読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ボンダイ

若者論から国際論まで幅広くテーマに。不寛容より多様性に富んだ世の中の方がいいじゃん!

ゆとり世代は本当は「サブカル」が嫌いなんじゃないだろうか

サブカルCMと「若者差別」

matome.naver.jp

 ブレンディの炎上の件は「サブカルCM」の凋落を印象付けた。

 

 サブカルCMはいまは主流的な表現だ。カップヌードル・シリーズもそうだし、auの桃太郎もそう。しかし、どちらのシリーズも若者ウケは悪い。

 とくにカップヌードルの「就職氷河期」CMは、まさに就職難に悩んでいる高校生・大学生なんかは酷評しまくりだ。

www.youtube.com

 私は今回のブレンディを見て、この「カップヌードル的感覚」を感じた。

 つまり若い世代にとって切実な問題である就職難を「ネタ」として消費してしまう猟奇性への生理的嫌悪感である。それは現代の「ミンストレル・ショー」そのものではないか。昔の時代のように誰でも一生安泰の企業に勤められるわけではない。ブラック企業に殺されるかもしれない。そんな社会人になることさえそもそも困難な若者世代と、中年(おそらくこの手のCMの作り手や訴求対象は20代ではないはず)との間に置かれた構造的な格差は明白だが、その格差をあえて分かった上での高みからの悪趣味は文化ではない。

 それは広告という美名を借りた暴力だ。

 

 確か2012年のことだったが、ある就職情報サイトの広告ポスターも、ずらりと若者の顔写真を並べた表現方式がまるでホロコースト記念館の遺影のようだとして炎上したことがある。翌年版の広告は「行方不明児童の顔写真一覧」のようなものだった。没個性の象徴ともいえる就活生の統制された不気味な感じを、さらに悪ふざけで誇張したようなグロテスクさがあったのだ。

 

改めて、考えるサブカル感覚と団塊ジュニア

 団塊ジュニア的なサブカル広告文化の氾濫を意識したのは今回の炎上が初めてではない。数か月前の「佐野研二郎氏騒動」だが一番大きいだろう。佐野氏も42歳。まさにファミコン世代だ。

 

 佐野氏のクリクリエイティブは「にゃんまげ」に始まり、サブカル式のものばかりだった。「和風の渋いテーマパークにあえてゆるキャラをぶつけた」にゃんまげだってそうだし、常識をハスに構えた発想の産物ばかりで、パロディ要素も豊富だった。そういうひねくれをこじらせすぎた結果があの騒動だったと思う。もちろん盗作疑惑を掘り出すネットユーザの側にも行き過ぎた面があり、「オマージュとパクリの区別がついていない事例」もあったが、違いが判らなくなるほどたくさんのそうした創作物が世にあふれているというのは事実だろう。

 騒動では、佐野氏だけでなく、佐野氏関連するギョーカイ人とか、古巣の博報堂や競合の電通、さらには佐野氏を擁護したクリエイターや有名人たちにも非難がぶつけられた。それは日本の今の広告業界に対する国民の不満の発露でもあったと思う。

 

 あの当時、私はふと気になったことがあった。

 それは佐野氏を「庇う人」がみんな、「佐野世代」ばかりであったことだ。そしてその面々の一部は、そのまま、SEALDsを冷笑する側とも重なった。ホリエモンもそうだった。

 

 日本社会の中に、団塊ジュニアと言う世代に一つの「壁」ができているのだと思った。

 これがある種のネックになっていて、そしてとげとげしい存在になっている。彼らは「まっすぐ」であることを拒むのだ。それでいて、ひねくれた人間のようにぶっ飛んだものがあるかというと、ない。忌野清志郎のような、個性と批評性が優れているということもない。むしろ全体主義である。全体主義であるのにまっすぐではない。サブカルチャーとしての周縁からの批評ではなく、自分は中心なのだという傲慢さと独善意識がある。そして「うち」を全力擁護したがるし、気に食わない周縁、不都合な存在は容赦なく否定し、矛をぶつけてくる。そういう連中なんじゃないか。

 

 その団塊ジュニアの問題がなぜ今までほとんど無視されていたかと言うと、それは彼らがまだ若かったからだ。しかし、いまは年長者は40代前半でさすがに偉くなっている。下はまだ30代だが人口は多い。まだまだひよっこで少子化で人口も少ない20代や10代より遥かな存在感がある。

 

 サブカルCMのオワコン感は「シリーズもの」の必死さに感じられる

  サブカルCMがここまで蔓延した火付け役だと私が考えているものがある。

 それは「宇宙人ジョーンズ」だ。

 缶コーヒーと言う粗末な商品の広告に、あえてトミー・リー・ジョーンズと言う大物ハリウッドスターを起用した。彼は「メン・イン・ブラック」で宇宙人を演じていたからと、そのパロディで始めたものだ。

 このCMのサブカル・ツボは3つあった。

 

・日本のCMなのにハリウッドスターが出ていること

・ジョーンズが演じる場所がことごとく「日本のありふれた日常風景」だということ

・映画では絶対に見せない滑稽な芝居をやらせて哂えること

 

 さすがにこれを外国人差別とまではいわないが、やっていることは「ハリウッド映画」というエンターテインメントの頂点みたいなものの品位とか憧れをぶち壊したいという悪趣味ではないか。

 第一作のあった2006年は、その意外性に日本人がドン引きした。しかし、10年近くやっているのだ。もうさすがにマンネリすぎる。今、日本人が個のCMを見ても何も驚きもないし、飽きさえある。それでもやめられないのは、団塊ジュニア的サブカルユーモアは「マンネリこそ好む」からではないからだろうか。つまり「自分好みの冷笑主義が世の中を支配していること」が最大の喜びなのだ。

 

 2007年の「白戸家」もサブカルだったものだ。

 予想GUY(ダンテ・カーヴァー)と言う黒人青年が日本語で「予想GUYです」と喋る様子が哂えた。ホワイト犬がユニークだった。どちらも最初は別のCMコンセプトだったが、それらをまとめて家族プラン用のCMにしたのが「白戸家」だ。

 白戸家は、新キャラや「新事実」を次々増やした。そして今に至っているが、当初のようなユニークさはやはり、ない。日本人の日常風景に溶け込みすぎてしまったからだ。家族としてまとめることをせず、「予想GUY」や「ホワイト犬」に代わるユニークなコンセプトを次々作り続けていた方がまだ生産性があったと思う。

 

 極め付けが日本を代表する企業「トヨタ自動車」だった。

 まず最初に始まったのは「リボーン」と言うシリーズだった。ビートたけし演じる「秀吉実写版」が登場したのだ。これはレキジョブームに基づいたものだろう。織田信長を現代によみがえらせる月9ドラマとか、戦国鍋TVみたいな、戦国時代の武将を現代的様式に実写化させるサブカル性の氾濫した流れに沿ったものだろう。

 次に「実写版大人になったドラえもん」もはじまった。この少し前に「実写版大人になったサザエさん」がシニカルな芝居(ぶっちゃけ、かなりサムい)をグリコのアーモンドチョコがやっていた。かつ宇宙人ジョーンズ的な感じに「ジャン・レノドラえもんをやらせている」ものだ。しかもキャストはAKBの前田敦子とかで、とにかく今の日本のサブカル要素を詰め込みまくったものだ。

 で、この秀吉やドラえもんなどはバラバラのCMだったが、白戸家形式でコンセプトを同じ屋根の下にまとめたのが「TOYOTOWN」だった。

 2010年代の広告業界の良くも悪くも極みが完成したのだった。トヨタといえば、ファミコン世代が大好きなスクエニJRPGのテーマソングを流す「アクア」のCMもひどかった。

 

 しかし、これだけでは終わらない。

 auの「実写桃太郎」だ。これがはじまったのは2015年、つまり今年なのだが、それ以前にも桃太郎や浦島太郎を用いたCMは、ペプシコとか保険会社にもあった。つまり完全に目新しさはないし、どういうストーリー展開かも発表した時点で明白だった。で、いざ流れたものは、実写版ドラえもんや実写版サザエさんをそのままなぞるような「シニカルな現代芝居」である。始まる前から若い世代には不評だったが、これは「シリーズ化ありき」で進められてしまった。

 

 宇宙人ジョーンズや白戸家はあくまで第一回のモノが面白かったので、ウケて、シリーズ化したのである。しかもそれがもう何年もマンネリで飽きてきた今になって、トヨタは大企業だけあって大量のカネで大物タレントをかき集めて放送枠を買ってCMを流しまくり、「あの前田敦子が出てる!」とか「あのジャン・レノドラえもんだなんて!」と大物タレントを哂い者にしながらその権威に依存して力づくで消費者を屈服させるやり口でCMを受け入れさせ、白戸家方式のシリーズ化を起こしたのだ。これだけでも印象が悪いのに、auがあんなふうに乗っかってきて、消費者といては流れる前からつまらないことが分かっているのに広告側は過去のこれらの流れを応用したシリーズ化ありきで、実際、高感度ナンバーワンだとか、桃太郎の歌う三味線の曲が人気だとか、そういう話題を煽りまくりで、こういう感覚は到底消費者に受け入れられるものではないと思う。

 

 この一連の流れに私は「今年はサブカルCMが消費者から嫌われて滅んでいく最初の年になるんじゃないか」とみていた中で、あのブレンディ騒動があったのだ。私の予想は、もはや確信へと変わっている。

 

ゆとりはサブカル世代ではない

  繰り返しになるが、「サブカル」の源流ができたのは1980年代だ。

 それが1990年代になって、当時の若者の言ってい部類の間でスタンダード化し、2000年あたりにネットの普及に伴いさらに蔓延し、彼らの加齢によって2000年代後半ごろから表にドンドン出るようになった。

 

 2つの群がある。

 1つは佐野研二郎氏と同年代だ。40代でファミコン育ち。親が60年代安保世代。2chが立ち上がったばかりで伸び盛りだった時に飛びついた世代だ。

 もう1群が現在30代くらいだろう。スーファミ育ち。親が70年代安保世代。2chが世に知れ渡った「電車男ブーム」のあった2005年くらいに、まさにそれをリアルタイムで謳歌していた部類である。

 どちらも、昭和に生まれ、戦後型の「より出世して、いつかはクラウンに」みたいな人生モデルに乗っけられて、受験競争などを経て育った。しかしバブル崩壊を経験し、高度な消費文化を体験し損ねた。さらには「渋谷の若者」になれなかった部類が逃げ場にしたのがサブカルチャーだったため、数の力でそれが大きな「サブカル」へと発展していった。

 

 ではゆとり世代はどうだろうか。

 平成一ケタ生まれ(1989年~1997年)の場合、スーファミもないし、親はバブル世代(60代前半から40代後半、つまり安倍晋三から橋下徹当たりの世代)である。インターネットは小学生の頃からあり、危険領域には不気味な印象しかなく、それをほどよく避けつつ、調べごとや趣味や友だちとの情報交換などで活用していた。

 

 そもそもこの世代にはサブカルは珍しいものではない。

 平成のハシリに生まれた私の場合、「ウゴウゴルーガ」を記憶している。あれは完全にバブルのフジの深夜番組のノリだった。そのバブル世代が子育てするお母さんになって喜んでみていたのだと思う。しかし、それを幼少のうちに見られたことは「BCGの予防接種」みたいなものであった。これによりサブカルは不思議なもの、不自然なもの、それを享受することが何の特別性をもたらさないことなどを既に気付けたのだ。抵抗意識ももちろんない。

 

 原体験はポケモンである。ポケモンは、ファミコンドラクエと違って、小型ゲーム機でプレイするものだった。テレビの大画面ではなくちゃっちかったが、でも、ドラクエよりもはるかに世界的な影響力があった。ニューヨークタイムズスクウエアにポケセンができて、巨大ピカチュウがパレードする写真をコロコロで見たりしていた。

 あくまでも昭和のテレビで「国民的番組・ドリフ」とかを見ていた団塊ジュニアと比べると、最初からインターネットがあり、WWWに繋がっている世代であるため、グローバル的な考えを持つ傾向があると思う。遊戯王よりもギャザだったり、サッカー好きだったら「キャプテン翼」は見たことなく、海外クラブで戦う日本代表のプレイヤーに憧れるのがきっかけで、欧州サッカーファンなんかも多い。

 

 そして、オタク文化は「大衆文化の1ジャンル」と言うイメージだ。つまりオタク文化を世間が知らない、偏見を抱いている、ということはない。平成初期生まれであっても、そういうカルチャーに目覚める青年期がちょうど電車男ブームでニコニコ動画が誕生した頃である。AKBもその頃に結成している。オタク文化を「サブカル」として特別視して自画自賛する風潮も解せない。

 幕張の、ニコニコ超会議の会場に行くと気付くが、客層に占める年齢層は案外高い。30代が多い。彼らはいかにも「サブカル」という感じだ。しかし、10代20代は、その辺の大学生がそのまんまである。アースミュージックとかでおしゃれしているような女性も多いし、いわゆる「マイルドヤンキー」にも近いような人もいる。つまり普通の若者なのである。そこには特別意識は何もないし、つまるところ、もはやメインカルチャーの一翼なのである。

 

 そういう若者からすると、いまの「サブカル」がメインを牛耳る構造は違和感でしかないのだ。

 メインはあくまでもメインディッシュであるべきだと考えている。今のサブカルテレビCMなんか見ていると「レッドロブスターにいったらプレートの上にあつあつのかっぱえびせんがばら撒かれて出てきたような不気味な感じ」がある。そうじゃねえだろ。というものだ。かっぱえびせんは確かにスナック菓子として食うには悪くないが、でもそれは食事には不適格で、付け合わせであっても論外だ。それが堂々と出しゃばるんじゃないという意識がある。

 

 我々ゆとり世代が一番大事にする哲学がある。それが「空気」だ。KYと言う言葉が出てきたのは、平成生まれが最初に中学生か高校生になった頃のことだ。クラスメイトのつながりでも、LINEつながりでも、空気が壊れたらアウトなのだ。空気の尊重の上に、個人があるという発想だ。

 

 いまの「サブカル」が跋扈するマスメディア環境は、KYすぎるのだ。

 サブカル団塊ジュニアが、戦後昭和の膨大な歳月培った大衆文化の豊かさ、誠実さ、華やかさをぶち壊している感じが、私たちにはすごく伝わっている。うまく言語化しきれていないのと「空気を読んで」問題提起していないから誰も話題にしないだけである。だから私はぞんぶんにこのことに注目したい。弱い立場を圧迫する冷笑主義は、ネット原住民の魔女狩りを平気でやる感じ、封建的な政治の感じと重なる。

 もちろん「戦後の繁栄」を是とし、信じて、あえて作られるパンクやHIPHOPなどのストリートの文化を謳歌した「サブカルではない団塊ジュニア」の存在も分かる。そして、それについてはゆとり世代は好意的だ。なぜなら、それは小学生の頃の私たちが「模範とした若者像」であったからだ。私が子どもの頃の小学館の小学●年生の表紙には、ロンゲのキムタクがいたり、渋谷の文化情報がたくさん掲載されていた。 

 

 したがって今のサブカル中年は、彼らが気付かないうちに物凄く若い世代からヒンシュクを買っていることに気づいた方がいいと思う。マスメディアが「正統派」な表現を怠って堕落したことを考えれば、NHKやフジテレビのSEALDs蔑ろの報道方針も致し方ないものだという認識もある。この若者の静かな怒りがピークに達したのがSEALDsだと思う。サブカル中年がSEALDsを嘲笑すればするほど、世代間の分断はさらに広がることになる。

 でもその種を蒔いたのはあなたたちだ。