
ただただ思うままに自分の人生について書きました。他人の人生に関心を持てる好奇心の強い方は是非読んで頂ければと思います。
就活する気持ち全然湧かない方も何かの参考になるかもしれません。たぶん。。
就活拒否どころか履歴書の一枚も書かなかった学生生活
ブログ内で何度か言っていますが、僕は元々理学療法士の専門学校に通っていました。
試験に受かった友達は99%の確率で理学療法士として働いています。
僕だけが試験に受かったにもかかわらず一般企業への就職の道を歩みました。
最終学年にもなると友達は何処の病院に就職するのか、急性期、慢性期、回復期のどの段階の治療ができる病院にいくのかを話合っていました。
実際に病院見学や訪問して話を聞きに行くのですが、僕は一度たりとも就活をしませんでした。
もうね。本当に一度たりとも在学中に就活をしなかったんですよ。
進路指導室の先生に何度か呼ばれていたのですが、無視してました。
友達伝いに進路指導の先生が怒っていることを知りましたが、病院以外の進路を提示してくれるはずがないので結局一度も行きませんでした。
かといって自分で就職するための行動をするかというとそんなわけもなく、病院の実習と国試対策、そして生活費を稼ぐためのバイトだけで日々が過ぎて行きました。
僕がどれくらい就活にやる気がなかったかは履歴書も一枚も書かなかったことから推測できるでしょう。
書かないだけならまだしも買ってすらいなかったですからね。履歴書。
勉強とバイトに明け暮れる日々
入学したての一年生の時には立派な理学療法士になろうと思って勉強にあけくれていたんですがね。
在学中にどうしても理学療法士として自分が働いている未来を見出せなくなったんです。
僕は理学療法士のコースの中でも夜間の4年生を選択していました。
親元を離れて一人暮らしだったので夜は勉強、昼は生活費を稼ぐためにバイトしてました。
家は裕福な方ではなかったので、奨学金を限度一杯まで借りて、それを学費に当ててました。
一年生の頃は今思い返してもしんどかったですね。
高校を卒業して親元を離れて生活するんですけど、公的な資料の書き方も、公共料金の支払いの仕方も、預金通帳の作り方も何もかもがわからない。
もっと高校生の頃から社会に出て必ず使う手続の方法についても教えてくれれば良いのにと思いましたね。マジで。
バイト先は入学式の前から学校に行ってまで紹介してもらった兵庫のとある整形外科です。
大阪に学校があって、住んでいるのも大阪なんで通勤に片道1時間はかかってました。
基本が9~17時で水曜、土曜は半日の週6勤務です。学校は平日の18~21:30まででした。
バイトの始業は9時なんですが早めに着いて掃除や準備をしないといけないので家を出るのは7:30頃でした。
そして帰ってくるのは大体22:30頃です。そこから授業で習った事の復習をすると寝るのは24時を過ぎます。
高校時代は自転車競技部に所属して、全国に行く程度の実力はあったので体力には自信があったんですが、この生活はきつかったです。
何せ眠い。健康優良日本男児の僕としては8時間は寝たいのに、物理的に8時間眠る事ができない。
しかも学校は平日だけですが、バイトは土曜日もあるので僕に許された安息の夜は土曜日の夜だけになる。
何よりも土曜日夜の明日起きる時間を考えないで眠れる時間が嬉しかったのを覚えています。
バイト自体は物凄く勉強になる環境で良かったんですけどね。
正直稼ぐために働いている感覚は無くて、学びの為に働いている感覚でした。今思うと素晴らしい感覚だったな思います。
なにせ給料日の概念がなくて、気づいたら給料貰っている感覚でしたからね。
日々のバイトの経験が将来の理学療法士として働く際に糧になると思えば病院でのバイトはかけがえのない経験なわけですが、いかんせん労働時間が長い。
大体月に160時間は働いていました。多い時で180時間くらいかな。
通勤時間に往復2時間かけている事を考えるとバイトにどれだけ時間を注いでいるか...。
最終的に1年と3ヶ月で最初のバイト先を退職しました。バイトでこれだけ忙しいなら理学療法士になったらどれだけ忙しいのか。
そう考えた時に恐ろしくなった僕は、別の道を模索しはじめました。
1冊の本との出会い。そしてビジネスの道へ
今思えば短絡的な考えだとわかるんですが、当時は大真面目に考えていました。
実際にはバイトと学校の両方に通っている僕の方が忙しかったんですよね。
現に理学療法士として働いている友達は忙しいながらもしっかりと定時で帰れています。もちろん勤めている病院によるのでしょうが。
ただ僕は一度考えると猪突猛進になる傾向がありまして、そんな時に偶然読んだ「金持ち父さん貧乏父さん」に衝撃を受けてビジネスの世界に進む事にしました。
毎週土日はどこかで開かれているセミナーに参加して経営者の話を聞き、時には異業種交流会に参加しました。
多くの経営者の話を聞き、沢山の方と名刺を交換しました。活動のピーク時には土日全部使ってたので月に8回はセミナーや異業種交流会に参加していたことになります。
ただ、どれだけ経営者の話を聞こうが、どれだけの人と名刺を交換しようが状況は変わりませんでした。
凄いビジネススキルを身に着けて起業するわけではないし、自分なりのビジネスモデルを見つけてお金を稼ぐ事もできませんでした。
僕はただ誰かに頼ろうとしていただけだったんです。経営者と親しくなれば何か助けてくれるんじゃないか。名刺を沢山持っていれば誰かが手助けしてくれるんじゃないのか。
そんな考えでいた僕は活動を一年間続けてもまったくお金を稼げるようになっていませんでした。
むしろバイトの時間が減ったぶん、収入で言えば活動をはじめる前よりも少なくなってます。
最初から誰かに頼ろとしても状況は変わらないのを悟りました。
人脈人脈と自分に力がないのをごまかすために、人と繋がろうとしていた人間が何かを成せるはずがなかったんです。
活動を続ける上で出会った仲間と自分達が主催となって講演会を開いたり、名刺作成ビジネスをはじめようとして頓挫したりと紆余曲折はありましたが僕は一切の活動をやめました。
そうしてできたのが理学療法士として働く気はないけど、自分で何かを興す実力もない一人の学生でした。
国もヤクザと変わらない
無気力になって勉強もバイトもやる気が起きない日々が続く日もありました。授業中も自分の都合の良い展開が繰り返される人生を夢想する時間に費やす。
妄想の上で上手くいっている人生とは裏腹に現実は貯金残高がみるみる減って生活に困窮する日々でした。
色々な活動に参加してお金も消費しましたのでガスが止まって真冬に1ヶ月水のシャワーを浴びるはめになったり、電気が止まり、携帯が止まり、ネットが止まり催促の電話が毎日かかってくる生活を送りました。
貯金残高の数値が下がるにつれて自分の気力も一緒に下がっていく。激しいストレスを感じて自分の命を絶ちたいと考えていた時期もこの時でした。
「国もヤクザと変わんねぇよ!」
などと完全に頭のおかしい発言をしていました。
公共料金の催促の電話がなり、容赦なくガス、電気といった生活インフラをとめる国に憤っていたんですね。
はい。完全に自業自得なんですけどね。
ただ、色々と打ちのめされる事はあっても心の奥では
「いつか見返してやる」
その気持ちだけだくすぶっており、倒れるたびに何とか立ちあがってを繰り返していました。
周りの手助けもあって何度か辞めようとした学校も続ける事ができましたし、経験した人が口を揃えて「二度と行きたくない」という病院実習も乗り越える事ができました。
国家試験の勉強も周りの人が頑張っている姿をみていたから、最後までなんとかやり通そうとして、受かったんだと思います。
実習と試験があったので、ほとんどの人がバイトを辞める中でギリギリまで生活費を稼ぐためにバイトをしていた記憶もあります。
またしても一冊の本から転機が訪れる
無事に資格も取得して卒業するわけですが、今更理学療法士として働く事はできないと考えた僕はネットビジネスで生きていこうと考えて行動を移しました。
その時に丁度大前研一さんの本を読んだんです。
そこには下の一文が記されていました。
「これからの若者はインドネシアに行け」
その文を見た瞬間にインドネシアに行こうと決心した僕はネットで急いでインドネシアで働く方法を調べました。
そしてインドネシアに存在する仕事の斡旋所をみつけたのです。日本の会社ですよ。
急いでメールを送り、現地の責任者とメールやスカイプでやりとりしていく内に、インドネシアに進出する企業の社長と面接する機会を得ました。
普通にやっても受からないと考えた僕は恐らく世界に僕しか作った事のない名刺を作成し、それを渡す作戦を立てました。
文書を印刷する程度の機能しかなかったプリンターは性能の良い物に買い替えました。
そして写真屋にスーツで赴き、緑色の布でコーティングした段ボールを片手にポーズを決めて写真をとってもらいました。
そして、そのデータを加工しオリジナル名刺を作りました。
裏面には「Have a nice day!(良い一日を!)」と相手が幸福な一日を送れるための文を載せました。社長に渡す名刺とは思えないくらい調子にのってました。
前面には社長に対して「この出会いに感謝します」と完璧なメッセージも入れました。
実際に使用した名刺がこちら。QRコードと人間の複合。これは誰もやってない!と意気込んで作りました。
(QRは規制かけてます。もし読み込めたら応援メールください)

Have a nice day!(良い一日を!)

このオリジナル名刺をひっさげた僕は見事面接に受かり、インドネシアの現地責任者として働く事になったのです。
ちなみに名刺以外にも邪道な方法は使いました。とにかく誰もやらない事をやれば挑戦心の強い社長は採用すると踏んで色々とやりました。
インドネシアに行こうと考えてから1ヶ月後には実際にインドネシアにいく事ができました。
社長に指定されたインドネシア行の飛行機に乗り遅れて15万円の借金をする話や、元々1人暮らしでお金がなかったのでインドネシアへは現金4万円しかもっていけなかったためそもそも家を借りる事ができなかった話もありますがいずれブログで書ければと思います。
それでも僕は元気です。
ではまた!