NHKアーカイブス「シリーズ日本の食(3)それでも大地に生きる」 2015.09.27


震災から4年半。
夢に向かって一歩ずつ進もうと頑張る若者たちの姿があります。
皆さん一人一人の復興への道のりをNHK「現地発明日へブログ」でこれからも発信していきます。
実りの秋
はい焼けてますよ〜。
そして食欲の秋
私たちの周りはたくさんの食べ物であふれています
すごい思います。
しかし日本の食は本当に豊かと言えるのでしょうか?

日本は食料輸入大国。
そのおよそ6割を海外に依存しています。
一方で米をはじめとする国内の農産物価格は長年低迷。
農村では荒廃が進んでいます。
農業をなりわいとする人の数は20年間でほぼ半数に減少。
65歳以上の高齢者が6割を超え後継者不足が深刻化。
耕作放棄地も増えています。
そして押し寄せる輸入自由化の波。
日本の…
NHKには今から22年前輸入自由化や凶作などに揺れる農村を記録したドキュメンタリーがあります。
東北と九州の農民2人が交わした往復書簡。
苦境に立たされる村の姿がしたためられています。
佐賀県唐津市の山あいで玄界灘と向き合いながら米とミカンを作ってきた山下惣一さん
(山下)「星さんお元気ですか?九州はさんざんな夏です。
私は思い切って今年ミカン園の半分400本を放棄しようと思います」。
そして山形県高畠町で有機農業を続けてきた星寛治さん
(星)「山下さん。
今どきどこを見渡しても村で働いている若者の姿はほとんど見当たりません。
多くの親たちは百姓は俺の代で終わりだと観念しているのです」。
日本の食を支えてきた農業の未来とは?
重そうにこうべを垂れている稲穂が一面に広がっています。
ここは有機農業の里と呼ばれる山形県高畠町の田んぼです。
こんにちは。
「シリーズ日本の食」3回目の今日はここ東北地方の田園地帯からお送り致します。
それではゲストの方ご紹介致しましょう。
どうぞ。
よろしくお願い致します。
よろしくお願いします。
この地で40年以上有機農業に携わっていらっしゃいます星寛治さんです。
星さん。
今年の稲いかがですか?もう重〜くこうこうべを垂れているようですけれども。
そうですね。
稲刈り間近というところまで来ましたけども。
これはコシヒカリですから10月の上旬ごろ刈り取りかなと思ってますが。
はい。
で星さんはこの地で農業に就かれてもう60年余りですよね。
そうですね〜。
こういう雨の日もあれば晴れる日もあれば豊作の年もあればいろんな年を過ごしてこられたんですね。
そうですね。
それこそ波乱万丈の60年という事になりますけども。
農政の変転といいますかね我々ほとんど予期してなかったような事が次々と起こってきた時代なもんですからそういう時代の逆風に絶えずさらされてきたなっていう思いがありますね。
今日これからご覧頂きます番組というのはこちらの星さんが出演された1993年の「NHKスペシャル」です。
1993年といいますと冷害などで大凶作だった年ですね。
そうですね。
国内の自給率が思い切って下がってもう緊急輸入するというようなそういう事が現実に起きた年でしたね。
まあそれをきっかけにいわゆる米の市場開放も始まった…。
そういういわゆる節目になった年でしたね。
さあでは早速番組をご覧頂きましょう。
星さんが58歳。
そして山下さんが57歳。
22年前のドキュメンタリーです。
49分の番組です。
今年日本の北と南で暮らす2人の農民の間で10通の往復書簡が交わされました。
そこには戦後最悪の凶作の中で揺れる思いがつづられていました。
「我が村の田が年を追うごとに荒れていきます。
20年以上も続く米の減反自由化の波農業たたき大凶作そして全く見えない将来への展望。
正直言ってくたびれました。
もうどうでもいいやという気分です。
冗談ではなしに『農業を潰してあなたたちどうするの?』とこっちが聞きたい気分です」。
(星)「この辺りでは稲穂の垂れない事を槍かつぎと呼んでいます。
空っぽの青い籾をつけた穂は鋭く天を指したままです。
人々は敗北感の濃い戦場に槍を担いで向かう武士のイメージを重ねその悔しさを表現したのだと思います。
でもその底には百姓の無念の思いが込められているのです」。
刈り取られる事なく火がつけられた稲。
これは追い詰められた2人の農民が秋再び土に生きる魂を燃えたたせるまでの記録です。
佐賀県唐津市湊です。
農家戸数は約100戸。
山の傾斜地や台地に田んぼやミカン畑が広がっています。
山下惣一さんは玄界灘と向き合いながら40年余り米とミカンを作ってきました。
虫がおる。
「星さんお元気ですか?九州の北部は今年は春先から天候が大変に順調で今のところ農産物は全て豊作型です。
私の在所では昔から『梅田・ヒワ麦』と言って『梅が豊作なら米が豊作ビワがよければ麦がよい』と言い伝えられています。
今年は珍しく梅もビワも両方豊作でした」。
水田のうち8割は段々になった棚田といわれる水田です。
山下さんは1ヘクタールが38枚にもなるこの棚田で米を作ってきました。
そして山の傾斜地を切り開いてミカンを植えてきました。
山下惣一さん57歳。
山下さんは農業の本質は未来へ向かって汗を流す事だと言います。
常に次の世代の事を考えて生きていくのが農業だ。
そうした思いを本に記してきました。
4月に稲の種をまき秋に収穫する。
10年後50年後を信じてミカンを植えてきました。
山下さんは結婚式の翌日から傾斜地の開墾に通ったと言います。
10年間辛抱しろ。
10年後には左うちわだ。
手のひらはまめだらけになりましたが最も楽しい時期でした。
山形県高畠町和田。
農家戸数は約600戸。
米やリンゴなどを生産しています。
星寛治さんは1ヘクタールの米とリンゴを作っています。
20年余り有機農業を続けてきました。
ほうきを使って害虫をはたき落としていきます。
化学肥料や除草剤農薬は使いません。
今も牛を飼いその堆肥を肥料としています。
星寛治さん58歳。
星さんが考える農業の原点は土を豊かにする事で作物自身の生命力を引き出していく事です。
星さんは土や命をテーマにした詩を作ってきました。
こんなに手間のかかる有機農業で生きていくと固く決意をしたのは昭和50年代に続いて起きた冷害の時でした。
東北の農民の顔は暗く空を見上げてため息をつく中で星さんの有機栽培の稲は冷害を乗り切りました。
温度計を田んぼに差し込んで泥の温度を測るとほかの田んぼより3度も温かかったのです。
この田んぼはもう有機農業無農薬栽培に切り替えてから20年以上経過した田んぼなんですよ。
切り替えた当初とは随分土泥の状態が変わってきたんですね。
ご覧になってもちょっと分からないかどうか…。
こうしてこう手でこういうふうにつかんでみるとほとんど羽二重餅のようなそういう非常に滑らかな感触になってるんです。
最初はもっとザラザラした状態だったと思うんです。
肥えた一握りの土の中には数億から10億以上の生物や微生物が生まれては死に生きては死にしている。
星さんはその無数の目に見えない生命活動のエネルギーを信じてきました。
2人が初めて北と南から往復書簡を交わしたのは昭和55年の事です。
米を一粒でも多く取る事が生きがいであるという農の論理は否定されたと記されていました。
米の減反政策が一層強化され農業は冬の時代を迎えていました。
そして15年の歳月が過ぎました。
今年の手紙には村が崩壊寸前であるとつづられていました。
「山下さん。
村は音を立てて崩れていく気配です。
日本農業の最後のとりでである米が陥落すればあとは何も残りません。
自由化推進論者には農民にショック療法を与える事によって再生のバネを引き出そうという考えがあります。
しかしそれは農村の現実を知らない空論にすぎません。
見過ごす事ができないのは力を合わせて何事も乗り切ってきた村共同体のたがが緩んできた事です。
村には底力など残されてはおらずあと一撃でひとたまりもなく崩れてしまうほどその内実は衰弱しているのです」。
「星さんお元気ですか?今年私がいささかショックだったのは我が村の米の減反希望面積が割り当ての1.5倍にも達した事でした。
余っていた米が不足の状態になってきたとして昨年から全国的に米の減反面積が緩和されましたよね。
でも今更猫なで声で『米を作ってもいいよ』と言われたって誰が作るものですか。
我が村の農家の人たちも『もうよか。
作りたくない』と言っています。
その多くは耕作の放棄です。
山の棚田は一度荒らすと元に戻りません。
棚田が荒れるというよりもそれを耕している人の心が荒れているという事。
つまり心田荒廃でありこの修復は大変に困難です」。
6月の終わり山下さんの棚田では水を確保できなくなるという事態が起こっていました。
山の棚田では川の水を棚田の上まで引き込みます。
そしていくつもの田んぼの水路を通しながら自分の田んぼまで水を下ろしていかねばなりません。
ところが昨年山下さんの隣の田んぼが放棄され水が回ってこなくなりました。
水路を放棄地に開いてなんとか水は確保できました。
しかし放棄地がどんどん増えれば一体どうなるのか。
連鎖的に棚田が放棄される姿が目の前に迫っていました。
昨年政府は米の不足から減反を緩和しました。
減反のためほかの作物を作っていた所を再び水田に戻す復田も進めてきました。
しかし村では棚田の3割近くが何も作られる事なく荒れています。
汗…汗水が染み込んでますからね田んぼには。
この田んぼだっておやじが本当一生懸命石垣接いでさ俺も弟も動員かけられてね何年も…3年もかかって開いた田んぼでしょ。
そういう…まあ単なる思い出だけじゃなくてその中につぎ込んできたものがある訳ですよ人間の。
そういう事を捨てるっていうのはやっぱりちょっとなかなか難しいもんですよこれは。
(取材者)できる限りやっぱり守っていきたいっていうふうに…。
その気持ちはみんなあると思いますね。
だから捨てるのに勇気がいりますよね。
最近だいぶ勇気がいらなくなってきましたけどね。
今年50年間作り続けてきた棚田の一部を放棄した岡部善孝さん。
息子は勤めに出ており昨年まで一緒に働いていた奥さんは体調を崩しました。
一人では作りきれなくなりました。
もう後継者…後を…百姓する人おるならどこでももう頑張ってするとですよ。
だってもうあと何年かしたらもうやめにゃいかんじゃけん徐々にやめていかんだったらいっぺんにやめたら寂しかけん。
山下さんは言います。
「減反までは心の中までは参っていなかった。
しかし5〜6年前の農業たたきで『日本の農民は過保護だ』とか『米は高い』とかいろいろ言われて本当に嫌になった。
あれでみんな吹っ切れて田んぼを荒らすようになった」。
今年は6月から2か月余り長い梅雨が続きました。
農作物への被害が次第に心配され始めます。
この時期山下さんが最も気にかけていたのは実はミカンの事です。
7年前農業を継いだ長男のマサトさんは農業大学で学んだあと2年間アメリカで研修を積みました。
山下さんは息子さんが農業を継いだ事を喜んで米とミカンであくまで生き抜く決心をします。
当時ミカンは大暴落したあと安値の一途をたどっていました。
この村でも120軒近くあったミカン農家は20軒にまで減っていました。
しかし山下さんはアメリカ帰りの息子の提案を受け入れました。
平たん部の条件のよい所で規模を拡大し山の傾斜地のミカンの木を切りました。
26からミカンをやり始めてそんで52で切った訳ですからねそれを。
だから自分の人生を切ったようなもんでね。
うちの女房が言いましたよ。
「私たち今まで何してきたんだろうか」って言いましたね。
平成2年春山下さんはミカン山の葬式を出す事になりました。
息子さんのパソコンを使っての経営分析によると山下さんと奥さんが結婚式の翌日から2人で開いたミカン畑が全体の足を引っ張っていると言うのです。
1年間の対立の結果息子が切り山下さんと奥さんが燃やしました。
燃やしてしまうと切り株だけが整然と残りさながら墓標のように見えました。
息子さんの使っていたトラクターです。
今年2月家を出て農業から離れました。
原因は去年のオレンジ果汁の輸入自由化でした。
ミカンは大暴落。
父と子の夢が消えました。
「星さんお元気ですか?九州はさんざんな夏です。
記録的な長雨の上に季節外れの台風。
その上に私たちミカン農家はジュースの自由化というもう一つの大型台風に見舞われています。
私は思い切って今年ミカン園の半分40アール400本を放棄しようと思います。
リンゴも同じ運命にあるようです。
星さんも早い時期にリンゴの木を切って別の方策を考えた方がいいかもしれません」。
(構内アナウンス)「ただいま2番線に到着の列車は山形行きです。
東京方面ご利用のお客様ご乗車にならずにそのままのホームでお待ち下さい」。
どうもご苦労さまです。
7月に入って星寛治さんの作る米やリンゴを提携し購入している東京神戸の消費者たちが山形に訪れました。
星さんの畑には300本のリンゴの木があります。
忙しい時期に応援を頼む援農を行ってきました。
農薬を使わないため虫が卵を産み付けないようにリンゴ一つ一つに袋を掛けていくのです。
有機農業といえどもそういう時代の影響を受けてる訳ですから深刻な労力不足に陥っていく訳ですね。
その辺が一番大きな壁になって果たしてどこまでやれるのかなっていう心配は我々にもある訳ですよ。
まあその辺のところをカバーするような形で消費者の方々の援農とかこれからやって来る大学生の都会の若い青年たちの農業に対する強い関心一緒になって汗を流そうというそういう動きが将来大いに広がっていけばその壁も乗り越えられるんじゃないかなというふうに期待はしてますけど。
昭和37年。
星さんは結婚を機にリンゴの木を植えます。
リンゴ園を開いていった思いを詩に書いています。
「山下さんは『俺はミカンの木を切るつもりだがあなたも観念してリンゴの木を切った方がいいよ』と言いました。
しかし三十数年前桑の木を掘り起こし豪雪から守り病虫害を防ぎ子どものように慈しみ育ててきたリンゴの木。
満開の花の香りや夕日に鈴なる果実は私の生きがいでもあるのです。
季節が来れば首を長くしてリンゴを待っている消費者の存在も大きな支えです。
山下さん。
私はリンゴの木は切りません」。
オレンジ果汁自由化の影響が大きくなってきました。
ミカンの暴落を防ぐため15万トンの生産調整が行われる事になりました。
ミカンの700町歩減反という事は…15万トン…。
700町歩っていったらまあ一町歩作ってるミカン農家が700戸。
また「切れ」という事かな?摘果だろ?8月。
「加工用ミカンは作らない」を合言葉にミカンを青いうちに落としていく摘果指導が行われました。
現在摘果なりそれからまああとのですね樹上での選別なりという事での出荷調整を現在取り組んでおりますので皆様もですねそこら辺のまあ現在の全国の生産量の状況辺りも一応考えて頂きましてミカンの生産量のですね調整に取り組みをしていきたいと思っております。
で特に一番心配されますのは加工ミカンでございます。
山下さんは今年奥さんと2人で切り開いた山の傾斜地のミカン400本を収穫せず腐って落ちるのを待つ事にしました。
冷たい夏が深刻になってきました。
「山下さん。
こちらは8月になっても太陽はまだ顔を出しません。
毎日曇天続きです。
奥羽山脈を越えて山裾の村に冷たい偏東風が吹きます。
いつもなら夏の盛りには冷たい水をかけ流して暑さを和らげ根の活力を保つようにするのですが今年は逆に深い水を張り太陽に当たった温かい水で幼い穂を外気の寒さから少しでも守ろうとする始末です。
次第に冷害の様相を帯びてきました」。
(風の音)九州へは冷夏と長雨に追い打ちをかけるように季節外れの台風が次々と上陸しました。
8月10日。
穂が出たばかりのコシヒカリを台風7号が襲いました。
産地の間の競争に生き残るためお盆前に出荷できるコシヒカリを主力にしてきました。
猛烈な風で稲が倒れていました。
まだ実の入る前の穂が水につかっていました。
村に歓声が沸き上がりました。
新築の棟上げ式です。
棚田を耕し水を分け合い共に生きてきた村の人々。
山下さんは今村の根っこが揺らぎ始めていると言います。
イチゴの苗の植え付けです。
農繁期にはお互いの作業をやりくりしながらみんなで手伝いに駆けつけます。
こうしたつながりが辛うじて村を支えています。
「山下さん。
今どきどこを見渡しても野良で働いている若者の姿はほとんど見当たりません。
出稼ぎや兼業化が果てしなく進んだのは農民の自主防衛なのです。
新卒で農業に就いた若者は全国で1,700人にすぎませんでしたよね。
私の町にも2,600戸の農家がありますが今年新規学卒就農者は1人でした。
多くの親たちは百姓は俺の代で終わりだと観念しているのです」。
農家の長男に生まれた山下さんはかつて農業を継ぐ事が嫌で都会に憧れ2回家出をした事があります。
そして二十歳の時村に戻りこの家と農業を守るために懸命に働いてきました。
家を守る事が農業を守る事であった時代でした。
お盆の8月14日。
息子さんが2人の孫を連れて里帰りしてきました。
山下さんは息子が農業をやめると言った時引き止めませんでした。
今山下さんは農業と家を切り離す時代が来ていると言います。
農業を守る事によってね家潰すぐらいだったらもう農業やめた方がいいと思うし。
で家を守る事によってね人間が不幸になるぐらいだったら家潰した方がいいと思いますけどもやっぱり農家の家っていうのはサラリーマンのマイホームと違うもんでしてね。
いっぱいここから出ていった人間がたくさんいる訳ですからその根っこですからねやっぱりそれは守らなきゃいかんのじゃないかというふうに私は思ってますけどもね。
多分それはうちの息子も思ってるはずだと思います。
精霊流しに向かう山下家。
山下さんと息子さんは家の将来の事について話し合う事はなくお盆が過ぎていきました。
「星さん。
驚かれるでしょうが7年間農業後継者としてやってきた息子が転職しました。
いろいろと思いは複雑ですが家族全員が農業にしがみついて生きる不安から解放されて正直ほっとしています。
私は一つの発見をしました。
百姓も自分一代の事だけ考えて生きればこれほど楽なものはないと思います。
田畑を広げたり山に植林したりと未来への投資までやっているから大変なのです。
皮肉を込めてですが今農業ががたがたになったおかげでやっと長男に職業選択の自由が生まれたという見方もできます」。
「山下さん。
お便り拝見しました。
あなたのお便りにありました息子さんの離農の事本当に驚きました。
それが自由化の波をもろにかぶったミカンの暴落や野菜の不振にぶつかり大きなダメージを受けた事が直接の原因だった事を知り言葉もありません。
将来に大きな期待を込めて支援してきたあなたや奥さんの事思うと胸が締めつけられます。
しかし若い夫婦は随分と考えた末の決断でしょうししばらくもう一つの仕事の力量を身につけて再び農業に戻ってくると思います。
私も同じ立場であるゆえに他人事でなく分かる気がしてお互い体力の続く限り頑張ろうよと肩をたたきたい気持ちです」。
星さんも農家の長男に生まれました。
大学で勉強したいという希望は長男は家を継ぐものだという家族の声に潰されました。
布団をかぶって泣いた思いがまた重なる出来事がありました。
長女のリカコさんが大学受験を控え進路を決める時突然文学部へ行きたいと言いだします。
農学部でなければ学費は出さないからと言ったあと星さんは布団の中で泣きました。
ここで譲歩したら娘は戻ってこなくなると思ったのです。
農学部を出たものの公務員となったリカコさんは昨年の秋に結婚しました。
週末を利用して夫婦で農作業の手伝いに来ます。
農業の経験はほとんどなくおぼつかない2人を星さんは農業を継ぐのか継がないのか何も言わず見守っています。
(取材者)やっぱり今後の事はお二人でこれから…。
どうしたらいいかっていうのまだ全然決めてないっていうか…。
決められないっていうか…。
ですね。
(取材者)リカコさん…。
8月27日。
台風11号が発生しました。
冷夏が続いた星さんの所では稲の成長が後れちょうど穂が出始めた時期でした。
(取材者)特に被害はありませんか?大丈夫ですね。
頑張ってくれたな…。
まあこれからもう一ふんばりしてしっかり実ってもらいたいっていうそういう思いですね。
稲は肥えた土の上にしっかりと立っていました。
「山下さん。
私たちは4年ほど前からたかはた共生塾という集団を作りまほろばの里農学校という活動をしています。
田舎暮らしに関心のある都会の学生サラリーマン消費者などに呼びかけ農業体験を通し体で学んでもらおうというものです。
昨日は田の草取りをやりました。
アヒルに変身した参加者たちは生まれて初めて入る田んぼに足を取られながらそれでも真剣に稲と雑草のヒエを区別しようと苦闘していました。
頭の中で考えて安全な食物が欲しいと叫ぶだけでは駄目だと分かったと言ってくれました」。
農業は好きな人がやっていくというか…。
生きがいとやりがいを持てる人が担っていくという時代にならざるをえないんじゃないでしょうかね。
端的に言えば世襲農民っていうかそういう事だけに依存する時代から職業仕事としてちゃんと選択できるようなそういう新しい段階に入っているんじゃないかなと思いますけども。
星さんたちの志す農業をしたいとこれまでに都会から移り住んだ人は20人を超えました。
星さんはこれからは家の後継者でなく地域の後継者を育てていきたいと考えています。
9月。
実りの秋が来るはずでした。
湊地区では水田面積の9割が台風で倒れました。
山下さんの棚田でも半分以上がべったりと倒れたままです。
倒れて水につかった穂に実は入っていませんでした。
種籾がないのよ今年は。
全国的でしょ。
だから自分で取っとこうって事になってんですよ。
来年の種がない…。
種がもうちょっとね心配なんで。
しかし種取れるようなとこないようちも。
山形など東北各県で米の深刻な被害が広がりました。
穂が出始める大切な時期に日照不足となり更に追い打ちをかけていもち病が発生していたのです。
星さんの田んぼも例年の半分以下の収量しか見込めなくなりました。
有機栽培で育ち台風を乗り切ってきた稲も秋口の異常なまでの低温には勝てませんでした。
特に被害が大きかったのは銘柄米でした。
星さんはブランド志向に流され寒さに強い品種を植えるという東北の米作りの原点を忘れていたと言います。
まあ一から出直しっていう感じです。
私だけじゃなくてやっぱりこういう山間地帯の農家については根本的に考え直さなきゃいけない場面ですね。
平年どおりの収穫をあげられそうな人がいました。
こんにちは。
頑張ってるなあ。
星さんたちの呼びかけで東京から移住してきたアダチヨウコさんたち。
地域の人たちみんなで応援してきました。
(星)今年で2年目ですね。
はいそうです。
我々もともとの百姓よりもずっと立派な稲作ってますよ。
大したもんです。
ほぼ平年作近くいくんじゃないですか?泥の状態がいいですよ。
これは年々年季を踏んでいくに従ってよくなってくるんですよ。
そうですか。
(星)お〜素手でやられてるんだな。
大したもんだ。
私が手袋かけてるのに。
山下さんの所では9月の初めから稲刈りが始まりました。
山下さんは去年まで息子さんが使っていたコンバインで稲刈りを始めました。
稲は倒れ慣れない運転でうまく動きません。
息子さんが手伝いに駆けつけてきました。
収穫も終わりに近づいた土曜日の事です。
べったりと倒れた稲を両親だけでうまく収穫できるかどうか大型のコンバインを父親がうまく動かせるかどうか不安に思い駆けつけてきたといいます。
山下さんはこの時少しでも農業を営む条件をよくして息子の帰りを待ちたいと思ったと言います。
農業を守る。
やめたら村がなくなる。
未来への投資は続ける。
山下さんは今年新たな決意をしました。
10月。
山形の星さんの所でも稲刈りが始まりました。
消費者が応援に来てにぎやかな収穫です。
今年抱いた軽い穂。
来年こそは重く実った穂を抱きたい。
しみじみ感じる時でした。
「星さん。
いやはや大変な年でした。
今年の大凶作を教訓として農業の大切さを再認識してほしいというのが私たちのせめてもの願いです。
が逆に米の市場開放へ向かう動きも強まっています。
正直言って『もういい。
勝手にしろ』というなげやりな気分が私の中にあります。
農業を潰して困るのは誰か?いつかきっとざま見ろという時が来る。
日々そんな思いが募ります。
が弱気になればどんどん潰されます。
声を上げなければ分かってもらえません。
今我が村では山の棚田の基盤整備をやろうという機運が出てきました。
このままでは棚田は荒れてしまう。
かといって後継者もいないのに借金を背負ってまで工事はやりたくない。
ぎりぎりの二者択一を迫られての選択です。
だから兼業でも三ちゃん農業でも何でも構わない。
ともかく多くの人が農業に関わる事によってそこに住み地域社会が成り立つ方向を目指してみんなで知恵を絞り頑張ってみたいと考えています。
大変に険しい道ではありますが」。
「山下さん。
ふと思うのですが昔厳しい労働と暮らしの中から優れた民話や芸能などの文化が次々と生まれた根源は一体何だったんでしょう。
私は経済効率一辺倒の価値観とは違った農業の豊かさを求めていきたいと願っています。
今稲刈りの済んだ田んぼに次々と稲杭の隊列が現れます。
近代化の流れの中で手作り農法と命にこだわる私たちの決意です。
まるで蓑笠を着けた百姓一揆のようにも見えるのです。
無言で何かを訴えて立ち尽くしている農民の姿です。
今の農政や世の中の潮流に抵抗し自立しようとする現代百姓たちの一揆の姿なのです。
山下さん。
北と南で力を出していきましょう。
それではお元気で。
93年秋」。
追い詰められた向こうに村の崩壊と荒れた山河そして家族の姿が見えました。
それぞれの思いを胸に抱きながら再び北と南の大地で生きる決意をした秋です。
1993年放送の「NHKスペシャルそれでも大地に生きる」をご覧頂きました。
22年前の星さんご自身の生活を描いたものでしたけれども。
あの時既に予兆として起こっておった農村の危機的な状況っていうのはその後20年の間にますます激しくなってきたなっていう思いはありますね。
例えばTPPの大津波がまさに押し寄せようとしてるっていう辺り…。
地域農業だけじゃなくて地域社会そのものが崩壊の危機にさらされようとしてるなと私は実感してますね。
もう一方ゲストの方にお入り頂きましょう。
番組の中で星さんと書簡を交わされていました佐賀で農業を営んでいらっしゃいます山下惣一さんです。
どうぞよろしくお願い致します。
よろしくお願いします。
うちの方はもうほとんどあの番組に出た田んぼ棚田は荒れてしまってます。
普通ねこれ一般には耕作放棄地っていってんだけどこの番組でもそういってますけど我々から言うとね耕作を断念したとこなんで耕作断念地でありまして50%ぐらいいってるような感じするね。
こんななるとは思わなかった。
星さんのこの辺りの場所ではどういう状況ですか?あの〜ちょっと周りご覧頂きますと青々として雑草が茂ってますね。
去年まではみんな田んぼだった所です。
その農業から離れるとそうしたこういう景色全体も変わってきてしまうっていう事なんですね。
はい。
環境と景観というものが全く変わってしまうって事ですね。
番組の放送から22年。
農業を巡る環境も更に大きな変化が続いています。
ここに主に農業を巡るものを中心に動きをまとめてみたんですけれども番組を放送した1993年には一粒たりとも入れないといっていた米。
この事実上の自由化というのが始まりましてそうした自由化の波というのは現在も続いてきています。
そして95年には食糧管理法いわゆる食管法が廃止。
国が価格や流通などを管理していたんですけれどもそれが自由に行われるようになりまして米の価格も市場原理で動くようになって米の価格が安くなっていく一つの要因になっているともいわれています。
そして2008年には世界的な食糧危機。
農業地帯での大干ばつなどの影響で穀物の価格が急騰しました。
日本でも米を輸出するといった事が検討されるような動きがありました。
それから40年以上続いていました生産調整減反政策を2018年には廃止をするという事が決まっています。
最初は国内競争から今度は国際競争になってでグローバリゼーションに…。
足りないのを輸入するっていうのが普通やってきたんでしょ。
今余ってても輸入するっていう時代で今度TPPでは米がこれだけ余ってね消費が減っていくという中で更にアメリカの主食用の米を入れざるをえないっていうね。
オーストラリアからも入れますと。
で収拾がつかなくなるから減反廃止だというまさに市場に任せてしまうという事ですから残らないんじゃない?日本農業という形ではね。
星さんはこの食管法が廃止されるその前から番組で放送している時から独自に消費者の方とつながりを持ってルートを切り開いていらっしゃいましたよね。
市場原理に左右されない安定した流通というもの自主管理で開いていきたいというそういう切なる願いがありまして。
消費者の方も生産の費用というもの生産費をしっかりと償えて簡素な暮らしが維持できるようなそういう価格っていうものがどのぐらいのものかという事を一緒になって考えてその価格を両方の努力によって守ってきたという事でしょうね。
ここの22年間考えてみたら結局ね少量多品目いろんなもの作っていくって…。
昔の百姓に返ったみたいで我が家もですね米作ってミカン作って梅作ってレモンもあって野菜を10種類ぐらい作ってるかな。
小規模で多品目を作って地元で売るという。
そういう農業に変わってきましたね。
地産地消で地元の消費者に支えてもらう地元の消費者を支えるというそういう形でしか残れないだろうと思ってね。
星さんにとりましてこの番組からの22年ですね最も印象に残った事っていうのはどんな事ですか?それは福島の東京電力の第一原発の大事故ですね。
注文が半分とか場合によっては1/3ぐらいに激減したという場面でしたね。
首都圏とか関西辺りまで仲間が何人も連れ立って出向いていって実情を伝えてそして理解して頂き更には向こうからこちらにおいで下さって実態を把握して頂くというそういう努力相互の努力の結果理解が深まってそうですね2年目…3年目辺りからほぼ事故前の水準に戻ったかなと思ってますけども。
今年は何かとてもいい実りじゃないですか?こちらの畑も。
そうですね。
今まででは一番いい実りだと思ってます。
土の力で育ってるっていう感じはしますね。
うちの田んぼなんか恥ずかしい。
とてもじゃないけど…。
どういうふうに違いが分かるものですか?茎が大きいですよね。
茎。
一本一本の茎が非常に大きい。
茎が太い。
はい。
何か生命力がねあふれてるって感じはしますね。
星さんが守り続けてきたリンゴも見せて頂きました。
今も有機栽培で実の一つ一つに虫よけの紙袋がかぶせられています
わあきれい!おいしそう。
これは親に紅玉の血が入ってるんですよ。
東北3号といっておったものです。
食べてみて下さい。
うんうまい!あっ。
もう食った。
これいいんですか?食べて。
どうぞ。
真っ白だ。
うん!果肉が真っ白で。
ジューシーで…。
爽やかな感じが。
ええ。
この酸味がいいですねぇ。
みずみずしい。
そうですか。
それはよかった。
どうしてこういうこの手間のかかるやり方というのを選ばれたんですか?人間の食べ物だしやっぱり見栄えよりもどれだけ安全な食べ物であるかという事とやっぱり食べて圧倒的においしいっていう事と食べて体にいいという健康を増進するというそういう事をとことん追求していきたいというふうに思ってきたもんですから。
最後に農業の将来について改めてお二人の思いを伺いました
今本当にTPPですとか国際的な自由化の波というのが強く押し寄せてきてますけれどもそういう時に何を目指すかっていうと…。
それはあの外国の金持ちのために農業やる気はさらさらない訳でね。
日本人のためにやりたい訳だから。
日本の人に日本の国民に食い支えてもらいたいですよ。
米でも何でもね。
そうしないとね結局農業問題っていうのは農家の問題だとまあ今はほとんど思ってるけど農家がなくなってごらんよ。
結局農業問題は消費者の問題だっていう事に気が付きますよ。
そういう国際的な自由化の波というとすぐに近代化それから大規模化というような事を言われますよね。
世界的にね去年は国連が国際家族農業年っていう国連の報告書を読んでたら何か自信が出てきましたよね。
簡単に言うと世界の農業の90%は家族農業である。
家族でやってる小規模農業であると。
でこれが世界の農業の土台であるという事ですね。
やっぱそれぞれの地域に合った農業というのがある訳ですから競争条件が違うのにね違う競争条件で同じ土俵で相撲取る事ない訳で。
やっぱり自分の土俵で自分の相撲を取るっていう事が一番大事だと思うねやってきてね。
外から来る輸入の物と違って強みはすぐ近くに消費者がいる。
流通経費もかかんない訳だしね。
福岡市にねスーパーがあるんですけどスーパーの中に我々の直売コーナーを作ってもらって24店舗かな毎日木曜日が休みで毎日出荷してます。
トラックで送ってやる。
よく売れますよ。
売れますか?うん。
そうするとねこういうミカンだって共同出荷だと規格が厳しいんだよね。
そこでやると値段下げればいくらでも売れる。
だから商品化率が90%ぐらいいくから。
形だの何だのじゃなくておいしくて近くで作って安心なものだったらっていう。
全く同感ですね。
限りなく規模拡大をして効率化を目指すそして生産性を上げるというのが国の方針なんですけどもやっぱり一番環境にも優しいし人間にとっての命と健康をしっかりと支えられる農業の営みっていうかね。
大きいのが強い農業じゃない。
そうです。
強い農業が生き残るっていうんじゃなくて生き残った農業が強いんだと私はずっと言ってるんですけどね。
生き残り方はさまざまあると思うよね。
さまざまあります。
それが正論ですね。
おっしゃるとおりだと思います。
生き残っていくっていうためにも後継者の問題っていうのはやはり深刻だと思うんですけれど山下さんのところはその後…?うちはビデオの中で星さんが…うちの息子百姓やめたんですよ一時。
今勤めてサラリーマンやってますけど。
その時いずれほかの世界で強くなってまた帰ってきますって星さんが言ってくれてそのとおりで。
やめるつもりはもともとなかったですからね。
帰ってくると言ってんだけど。
やっぱりね自分がずっと一生農業で頑張ってきて後が誰も継がないっていう事がはっきりしたらやる気なくなるよねこれは。
そうですね。
星さんのところは?孫がじいちゃんばあちゃんの有機農業継いでやるというので今年農学部に入ったんで。
へえ〜そうですか。
ここ2年ぐらいの間に20代の担い手が10名ぐらい誕生したんですよ。
そうですか。
ほとんど有機農家の息子とか孫たちです。
でもそれだけではまだ人口減少社会に歯止めかかりませんのでやっぱりもう一度都会の若者たちにこちらに移住してもらいたいですね。
そういう外からのやっぱり風と血を入れる事によって地域社会というのは明らかに活性化していきますんで。
確実なのはやっぱり誰か次の世代に担う人がいなければいろいろな食も風景もまたある意味では文化ですとかいろんなものが変わってきてしまう事は…。
それが誰にとっての問題かっていう。
やっぱり両方にとっての問題ですよね。
つまり生産者と消費者っていうバラバラのものじゃなくて私たち一緒に考えなきゃいけない…。
同じ船に乗ってるんだ日本丸という船に乗ってるんだという事でしょうね。
日本の物を食べて下さいよと。
そうしなきゃ誰が日本の農業を守れますか?これから考えようによってはやっていけるっていうのをものすごく力強くおっしゃったのが大変印象的なんですが。
もう星さんも私も80ですよ。
80ですよ?だからもうどうなろうとどうでもいいような話だけどやっぱりそうじゃないんだよね。
やっぱりこだわるっていうのは何だろうと思うんですがそれでも大地に生きる訳ですからね。
それはやっぱりね夢だと思うよね。
やっぱり農村はこうあってほしい農業はこうあってほしい。
世の中ってこういう世の中にならないだろうかっていうその見果てぬ夢ですよ。
私が80年かかって身につけたものをやっぱりしっかりと伝えるという仕事が最後に残ってるなと思ってるんです。
世の中の流れにただ流されていくだけではなくて人間にとって本当に充実して喜びに満ちて生きていく生き方とは一体何なのかという。
その事をしっかりと伝えていきたいですね。
そうだよね。
本当に今日はありがとうございました。
(2人)ありがとうございました。
2015/09/27(日) 13:50〜15:00
NHK総合1・神戸
NHKアーカイブス「シリーズ日本の食(3)それでも大地に生きる」[字]

衰退を続ける日本の農業、担い手は減少の一途、さらに自由化の波も押し寄せる。農業の未来はどうあるべきなのか。苦境にあえぐ農家の心情を記録した番組から考える。

詳細情報
番組内容
食を考えるシリーズ、第3回は農業。日本の食料自給率は5年連続で39%。背景は農業の衰退だ。農業就業人口はこの10年でも3割以上減少。高齢化も進み担い手不足、さらにTPPで自由化の波が押し寄せる。命の糧を生みだす農業の未来はどうあるべきなのか。コメの大凶作となった1993年に苦境に立たされた農民たちの心情を記録、地方の時代賞、優秀賞を受賞した番組から、22年後の出演者をゲストに迎え、考える。
出演者
【出演】星寛治,山下惣一,【キャスター】森田美由紀

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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