あなたは感動ポルノという言葉をご存じだろうか。
これを提唱したのはオーストラリアのコメディ兼ジャーナリストのステラ・ヤング氏で、端的にいえばこれは「ある特定のグループに属する人々を、
どういうことだろう?感動ポルノとしてよく使われるものの具体例を下記にあげてみよう。
・周りからいじめられていた知的障害者が家族の愛で生き抜く話
・不治の病を抱えた少女の純愛ラブストーリー
どれもよくあるイイ話である。でも、そもそも何でこれらがいい話になるのか考えたことはあるだろうか?
感動ポルノの何が悪いのか
ステラ・ヤング氏は講演の中でこう指摘している。
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こういった行為の問題は、健常者が良い気分になれるように障害者がネガティブな存在として
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つまるところ、
なんでこういった事がおきるのかといえば、障害は簡単に人を感動させ、勇気づけ、
先に例にあげたものから感動ポルノ的要素を取り除いて変換すると、
・周りからいじめられていた障害者が家族の愛で生き抜く話
→普通に生活していた普通の人の家族とともに暮らす話
・不治の病を抱えた少女の純愛ラブストーリー
→普通の人の普通のラブストーリー
どれもこれも、
では感動ポルノは悪なのだろうか?
感動ポルノの問題点や悪い点をひととりあげた。しかしこれまた非常に難しいのだけど、感動ポルノそれ自体を「悪い」ものとして切り捨てるのも難しい。
たとえば「アルジャーノンに花束を」という作品がある。名作と名高い作品だけど今の論法に沿ってみれば、この本は知的障害者という社会的弱者を取り入れて作られた感動ポルノであるという風に読むこともできる。では、アルジャーノンに花束は「悪い」ものだと言い切れるだろうか。
たとえば「風たちぬ(スタジオジブリ版)」という名作がある。結核に冒された菜穂子が次郎さんへの愛を貫くその姿をみて涙を流す人に「お前のやってる事は感動ポルノであり、社会的弱者を使って自分勝手に感動しているだけだ。その感動の糧にされた人の事をモノとして扱ってるからそんな風に泣けるんだ!」とか言って説教するのが正しいのか。いやぶっちゃけキモイでしょ。
感動は社会に必要な要素なのは、否定しようのない事実なのである。というか俺の青春、100%泣きゲーから構成されているから!
おそらく感動ポルノとして扱われる対象者が考える望ましい未来は、こういった「
結局、お前はどう思うんだ
感動ポルノの問題は難しい。ステラ・ヤング氏は障害者を例に感動ポルノの問題を語ったけど、サバイバー賛美だとか性産業従業者を普通の人と比べて崇め奉る言説なんかも、だいたいこれと同質の問題を抱えている。功利主義者のように、「ある感動ポルノが産む幸せの量が、ネガティブな量を超えると判断される」ような「最大多数の最大幸福」がもたらされるのならば、感動ポルノの存在は仕方がないと割り切るしかないのだろうか。
僕は正直、無感動な社会をあまり大手を振って迎合できない。やっぱり意識するにしろしないにしろ、様々なものに感動しちゃうんだろうなと思う。悪いな、とは思うんだけど。ただ自分が人を消費しないと上手く行きていけないような存在であることを、認識して生きることは忘れないにしようかな、と思う(それと社会的弱者の方々がモノ扱いされないように行動する事は大切だとも思う。悲しみは減らせるのなら減らした方がいい。特に自分の大切な人がそういう風に扱われているのなら尚更だ)
誰も消費されない、ユートピアを望むのならば全人類は脳に薬をキメてカプセルの中で生きるしか無い。僕たちはお互いがお互いを消費する存在なのである。せっかくこの世に生まれてきたんだ。たまには意図せず傷つける事もあるかもしれない。その時は素直に謝ろう。そしてまた歩き出そう。そしてこれを繰り返して、自分と関わるひとりのひとりの人間の事をキチンと理解して、彼らを自分にとって「特別ではない当たり前の人」として理解できるようになれば、いつかこういった感動は必要なくなるのかもしれない。
ひょっとしたら、感動は成熟した社会では必要のないものなのかもしれない。その世界が訪れたとき初めて、感動ポルノはなくなるのかもしれないね。ここ数日この問題について色々考えたけど、これが表題に対する僕の暫定的な意見である。
あなたはこの問題、どう思いますか。うぐぅ