これ、すごく違和感。夕方買い物に行って帰る間ずっと考えていた。
最初の増田を見たときはブクマがまだ2つくらいだった。いや、おかん間違ってないわ。と思って立ち去ったらわーっと伸びて、第二段も来てた。
問題がごっちゃになっとる。
1.おまえはダメだと言われ続けて自己肯定間が薄くなり、消えてしまいたくなること
2.人を殺して刑務所に入って人生をリセットしたいと思うこと
1の自己肯定間の希薄さに悩まされる人は少なくない。これをどうするかを考えることが人生になっている人もいる。また2については真冬に雨露しのぐ場所がないといった理由で刑務所行きを強く願う人もいる。でも1と2は厳密には相関関係にない。風が吹いて桶屋が儲かったかのように見えているだけだ。
増田は「風が吹いてしまったから桶屋が儲かってしまった、誰かが衝立で風除けをしてくれていたら桶屋は儲からずにすんだ」という。でも寒風吹きすさぶなかでも断固儲からない桶屋も多い。桶屋を儲からせて風のせいにするのは見当違いだと思う。*1
わたしがこの増田にひっかかる理由をつらつらと考えてみたんだけど、これはDV加害者の言い分そのままだ。「俺は暴力なんかふるいたくない、どうして世界は俺をここまで追い詰めるんだ」と泣きながら、でもちゃっかり弱者を選んでボコ殴りにするあれ。そして「あの人、本当はやさしい人なの。誰かちゃんと愛してあげる人がいたら」って外からいっているのが増田。
そりゃボコるやつにも事情はあるだろう。でもああいう人をまわりの人がどう扱っているかっていったら、一般的にはそりゃもう腫れ物に触るように気を遣い、親切に情深く幾度となく慰めているものだ。「そんな態度じゃダメ!もっと真実の愛を」とそれ以上を望むのだとしたら、そんな現実離れした期待は捨てた方がいいだろうとわたしは思う。
肉体の暴力以前に起きている暴力
追い詰められることが人を狂気に駆り立てることは確かにある。トリイ・ヘイデンの「シーラという子」というノンフィクションには幼児を木に縛り付けて火をつけたシーラという6歳のが出てくる。シーラの父はアル中の薬中で、シーラはろくな世話も受けず虐待されながら生きていた。シーラは非常に暴力的な少女だったが、トリイをはじめとするクラスのメンバーとのかかわりで徐々に心を開き、変っていく。もしもシーラが安定した家庭で育っていたら、あんな恐ろしい事件はけして起こさなかっただろうと思う。
うん、あるよね。状況が違ったら起きなかっただろうっていう事件。なぜシーラに腹は立たないのになんで増田にはひっかかるのかなとさらにつらつら考えた。シーラが子供だったからではない。問題が違うからだ。
シーラは愛されている子供が憎らしくなり、我を忘れて衝動的に火をつけた。シーラは幼児を薪だと思ったわけではない。いっぽう自分の「人生をリセットするために」見ず知らずの人の命を奪うのは、 相手を薪扱いするのと変らない。これはムカついた相手を殴るのとは違う。相手への憎しみはない。むしろ心の中で謝っているかもしれない。「おまえの命を奪えば刑務所へ入って人生をリセットできる、悪いけど自分のために死んでくれ」と赤の他人に自分を押し付けるということだ。*2
この種の暴力は甘えであり、スケールの小さいものは日常的にもよくある。けれども、わたしはこの種の人を人ではなく自分の目的を達成するための道具として見るという暴力は、憎しみの末の暴力とは違った意味で空恐ろしいものだと思う。加害者は自分の冷淡さとぞっとするような利己心にしばしば気づいておらず、被害者に敵意も憎しみも抱いていないため、自分のことをどちらかといえばやさしく弱い人間、人生の犠牲者だと思っていることさえある。増田は加害者のこうした非人道的な暴力性を認めていないように思う。
「絶歌」に覚えた違和感もそこだ。「殺人はいけない、とりかえしのつかないことをした」と繰り返し書きながら、実際に並べられるのは美辞麗句で装飾された自意識であり、それまでの人生がいかに寒々しいものだったかということだった。「焚き火が禁止なのはわかっていた、でも自分は焚き火を必要とするまでに追い詰められていたのだ」。そこには薪として燃やした生身の人間と、その人を愛する生身の人間への配慮はない。わたしがこういった加害者擁護に感じる不愉快さは被害者の人権軽視の姿勢だ。赤の他人を殺してまで守らなければならないほどの自意識にどれほどの価値があるだろう。やはりわたしはそれを「くだらない」と思うよ。
一行ずつばらすというのも考えたけど長くなるからやめた。いま見たらあざなわ先生が書いていた。あのブクマの流れでこれはさすがだと思った。わたしは一般論としての社会問題ではなく、現実の被害者とその家族がいる問題が、増田の個人的な感傷のお膳立てに使われているようで不愉快だったよ。