以下は
ブサヨがトンデモナイ大嘘を書いている
Wikipedia満蒙開拓移民
からの引用です。
■入植の実態
満蒙開拓移民団の入植地の確保にあたっては、まず「匪情悪化」を理由に既存の地元農民が開墾している農村や土地を「無人地帯」に指定し、地元農民を新たに設定した「集団部落」へ強制移住させるとともに、満州拓殖公社がこれらの無人地帯を安価で強制的に買い上げ日本人開拓移民を入植させる政策が行われた。
およそ2000万ヘクタールの移民用地が収容された
(当時の「満州国」国土総面積の14.3%にあたる)。
(※タコ注:ここ重要ですよ(^o^)/プゲラ)
土地買収の方法は、帝国主義丸出しの暴力的・強圧的なものであった。中国人は、地券の取り上げを避けるため、それを長持ちの底に隠したり、壁に塗りこめるなどした。
これを知った日本兵は、長持ちをひっくり返したり、銃床で民家の壁をたたき割ったりもした(タコ注:そりゃモンゴルや新疆ウィグルであんたたちがやった蛮行でしょうが(^_^;))。
しかも日本政府は、移民用地の買収にあたって国家投資をできるだけ少額ですまそうとした。1934年(昭和9年)3月、関東軍参謀長名で出された「吉林省東北部移民地買収実施要項」では、買収地価の基準を1ヘクタールあたり荒地で2円、熟地で最高20円と決めていた。当時の時価の8%から40%であった。このような低価格での強権的な土地買収は、吉林省東北部のみで行われたではなく、満州各地で恒常的に行われた。
浜北省密山県では全県の私有地の8割が移民用地として取り上げられたが、買収価格は時価の1割から2割であり、浜江省木蘭県徳栄村での移民用地の買収価格は、時価の3割から4割であった。そのうえ土地買収代金はなかなか支払われなかった。
このように
開拓民が入植した土地の6割は、地元中国人や朝鮮人が耕作していた土地を強制的に買収したもの
であり、開拓地とは名ばかりのものであった。
そのため日本人開拓団は土地侵略の先兵とみなされ、初期には反満抗日ゲリラの襲撃にあった。満州国の治安が確保されると襲撃は沈静化したが、土地の強制買収への反感は根強く残った。
(あまりにくだらないので以下略。要参照)
以上引用終わり。
地元中国人や朝鮮人が耕作していた土地
地元中国人や朝鮮人が耕作していた土地
地元中国人や朝鮮人が耕作していた土地

では高価なその土地で一体何を栽培していたの?
ウソここに極まれり…
というやつですね(^_^;)アキレル
そもそも満州で、文明開化以前の野蛮な人食い人種漢民族に、近代的農業などがマトモにできるのか?
なんで北朝鮮では毎年のように飢饉が起き、なんで人が死ぬの?
大嘘つきのブサヨさん

強欲支那人が、万里の長城以北を自分達の土地にしなかったのは、そもそも当時の中華式農業では耕作不適地だったからだろうが、このボケなす!!
農民の楽園なら
そもそも匪賊なんか
発生するか!!

この大嘘つき!!

大和民族の諸君。この程度の嘘に
何時まで騙され続けるつもりかね?

デスラー総統が怒っておられる…。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【満州地域でもともと自生・栽培されていた
2、玉蜀黍(トウモロコシ)
3、粟(あわ)。
【満州で自生・栽培されていたと考えられる
5、小麦

満州国の国花になった高粱(コーリャン)。
現代日本ではトウキビと書いて
唐黍(モロコシ)または高黍(タカキビ)。

明治初期に初めてアメリカから北海道に渡ってきた食用種の代表であるスイートコーン(の一種バイカラーコーン)。
スウィートコーンは1950年代にアメリカで開発されましたが、満州に持ち込まれたとしたら日本経由でしょう。

粟(あわ)。三ヶ月から五ヶ月で収穫でき乾燥に強く高地でも栽培でき、ビタミンBを多く含む理想的な穀物で日本でも多く栽培され食べられましたが、連作や二毛作で連作障害を起こしやすいため今ではあまり作られていません。
もともとあった
高粱(コーリャン)、粟(あわ)の栽培に、
窒素を土中に固定する根粒菌というバクテリアを、根の根粒に自生させる大豆を日本が導入することによって
これに玉蜀黍(トウモロコシ)・小麦を加えた
三年輪作(または五年輪作)で連作障害を発生させることなく花開いたのが満州農業です。

大豆の根粒

豆科の植物全般の根粒の中で発生する根粒菌。
収穫後に緑肥として、根粒を土の中に鋤(すき)込み(混ぜ入れ)ます。
化学肥料を撒かなくても、根粒菌が空気中の窒素を固定する事によって、土が化学肥料を撒いた時と同じような状態になります。こちらへ。
■北海道での輪作の一例(四年輪作)

【満州における大豆の三年輪作の例※】
一年目 二年目 三年目
ダイズ コムギ コーリャン トウモロコシ アワ
A区 大豆 → 小麦 →高粱・玉蜀黍・粟
B区 小麦 → 高粱・玉蜀黍・粟→大豆
C区 高粱・玉蜀黍・粟→ 小麦 → 大豆
【大豆の五年輪作の推計】
A区 大豆→小麦→玉蜀黍→高粱→粟→大豆
B区 玉蜀黍→高粱→粟→大豆→小麦→玉蜀黍
C区 小麦→→玉蜀黍→高粱→粟→大豆→小麦
D区 高粱→粟→大豆→小麦→玉蜀黍→高粱
E区 粟→大豆→小麦→玉蜀黍→高粱→粟
大豆と小麦も、連作障害が起こりやすい作物なので、このように輪作します。
さて、
コーリャンだけの食事を続けると、必須アミノ酸であるリシンの少なさとロイシンの過剰から、ナイアシン(ビタミンB3)の欠乏症であるペラグラを引き起こします。
また、トウモロコシだけの食事を続けると、必須アミノ酸トリプトファンの不足から同じくペラグラの症状を引き起こします。

ペラグラ。

光過敏症で引き起こされたペラグラ。
以下は
Wikipediaモロコシ
からの引用です。
モロコシ(蜀黍、唐黍、学名 Sorghum bicolor)は、イネ科の一年草のC4植物・穀物。熱帯アフリカ原産。ソルガムとも呼ぶ。
また、
中国での呼称であるコーリャン(高粱)
ともかつては呼ばれた。
主要な栽培食物のひとつであり、穀物としての生産面積ではコムギ、イネ、トウモロコシ、オオムギに次いで世界第5位である。
熱帯、亜熱帯の作物で
乾燥に強く、イネ、コムギなどが育たない地域でも成長する。
(中略)
ひき肉のような弾力とコクがあるので「たかきびハンバーグ」などとして主食の材料にも使われるほか、アメリカ合衆国南部では、濃褐色のシロップが作られ、ビスケットにつけて食べられる。
漢名は「蜀黍」(しょくしゅ)だが、
現代の中国名は「高粱」(こうりゃん、カオリャン)で、白酒(パイチュウ、中国酒の一種である蒸留酒)の原料ともされる。
満州国(1933年~1945年まで存在した国家)では、国花に指定されていた。1933(大同2)年4月に決定されたとの記録がある[2]。
■主食として用いる際の注意点
モロコシを主食として用いる場合、その蛋白質中のリシンの少なさとロイシンの過剰に注意する必要がある。特に後者は結果として
ナイアシン(ビタミンB3)の欠乏症である、ペラグラを引き起こすことがある。
以上引用終わり。
以下は
ペラグラ
からの引用です。
ペラグラ(イタリア語: Pellagra)は代謝内分泌疾患の一つで、ナイアシン欠乏症である。ICD10ではE52。 Pellagraはイタリア語で「皮膚の痛み」を意味する。
ナイアシンは必須アミノ酸のひとつであるトリプトファンから体内で生合成されるので、トリプトファンが欠乏することでもナイアシン(ビタミンB3)が欠乏し、結果ペラグラを発症する。
1735年にスペインで記録されたのが初出である。
トウモロコシを主食とするイタリア北部などで猛威をふるい、「イタリア癩病」、「アストゥリアス癩病」などと呼ばれた。
1926年に、アメリカの医学者ジョゼフ・ゴールドバーガー(Joseph Goldberger)によって肉や牛乳に含まれる何らかの栄養が不足することが原因であると突き止められ、1937年になってコンラッド・エルヴェージェム(Conrad Elvehjem)によりその物質がナイアシンだと判明した。
ペラグラはトウモロコシを主食とする地域でよくみられる
が、トウモロコシのナイアシンはアルカリで処理することによって吸収されるようになる(メキシコのトルティーヤは良い例である)。
ペラグラは季節性で、日差しが強くなるうえに食事の内容が主にトウモロコシ製品に偏る春から夏にかけて起こりやすい。
アルコール使用障害患者など、栄養不良(特に鉄、ビタミンB2、B6)のある者は、ペラグラになるリスクが高くなる。また、遺伝病であるハートナップ病(トリプトファンが腸から吸収されない病気)の患者はペラグラを発症する。
ペラグラは、ナイアシン不足に加えて日光に当たることによって発症する。まず光線過敏症が生じ、顔に左右対称の赤い発疹が出る。
その後、消化管全体が侵されて吐き気、嘔吐、便秘、下痢などの症状が現れ、舌と口に口内炎が生じる。また、喉や食道にも炎症が起こる。
その後、疲労、不眠、無感情を経て、脳の機能不全(脳症)による錯乱、見当識の喪失、幻覚、健忘などが起こり、最悪の場合死に至る。
以上引用終わり。
このように古くからトウモロコシを常食としてきた中南米人を除くとモロコシやトウモロコシは人間の主食には適さず、
スウィートコーン以外のトウモロコシは家畜の餌(当時)になると考えたほうが良いでしょう。
また、コーリャン(モロコシ)は中国ではアルコール度数65度のお酒として使われ、ほとんど食用にはされません。

北朝鮮の収容所でも頻発しているとされるペラグラの症例。
死者が異常に多いのもビタミンB3不足によるものと考えられます。

以下は
トウモロコシ
からの引用です。

2007年度のトウモロコシの世界消費は、
家畜の飼料用が64%で最も多く、ついでコーンスターチ製造などに用いられる工業用が32%を占め、直接の食用はわずか4%にすぎない。
トウモロコシの直接食用としての消費量は、上図のように国によって大きく偏りがある。
アメリカや中国のように、大生産国でありながらあまり食用に用いない国も多い。
最も食用としての消費が大きいのは、トウモロコシから作るトルティーヤを常食とするメキシコや、サザやウガリといったトウモロコシ粉から作る食品を主食とするアフリカ東部から南部にかけての地域である。
なお、上記のように
主食用トウモロコシと飼料用・工業用トウモロコシとは品種が違うため、
飼料用トウモロコシの消費を減らして主食用に転用することは一概に可能とも言えない。
(主食用を飼料用や工業用に転用することはできる)。
かつてケニアで大旱魃が起きた際、アメリカ合衆国がトウモロコシ粉の食料援助を行ったが、その粉がケニアでウガリなどにする食用の白トウモロコシではなく、ケニアでは食用に用いない黄色トウモロコシであったため、ケニア政府が援助をアメリカに突き返したこともあった。
近年、最大の生産国であるアメリカにおいてトウモロコシを原料とするバイオマスエタノールの需要が急速に増大し、エタノール用のトウモロコシ需要は1998年の1300万トンから2007年には8100万トンにまで急拡大した。これによりトウモロコシの需要は拡大したが、一方で生産がそれに追いつかず、これまでの食用・飼料用の需要と食い合う形となったために価格が急騰し、2007年-2008年の世界食料価格危機を引き起こした原因のひとつとなった。
以上引用終わり。
日本でも玄米を精白することで生じるチオミン(ビタミンB1)不足から脚気で死亡する例が多くありましたね。
「江戸患い」と言われたチオミン(ビタミンB1)不足による脚気を防ぐため関東では蕎麦がよく食べられました。
東南アジアでよく見られた、玄米ではなく白米だけを食べ続けることで発症する脚気。正体不明の伝染病として恐れられました。

チオミン(ビタミンB1)不足で脚気、ナイアシン(ビタミンB3)でペラグラを発症しますがどちらも幻覚に悩まされ錯乱して死に至る点では同じです。

粟餅や粟団子、麦飯や五穀米を食べることでも予防できます。
白米原因説を一蹴して多くの死者を出しました。
同じようにナイアシン(ビタミンB3)不足対策として粟、小麦全粒粉でパンやクッキーを焼いて食べる他に、支那人がよく食べる豚肉を食すという手もあります。満州では牛、馬、羊、ロバの総数より豚のほうが多かったとされますが、豚肉はビタミンB1、B2が豊富で、ビタミンB3もそれなりに多く含みます。
しかしながら、現在の家畜の餌で工業用原料であるモロコシ(コーリャン)、トウモロコシを常食しているような貧しい農家では、まず子豚を買ってくる初期投資費用の問題や、またそうそう飼っている豚を屠殺して食べる機会はかなり少ないと考えられますから身体にはかなりきついのは間違いないでしょうね。
まぁ、そこまで貧しくなければ市場で豚肉を買う手もありますが(^o^)/
まぁ、どちらにしても、
頑張って耕作しても食えないから匪賊になる、
匪賊に襲われて食料や飼料や家畜を持っていかれたから匪賊になる、
という悪循環は日本が治安を維持するようになってやっとこさ絶たれた、という事実が全てを物語っていますね(^o^)/
灌漑設備や道路、
輪作(あるいは混合農業)という農業革命を日本が満州に導入して、やっとこさ人がマトモに暮らせる大地に成った
という訳です。
日本は明治維新後、軍事技術や科学・工業技術だけを西洋から学んだ訳ではありません。
北海道開拓史を学べば、日本古来農法(要するに水田のことですが(^o^;))でさえも、満州では通用しないことぐらいすぐ分かりそうなもんですが…
ブサヨ支那人とそのシンパは本当に低脳馬鹿ザルです。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
また
満蒙の蒙は、モンゴルをさしていますが、
現在でも都市部などを除き
伝統的な生活を営んでいる
蒙古人(モンゴル人)は
移動しながら遊牧していて定住していないのにどうやってモンゴル人の田畑を奪ったんですか?
そもそも
遊牧地に土地の所有権など
存在するの?
もしそうなら同じ部属どうしで殺し合いになりますが?

故郷でくつろぐ元横綱朝青龍。
ねえねえ、どうなの?

教えて!大嘘つきの人
それともばかなの?
猿なの?

この大嘘つき!!

モンゴルでも野菜は栽培できます。

米から作るボーズ(бууз)やホーショール(хуушуур)

市場でモンゴルの遊牧民と農民が物々交換?的な取引をするのでしょうね。
ただ、モンゴルの農法は焼畑農業という更に原始的な移動農法だったとされています。近代的な農業は現在でも都市周辺の裕福な農家に限られると考えられます。

1893年、北欧フィンランドのエノにおける焼畑の様子。
以下は
ユーラシア旅行社のモンゴルツアーで大草原と遊牧民の暮らしにふれる
からの引用です。
広大なモンゴルの自然は、4つに大別できます。
決して大草原ばかりではないのです。
【ハンガイ】
森林と草原に覆われ、水が豊富な土地。
古来より騎馬民族の争奪の的でした。
【ステップ】
平らで広々とした草原地帯。これぞモンゴル!
【タイガ】
常緑針葉樹林が育つ山々のこと。
【ゴビ】
モンゴル語で砂漠の意味。
モンゴルにも砂漠があるのです!
しかし、「砂」というわけではなく、乾いた土地に丈の短い草や潅木が斑点のようにこびりついているのが特徴です。

蒙古こと現在のモンゴルの自然
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
以下は
主体農法
からの引用です。
主体農法(しゅたいのうほう/チュチェノンポプ)は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)で行われている主体思想に基づいて食糧自給を目指す農法。
■概説
元来(タコ注:農業に向いていない)朝鮮半島北部は、日本の統治下で鉱工業地域として開発が進められていた。そのため、ここに建国された
北朝鮮では食糧の自給が課題
となり、金日成・金正日父子の指導によって進められた。
しかしその実態は、観念的スローガンに疑念を持たずに朝鮮労働党の指導に服従し、精神論のみでやり抜く事を要求するというもので、伝統的な経験農法も科学的知識に基づく近代農法もまったく無視しているため失敗し、北朝鮮の農地とそれを背後で支える自然環境が破壊され、かえって食糧難をもたらしたと言われる。
程度こそ違うものの、ソ連や中国もかつて同じような事を行い(中国の場合は大躍進政策を、ソ連ではトロフィム・ルイセンコの指導やアラル海縮小の顛末を参照)、大失敗している。


(タコ注:消滅する?世界第4位の広さを誇ったアラル海
左:1989年、右:2014年、下は干上がった湖底に放置された船)

しかし対外的には「大成功だった」と喧伝されたため、過去の過ちから学ぶことなく、北朝鮮も同じ間違いを繰り返す事になった。
例を挙げれば、
「食料が足りないなら山林を農地に変えればよい」とする単純な理論を振りかざし、山を切り開いて棚田やトウモロコシ畑を造ることになったのだが、
金日成が土留めのない田畑を造ることを指示したがために
少し雨が降っただけでその田畑は崩壊した
という話がある。
このような強引な農法により山は禿山となり、山の土砂が川に流れ込んで水位が上がり、ひいては洪水が多発する原因となった。

(タコ注:北朝鮮の禿げ山。
農業政策の誤りにより自然が完全に破壊されています。支那や南朝鮮同様、恩を仇で返す「アジアの裏切り者」に相応しい風景です。)

(タコ注:広島の里山の風景。
このような多種多様な生態系が維持されてこその農業、漁業だということがブサヨには理解できません。)
トウモロコシ畑においては連作障害を引き起こし、増産という目的に反し不作、ひいては食糧難を招くこととなった。
また洪水の影響で大量の土砂が海に流れ込み、海岸の生態系が破壊されてしまったため漁業にまで不振に陥ることとなってしまった。
また、化学肥料の機械的大量投与や水田や畑における常識外れと言える高密度の田植え(密植)や種まきを指導したために、一時的に農業生産は上昇したものの
土壌の消耗によって農地の生産力が崩壊し、
また旧ソ連の援助による化学肥料の供与が絶えたこともあり、
多くの農地が砂漠化と呼んでも差し支えないほどの惨状を呈している。
しかし、勝手に田植えの方法を改善したりすれば命令に服従しなかったと言う理由で処罰される可能性が大きく、また当然ながら最高指導者に意見できるわけもなく、この惨状はある意味放置されている。
■政府の対応
このような惨状に対し、官僚たちは洪水を政策の失敗をごまかす材料に利用して、各国からのコメの支援を仰ごうとしており、金正日に至っては「飢えで苦しんでいる同胞の南朝鮮(韓国)にコメを支援した」と国民に嘘の宣伝をし、それを聞いた国民も、本当の原因を言わずに同胞のためと納得した。
以上引用終わり。
以下は
満州
からの引用です。
現在、中華人民共和国(支那共産党)は満洲を「東北」と呼ぶが、中華民国時代は「東三省」、それ以前は「関外」と呼ばれていた。「関外」とは、万里の長城の東端の外という意味である。支那人(漢民族)にとって万里の長城より北は歴史的に異民族の土地であった。
大東亜戦争以前に支那が満洲の領土になったことはあるが、満洲が支那の領土になったことはない。このことは以下の歴史を見れば明らかである。
辛亥革命とは、被征服民族の漢民族(支那人)が征服民族の満洲人の王朝(清朝)を倒す運動であった。これによって支那を治めていた清朝皇帝が北京で退位したとしても、単に支那という地域の統治を放棄しただけであり、決して満洲が支那になったわけではない。
かつて13世紀にモンゴル帝国が支那を支配して元朝となったが、その元朝が14世紀に滅びてモンゴル族が故地の蒙古へ帰ったように、満洲族が故地の満洲へ帰るのはおかしなことではない。しかも、
清朝は他の民族が満洲に入らない政策(封禁政策)をとっていて、支那と満洲を別の地域として扱っていたから、この点からも蒙古と同じように考えて差し支えない。
今の支那共産党政府(中華人民共和国)が満洲までも自分の国と言い張るのは、イギリス人を追い払ったインド人がイギリスはインドだ、というのと同じ論理である。同じようにチベットやウイグルまでも自分の国だと主張するのは、インド人がオーストラリアやニュージーランドもインドだというのと同じでナンセンスなことなのである。

日露戦争前には、清国は満洲がロシア領にされてしまったと認識していた。満洲のとある地域に役人を派遣する際、ロシアの許可をもらっているのである。
日露戦争においては清国は完全中立のはずだった。日本はロシアを追い払ったのち、鉄道と遼東半島の租借という少しばかりの報酬で手を打って、満洲全体を清国に返してあげた(ポーツマス条約)。ところが実は、清国とロシアは密約を結び、日本と戦うというような話までしていたのである(露清密約)。そのことを知っていれば日露戦争は清国との戦争でもあり、勝った時点で日本が満洲を取っても文句は出なかった。清国とロシアの密約が判明したのは大正10年(1921)になってからであり、非常に残念なことだった。
満洲と支那の違いが分かっていない人がやたらと多い。このため、「満洲も支那だ」という支那のプロパガンダ(宣伝)に乗せられて、日本が侵略したような印象になっている。
外国人の多くはまだ満洲王朝の清国(清朝)を支那人(漢民族)の王朝だと勘違いしている。
(しかし)満洲族は満洲語を持っている。
清朝は満洲に他の民族が入るのを嫌がって封禁政策を取ったし、東三省(満洲)の将軍には満洲人を任命し、支那人を使わなかったのである。
辛亥革命で標語と成った「滅満興漢」とは、清朝による漢民族(支那人)支配を廃することを意味した。つまり支那人が支那人の国を作るということである。そうであれば、蒙古、ウイグル、チベットといった民族もそれぞれ自分達の国を作るのは道理であり、満洲民族もまた同じである。
ところが、孫文は臨時大総統になると、蒙古、ウイグル、チベットが清朝の支配から独立するのを認めなかった。蒙古、ウイグル、チベット、満洲が支那の領土ということは歴史的にまったく根拠がない。それを強引に自分の領土としてしまっているのが現在の支那(中華人民共和国)である。
大東亜戦争後、満洲が支那の手に入ると、支那は満洲人をなくす運動を進めた。満洲人を大量に蒙古やウイグルに移動させた。このため現在では満洲語を話せる人も満洲人と称する人もほとんどいなくなってしまっている。その結果、満洲独立を唱える声はほとんど絶えてしまった状況である。
万里の長城の外の「満洲」の地にはツングース語系の満洲族が住んでいて、古来、支那人は彼らを「化外の地」の民と呼んでいた。17世紀に彼らは天下を取り、清王朝を樹立させた。
清は周辺地域への侵略を繰り返し、領土を従来の3倍にまで膨張させ、他民族を蹂躙し、圧政を敷いた。支那にいた支那人もその支配下に入ったのである。
■「満洲」はもともとは清朝をつくっていた満洲族の出身地だった。
満洲族が清朝を樹立した際、満洲族は民族を挙げて万里の長城の内側に移住し、満洲の地は万一の際に帰れるように無人地帯にされていた。
支那の革命家にしても、当初は満洲を支那の領土であるとは考えていなかった。
革命派のナショナリズムはもともと、異民族である満洲人の支那人支配への憤りに発した漢民族主義である。
彼らにとって万里の長城以北の満洲など、たんなる「満奴」や「韃奴」の地であって、せいぜい革命後における満洲人の放逐先であり、むしろそこに日本の勢力が進出してくれば、支那はますます安泰になると考えていたのだった。
だから、孫文などは革命の際、満洲を支那の一部とはまったく考えておらず、日本に満洲売却交渉まで持ちかけていた。
自分達の土地ではなく異民族(満洲族)の土地であるから外国にくれてやってもかまわなかったのだ。桂首相に対しては、革命後に満洲を日本と支那の共同で開発しようといった提案まで行っていた。
だが革命がなって中華民国が成立すると、この国は清国の版図をすべて継承したいがため、新たな民族概念を創出した。つまり、漢人だけでなく、満洲人、チベット人、モンゴル人をも包含する「中華民族」というものであり、漢人だけでなく中華民族の土地はすべて支那の土地だと主張するにいたった。
今日の支那(中華人民共和国)では満洲という言葉は禁句としている。
その代わりに、自己中心主義的な、包囲しか示さない「東北」という呼称の使用を、日本人にまで強要している。もちろん日本人はそんなことに付き合う必要はまったくない。支那は満蒙(満洲と蒙古)の地は、支那の神聖不可分の固有の領土と勝手に決めつけ、高句麗史まで支那の一地方史と主張してはばからない。
清朝が支那を支配すると、
満洲族が大挙して支那(万里の長城以南)に移住した。
そして満洲は荒れ果てた地になっていた。
そこを日本が、ロシアの南進を阻止するために日露戦争を戦い、
インフラを整備し、近代産業を移植し、治安を維持し、支那の内乱が及ばない別天地にしたのである。
そこで大量の支那人(漢民族)が内乱に明け暮れる支那から、安定した満洲へ流入してきた。
(タコ注:ほぼ無人だった)満洲の人口は日露戦争の頃(1904年)には1000万人、辛亥革命(1911年)の頃には1800万人、満洲事変の頃には3000万人と激増した。
(中略)
今日の支那では「満洲」という言葉は「支那」と同様禁句で、「東三省」または「東北地区」と言い換えている。だが共産党満洲委員会が存在したように、かつては禁句ではなかった。
だから今日でも支那では「満洲事変」という言葉もなく、「九・一八事変」と呼ぶ。
これは事変勃発が9月18日だったためである。現在「九・一八」は抗日戦争の記念日に指定されている。
以上引用終わり。

「満洲」と「支那」という言葉は
使っちゃダメよ。キ・ン・ク

支那と満州という言葉は使っちゃ
ダメよ。ダメダメ。
以下は
●Wikipedia満州国
からの引用です。
満州はアイシン国(満洲語aisin gurun, 金国)創業の地として乾隆5年(1740年)に本格的に封禁され、漢人の移入は禁止され私墾田は焼き払われ流入民は移住させられていた(封禁政策)。
旗人たちも首都北京に移住したため満州の地は「ほぼ空白地」と化していた。
19世紀前半には封禁政策は形骸化し、満州地域には無数の移民が流入しはじめた。chenの試算によれば1851年に320万人の満州人口は1900年には1239万人に増加した。
1860年にはそれ以前には禁止されていた旗人以外の満州地域での土地の所有が部分的に開放され、清朝は漢人の移入を対露政策の一環として利用しはじめた(闖関東)。
以上引用終わり。
しかしながら、実際の闖関東は、牛馬に荷物を引かせて荒れ野を進んだわけではなく海路による移住のほうが多いとされています。
何故なら、ちょっと考えれば分かるように、牛馬や羊、山羊の餌になるような草は生えていても、開墾して種を撒いて収穫するまで人間の食料が持ちません。つまり耕作適地に移動するまでに食料が尽きてしまうわけです。
よって港湾周辺やせいぜい鉄道の拠点で水が引ける土地でコーリャンやトウモロコシ、粟などを栽培し、それを家畜に食べさせてその肉を食べ、またたまに市場で中国本土南部から来る米や野菜と交換する。
つまり、遊牧民が定着して牧畜農業に毛が生えた程度の農業でありると考えられ、また飢饉が連続する北朝鮮を見ても判るように、広大な荒れ野は放置されていたわけです。
特に北部は!!
つまり、ブサヨが捏造する
「満州国国土総面積の14.3%を日本が強奪した!」
と言うのは、全くのウソで、
逆に「語るに落ちた」、自らそんなことはあり得ないと自分で証明している訳です。
つまり、
「満州国国土総面積のたった14.3%の放置されていた荒れ地を日本が開発した!」というのがホントのところです。
ちなみに森林地帯は、満州の国土面積の17%でそれ以外は平地と標高の高い草原地帯になります。
以下は
農業 その6
からの引用・編集です。
満洲の地域別大豆生産量(一つの県あたりの採取量)を色分けしたものです。
赤が一つの県あたり二十万石以上、灰色が十万石以上、黄色が十万石以下です。左上のホロンバイルは極めて大豆の生産が少ないことがわかります。
大豆は満洲の全土で栽培されましたが、平野部で多く、北東、北西の冬に寒い地域、朝鮮半島側の標高の高い地域では少ない様です。
ちなみに地図の左下の熱河省はデーターが無い為に白いままとなっています。
以上引用終わり。
300万人と言われる当時の人口(これも捏造?)も、ほとんどが港湾や鉄道関連の苦力(クーリー)であると考えられ、貧乏で化学肥料も無い、水路も造れない当時の支那民族にとって「当時の時価の8%から40%」等と言うのは、商売上手な中国人の口からデマカセです。
実際、日本人にとっても支那人にとっても二束三文の価値しか無いわけですから。(^o^)/
かつての新幹線や高速道路、またリニア新幹線駅候補地の周辺の地価が現在上がっていることから考えても、この程度の嘘に騙される人は阿呆、馬鹿、間抜けのカスとしか言いようがありません!
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
【資料】
満州における春の著しい乾燥は小麦の成長を阻害し、逆に夏場の急激な気温の上昇は冷涼な気温を好む小麦にとって不利で、また秋の収穫期の気温の高さと多雨は、収量と品質を落とし(熟した小麦は水分を得ると穂に種が付いたまま発芽=穂発芽することがありそうなると値段が暴落します)、収穫作業にも不利であり、満州での小麦の生産は商業リスクの高いものとなっていました。
そこで収穫期の多湿多雨にも強いうどん用の日本産小麦を輪作という近代農法と共に、満州に持ち込んだようです(多くの人々が満州脱出行の途中で亡くなっていますから、当時の事を知る人が少ない訳です(T_T))。
■小麦の商業生産に必要な連作障害対策
小麦も連作障害が発生しやすく、欧米では
1、地中海周辺での二圃式(にほしき)農業と呼ばれる、冬雨型の気候のもとで農地を小麦の冬作と休閑地(牧草地)に分けてローテーションを組んでする農法。
2、中部ヨーロッパでの三圃式(さんぽ)農業と呼ばれる夏雨型の気候のもとで農地を冬穀・夏穀・休耕地(放牧地)に区分してローテーションを組んで耕作する農法。
3、三圃式農業を発展させた食用穀物・飼料作物・休耕地(放牧地)に区分してローテーションを組んで耕作する混合農法。
4、イギリスで収量を大きくアップさせたノーフォーク農法(1730年代)での、
カブ→オオムギ→クローバー※→コムギ
の四年輪作。
5、アメリカ(20世紀初頭)の
トウモロコシ→コムギ→クローバー、
または
タバコ→コムギ→クローバー
の三年輪作
などで栽培されてきました。
原始的な当時の中華式農業にはこのような知識はありませんね。(^o^;)
※牧草に向くのは赤又は白クローバー。豆科で空気中の窒素を土中に固定します。

三圃式農業の例。
輪作と違って休耕地が入ります。

中世ヨーロッパの三圃式農業女性がいるところが休耕地で、反対奥が11月に小麦などをまいた冬蒔地で茎が成長している状態、手前の男性が土を耕しているところが3月に大麦、オート麦や豆類などの種を蒔く春蒔地です。
ブサヨがトンデモナイ大嘘を書いている
Wikipedia満蒙開拓移民
からの引用です。
■入植の実態
満蒙開拓移民団の入植地の確保にあたっては、まず「匪情悪化」を理由に既存の地元農民が開墾している農村や土地を「無人地帯」に指定し、地元農民を新たに設定した「集団部落」へ強制移住させるとともに、満州拓殖公社がこれらの無人地帯を安価で強制的に買い上げ日本人開拓移民を入植させる政策が行われた。
およそ2000万ヘクタールの移民用地が収容された
(※タコ注:ここ重要ですよ(^o^)/プゲラ)
土地買収の方法は、帝国主義丸出しの暴力的・強圧的なものであった。中国人は、地券の取り上げを避けるため、それを長持ちの底に隠したり、壁に塗りこめるなどした。
これを知った日本兵は、長持ちをひっくり返したり、銃床で民家の壁をたたき割ったりもした(タコ注:そりゃモンゴルや新疆ウィグルであんたたちがやった蛮行でしょうが(^_^;))。
しかも日本政府は、移民用地の買収にあたって国家投資をできるだけ少額ですまそうとした。1934年(昭和9年)3月、関東軍参謀長名で出された「吉林省東北部移民地買収実施要項」では、買収地価の基準を1ヘクタールあたり荒地で2円、熟地で最高20円と決めていた。当時の時価の8%から40%であった。このような低価格での強権的な土地買収は、吉林省東北部のみで行われたではなく、満州各地で恒常的に行われた。
浜北省密山県では全県の私有地の8割が移民用地として取り上げられたが、買収価格は時価の1割から2割であり、浜江省木蘭県徳栄村での移民用地の買収価格は、時価の3割から4割であった。そのうえ土地買収代金はなかなか支払われなかった。
このように
開拓民が入植した土地の6割は、地元中国人や朝鮮人が耕作していた土地を強制的に買収したもの
であり、開拓地とは名ばかりのものであった。
そのため日本人開拓団は土地侵略の先兵とみなされ、初期には反満抗日ゲリラの襲撃にあった。満州国の治安が確保されると襲撃は沈静化したが、土地の強制買収への反感は根強く残った。
(あまりにくだらないので以下略。要参照)
以上引用終わり。
地元中国人や朝鮮人が耕作していた土地
地元中国人や朝鮮人が耕作していた土地
地元中国人や朝鮮人が耕作していた土地
では高価なその土地で一体何を栽培していたの?
ウソここに極まれり…
というやつですね(^_^;)アキレル
そもそも満州で、文明開化以前の野蛮な人食い人種漢民族に、近代的農業などがマトモにできるのか?
なんで北朝鮮では毎年のように飢饉が起き、なんで人が死ぬの?
大嘘つきのブサヨさん
強欲支那人が、万里の長城以北を自分達の土地にしなかったのは、そもそも当時の中華式農業では耕作不適地だったからだろうが、このボケなす!!
農民の楽園なら
そもそも匪賊なんか
発生するか!!
この大嘘つき!!

大和民族の諸君。この程度の嘘に
何時まで騙され続けるつもりかね?
デスラー総統が怒っておられる…。
【満州地域でもともと自生・栽培されていた
と考えられる自給自足作物】
1、高粱(コーリャン・モロコシ)2、玉蜀黍(トウモロコシ)
3、粟(あわ)。
【満州で自生・栽培されていたと考えられる
が商品作物としては日本が持ち込んだ穀物】
4、大豆5、小麦
満州国の国花になった高粱(コーリャン)。
現代日本ではトウキビと書いて
唐黍(モロコシ)または高黍(タカキビ)。
明治初期に初めてアメリカから北海道に渡ってきた食用種の代表であるスイートコーン(の一種バイカラーコーン)。
スウィートコーンは1950年代にアメリカで開発されましたが、満州に持ち込まれたとしたら日本経由でしょう。
粟(あわ)。三ヶ月から五ヶ月で収穫でき乾燥に強く高地でも栽培でき、ビタミンBを多く含む理想的な穀物で日本でも多く栽培され食べられましたが、連作や二毛作で連作障害を起こしやすいため今ではあまり作られていません。
もともとあった
高粱(コーリャン)、粟(あわ)の栽培に、
窒素を土中に固定する根粒菌というバクテリアを、根の根粒に自生させる大豆を日本が導入することによって
これに玉蜀黍(トウモロコシ)・小麦を加えた
三年輪作(または五年輪作)で連作障害を発生させることなく花開いたのが満州農業です。
大豆の根粒
豆科の植物全般の根粒の中で発生する根粒菌。
収穫後に緑肥として、根粒を土の中に鋤(すき)込み(混ぜ入れ)ます。
化学肥料を撒かなくても、根粒菌が空気中の窒素を固定する事によって、土が化学肥料を撒いた時と同じような状態になります。こちらへ。
■北海道での輪作の一例(四年輪作)
【満州における大豆の三年輪作の例※】
一年目 二年目 三年目
ダイズ コムギ コーリャン トウモロコシ アワ
A区 大豆 → 小麦 →高粱・玉蜀黍・粟
B区 小麦 → 高粱・玉蜀黍・粟→大豆
C区 高粱・玉蜀黍・粟→ 小麦 → 大豆
※あくまでも想像です。(^_^;)
【大豆の五年輪作の推計】
A区 大豆→小麦→玉蜀黍→高粱→粟→大豆
B区 玉蜀黍→高粱→粟→大豆→小麦→玉蜀黍
C区 小麦→→玉蜀黍→高粱→粟→大豆→小麦
D区 高粱→粟→大豆→小麦→玉蜀黍→高粱
E区 粟→大豆→小麦→玉蜀黍→高粱→粟
大豆と小麦も、連作障害が起こりやすい作物なので、このように輪作します。
さて、
コーリャンだけの食事を続けると、必須アミノ酸であるリシンの少なさとロイシンの過剰から、ナイアシン(ビタミンB3)の欠乏症であるペラグラを引き起こします。
また、トウモロコシだけの食事を続けると、必須アミノ酸トリプトファンの不足から同じくペラグラの症状を引き起こします。
ペラグラ。
光過敏症で引き起こされたペラグラ。
以下は
Wikipediaモロコシ
からの引用です。
モロコシ(蜀黍、唐黍、学名 Sorghum bicolor)は、イネ科の一年草のC4植物・穀物。熱帯アフリカ原産。ソルガムとも呼ぶ。
また、
中国での呼称であるコーリャン(高粱)
ともかつては呼ばれた。
主要な栽培食物のひとつであり、穀物としての生産面積ではコムギ、イネ、トウモロコシ、オオムギに次いで世界第5位である。
熱帯、亜熱帯の作物で
乾燥に強く、イネ、コムギなどが育たない地域でも成長する。
(中略)
ひき肉のような弾力とコクがあるので「たかきびハンバーグ」などとして主食の材料にも使われるほか、アメリカ合衆国南部では、濃褐色のシロップが作られ、ビスケットにつけて食べられる。
漢名は「蜀黍」(しょくしゅ)だが、
現代の中国名は「高粱」(こうりゃん、カオリャン)で、白酒(パイチュウ、中国酒の一種である蒸留酒)の原料ともされる。
満州国(1933年~1945年まで存在した国家)では、国花に指定されていた。1933(大同2)年4月に決定されたとの記録がある[2]。
■主食として用いる際の注意点
モロコシを主食として用いる場合、その蛋白質中のリシンの少なさとロイシンの過剰に注意する必要がある。特に後者は結果として
ナイアシン(ビタミンB3)の欠乏症である、ペラグラを引き起こすことがある。
以上引用終わり。
以下は
ペラグラ
からの引用です。
ペラグラ(イタリア語: Pellagra)は代謝内分泌疾患の一つで、ナイアシン欠乏症である。ICD10ではE52。 Pellagraはイタリア語で「皮膚の痛み」を意味する。
ナイアシンは必須アミノ酸のひとつであるトリプトファンから体内で生合成されるので、トリプトファンが欠乏することでもナイアシン(ビタミンB3)が欠乏し、結果ペラグラを発症する。
1735年にスペインで記録されたのが初出である。
トウモロコシを主食とするイタリア北部などで猛威をふるい、「イタリア癩病」、「アストゥリアス癩病」などと呼ばれた。
1926年に、アメリカの医学者ジョゼフ・ゴールドバーガー(Joseph Goldberger)によって肉や牛乳に含まれる何らかの栄養が不足することが原因であると突き止められ、1937年になってコンラッド・エルヴェージェム(Conrad Elvehjem)によりその物質がナイアシンだと判明した。
ペラグラはトウモロコシを主食とする地域でよくみられる
が、トウモロコシのナイアシンはアルカリで処理することによって吸収されるようになる(メキシコのトルティーヤは良い例である)。
ペラグラは季節性で、日差しが強くなるうえに食事の内容が主にトウモロコシ製品に偏る春から夏にかけて起こりやすい。
アルコール使用障害患者など、栄養不良(特に鉄、ビタミンB2、B6)のある者は、ペラグラになるリスクが高くなる。また、遺伝病であるハートナップ病(トリプトファンが腸から吸収されない病気)の患者はペラグラを発症する。
ペラグラは、ナイアシン不足に加えて日光に当たることによって発症する。まず光線過敏症が生じ、顔に左右対称の赤い発疹が出る。
その後、消化管全体が侵されて吐き気、嘔吐、便秘、下痢などの症状が現れ、舌と口に口内炎が生じる。また、喉や食道にも炎症が起こる。
その後、疲労、不眠、無感情を経て、脳の機能不全(脳症)による錯乱、見当識の喪失、幻覚、健忘などが起こり、最悪の場合死に至る。
以上引用終わり。
このように古くからトウモロコシを常食としてきた中南米人を除くとモロコシやトウモロコシは人間の主食には適さず、
スウィートコーン以外のトウモロコシは家畜の餌(当時)になると考えたほうが良いでしょう。
また、コーリャン(モロコシ)は中国ではアルコール度数65度のお酒として使われ、ほとんど食用にはされません。
北朝鮮の収容所でも頻発しているとされるペラグラの症例。
死者が異常に多いのもビタミンB3不足によるものと考えられます。
以下は
トウモロコシ
からの引用です。
2007年度のトウモロコシの世界消費は、
家畜の飼料用が64%で最も多く、ついでコーンスターチ製造などに用いられる工業用が32%を占め、直接の食用はわずか4%にすぎない。
トウモロコシの直接食用としての消費量は、上図のように国によって大きく偏りがある。
アメリカや中国のように、大生産国でありながらあまり食用に用いない国も多い。
最も食用としての消費が大きいのは、トウモロコシから作るトルティーヤを常食とするメキシコや、サザやウガリといったトウモロコシ粉から作る食品を主食とするアフリカ東部から南部にかけての地域である。
なお、上記のように
主食用トウモロコシと飼料用・工業用トウモロコシとは品種が違うため、
飼料用トウモロコシの消費を減らして主食用に転用することは一概に可能とも言えない。
(主食用を飼料用や工業用に転用することはできる)。
かつてケニアで大旱魃が起きた際、アメリカ合衆国がトウモロコシ粉の食料援助を行ったが、その粉がケニアでウガリなどにする食用の白トウモロコシではなく、ケニアでは食用に用いない黄色トウモロコシであったため、ケニア政府が援助をアメリカに突き返したこともあった。
近年、最大の生産国であるアメリカにおいてトウモロコシを原料とするバイオマスエタノールの需要が急速に増大し、エタノール用のトウモロコシ需要は1998年の1300万トンから2007年には8100万トンにまで急拡大した。これによりトウモロコシの需要は拡大したが、一方で生産がそれに追いつかず、これまでの食用・飼料用の需要と食い合う形となったために価格が急騰し、2007年-2008年の世界食料価格危機を引き起こした原因のひとつとなった。
以上引用終わり。
日本でも玄米を精白することで生じるチオミン(ビタミンB1)不足から脚気で死亡する例が多くありましたね。
「江戸患い」と言われたチオミン(ビタミンB1)不足による脚気を防ぐため関東では蕎麦がよく食べられました。
チオミン(ビタミンB1)不足で脚気、ナイアシン(ビタミンB3)でペラグラを発症しますがどちらも幻覚に悩まされ錯乱して死に至る点では同じです。
粟餅や粟団子、麦飯や五穀米を食べることでも予防できます。
白米原因説を一蹴して多くの死者を出しました。
同じようにナイアシン(ビタミンB3)不足対策として粟、小麦全粒粉でパンやクッキーを焼いて食べる他に、支那人がよく食べる豚肉を食すという手もあります。満州では牛、馬、羊、ロバの総数より豚のほうが多かったとされますが、豚肉はビタミンB1、B2が豊富で、ビタミンB3もそれなりに多く含みます。
しかしながら、現在の家畜の餌で工業用原料であるモロコシ(コーリャン)、トウモロコシを常食しているような貧しい農家では、まず子豚を買ってくる初期投資費用の問題や、またそうそう飼っている豚を屠殺して食べる機会はかなり少ないと考えられますから身体にはかなりきついのは間違いないでしょうね。
まぁ、そこまで貧しくなければ市場で豚肉を買う手もありますが(^o^)/
まぁ、どちらにしても、
頑張って耕作しても食えないから匪賊になる、
匪賊に襲われて食料や飼料や家畜を持っていかれたから匪賊になる、
という悪循環は日本が治安を維持するようになってやっとこさ絶たれた、という事実が全てを物語っていますね(^o^)/
灌漑設備や道路、
輪作(あるいは混合農業)という農業革命を日本が満州に導入して、やっとこさ人がマトモに暮らせる大地に成った
という訳です。
日本は明治維新後、軍事技術や科学・工業技術だけを西洋から学んだ訳ではありません。
北海道開拓史を学べば、日本古来農法(要するに水田のことですが(^o^;))でさえも、満州では通用しないことぐらいすぐ分かりそうなもんですが…
ブサヨ支那人とそのシンパは本当に低脳馬鹿ザルです。
また
満蒙の蒙は、モンゴルをさしていますが、
現在でも都市部などを除き
伝統的な生活を営んでいる
蒙古人(モンゴル人)は
移動しながら遊牧していて定住していないのにどうやってモンゴル人の田畑を奪ったんですか?
そもそも
遊牧地に土地の所有権など
存在するの?
もしそうなら同じ部属どうしで殺し合いになりますが?
故郷でくつろぐ元横綱朝青龍。
ねえねえ、どうなの?
教えて!大嘘つきの人
それともばかなの?
猿なの?
この大嘘つき!!
モンゴルでも野菜は栽培できます。
米から作るボーズ(бууз)やホーショール(хуушуур)
市場でモンゴルの遊牧民と農民が物々交換?的な取引をするのでしょうね。
ただ、モンゴルの農法は焼畑農業という更に原始的な移動農法だったとされています。近代的な農業は現在でも都市周辺の裕福な農家に限られると考えられます。
1893年、北欧フィンランドのエノにおける焼畑の様子。
以下は
ユーラシア旅行社のモンゴルツアーで大草原と遊牧民の暮らしにふれる
からの引用です。
広大なモンゴルの自然は、4つに大別できます。
決して大草原ばかりではないのです。
【ハンガイ】
森林と草原に覆われ、水が豊富な土地。
古来より騎馬民族の争奪の的でした。
【ステップ】
平らで広々とした草原地帯。これぞモンゴル!
【タイガ】
常緑針葉樹林が育つ山々のこと。
【ゴビ】
モンゴル語で砂漠の意味。
モンゴルにも砂漠があるのです!
しかし、「砂」というわけではなく、乾いた土地に丈の短い草や潅木が斑点のようにこびりついているのが特徴です。
蒙古こと現在のモンゴルの自然
以下は
主体農法
からの引用です。
主体農法(しゅたいのうほう/チュチェノンポプ)は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)で行われている主体思想に基づいて食糧自給を目指す農法。
■概説
元来(タコ注:農業に向いていない)朝鮮半島北部は、日本の統治下で鉱工業地域として開発が進められていた。そのため、ここに建国された
北朝鮮では食糧の自給が課題
となり、金日成・金正日父子の指導によって進められた。
しかしその実態は、観念的スローガンに疑念を持たずに朝鮮労働党の指導に服従し、精神論のみでやり抜く事を要求するというもので、伝統的な経験農法も科学的知識に基づく近代農法もまったく無視しているため失敗し、北朝鮮の農地とそれを背後で支える自然環境が破壊され、かえって食糧難をもたらしたと言われる。
程度こそ違うものの、ソ連や中国もかつて同じような事を行い(中国の場合は大躍進政策を、ソ連ではトロフィム・ルイセンコの指導やアラル海縮小の顛末を参照)、大失敗している。
(タコ注:消滅する?世界第4位の広さを誇ったアラル海
左:1989年、右:2014年、下は干上がった湖底に放置された船)
しかし対外的には「大成功だった」と喧伝されたため、過去の過ちから学ぶことなく、北朝鮮も同じ間違いを繰り返す事になった。
例を挙げれば、
「食料が足りないなら山林を農地に変えればよい」とする単純な理論を振りかざし、山を切り開いて棚田やトウモロコシ畑を造ることになったのだが、
金日成が土留めのない田畑を造ることを指示したがために
少し雨が降っただけでその田畑は崩壊した
という話がある。
このような強引な農法により山は禿山となり、山の土砂が川に流れ込んで水位が上がり、ひいては洪水が多発する原因となった。
(タコ注:北朝鮮の禿げ山。
農業政策の誤りにより自然が完全に破壊されています。支那や南朝鮮同様、恩を仇で返す「アジアの裏切り者」に相応しい風景です。)
(タコ注:広島の里山の風景。
このような多種多様な生態系が維持されてこその農業、漁業だということがブサヨには理解できません。)
トウモロコシ畑においては連作障害を引き起こし、増産という目的に反し不作、ひいては食糧難を招くこととなった。
また洪水の影響で大量の土砂が海に流れ込み、海岸の生態系が破壊されてしまったため漁業にまで不振に陥ることとなってしまった。
また、化学肥料の機械的大量投与や水田や畑における常識外れと言える高密度の田植え(密植)や種まきを指導したために、一時的に農業生産は上昇したものの
土壌の消耗によって農地の生産力が崩壊し、
また旧ソ連の援助による化学肥料の供与が絶えたこともあり、
多くの農地が砂漠化と呼んでも差し支えないほどの惨状を呈している。
しかし、勝手に田植えの方法を改善したりすれば命令に服従しなかったと言う理由で処罰される可能性が大きく、また当然ながら最高指導者に意見できるわけもなく、この惨状はある意味放置されている。
■政府の対応
このような惨状に対し、官僚たちは洪水を政策の失敗をごまかす材料に利用して、各国からのコメの支援を仰ごうとしており、金正日に至っては「飢えで苦しんでいる同胞の南朝鮮(韓国)にコメを支援した」と国民に嘘の宣伝をし、それを聞いた国民も、本当の原因を言わずに同胞のためと納得した。
以上引用終わり。
以下は
満州
からの引用です。
現在、中華人民共和国(支那共産党)は満洲を「東北」と呼ぶが、中華民国時代は「東三省」、それ以前は「関外」と呼ばれていた。「関外」とは、万里の長城の東端の外という意味である。支那人(漢民族)にとって万里の長城より北は歴史的に異民族の土地であった。
大東亜戦争以前に支那が満洲の領土になったことはあるが、満洲が支那の領土になったことはない。このことは以下の歴史を見れば明らかである。
辛亥革命とは、被征服民族の漢民族(支那人)が征服民族の満洲人の王朝(清朝)を倒す運動であった。これによって支那を治めていた清朝皇帝が北京で退位したとしても、単に支那という地域の統治を放棄しただけであり、決して満洲が支那になったわけではない。
かつて13世紀にモンゴル帝国が支那を支配して元朝となったが、その元朝が14世紀に滅びてモンゴル族が故地の蒙古へ帰ったように、満洲族が故地の満洲へ帰るのはおかしなことではない。しかも、
清朝は他の民族が満洲に入らない政策(封禁政策)をとっていて、支那と満洲を別の地域として扱っていたから、この点からも蒙古と同じように考えて差し支えない。
今の支那共産党政府(中華人民共和国)が満洲までも自分の国と言い張るのは、イギリス人を追い払ったインド人がイギリスはインドだ、というのと同じ論理である。同じようにチベットやウイグルまでも自分の国だと主張するのは、インド人がオーストラリアやニュージーランドもインドだというのと同じでナンセンスなことなのである。
日露戦争前には、清国は満洲がロシア領にされてしまったと認識していた。満洲のとある地域に役人を派遣する際、ロシアの許可をもらっているのである。
日露戦争においては清国は完全中立のはずだった。日本はロシアを追い払ったのち、鉄道と遼東半島の租借という少しばかりの報酬で手を打って、満洲全体を清国に返してあげた(ポーツマス条約)。ところが実は、清国とロシアは密約を結び、日本と戦うというような話までしていたのである(露清密約)。そのことを知っていれば日露戦争は清国との戦争でもあり、勝った時点で日本が満洲を取っても文句は出なかった。清国とロシアの密約が判明したのは大正10年(1921)になってからであり、非常に残念なことだった。
満洲と支那の違いが分かっていない人がやたらと多い。このため、「満洲も支那だ」という支那のプロパガンダ(宣伝)に乗せられて、日本が侵略したような印象になっている。
外国人の多くはまだ満洲王朝の清国(清朝)を支那人(漢民族)の王朝だと勘違いしている。
(しかし)満洲族は満洲語を持っている。
清朝は満洲に他の民族が入るのを嫌がって封禁政策を取ったし、東三省(満洲)の将軍には満洲人を任命し、支那人を使わなかったのである。
辛亥革命で標語と成った「滅満興漢」とは、清朝による漢民族(支那人)支配を廃することを意味した。つまり支那人が支那人の国を作るということである。そうであれば、蒙古、ウイグル、チベットといった民族もそれぞれ自分達の国を作るのは道理であり、満洲民族もまた同じである。
ところが、孫文は臨時大総統になると、蒙古、ウイグル、チベットが清朝の支配から独立するのを認めなかった。蒙古、ウイグル、チベット、満洲が支那の領土ということは歴史的にまったく根拠がない。それを強引に自分の領土としてしまっているのが現在の支那(中華人民共和国)である。
大東亜戦争後、満洲が支那の手に入ると、支那は満洲人をなくす運動を進めた。満洲人を大量に蒙古やウイグルに移動させた。このため現在では満洲語を話せる人も満洲人と称する人もほとんどいなくなってしまっている。その結果、満洲独立を唱える声はほとんど絶えてしまった状況である。
万里の長城の外の「満洲」の地にはツングース語系の満洲族が住んでいて、古来、支那人は彼らを「化外の地」の民と呼んでいた。17世紀に彼らは天下を取り、清王朝を樹立させた。
清は周辺地域への侵略を繰り返し、領土を従来の3倍にまで膨張させ、他民族を蹂躙し、圧政を敷いた。支那にいた支那人もその支配下に入ったのである。
■「満洲」はもともとは清朝をつくっていた満洲族の出身地だった。
満洲族が清朝を樹立した際、満洲族は民族を挙げて万里の長城の内側に移住し、満洲の地は万一の際に帰れるように無人地帯にされていた。
支那の革命家にしても、当初は満洲を支那の領土であるとは考えていなかった。
革命派のナショナリズムはもともと、異民族である満洲人の支那人支配への憤りに発した漢民族主義である。
彼らにとって万里の長城以北の満洲など、たんなる「満奴」や「韃奴」の地であって、せいぜい革命後における満洲人の放逐先であり、むしろそこに日本の勢力が進出してくれば、支那はますます安泰になると考えていたのだった。
だから、孫文などは革命の際、満洲を支那の一部とはまったく考えておらず、日本に満洲売却交渉まで持ちかけていた。
自分達の土地ではなく異民族(満洲族)の土地であるから外国にくれてやってもかまわなかったのだ。桂首相に対しては、革命後に満洲を日本と支那の共同で開発しようといった提案まで行っていた。
だが革命がなって中華民国が成立すると、この国は清国の版図をすべて継承したいがため、新たな民族概念を創出した。つまり、漢人だけでなく、満洲人、チベット人、モンゴル人をも包含する「中華民族」というものであり、漢人だけでなく中華民族の土地はすべて支那の土地だと主張するにいたった。
今日の支那(中華人民共和国)では満洲という言葉は禁句としている。
その代わりに、自己中心主義的な、包囲しか示さない「東北」という呼称の使用を、日本人にまで強要している。もちろん日本人はそんなことに付き合う必要はまったくない。支那は満蒙(満洲と蒙古)の地は、支那の神聖不可分の固有の領土と勝手に決めつけ、高句麗史まで支那の一地方史と主張してはばからない。
清朝が支那を支配すると、
満洲族が大挙して支那(万里の長城以南)に移住した。
そして満洲は荒れ果てた地になっていた。
そこを日本が、ロシアの南進を阻止するために日露戦争を戦い、
インフラを整備し、近代産業を移植し、治安を維持し、支那の内乱が及ばない別天地にしたのである。
そこで大量の支那人(漢民族)が内乱に明け暮れる支那から、安定した満洲へ流入してきた。
(タコ注:ほぼ無人だった)満洲の人口は日露戦争の頃(1904年)には1000万人、辛亥革命(1911年)の頃には1800万人、満洲事変の頃には3000万人と激増した。
(中略)
今日の支那では「満洲」という言葉は「支那」と同様禁句で、「東三省」または「東北地区」と言い換えている。だが共産党満洲委員会が存在したように、かつては禁句ではなかった。
だから今日でも支那では「満洲事変」という言葉もなく、「九・一八事変」と呼ぶ。
これは事変勃発が9月18日だったためである。現在「九・一八」は抗日戦争の記念日に指定されている。
以上引用終わり。
「満洲」と「支那」という言葉は
使っちゃダメよ。キ・ン・ク
支那と満州という言葉は使っちゃ
ダメよ。ダメダメ。
以下は
●Wikipedia満州国
からの引用です。
満州はアイシン国(満洲語aisin gurun, 金国)創業の地として乾隆5年(1740年)に本格的に封禁され、漢人の移入は禁止され私墾田は焼き払われ流入民は移住させられていた(封禁政策)。
旗人たちも首都北京に移住したため満州の地は「ほぼ空白地」と化していた。
19世紀前半には封禁政策は形骸化し、満州地域には無数の移民が流入しはじめた。chenの試算によれば1851年に320万人の満州人口は1900年には1239万人に増加した。
1860年にはそれ以前には禁止されていた旗人以外の満州地域での土地の所有が部分的に開放され、清朝は漢人の移入を対露政策の一環として利用しはじめた(闖関東)。
以上引用終わり。
しかしながら、実際の闖関東は、牛馬に荷物を引かせて荒れ野を進んだわけではなく海路による移住のほうが多いとされています。
何故なら、ちょっと考えれば分かるように、牛馬や羊、山羊の餌になるような草は生えていても、開墾して種を撒いて収穫するまで人間の食料が持ちません。つまり耕作適地に移動するまでに食料が尽きてしまうわけです。
よって港湾周辺やせいぜい鉄道の拠点で水が引ける土地でコーリャンやトウモロコシ、粟などを栽培し、それを家畜に食べさせてその肉を食べ、またたまに市場で中国本土南部から来る米や野菜と交換する。
つまり、遊牧民が定着して牧畜農業に毛が生えた程度の農業でありると考えられ、また飢饉が連続する北朝鮮を見ても判るように、広大な荒れ野は放置されていたわけです。
特に北部は!!
つまり、ブサヨが捏造する
「満州国国土総面積の14.3%を日本が強奪した!」
と言うのは、全くのウソで、
逆に「語るに落ちた」、自らそんなことはあり得ないと自分で証明している訳です。
つまり、
「満州国国土総面積のたった14.3%の放置されていた荒れ地を日本が開発した!」というのがホントのところです。
ちなみに森林地帯は、満州の国土面積の17%でそれ以外は平地と標高の高い草原地帯になります。
以下は
農業 その6
からの引用・編集です。
赤が一つの県あたり二十万石以上、灰色が十万石以上、黄色が十万石以下です。左上のホロンバイルは極めて大豆の生産が少ないことがわかります。
大豆は満洲の全土で栽培されましたが、平野部で多く、北東、北西の冬に寒い地域、朝鮮半島側の標高の高い地域では少ない様です。
ちなみに地図の左下の熱河省はデーターが無い為に白いままとなっています。
以上引用終わり。
300万人と言われる当時の人口(これも捏造?)も、ほとんどが港湾や鉄道関連の苦力(クーリー)であると考えられ、貧乏で化学肥料も無い、水路も造れない当時の支那民族にとって「当時の時価の8%から40%」等と言うのは、商売上手な中国人の口からデマカセです。
実際、日本人にとっても支那人にとっても二束三文の価値しか無いわけですから。(^o^)/
かつての新幹線や高速道路、またリニア新幹線駅候補地の周辺の地価が現在上がっていることから考えても、この程度の嘘に騙される人は阿呆、馬鹿、間抜けのカスとしか言いようがありません!
【資料】
満州における春の著しい乾燥は小麦の成長を阻害し、逆に夏場の急激な気温の上昇は冷涼な気温を好む小麦にとって不利で、また秋の収穫期の気温の高さと多雨は、収量と品質を落とし(熟した小麦は水分を得ると穂に種が付いたまま発芽=穂発芽することがありそうなると値段が暴落します)、収穫作業にも不利であり、満州での小麦の生産は商業リスクの高いものとなっていました。
そこで収穫期の多湿多雨にも強いうどん用の日本産小麦を輪作という近代農法と共に、満州に持ち込んだようです(多くの人々が満州脱出行の途中で亡くなっていますから、当時の事を知る人が少ない訳です(T_T))。
■小麦の商業生産に必要な連作障害対策
小麦も連作障害が発生しやすく、欧米では
1、地中海周辺での二圃式(にほしき)農業と呼ばれる、冬雨型の気候のもとで農地を小麦の冬作と休閑地(牧草地)に分けてローテーションを組んでする農法。
2、中部ヨーロッパでの三圃式(さんぽ)農業と呼ばれる夏雨型の気候のもとで農地を冬穀・夏穀・休耕地(放牧地)に区分してローテーションを組んで耕作する農法。
3、三圃式農業を発展させた食用穀物・飼料作物・休耕地(放牧地)に区分してローテーションを組んで耕作する混合農法。
4、イギリスで収量を大きくアップさせたノーフォーク農法(1730年代)での、
カブ→オオムギ→クローバー※→コムギ
の四年輪作。
5、アメリカ(20世紀初頭)の
トウモロコシ→コムギ→クローバー、
または
タバコ→コムギ→クローバー
の三年輪作
などで栽培されてきました。
原始的な当時の中華式農業にはこのような知識はありませんね。(^o^;)
※牧草に向くのは赤又は白クローバー。豆科で空気中の窒素を土中に固定します。
三圃式農業の例。
輪作と違って休耕地が入ります。
中世ヨーロッパの三圃式農業