて横たわっていた。そして地震で出来た穴から地下水が吹き上げ、花壇も畑も押し流した泥海が、今度は校舎も人も呑み込もうと迫っていた。
 あんな出来事もウソのように、平和なグラウンドには級友たちの歓声が響き渡っていた。
 そのとき、食堂棟から出てくる人影に俺の目は奪われた。どの顔も1年下のクラスの女子で、その中で片足をわずかに引きずって歩く彼女に、呆然と見とれた。
〈本望さんだ……〉
 とたんに胸は熱く、苦しくなった。

転校生
 本望亮子さんがはまぐみ学園から転校して来たのは、2学期からのことだった。リハビリや手術を必要とする子は最初はまぐみに行くが、それが終わると養護学校に移る。俺も小6のとき、はまぐみから転校して来た口だ。
「今度来る子は秀才の美人らしい」
 その情報に、胸はわくわくした。
 単調な施設暮らしで、何か変わった刺激が欲しいといつも思っていた。それが異性がらみではなおのこと。
 その本望さんはぽちゃぽちゃ美人で、俺好みだった。秀才にありがちな冷たい印象はあるものの、惚れた弱みである。
「本望が来るぞ、本望が来るぞ」
 注進が走り、俺は木陰で待ち構える。
 少し足を引きずるところが清楚としてなおいい。これで手首にホータイでも巻いていれば、三日三晩うなされただろう。
〈来る、来る、来る……〉
 愛しい人の影が近づき、間近に迫る。
〈来たーっ〉
 俺は思わずぴょこたん歩きで駆け出す。途中、バカをして印象づけたらなどと、わざと転んで見せた。座り野球の守りで後ろに倒れるのと違い、前から倒れるのは相当勇気がいるし、第一痛い。
「なんだ、本望さんだったんですか」
 半身を起こしてとぼけたが、相手はあれよあれよと遠ざかるばかりだった。
「バカだなー」
 級友のあざけりを耳にしながら、それでも俺は本望さんに見られたことで幸せ気分一杯だった。
「彼女はどういう障害なんだ?」
「慢性小児リウマチらしいよ」
「リウマチ?」
 子供のリウマチなんて、初めて聞いた。
 早速、図書館に走った。
〈ふむふむ、リウマチはロイマチスともいうんだなあ。……関節痛、筋肉痛、神経痛などを特徴とする種々のリウマチ性疾患群の総称。……なるほど。痛いんだろうなあ〉
 俺は本望さんの辛さに思いを致した。
 とにかく手当たり次第、平凡社の百科事典から始まって医学事典にまで及び、俺の頭はすっかり本望さん漬けになっていた。
「ブラー、ブラブラっ!」
 星名の凄い声が飛んできた。
 ハッと我に返って見ると、打球がバウンドしながら自分目がけて飛んでくるではないか。
〈あーっ! 来るなって言ったのにーっ〉
 無我夢中でグラブも何もない素手を広げたところへ、球の方から入ってきた。パシッという感触を受けて、ナイスキャッチ。
「取ったぁーっ!」
 俺は小踊りして叫んだ。
「バカ、早く投げろ、投げろ!」
 星名がグラブを広げて激しく塁を差す。
 思わず振りかぶったが、
「ゴロでいいっ、ゴロでいいっ」
 俺に投球力もコントロールもないのを察して塁の守りもとっさに判断、納得して無難なゴロで返した。
「アウトーっ!」
 応援のベンチから拍手が起き、あの本望さんまでが笑みをたたえて手を叩いているではないか。
 また久須見に起こしてもらいながら、有頂天になっていたが──。
「バッター、ブラぁーっ」
 拍手が湧いていたベンチから、今度は笑いの渦が起こった。
〈まったくブラ、ブラって、好きな人のいる前で〉
 俺はくさった。
 べつにぶらぶらしているからブラというあだ名がついたわけではない。落語の「じゅげむ」の一節、「やあぶらこうじのぶらこうじ」から、俺の名前が康二というので付けたはまぐみ時代の職員の発案だが、まったく迷惑なあだ名だ。
 しかし困った。
〈空振ってアウトになろうか。どうせ一人目だから……〉
 ピッチャーはハギ。これが星名ならデッドボール球で脅してくるのだが、ハギはさすがやさしい、と、単純にそう思い込んでいた。
「ストライク!」
 直球勝負に、俺はじっと睨んで身構えた。
 といってもそこはピョコタン、肝心の見せ場なのだが、痩せた尻を突き出し、潰れたカエルのように松葉杖にもたれかかり、見られた様ではなかった。
〈なあーに、一発かっ飛ばせばこんな俺でも男を上げるさ〉
 その思いで振ったとき、手応えを受け、球がいいバウンドを見せて飛んで行った。しかし代走は1塁止まり。また起きた拍手もすぐに止んだ。
「ドンマイドンマイ」と、ハギは少しも意に介さない。
 代走に替わって俺が1塁に就く。
 次のバッターの星名はブツブツ不平をこぼしている。
「てっきりアウトかと思ったのに……」
〈塁に出たのが気に入らないってか?〉
 俺も面白くない。
 その星名が打った。
「ブラ、走れーっ!」
 星名が松葉杖を大きく振り回しながら指図する。星名の当たりは大きかったが、ぴょこたん歩きに邪魔されて代走者はそれ以上進めず、やっとの思いの1・2塁。
「よーし、3人目で潰すぞー」
 ハギが守りを振り返って意気込む。
〈なんだ、そういうことか〉
 俺はがっかりした。
「久須見ーっ、かっ飛ばせーっ!」
 星名が1塁を踏んで吠えた。
 生き残るにはホームランしかなかったが、頼みの久須見の当たりは詰まり、バウンドした球をハギが取って1塁アウト、2塁に送って星名がアウト、その間まだ2塁と3塁の間を息せき切ってぴょこたん歩きを続ける俺を、2塁が追いかけて「タッチアウト」、俺の耳には星名の悪罵がぎんぎんと響き、ベンチに洩れるは落胆のため息ばかりだった。

荒海超えて
 北国の冬は早い。
 秋が深まったと思ったらもう木枯らしが吹き、寒さは足早にやって来る。しかし、吹雪が吹き込む半壊した校舎で授業を受けていた頃を思えば、暖房の行き届いた真新しい鉄筋校舎で迎える冬は天国だった。
 2階の校舎から吹雪が白い大河となって吹きすさぶ彼方の道を見下ろし、自然の猛威に舌を巻いたかと思えば、ボタン雪が止むことなく降り続く鉛色の空をガラス窓越しにじっと見上げ、いつしか教室ごと空に舞い昇っていくような錯覚にとらわれ夢見心地になったりもした。
 懐かしい故郷に帰り、家族との団らんが一定の間でも許されるのは1年のうち3回。
 一般学校と同じで夏は7月25日から8月一杯、冬は12月25日から1月8日まで、そして春は3月25日から4月4日までと毎年決められていた。
 誰でも待ちに待ったこの時期だが、このうちの冬は、俺のように荒れた海を船で渡って帰らねばならない佐渡出身者は大変だった。
 はまぐみ学園ではそのまま残って正月を迎えることも許されたが、養護学校ではそうも行かない。2時間半の乗船中、それこそ船酔い地獄の連続だった。
 客室は2等、特別2等、1等、特別1等、特等とあり、いつもは中クラスの特別2等に乗っていた。2等の船倉に対し、特2はデッキに面し、階段下の2等よりは揺れも少なく、居心地もいいはずであった。
 畳敷きで、混んでない限り伸び伸びと体を伸ばして寝られたが、養護学校の冬休み帰省で空いていたという記憶はない。ただ、寝ることもできないほど混んでいたということもなく、とにかく全員が体を並べて横になり、毛布をかぶって寝に就けるだけの余裕はあった。
 船室スピーカーが奏でる「螢の光」を聞きながら、船が沖へ出る最初の内はエンジン音も静かで、揺れもどうということはない。
 新潟港は信濃川にある。河口から海に向かう30分ほどは波も船も静かだが、エンジン全開とともに速力を増し、沖から大海原に漕ぎ出すそのときが地獄の始まりだった。
 ぐぐぐーっと船体が大きく揺れだし、毛布をかぶって横になっている体の重心がそのたびに揺れる方向に移動し、ともすると傾いた方向に転がって行きそうになる。
 丸い船窓には空と海が代わる代わる見え隠れし、鉛色の冬空が白波を立てて荒れ狂う海に変わるとき、そのまま海に吸い込まれて転覆してしまうような恐怖に陥る。
 また、ぐぐぐーっという傾きの次には、ぎしぎしぎしっと船体が激しく軋む音に変わり、そのまま押し潰されてバラバラになり、海の藻屑と化すような怖さにとらわれたりもする。
 そんなことを繰り返し、胃の腑はいいようにもてあそばれ、今度は激しい船酔いに見舞われる。
 こみ上げる吐き気と戦うのが第二の試練だった。揺れに合わせて大きく呼吸すれば良いということを教えてくれた人がいた。それを実行し、確かに吐き気は少し収まった。しかし緊張は一時も休まらない。
 あちこちで別の船客の嘔吐が始まった。すると今度は、他人の吐いた汚物の匂いで新たな吐き気を催す。
 まさに恐怖と吐き気との戦いである。
 そうやって波乗り越えて時を越え、「螢の光」を聞いた船内スピーカーから今度は「佐渡おけさ」のメロディーが流れる頃、命拾いした気になりホッとする。
 甲板に出て一番に目にするのが雪をかぶった故郷の山々だ。あれが金北(きんぽく)山、あのなだらかな傾斜がドンデン峰、それらの連なりが雪に染まって寒々とそびえる。
 そして車に乗って10分足らずで柿の木坂の上の我が家に着く。
 いの一番にああちゃんが顔を見せる。
「おー、康二、康二や。よく帰って来たなー!」
 顔を涙でくしゃくしゃにして出迎えた。
 中学になるまで祖母と思い込んでいたその人が、実は実父の本妻だったとは。
「さあ、まず仏(ほとき)さんに挨拶して」
 仏壇の位牌に向かって帰郷の報告をするのが、まず最初の勤めだった。
 俺は8歳の年の9月7日に新潟のはまぐみ学園に入園したが、故郷を離れる前に最後に見た実父は、両津病院のベッドで骨と皮になっていた。深酒が祟っての挙げ句だが、俺にかける別れの言葉はろれつが回らぬほどひどく、それから4日後に帰らぬ人となったのだ。

年夜(としや)の楽しみ
 実はこの頃、新潟のBSNでは放送していない『逃亡者』が、佐渡では見ることができた。それが楽しみでもあった。
 新潟日報に夕刊テレビ欄が加わったのもこの頃からだが、朝刊テレビ欄の別枠にも北日本、SBC、フジ、日本、BSN高田各局の大まかな番組表が表示されるようになり、これらの局は場所によっては電波の加減で見られることがわかった。
 そのSBCこと信越放送は土曜午後8時から、『逃亡者』をTBSと同時進行で放映しており、美ケ原から発信された電波は遠く海を越えて佐渡まで届いていたのだ。
 ただ、この年12月31日土曜日は大みそか、「1966年青春オールスター大行進」という特別番組で『逃亡者』は1回お休み、正月7日まで待たねばならない。
 むしろNHK大河ドラマ第4弾『源義経』最終回「雲のゆくえ」の印象の方が強かった。
 本放送は12月25日日曜日。しかしこの日に見た記憶はなく、29日木曜4時15分からの再放送に間違いない。
 ああちゃんの遊び友だちの年寄り連中が何人も集まって沸き立っていた。悪気はないどころか、むしろ久々里帰りした俺を歓迎してのことなのに、肝心の『義経』の鑑賞を妨げられ、「うるさい!」と大声で怒鳴ってしまったのだ。
 白黒映像であった。義経はこれでの共演が縁で静御前役・藤純子と結婚する歌舞伎役者・尾上菊之助。壮烈な戦いの末、忠臣の伴侍は次々と討ち死に。最後に緒形拳の弁慶が敵の弓矢を雨あられと受け止める有名な仁王立ちの名場面。今でもはっきりと覚えている。
 そして待ちに待った大みそかを迎える。
 佐渡では年夜といい、一年の最後ならではの料理の数々が振る舞われる。
 なんといってもおせちである。
 生酢は大根に赤かぶを混ぜてきざみ、縁起物らしくきれいな紅白に彩る。煮染めにも紅白のかまぼこを加え、ほんのりとした彩りを添える。そして活きの良い、脂の乗った寒ブリや寒ハマチの刺身を大鉢にたっぷりと盛り、いよいよ年夜のご馳走に舌鼓を打つ段となる。
 しかし、華やぐはずの団らんは、この頃大いに複雑だ。親父が生きている頃はともかく、親父が死んで、ああちゃんとも親子ほど年の違うお袋にいろいろな男が出来ると、それまで黙っていたああちゃんとの確執が表面化する。
 俺の手前、表だって喧嘩じみた醜い場面は見せないものの、両者の間にはそれこそぴりぴりと、目には見えないが張りつめたものが感じられ、ご馳走を前にした1年最後の夜でも、なにかしら暗さが漂うのは否めなかった。
 とはいえ、不自由に生まれついた不憫な俺をと思うああちゃんの愛情は実のお袋以上とも思えるほど深く、俺も3年半のはまぐみ時代から養護学校の最初の頃まで、それこそああちゃんに会える楽しみで指折り数えて帰省の日を待ちわび、冬の船酔い地獄も乗り切って来られたのだった。
 しかし、お袋とああちゃんの関係によって家族の空気は淀み始め、二人兄弟の兄貴が就職で新潟に行ってしまい、その兄貴さえめったに帰って来なくなってはますます冷え切ってしまう。いつしか、俺と佐渡の家との距離も遠くなった。
 新年を迎え、短い休みはたちまち過ぎ、『逃亡者』を見るとすぐ、また養護学校に帰る時が迫った。
 別れの朝は、「行くな」「もっといろ」と、またもああちゃんとの愁嘆場となり俺も辛かった。しかし、本望さんと同じ屋根の下で暮らせるというささやかな幸せに、新潟に向かう心は華やいでさえいた。
 ただ、また越えなければならない船酔い地獄だけが、悩みの種だった。

片腕の男死す
 しかし本望さんに対する思いは決して実らず、中学3年になり、春が過ぎ、夏になった。
 その年9月、『逃亡者』は最終回を迎える。このときは地元BSNも放映していた。
 「6月にTBSはキンブルの運命についての推理を募集。3日で1300通もの投書が殺到。完結編は前後2回で31・8パーセントの高視聴率。日本語版セリフ入れも放送前夜リハーサルなし本番で台本も終了と共に回収、徹底した結末秘密主義」(毎日新聞社刊・昭和史全記録)だったという。
 クラシック音楽を聴くことのない俺でも、ベートーベンの『田園』だけは耳に強くなじんでいる。それは、養護学校の授業が終わり、通学生がスクールバスで帰るまでの間中、毎日スピーカーを通して流れていたからだった。
 その日は別の意味からも『田園』のレコードは俺の気持ちを引き締めた。
「時間がないんだから、早く早く」
 そう言ってせかせたが、社長はあだ名の通り胸を張って大柄な体を揺すり、のっしのっしとカバみたいなのろさでしか歩けない。手には大荷物を重そうに抱えている。
「早く早く、早く聴かせろっ」
 俺は待ちきれずに手を出す。
「さわるなってばさー。自分でやるから」
「ケチ臭いこと言うな。減る訳じゃないだろ」
 そう言ったものの、社長こと同級の西山昇にとっては命の次に、いや、ひょっとしたら命以上に大事なものかも知れなかった。
 小型のトランクほどの大きさと厚みだが、れっきとした高級家電で、ふたを開けるとオープンリールテープを仕込んだテープレコーダーが現われた。SONY製TC─350。重さ8キロもあるというが、値段を聞いたら目玉が飛び出る。当時定価で4万6900円というから、高給取りの月給ひと月分はたいたって買えない値段だ。
「凄いよなー、こんなの持ってるなんて」
「なんたって西山旅館の御曹司だからなー」
 おだてたりすかしたりしたが、
「本間君がどうしてもって言うから仕方ないこってやー。落として壊しでもしたら、誰が弁償してくれるんだろねー」
 西山の繰り言に、俺は青くなってしまった。
「さあ、始めるよ。時間ないからね、クライマックスのいいところだけだよー」
 そう言ってプレイボタンを押した。
 ガーガーという雑音に混じって、いきなり銃声が聞こえた。
「なんだ?」
「ジェラードが片腕の男に撃たれたんだ」
 西山が説明する。
「ジェラードは死んだのか?」
「いや、傷を負っただけだ」
 今度はそのジェラードの声がテープを通して聞こえた。声優は加藤精三。
「奴を追え!」
 セリフの後、西山を見る。
「ジェラードに変わってキンブルが片腕の男を追うんだ」
 納得して続きに耳を傾けるが、不安な音楽が続くだけでセリフも擬音もない。
「なんなんだ?」
「追ってるんだ」
「そうか」
 後の展開を待つばかりだ。
 やがて音楽は最高潮に高まる様相を見せ、キンブルと片腕の男の争う様子は音だけ通してもわかる。
「鉄塔の上に追いつめたんだ」
「そうか。鉄塔か」
 そこまでは判らなかった。
「クライマックスの最高の見せ場だな」
 実際見られず残念だ。東京のTBSと同じに、なぜ8時台に放映しなかったんだろう。10時では施設の消灯時間の後、こんな形で西山に頼むしかないじゃないかと、ただただ地元局BSNの対応が恨めしかった。
 そして、銃声一発──。
「!?」
「拳銃を奪った片腕の男に撃たれそうになったキンブルを、ジェラードが鉄塔の下からライフルで撃って助けたんだ」
 真犯人、片腕の男の最期である。
 少し経ってキンブルのセリフが聞こえた。声優は睦五郎。
「奴は妻殺しを認めました。今さらどうにもなりませんがね」
 俺はハッとした。
「唯一の生き証人が死んじゃったじゃない」
「大丈夫。もう一人重要な証人がいたんだ」
「なあんだ」
 こうしてキンブルの長い旅路が終わる。
 毎回どこかの空の下でフリーアルバイターとして働き、なぜか事件に巻き込まれる。逃亡死刑囚にとって警察沙汰になるのは命取りにも等しいのに、孤独で不幸な人や、病気やケガで苦しんでいる人がいたら放ってはおけない。宮沢賢治の詩に出てくるようないい人だ。助けた中にはジェラードやジェラードの息子まで含まれている。
 それにしてもキンブルはもてる。毎回必ずのように女心を射止めているから、晴れて世に出た後は、関わった女から言い寄られてそれこそ別の逃亡が始まるのではないか。なにせ120回は続いたのだ。途中女っ気のない回があったとしても、それは大変な数である。
 ジェラードが犯人か、との憶測も一部にはあったが、予想通り片腕の男が犯人だったという結末には誰もが拍子抜けした。
 ともあれ『逃亡者』は完結した。
 ラストのナレーションはこうだった。

  9月2日、土曜日──。
  この日、逃亡の旅は終わった。

親父の日
 和文タイプにカバーをかけ、その日の仕事を終えた。壁掛け時計は11時を回っている。
 働き者で遅くまで仕事しているわけではない。夜更かしの朝寝坊は営業も午後からと決めている。それであちこちから文句が来るわけではないので、要は受けた仕事さえ責任持って仕上げれば誰に迷惑をかけるわけではないということだ。元来あくせくしないのだ。
 玄関に停めてある外出用車いすに乗り替え、外へとこぎ出す。6年前に始めたタイプ製版業で仕事場として別間を借り受け、居間と合わせて四畳半2間、台東区に来たばかりの頃の三畳1間とは破格の出世だが、日の当たらない1階であることはこの頃も変わらない。
 「地獄の水撒き車」に出逢うのを恐れ、アーケードの続く合羽橋商店街を避けることにした。商店街に平行した路地を取ることにし、下宿を出た通りの角にある床屋の前から大通りを横切った。この時間車が通ることはめったにない。
 路地の入口の花屋も遅くまで開けているが、その時間ではさすがに閉まっていた。
 花屋を過ぎてすぐの所には、よく行く定食屋の武蔵屋で顔を合わし、最近では2人の指定席になった場所で晩酌の客と晩飯の客の相席で世間話の花を咲かす仲になった浅野老人の家があり、さらに先には自家製キンピラの材料にする切り野菜の買い出しなどに利用する八百屋があるのだ。
 そんなことを考えながら車いすを進めていると、路地に尻を向けている乗用車が1台目についた。エンジンはかかったままで、のろのろと駐車場所の間合いを取っているかのように落ち着かない。じっと見ていると、やがて動かなくなった。どうやら落ち着く先に落ち着いたものと察し、停車した乗用車の後ろをゆっくりと横切ろうとしたときだ。
 イヤな予感というものはあるものだ。それがふっとよぎった時、横を向いて見た目の中に乗用車のトランク部分が恐怖と一緒に迫ってきて、次の瞬間には気を失っていた。
 気がついたときは車いすから道路に投げ出され、尻を見せて停車した車と俺の間に、車いすが転がっていた。
 ドアを開けて出てきた運転手は相当に若かった。だが、さすがに狼狽し、アスファルトに潰れたようになっている俺を見下ろしながら、なすすべもない様子だった。
 俺は身を起こそうともがいたが、すぐには動きが取れなかった。頭をやられてマヒが走ったというのではない。呆然として前後不覚となっていたのだ。そのときになって全身がオコリにかかったようにがたがた震えているのにも気がついた。
 誰かが110番通報したらしく、それからほどなくしてパトカーが到着した。
 チョークで道路にしるしをつけたり、メジャーを広げて測ったりと、一応交通事故として簡単な現場検証が行われた後、パトカーに乗せられて蔵前警察署に加害者といっしょに運ばれた。
 ドライバーは19歳、嶋村直也君という若者だった。
「駐車した車を出そうとしていたらしいですね」
 先に運転手の言い分を聴いてきた事故係の警官が、まず説明した。俺はアッと思った。駐車しようと思ったのは実はあべこべであった。だから車は最初妙な動きをしていたのだ。今にして合点がいった。
「で、ぶつかったときのことを詳しくお聞きしたいんですが……」
 警官は事情聴取を始めた。
「ま、後方不注意ということで、こういう場合はドライバー側にほぼ全面的な責任があるわけでして……」
「待ってください」
 俺は警官の言葉をさえぎった。
「考えてみれば変な動きをしていたんです。それに気付いて横切るべきではなかった。ドライバーの責任が大きいにしても、僕の方にも4分の非があるといえますね」
 警官はぽかんと口を開けたまま黙ってしまった。
 油断があったことは事実なのだ。車が危ない動きをしているかどうかは、歩行者とても観察を怠ってはいけない。油断大敵は武蔵の戦陣訓にもある。
 それに、障害者をはねたことで生じる若者の心の傷にも思いを致した。
 第一、あのままぶつかったのに気づかず、転倒した車いすを踏みつぶし、そのまま俺の上に乗りかかったとしたら……。それを思えば事故に気づいて車を停め、降りて来てくれた運転手に感謝さえしたい気持ちだった。
「いやー、あなたは大した人物だ」
 俺の思いを知ってか知らずか、警官はただただ感心した。
 その頃になって、打ち身の膝がじくじくと痛みだした。早く帰って湿布でもしたいところを、事情聴取を書き込む警官の筆は遅々として進まず、俺を苛つかせるばかりだった。
「……で、変だと思いながらも渡ったところを、バックして来た車が……」
 小1時間ほどもかけてようやく調書が仕上がった。
 ちゃんと書いてるのかなあ、これだけの文章書くのに、なぜこんな時間かかるのだろうと、失礼なことを心でぶつくさつぶやきながら、悪いと思いつつ書き上がった調書をちらちらと盗み見ているとき、またもアッと驚いた。
「どうしました? 何か違ってますか?」
「その日付け!」
「え? 今日は9月12日ですよ。もう夜中の12時超してるから、これで間違いないですよ」
 俺は運命めいたものを感じて絶句したのだ。なんとなれば、事故の起きた9月11日はあの深酒が祟って倒れ、両津病院のベッドで骨と皮のようになって死んだ実父の命日だったからだ。

入院体験
 翌朝一番に、近所の松が谷福祉会館に電話した。
 職員の森さんは飲み友だちでもあり、会社が倒産して仕事にあぶれ、3年間も窮乏生活を続けていた頃は、タバコや酒をたかって大いに助けられた。
 交通事故と聞いて飛んできた。
「なんだ、大したことないじゃないか」
 とにかくその足で事故のあった先の同じ路地づたいにある町医者、海老名外科医院で精密検査を受けたが、打撲によるねん挫。ガイコツのような足で見るからにすぐ折れそうだが、ふだんから好きな魚を多く食してカルシウムが豊富だったのか、骨折にまでは至らなかった。
「だけど車いすに乗れなくなっちゃったよ。ローテーションでボランティア頼めないかなー」
 そこは専門と泣きついたのだが、地域の障害者を援助する活動で手一杯、ボランティアといってもおいそれと見つかるわけもない。
「相手は保険に入ってるんだろう。出来るだけのことはすると言ってるなら、このままここに入院しちゃえよ。うん、それがいい」
 簡単に決めつけた。
 幸い仕事も一段落ついたことだし、ビデオマニアとしてなら、1年前では欠かさず観ていた『逃亡者』のチェックが気になるところだったが、2か月前の7月2日に最終回を迎えており、他に録画の予定はなかった。
 ここは素直に森さんの言いつけに従った。
 生まれて初めての病院入院暮らしが始まったが、個室のうえに付添婦まで付けたリッチな毎日であった。
 第一に見舞いの客が引きも切らず訪れた。
 それは多分に、俺が病院から電話かけまくったことにもよる。
 最初は、仕事先に迷惑かけないようにとの業務連絡のつもりだった。
「なーに、大したことないんですよ。1週間もすれば退院できると思いますから、今後ともよろしくお願いします」
 一通り仕事先にかけた後で、友だち関係を思い出した。
「いやあー、交通事故に遭っちゃってねぇー。今、病院に入院してるんだよー」
 交通事故と聞けばまず大事(おおごと)だ。
 お袋も兄貴の車で飛んで来た。
 仕事のお得意さんもやって来た。
 雑誌編集者の友だちは一歩病室に入るや、
「バスにひかれたんだって? それでよく死ななかったなー」
 何を勘違いしたか、まじまじと見て言った。
 加害者である直也君のお母さんは、1日も欠かさず訪れ、そのたびに病院食ではと、寿司だの焼き鳥だのを買って来て俺を喜ばせた。
「自分にも4分の非があるなんて、普通の被害者の口からは出ませんよ。息子共々、いい相手で良かったと感謝してるんですよ」
 いろんな面会者と顔を合わせるたび、その話をする。お陰で俺の株がぐんと上がった。
 しかし、面会者が口にした一言で、後で俺がひどい目に遭うということもあった。
 ふだん懇意にしている電気屋の店長が、付添婦と顔を合わせるや、「お母さんですか」と言ってしまった。
 その彼が帰ってからが大変だった。
「そんなに年寄りに見えるっての? 失礼しちゃうわよ。なんなの? あの人!」
 あまりの剣幕に気圧され、たじろぐばかりだった。
「あんただってそうよ。なによ、でれでれ笑ってるだけで。ちゃんとフォローしなさいよ、あんなときは……」
 その日は一日中不機嫌だった。
 昔の彼女も見舞いに来た。
 事故の日を思い出し、そのことを言った。
「実は親父の命日だったんだよな」
「まあ……」
「俺、思ったね。親父が迎えに来たのかと」
 そばで聞いていた嶋村のお母さんが、すかさず異論をはさんだ。
「あら、それは違うわよ。お父さん、まだ早いって、向こうの世界から押し返したのよ。だからこうして元気に生きてるじゃない」
 そうかと、しみじみ納得した。そしてあったかい心持ちにもなっていた。
「そうだわよ。お父さん、今でも本間さんのこと、空から見守っているのよ」
 昔の彼女もそう続けて大きくうなずいた。

見舞いマニア
 東京12チャンネルが120話全部の『逃亡者』再放送を完結したこの1986年ほど、俺にとっていろいろなことのあった年はない。
 生まれて初めて電動車いすに乗り、思わぬ遠出を経験したのがこの年の春、右手にしびれが走ったり異常な下痢続きに悩み、16の年から続けた酒を生まれて初めて2週間断ち、健康一新したのが初夏、森さんたちとのボランティア旅行を前に、衝動的気まぐれから生まれて初めてパーマをかけたのが夏、障害者運動絡みのひょんな縁から学生相手の講演を頼まれ、生まれて初めて400人もの女子高校生相手に長々とぶったのが初冬と、生まれて初めて経験すること続きの年でもあった。
 しかしなんといっても、この年の生まれて初めての経験の最たるものは9月に経験した交通事故と入院経験だと、そのときまではそう思い込んでいた。
 あの入院経験のおりの見舞い客の訪問ほど嬉しいものはなかった。こんなに嬉しいものなら、次には自分が見舞いする側になってやろうと、折あらばと機会を狙うようになった。
「婦美さんが下谷病院に入院しているよ」
 森さんからそう聞いたので、その年も残り少ない11月の終わり頃、一緒に病院を訪ねた。
 斉藤婦美さんは地元台東区のボランティア運動では先駆者的存在で、松が谷福祉会館に集まる学生連中からも何かと慕われ、プライベートな相談にも親身になって応じていた。
 ガンの末期と聞いていた。しかし死を前にしながら、訪れる人の前では微塵の暗さも感じさせず、元気な頃のままの彼女で通し切った。
「病院から焼鳥屋にも出かけてるんだ。俺なんかもよく付き合って飲んでるよ」
 帰り道に森さんが言った。
「え、そんなことも許されてるの?」
「そんなの公認だよ」
 そういえば酒も差し入れさせてると言っていた。当然自分の運命も受け入れているのだろう。
〈なにかできることはないか〉
 花束の見舞いではらちもない。他に慰める手だてはないかと思案した。
 自分の入院経験を振り返った。大勢の見舞客が嬉しかったことはもちろんだが、病院にビデオを持ち込んで観ていたのは俺くらいだろう。
 当時SONYが出していたビデオ機に、ブックサイズを売り物に、その名も「B5」というビデオディスクがあった。600本に及ぶビデオライブラリーの数と共に俺の自慢の一つだったが、そのコンパクトさから付添婦さんに頼んで易々と病室に持ち込み、テレビとケーブルでつないで夜遅くまで映画を楽しんだ。
 それをそっくり婦美さんに預けようと考えたのだ。
「婦美さん、喜んでくれてるよ」
 森さんの報告を受けて嬉しくなった。他人の役に立つということは、なんという幸せだろうか。
 『七人の侍』などの黒澤作品、『街の灯』などのチャップリン喜劇、持参したリクエストメモに答え、それらのビデオを惜しげもなく次々に森さんの手を介して調達した。
 そして、その日の昼間も森さんが来た。
「『七人の侍』良かったって、婦美さんずいぶん喜んでた」
 そう言ってまた次のリクエストメモを差し出す。
「え? 前のは返してくれないの?」
「他の看護婦さんにも見せたいからって、もう少し貸しといてくれって言うんだよ」
「うーん、しょうがないなあ」
 大事なビデオを他人に預けっぱなしにしておくというのは、どうにも気にかかる。
「大丈夫だよ。他にどこへ行くわけじゃなし、なくなるわけじゃないだろう?」
 それはそうだ。そんなことでぐずぐずボヤいたら、本物の善意にはならない。ただ、婦美さんのリクエストは、どういう訳か俺にとってのベストリストなのだ。
 こうして、そのベストリストの上位から何本かが、また他人の手に渡って行った。
 その夜のことである。隣室の失火で下宿が火事になり、身近にある家財一切合切がすべて消火の際の放水で水びたしになり、ほとんど身ぐるみ一つで焼け出されたのは──。

週1の楽しみ
 タイプ製版の愛康舎も、5年前からマック版下工房・愛康舎と、名前も業態も一新された。
 その1999年12月──。
 愛康舎は週休2日体制だから、当然土曜は特別な仕事がない限り休み。映画鑑賞に、月の1回しか土曜は開いていない国会図書館への資料探しに、あるいは秋葉原へビデオディスクやパソコン用品の買い出しへと、土曜は何かと遠出することが多い。
 その帰り、必ず立ち寄る場所がある。
 上野松坂屋・7階ファミリーレストランのサーロイン・ステーキは、俺にとって週1度のぜいたくであり、ご馳走だった。
 行くのは土曜、つまり秋葉原や銀座に出かけた帰りの食事にこれを当てている。
 朝食抜きは70年代用賀技能開発学院時代から続けてきた習慣だが、いくら胃袋も体も小さな省エネ体型といっても、遅い昼食時にはすっかり腹も空いている。週1度の大好物を前に、期待もいやが上にも高まる。
 だから国会図書館の資料集めがはかばかしくなくても、その日観た映画が期待倒れであっても、はたまた秋葉原のTゾーンのエレベーターの前に荷物が山積みになっていて、店員にどけてくれと言って厭な顔をされて気分を害しても、とにかく松坂屋のサーロイン・ステーキがすべてを挽回してくれる。
 それにしても、Tゾーンで出くわすエレベーター前の荷物には頭に来る。それで苦情を言えば、まるでこちらをとがめるような雰囲気で返ってくる。開いた口が塞がらない。
 ところで、肉なら秋葉原のそばに、それこそ肉の万世という専門店があるのだが、この方は俺の口に合わない。断っておくが、断じて懐勘定が合わないのではない。それが証拠に、新宿・伊勢丹のレストランに入ってサーロインを注文したときも、はるかに高いこちらは丸々残したくらいだから。
 とにかく松坂屋7階ファミリーレストランのサーロイン・ステーキに限るのだ。
 税込み1260円。値段から推して知るべし。どうせ輸入物のオージービーフかなにかで、国産和牛とは比べるべくもない。しかし、俺の口には実によく合う。ま、松坂屋の牛(ぎゅう)で「松坂牛」ともいえるのだが。
 ところが、この待望のベスト・メニューでがっかりしたことがある。
 今年の初めも初め、正月三が日が終わったばかりの最初の土曜、例によって食券売り場で注文したところ、特別メニューのためサーロインはしばらく外したとのこと。
「えーっ!?」
 それこそあたりに響くように素っ頓狂な声で驚いたものだから、応対の店員もたじろいでしまった。
「代わりの注文を……」と、恐る恐る切り出したものの、ショックで立ち直れないのはむしろ俺の方だ。
「これは新年早々重大ニュースものだよ」
 青くなってそう言ったら、それがよほどおかしかったのだろう。いつもはすましているだけのナイスバディーのおネエちゃんから、実に可愛いい笑いがこぼれた。
 特別メニューは一時のみ、今はまた俺の胃を満たしてくれてるが、時々時間を気にして落ち着かないことがある。
 CSの洋画チャンネル、パワームービーが6月からあの『逃亡者』を放映してくれているからだ。12チャンネルでは放送時間の制約からカットされたが、今度はノーカット。
 毎週1回2話ずつ、本放送は火曜だが、リピート放送は1回のみで土曜5時から。忘れない限り土曜の用はないはずだが、CSはBSと比べて電波が弱く、ともすれば天気の加減で録画したものの映像が乱れていたり映ってなかったりする。その際はたった1度のリピート放送が最後の録画チャンスとなる。それに間に合わせて帰らなければならないときがあるからだ。
 12チャンネルのときには吟撰したが、今度は120話全部録画するつもりでいる。
 『逃亡者』を通して生きた2つの時代、そこには今は亡き人たちも、温かい思い出とともに鮮烈な印象をともなって生きていた。その人たちを振り返るとき、この世に生まれたことの幸せを噛みしめ、命の尊さを思い知る。
 週1度のささやかな贅沢で胃を満足させたら、さあ、帰ってまた思い出の世界の扉を開こうではないか。
 俺も気取って、『逃亡者』のあのナレーション風に、この章の最後を飾ってみようか。

 木枯らしを背に受け電動車いすを進める。
 この街に生きて、いかに多くの人生を見てきたであろうか。いかに多くのやさしい面影を見送ってきたであろうか。
 幾百、幾千悲しみの河を渡ろうと、人はなお生きていかなければならない。
 冬木立ちが最後の一葉を落としてもなお、北風に向かって屹然(きつぜん)とそびえ立つように、われもまた、命の一歩を踏みしめる。
 現在も、今夜も、そして明日も、人の世の、末永く続く未来を信じて──。



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