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2015-10-01 このエントリーを含むブックマーク

前段はfacebookに上げました。こっからはダラダラ書く!

退職がオープンになって以来、なんで辞めんのよ、って声を社内外の多くの方からいただきました。惜しむっていうよりアレね、意味わかんなすぎ、みたいな感じで。先に言っとくと、タクヤや親会社とけんかして、みたいなお楽しみファクターは皆目ないんで、その方面の勘繰りは無用です。

それで自分でもよくよく考えてみたんですけど、退職の理由は「思いつき」としか言いようがないんですよ。考えてみれば前職も思いつきで辞してるし、ほんと軽率に手足が生えたような男で。ただもうちょっとその思いつきの中身をちゃんと見つめてみると、「無力感」って言葉がいちばんフィットするかなー。

何を無力に感じたのかっていうと、「流され人生のままいくのか」っていうのと、「給油しないと後半戦きついな」って感じか。このふたつは背中合わせで貼り付いて混ぜこぜになってるので、自分のためにもここらでいっちょ明確にしておこう、と思ってこの文章をしたためています。


おれが最初に原稿でお金をもらったのは大学4年の21のときで、なんだかんだ20年間、文章力をお金に変えて生きてきたわけです。自分みたい外道でも誰かの役に立てることがあって、そしてそれで暮らしていけることには心底救われてきました。オーバーじゃなく、仕事のおかげでなんとか「死なずに済んだ」って感じで。

ただ、それはぜんぶ、依頼された仕事だったんですよ。自分のうちから発せられた何かを仕事にするというのは一度としてなくて、ナタリーもね、誘ってもらって、せめて対象くらいは切実なものにしようっていうんでコミックをやらせてもらった。そんな流されおじさんっぷりについては、むかし太陽くんにインタビューしてもらったのでそれを貼っておきます

最近じゃ流れに身を委ねてたらもろもろ調子よくなってきちゃったりして、あれ、このまま海流に乗ってたら定年まで乗り切れてしまったりするのかな、なんて思うことがあったり、あとメディアが売れてくるとともに行く先行く先で扱いもよくなってきちゃってさ、なんかふんぞり返ってるのがデフォルトの人になってしまわないかな、という恐ろしさがあった。

それは有難いことだし心地いいかもしれないけど、やっぱり流されのままなんだよな、って思ったら、なんか途方もない無力感にかられてしまって。40から60までの後半戦を、この無力感を抱えて戦うのか、しんどいな。っていうのが39、40歳のムードだったのでした。

加えて今年の2月に親父が心臓で倒れて、同時にお袋の認知症悪化が判明してからは、仕事と介護の両立でかなりヘヴィな日々を送るようになっていたし、人生の終わり方みたいなものをはっきり意識することが増えていた。さらにその日々で自分の体力低下、すなわち加齢を強く感じさせられることになって、うん、そういう死の匂いも強く影響したと思います。


話はガラッと変わって2014年7月。僕はペン大同門でアメリカ文学者の大和田俊之さんが出られるというので、四谷いーぐるで催されたフュージョントークに出かけて、そこで音楽評論家の柳樂光隆さんを紹介してもらったのでした。「彼、ナギラさん。ニューチャプターの」と大和田さんに言われても、失礼ながら何のことかわからなくてボンヤリ挨拶したんですけど。

ただ大和田さんがベタ褒めしていたので、次の週に「Jazz The New Chapter」をポチったんですよ。そんでYoutube検索しながらめくってみたらもう、ガツンとやられてしまって。そりゃもう軽佻浮薄な人間なんで、人生に何度か、こうガツーン食らってかぶれるっていうのを繰り返してきたわけですが(それこそ中沢先生とか、菊地さんとか、子供の頃ならブーツィとか)、ひさびさに来たのよ、大物が。

僕がペン大出なのでジャズに詳しいと思ってる知り合いがたまにいるんですけど、あそこで習ってたのはポピュラー音楽理論でスティーリー・ダンのアナライズとかしてたので、ジャズは完全に暗黒大陸。菊地さんにも当時、バップ聴いても全然わかんない、必ずアタマをロストするって訴えてたくらいで。まあソウル〜AOR〜シティポップおじさんだった。


それが、とにかくしょっぱな僕に刺さったのはBLACK RADIOだったわけだけど、R&B〜ネオソウル〜ヒップホップをジャズミュージシャンが生演奏するって難しくもないコンセプトなんだけどさ、最高だな、としかいいようがなかった。ネオソウルやヒップホップに感じていた和声的な食い足りなさがたっぷり解消されていて、それ以上のものになっていたというか。

あとはこんな模範的な読者がいるかって感じなんだけどw、クリス・デイブ行ってJディラ的ビートの地平に出会って、ホセジェームス聴いてエスペランサ聴いて、2013年に見てたサンダーキャットを再認識して。そしたら8月に菊地さんがラジオで「今ジャズ特集」をやったもんだから、ああもうこれ間違いないぞみたいなムードに盛り上がり、現地見に行かなきゃと9月末のエアを取ったのだった。

その旅行ではとにかく1日1つはライブを観るってことをノルマとして課してたんだけど、ただ日程が悪くてJTNC的な人はみんなツアーに出払ってて、ンデゲオチェロくらい。あとは場当たり的にジャズバーやリンカンセンターを回りながら、とにかくジャズの世界を見てやるぞっていうんで2週間、グルグル練り歩いた。

もう帰国も近づいたある日、smallsがマイロン・ウォルデンって人だったんだけど、ベースが日本人で、それはもうすごいプレイだった。圧倒された。プレイにも感動したし、本場も本場で日本人のベーシストが第一線を張ってるってことにたいそう盛り上がった。宿に戻って検索したら中村恭士さんという方で、プロフィールにバークリー出身と書いてあったので、その盛り上がりのままバークリーのサイトに飛んで受験の申し込みをしたのだった。

どんくらい何も考えてなかったかっていうと、一般教養のある4年制に、しかもすぐ入学するめちゃくちゃな出願をしていて、とにかく旅先の勢いすぎた。しばらくしてオーディションがあったんだけど、記念受験だと思って無対策のまま、推薦状が大事らしいんだけどそれも手ぶらで行くだけ行った。当然オーディションは散々。こりゃ受かるわけないとまた忘れていたら合格したって通知が来て、そこではたと「マジかよ」と。


そろそろカードが揃ったかな。無力感と、前半戦終了と、バークリー合格。加えて、ジャズミュージシャンが別ジャンルの音楽を演奏する、という潮流への憧れ。それで奥さんに話があるんだけど、って相談して、そしたらまあ奇特なことに応援するって言ってくれたので、あれ4月末だったか、卓也と津田っちに打ち明けたのだった。当然呆れられたけど、ふたりともいいじゃんって言ってくれて、翌日正式に意向を親会社にも伝えて、そっから半年弱。

退職にあたって親会社からは「担当業務をドキュメントとして残すように」というリクエストがあって、ちょっとばっくれてたんだけどw、ほんとにやんなきゃいけないってなってアワアワしていたところに旧知の編集者さんから唐木ゼミ書籍化の打診があって、渡りに船よ、とばかりにナタリーの記者養成マニュアルが本として世に出る運びとなりました。瀧ちゃん、その節はたいへんなご苦労をおかけしました。

あ、あと俺バカだから退職の予定は決められた日まで誰にも言わないでください、って言われたのを真に受けちゃって、メグとケーカに後任をお願いするときに、辞めるって言わずに委譲したんだよね。あれ一生恨まれてもしゃあないと思ってる。ゴメン。まとまんないけど、退職までの気持ちと経緯はそんな感じかな。「書く前に設計図を」なんて本を出したのに、日記となればこんなツラツラ書きよ(笑)。こんなところで退職の日の日記としたいと思います。