組織の安全活動を1人称で考える 私は約40年、航空事故を中心に、原子力発電や建設業の安全を研究してきました。今日は、交通に関して、40年かかって我々が考えてきた話をしようと思います。 とくに大事なのは、安全という言葉が、あまりにも美しい響きで、美しいがために誰かが安全を持ってきてくれるんじゃないかと思っているけれど、決してそうではないんだ、ということです。「安全を支える『ひと』と組織」と演題に掲げましたように、安全は人間が支えています。それを支えているのは組織です。組織は人間の延長線だと思うかもしれませんが、そうではありません。組織になったとたん、人間性を失う。それが組織の安全に大きく響いてくる、と感じています。安全教育が個人である「人」と、組織である「人」に対応しないと、安全は守れないのです。 管理者の方々はまず一番に、安全を"1人称"で考えていただきたい。安全を、自分自身が、ご家族が、どう捉えるのかを考えていただきたいのです。3人称の安全から1人称の安全へ、ということを今日はお話ししたいと思います。 危険を防止できる組織のマネージメントとは
我々は安全を守るためにいろんな防護壁を作っています。道路交通法も、自動車の設計も、会社の規則も、安全教育も防護壁です。ところが、残念ながら壁に穴があるのです。チーズの一つひとつの穴を貫いて、事故は発生している。それを防止するのは、組織の持っている安全の文化、安全の管理、安全の考え方です。その中で、安全を1人称で考えてください。 日本は事故が起こったあと、責任追及の発想に流れていきます。ここで、「誰がやった」という3人称の話になる。ならば処罰しよう、クビにすれば良いじゃないか、それで一件落着の「責任追及型」です。 そうではなくて、なぜ起こったのか、原因の分析をしっかりやる。それに対して、確実に防止する方法は何かを考える。今までやってきた安全教育の何が弱くて、何が無効で、何が有効であったのかを勉強しなければいけないと思います。これを何回も繰り返しながら、安全のレベルを上げることが、組織として大切なことです。 事故をおこすのはどの「人」か? 組織は人を使って安全を支えているわけですが、もう一度、人そのものの考え方を変えてみる必要はないのか、リチェックする必要はないのかを考えてみましょう。我々は人の表わし方を、いくつか区別して使っています。生物、動物としての状態を表わすときにはカタカナの「ヒト」を使います。心を持っている人間を表わすときには、平仮名の「ひと」。「ひと」が漢字になったのが、二本足の「人」です。 「ヒト」は生物ですから、お酒を飲めば酔っ払う、夜寝なければ、次の日は眠くなる。「ヒト」であることは、逃れられない運命です。 「ひと」は、心を持っている。夫婦喧嘩をすることもあれば、子供の病気を心配することもある。そういう心理的な部分を含めたものも、我々は避けては通れません。 「人間」は、「人の間」と書きます。これは、社会の一員としての、人間の行動をいいます。ですから「○○会社のだれだれさん」は、「人間」のカテゴリーに属します。 会社で安全教育をする時に、聞いている人はみな「人間」だと思って教育していませんか?ところが、そこにいるのは、カタカナの「ヒト」であり、平仮名の「ひと」である。自動車に乗ったとたん、「人間」よりも、「ヒト」であり「ひと」にすぐ戻る。それが、本来の自然の姿です。そこで交通安全が起こっているということをよく考えていただきたい。事故には「人間」として起こした事故と、「ひと」あるいは「ヒト」として起こした事故があるのです。 「人間」として起こす事故は、会社のために一所懸命やろうとして起こす事故です。時間に間に合わせて荷物を運ぶ、というように時間に追いかけられる状態で事故が起こっている。人を事故に導いていくことを、実は組織がやっている可能性があります。 「ひと」が起こす事故は、たとえば夜、子供が病気で一晩中看病をし、熱が下がらない。何の病気だろうと心配をしながら一所懸命運転をして起こしてしまう事故です。これは「ひと」である限り、当たり前です。素晴らしいお父さんであればあるほど、そういうことが起こる。 このような状態に対策を講じなければ、事故はなくならないのです。「しっかりしろよ」「がんばれよ」「何々を厳守しなさい」と盛んにいっても、それが厳守できなかったところに、事故が起こっている。「なされるはず」とか「あるべきこと」という事象が崩れたために、事故が起こっているのです。 どの「人」が事故を起こしているのか、もう一度見直すことが、事故の対策としてとても大切なことです。 人間の特性を理解すれば、有効な教育ができる ● 古い脳の事故、新しい脳の事故 人間は普通の動物と違い、情緒、意欲をつかさどる古い脳と、カッコよく生きようとする新しい脳とが葛藤しています。我々は生まれてからすぐに、古い脳で生きている。そして教育、教養が新しい脳の中に入って、動物である人間をコントロールしています。ところが、動物である人間を、我々は避けて通れない。新しい脳は、どちらかというと「たてまえ」「おもて」「理性」「清」「ギジル博士」という、新皮質です。 ところが、その後ろ側に「ほんね」「うら」「情緒」「濁」「ハイド氏」が、古い脳として残っている。しかも、古い脳のほうが丈夫です。発生学的には新しいものは高等ですが、高等なものほど先にいかれてまいります。老人ボケは、新しい脳が老化している証拠なのです。 ですから、人間の行動、事故を見るときには、「新しい脳の事故か?」「古い脳の事故か?」ということを分けて考えなくてはいけません。 ● 脳の壊れ方と事故 人間の古い脳には、新しい脳を完全に壊す作用があります。なかでも、日本人に特徴的なのが「焦り」です。時間に間に合わない、急いで行かなくてはいけない、とイライラするのが日本人の精神の特性です。 その次に、会社のために何とか納期までに間に合わせようという「忠実性」。俺はうまいんだ、という「驕り」。怒り、不安、疲れ、病気、あるいは薬も影響します。これが新しい知識の機能を完全に壊してしまう可能性があります。 人間機能にはさまざまな壊れ方があります。「ヒト」の壊れ方は、病気、加齢などの生理的要因、それから身体的要因、薬があります。「ひと」は心理的要因で壊れます。「人間」は、会社、組織が関係するところで、社会心理的要因によって壊れます。 「なぜ事故が起こっているのか」を考えるときに、人間がどのように壊れているのか、ということを考えていただきたいと思います。 ● どの情報にチャンネルを合わせているか 人間の頭はコンピュータと同じく、何かを見て、判断し、決心をして運転を始める、という情報処理の流れを取っています。しかし、人間がコンピュータと違うのは、外側からくる情報がものすごく多いということ。とくに目から入ってくる情報は大変多い。ところが、コンピュータと違って、頭の中で判断をするチャンネルは、たった1つのチャンネルしか使えない。つまりチャンネルを合わせたところしか、見えません。 外側から入ってくる情報をどのくらい使っているか、というと、実は1000万分の1なんです。大変な量の情報を捨てています。1000万分の1にうまくチャンネルを合わせていく。チャンネルをどこに合わせるのが一番大事かを教えることが、有効な安全教育なのです。 あるところにチャンネルを合わせると、他のチャンネルは見えなくなります。たとえば、初心者にバックでの車庫入れを教育するとき、左側を擦らないように気を付けなさいというと、右側をドンとぶつける。どこかに注意のチャンネルが行っていると、他は駄目になるというわけです。ですから、注意しなさいと盛んにいうことは、他のことは注意をしなくてよいですよ、といっているのと同じなのです。 ● 知覚の仕方を知る 人間は「みる」「きく」ことによって外界の情報を考える知覚動物です。一言で「みる」といっても、いろいろあります。たとえば、「視」は目に映ることをいう。「見」は、みること全体、視覚的認知を表します。「看」は目を凝らしてみること。観光の「観」は、きょろきょろみまわすことです。ですから、しっかり見なさいというときには「観」ではなく、「看」の見方をしなさいと教えなくてはいけません。 「きく」も、耳の音の入る感度のことをいう「聴」と、本当にきいている「聞」という字を使い分けます。 私は大学で10年ほど教えてきました。学生の多くは、目は開いているけど「看て」いない、耳に音は入っているけど「聞いて」いない。どんなふうに外の情報を受けとめているのか、わからないのです。「視」ではなく「看」、「聴」ではなく「聞」だということを意識しながら教育をすることがすごく大事です。 我々は人間を、目は素晴らしい、耳もいい、体だって動くじゃないか、と最大機能をすべて発揮しているものとして考えていますが、我々は一般生活の状態を「通常人間」と呼んでいます。オリンピックの選手には、「通常人間」以上の素晴らしい能力を持った人間がいる。しかしながら、すべての人間がオリンピックの選手になれるわけではありません。 じゃあ、オリンピック選手と違って、通常の人間は何ができるのか、何が見えているのか、どういうことをするのか、に焦点をぴったりと当てなくてはいけません。そこに安全の基点があるのであって、素晴らしいF1ドライバーができるようなことを我々は要求してるんじゃないんだ、ということをよく覚えておいていただきたいと思います。 人間は3つのレベルで技術を習得する 我々が技術を覚える流れには、3つの行動レベルがあります。 1番目は、知識レベルです。何かを見て、いちいち判断をしながら自動車を動かすという、知識レベルの行動です。教習所の教本を読みながら、自動車とは何か覚えます。知識があれば行動できるというのは、まったく嘘です。たとえば、航空力学の教授は、飛行機の操縦はできないし、経済評論家が社長なら会社は必ず潰れるであろうし、軍事評論家が司令官ならきっと負けると思います。 要するに、知識と行動は違う。その知識と行動を合わせるために、教習所などが教育、訓練をしていくのです。 教育、訓練とは、知識で覚えているものを手足に形づくることです。失敗を経験しながら、ぎこちのない行動をだんだんスムーズにしていくわけです。 2番目が規則レベルの行動。教習所を終わって、免許証をもらって、若葉マークを付けたころです。自分の体がやっとあるルールに従って動けるようになる。 そして1年後、マークが取れるころになると、3番目の熟練レベルの行動になります。熟練レベルでは、何も考えなくても、ひとりでに手足が動くようになってきます。ここで問題なのは、チェック回路がなくなってくることです。そこで、また元に戻して規則レベルの行動にしようというのが、指差し呼称や発声運転です。 さて、実際、熟練している方々は、この次に何が起こるかということをもう予測しています。外側の情報は、今自分が考えているものとうまく合うか、合わないかということだけを見ています。うまく合えばすぐに行動、運転を始めている。「どうも変だぞ」というところで初めて規則レベルや知識レベルの行動になるわけで、ここの別れ目に効いてくるのが、慎重さや熟練性、技術を超える「安全の知」です。これをどう考え、どう考えていくかが、安全教育の上でとても大切です。 これからの課題は「安全の知」の教育 我々は、いかに自動車が設計され、こうすれば自動車が動くんだという「技術の知」を一所懸命教えます。もっと大切なのは、その自動車に乗るドライバーの技術、つまり「安全の知」です。安全の知は、技術の知をはるかに凌駕している、もっと大きな知です。 技術の教育、訓練は、教習所で行います。感覚器の質や量、感度、あるいは定型的な判断や選択の訓練です。 ということは、定型的な判断、選択という段階において、定型的でないところに行ったらこの技術は使えない。役に立ちません。たとえば、東京の教習所で習った方が、北海道で雪道を走ってスリップをする。そこに教育の1つの限界があると感じます。定型的ではないものは、失敗などを体験することによって、自分自身で教育しているのです。じゃあ、安全を達成するためには、失敗の時間がどうしても必要なのか、ということを我々は振り返ってみる必要があります。 人の体験は、直接他の人に移し変えることはできません。体験を集めて教典にして、それを人に教えているわけです。いかにたくさんのことを体に身に付けて、擬似でもいいから体験しているかということが、安全の知を発揮させるためにすごく大事なことです。 無事故無違反のドライバーに学ぶ もと国鉄におられた丸山先生という方が、20〜30年間無事故のドライバーを対象に調査をして驚いたことがあります。それは、無事故の職業ドライバー全員が「自分は下手な運転手である」と、一番先に答えているということです。20〜30年間無事故だったら、人間特性として少しはうぬぼれるはずなのに、自分はヘタクソな運転手だとみんなが思っているのです。 そして仕事の後、チビチビやりながら、1日の反省をしている。「今日は、あそこですごく危ない目にあったけれども、あれはどうしてだろうか」と誰も教えてくれないから、自分自身で教育しているわけです。 それから、もっと大事なことは、心の平静さを常に保っているということ。運転している限り、いろんな嫌なことがあります。腹が立ったら、会社に電話するなどして、おさめる工夫をしています。 バックするときには、いったん必ず降車して、後ろを確認するぐらいの慎重です。車の運転も熟知している。予測能力もある。そしてやはり、職場の風通しが非常によく、安全の風土を持っているということ。組織に安全の文化があるのです。さらに、後輩の育成やご家庭の理解と協力というものを土台にしながら、無事故を続けていくことができるんです。我々の教育は、最終的にはこういう人を作ることだと、ぜひとも覚えておいてください。 事故発生には4つのパターンがある 今までの事故を見ますと、いくつかの大きなものに分けることができそうです。 1つは、経験、知識不足で起こっている事故。これは、若年者の事故です。 2つ目は技能不足。これは技能訓練を見直す必要があります。 3つ目には「やれない」ということがあります。技能も知識もあるけれど、作業量や工程、時間が適当でない。企業の雰囲気、マニュアル、管理などの問題です。たとえば陸送関係では、夜中じゅう東名高速をぶんぶん走って行くというような、人間の能力以上のことをせざるを得ないところに追い込まれる。これではやれないんです。 4つ目は、意図的に「やらない」状態です。これが「違反」です。なぜ違反が起こるのか、どんな違反であるのかをしっかりと見極めていくことが大切です。 組織の「安全文化」をつくる 我々は、事故が起きたときに、墓標安全をすごくやっています。 医者でいうと対症療法です。でも、我々が今ほしいのは、予防安全なのです。(資料2)
安全の4EとABC 安全の対策には、「4E」という言葉を使います。「ENGINEERING(工学的対策)」、「EXAMPLE(模範)」、「EDUCATION(教育、訓練)」、「ENFORCEMENT(強調、強化)」です。この、4つのEを組み合わせ、うまく使うことが安全対策の大原則です。 このことを、山本五十六という海軍の提督が面白い、素晴らしい言葉を使って表現しています。「やってみせて(模範)、いってきかせて(教育)、させてみて(訓練)、ほめてやらねば(強調)、人は動かず」。技術教育をするための真髄であるという感じがします。ぜひとも管理者としてお話をするときには、自分でやってみせ、いって、それからさせてみて、「うまくいったな」とほめてみてください。 安全の大原則は"ABC"すなわち「当たり前のことを、ボンヤリしないで、チャントやれ」だということも、ぜひ頭の中に置いておいてください。 当たり前のことを作るために、我々はどのくらい失敗し、どのくらい損害を破り、何人の命が失われているのかということを知りなさい、ということです。よく、ノウハウを教えなさいといいますが、もっと教えなければならないのは、「know why」なのです。なぜ、それをやらなければいけないのか、を教えなくてはいけません。 ボンヤリしていたら死ぬんです。安全の教育はすごく厳しくなくてはいけないんだ、ということを覚えておいてください。 機械ではなく、人間に合わせた安全対策を 日本人はとてもカラオケが好きです。カラオケは、できあがった音楽に人間がうまく合わせる努力をすることです。 我々はたくさんの機械を作ります。自動車を使います。飛行機を使います。しかし、できあがった機械にいかにうまく合わせるか、努力をしている。要するに、カラオケ文化を我々は作っているんです。 日本人は、できあがっているものにうまく合わせる器用さにおいて、世界一だと思います。ところが、外国を見てごらんなさい。うまくいかないのは、作った機械が悪いんだ。人間がうまく使えないんだったら、その機械を直せばいいじゃないか、という発想なんです。 事故の原因をよく見てください。人間ができないようなことを、我々はごり押ししているんじゃないか。人間を中心とした安全の在り方に変えなくてはいけない。「カラオケ安全」から、「素人のど自慢安全」に変えなくてはいけないんだという気がします。 音楽は後からついてきたおまけです。安全の面においても、これと同じことをぜひとも考えてみてください。機械は変えることが出来ます。しかし、人間というものは改造するわけにはいきません。手が失敗したからといって、足がつまづいたからといって、切るわけにはいかないのです。ですから、足はどこでつまずくんだ、という特性を知りながら、安全を考えていく必要があります。 人間は一所懸命努力をし、一所懸命働くからこそ、失敗をするんです。それを念頭に置きながら、もう一度人間の特性に戻った安全というものを考えていただきたいと思います。1人称で考える、素人のど自慢の安全を、これからは進めていただきたいと思います。 1999年7月29日 大宮ソニックシティ・ソニックホール 〈お問い合せ先〉 交通教育センターレインボー埼玉フォーラム事務局 〒350-0141 埼玉県比企郡川島町大字出丸下郷53−1(担当 小林、安齋、徳石) 定休日:月曜日 TEL 049-297-4111 FAX 049-297-6273 E-mail:tec-forum@tec-r.com |