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第二十二話 和平
何もかもが幻であると知らずにいたころの自分と、二度と会えない人の名前をマゴットは望んだ。
まだマルグリットと呼ばれていたかつての自分。
そして家族同然で兄とも慕う存在だったナイジェル。
もしも違う人生があるのなら、二人が幸福に生きることができたと信じたい。
イグニスは一言も言葉には出さずに、マゴットが胸に秘めた哀しい記憶を丸ごと呑みこんだ。
「いい名前だ――必ず幸せにしよう」
「うん……うん……!」
嗚咽しながらマゴットはイグニスの胸に額を寄せた。
「夫婦仲が良いのはいいことだけど、あんたら早く子供も抱いてあげなよ?」
サンドラに揶揄されると、マゴットは恥ずかしそうに顔を赤らめて、産まれたばかりの子供を受け取った。
髪の色は男の子がイグニスに似た茶髪で、女の子がマゴット譲りの銀髪をしていた。
バルドの時にも感じたことだが、子供たちの容姿のなかに自分の遺伝子が確かに受け継がれていることを確認すると胸が締め付けられるような愛しさがこみあげる。
ギュッと握りこんでいる小さな手に指を差し入れると、まるで母とのスキンシップを喜ぶかのように男の子がキャッキャと笑った。
「――あなたたちは仲のいい兄妹になるのよ?」
「きっとなるさ。私と君の子なのだから」
この子たちは絶対に大人の都合で不幸になることのないように。
身重でありながらバルドを助けるためマゴットが飛びだした理由もそこにある。
たとえどんな強い権力の横暴があろうとも、我が子の命だけはただの一槍をふるって必ず救い出す。
それが若き日いくつもの戦場を渡り歩き、誰にも真似のできない人外の武を身につけた銀光マゴットの誇りであった。
なぜならそれは、幼い日の自分が叶えられなかった誓いだから。
「うう……良かった……良かったよおお」
「おめでたいですわ」
「…………素敵」
「私にも義弟と義妹が!」
いろいろと邪な思惑が混じっていた気もするが、概ね嫁たちもイグニスとマゴットの愛情の深さを見せつけられて感動に瞳を潤ませていた。
もちろん二人の夫婦の姿に、自分とバルドの姿を重ね合わせて妄想してのことである。
(いつか私たちも…………!)
「うふふふ……」
「ほほほほほ……」
「ぐへへ……」
「………………(ぽっ)」
――――ゾクリ
「なんだかとても背筋が寒いんだが……風邪かな?」
こめかみからタラリと冷や汗を流すバルドに、呆れたようにブルックスは答える。
「頼むからこれ以上フラグを立てないでくれ」
第二次アントリム戦役――後の世に伝説として語り継がれることになる一連の戦闘は、ランドルフ侯爵軍の援軍が到着することでほぼ終了した。
ハウレリア王国は辺境の一子爵にすぎないアントリム子爵に完敗を喫して敗走。
全軍の三割以上を失う大敗の責任をとって国王ルイは王都に戻ると同時に退位を宣言し、その王位を和平派であったモンフォール公ジャンに譲位する。
納得いかないのは国王ルイに賛同した貴族たちであった。
領地経営に支障をきたすほどの大損害を受けながら報償もなく、国政を牛耳るのはこれまで反主流派であった和平派になるのである。
これで大人しく納得するほうがどうかしていた。
「我々はいったい何のために戦ったのだ!」
もちろんそれは、身内の復讐とマウリシアの肥沃な大地の利権のためであったのだが、彼らの言い分としては国王の命令に従い忠誠を尽くしたということでもある。
しかし国内最右翼であり、もっとも強大な戦力を保持していたセルヴィー侯爵家が文字通り潰滅していたこともあって、実力を行使しうる貴族の数は激減していた。
強硬派の盟主となったのはルイの従兄弟にあたるノルマンディー公クロヴィスである。
ハウレリア王国の軍事力はまだまだマウリシアに優越しており、侵攻することはできなくとも防衛力に不足はないというのが彼の主張であった。
新たに即位した国王ジャンの和平交渉は、かなりハウレリアに屈辱的な内容となることが予想されていた。
事実ジャンは国境線の割譲や賠償金の支払いなど、ハウレリア王国の政治的独立を保つためにあらゆる譲歩を考慮するつもりであった。
長年に及ぶ重税――――そして徴兵された民兵の損害。
苦しみが長く期待するものも大きかっただけ、裏切られた反動も大きかった。
ハウレリア王国全土で反政府機運が高まり、これに周辺諸国、特にハウレリア王国の南東に位置するケネストラード王国が食指を伸ばし始めようとしていた。
後ろ盾を得たと思いこんだ頭の軽い貴族が、武装蜂起を決意しかけたそのときである。
現国王ジャンの政策に反対した先国王ルイが、隠居先のシュビーズに反国王派勢力を集めて反乱を企てた。
「私はこのような屈辱的な和平のためにジャンに譲位したのではない」
敗戦の責任を取り、退位したときには誰も引き止めなかった貴族たちであるが、神輿が現れたとばかりにたちまちシュビーズに参集する。
国王ジャンに反旗を翻そうとしていた彼らも、正面から国王と戦えば勝ち目は薄いと感じていたのだろう。
新政府の中枢から排除された貴族を中心にシュビーズに会盟に訪れた貴族の数は、実に二十三家を数えた。
これはハウレリア王国の上流貴族のおよそ六分の一にあたる。
まだ政権基盤が安定していないジャンにとって、先国王によるこれらの貴族の反乱があればそれは致命傷となる可能性が高かった。
集まった貴族たちに、ルイは機嫌よく手ずからワインをついで回ったという。
否が応にも彼らの士気は高まった。
「諸君、卿らの献身まことにうれしく思う。これは嘘いつわりのない私の本心だ」
宴もたけなわになったころ、ルイは涙ながらにそう言った。
あれほどの無様な敗戦を喫した自分の旗を仰ごうとしてくれる。
たとえそこに利害関係があろうとも、その事実がルイにとっては慰めとなっていた。
「私は愚かな王であった。許せとは言わん。だが王であるからこそ王の役割は果たさねばならぬ。すまんが卿らの命、私にくれ!」
「おおっ! 我が命、我が君に捧げます!」
その言葉が形式的なものであると判断した貴族たちは口ぐちにルイに対する忠誠を叫んだ。
しかしルイの言葉は決して比喩的な表現ではなく、文字通りに彼らの命を要求していたのである。
「ぐほおおっ!」
喉を熱い物がこみあげてきて、彼らは見栄も外聞もなく嘔吐した。
そして吐しゃ物に交じって、見間違いようもない真っ赤な鮮血が溢れていることに気づいて愕然とする。
「い、医師を……早く医師を呼んでくれ!」
口から血泡をまき散らしながら、すがるような思いで彼らは叫んだ。
このままでは死を免れない。本能的に彼らは自分を襲う激痛の正体を察していた。
豪奢を極めた料理の数々が鮮血に染まり、血だまりの中に痙攣して男たちがのたうちまわる様子はまさに地獄絵図である。
そんななかでただ一人、平然と彼らを睥睨して佇む男がいた。
静かに涙を流しながら、この地獄絵図を決して忘れまいと睨みつけるその男は、誰あろうルイその人にほかならない。
ようやくにして貴族たちはこの地獄を演出したものが誰であるかを知った。
「――――何故だ? 私たちは陛下のために!」
「あれほど殺しておきながら、まだ足りないのか? この殺戮王め……」
「いやだ! 死にたくない! 何でもするから助けてくれえええ!」
「――――あの世についたら余を八つ裂きにでもなんでもするがよい。余は拒まぬ。逆らわぬ。こんな無様な方法しか王国を救う手を見つけられぬ無能な王ゆえな」
最初からルイに反乱を起こすつもりなどなかった。
今ハウレリア王国が内戦に突入すれば、間違いなく諸外国の介入を招く。
国際的な政治バランスからして一国が独占することは不可能であるから、マウリシア、ケネストラード、モルネア、ケルティアス、ガルトレイク各国に分割占領となる可能性が最も高い。
マウリシアと敵対する関係上、モルネアやガルトレイクとは友好関係を保ってきたが、隣国だけに甘い蜜を吸わせて指を咥えて黙ってみている国があるとはルイは思えなかった。
ゆえに――――反乱の目は根絶しなくてはならない。
そしてその憎悪を向けられるべきはジャンであってはならないのだ。
「こんなことが許されると思うな……貴様の名は……未来永劫……卑怯ものとして……」
怨念をこめたクロヴィスの最後の言葉はそれ以上口には出来なかった。
無念の表情を張りつけたままクロヴィスは絶命する。
最終的に参集した全ての貴族が死に絶えるまで、半刻近い時間が必要であった。
「国を滅ぼす汚名に比べたら、卑怯者ぐらい何ほどのこともないさ」
当然の結果として、当主を殺された反国王派貴族たちは怒り狂った。
味方してやろうとわざわざ足を運んで出向いたら皆殺しにされたのである。
これで怒らないほうがどうかしているであろう。
ところがそのころルイはすでにジャンによって謀反の未遂犯として逮捕されており、彼らが復讐しようにも手をだしようがなかった。
「私と引き換えに戦争を諦めさせ、国王に忠誠を誓わせろ。少なくとも五年程度は大人しくしているだろう」
「どうして貴方がそこまでしなくてならないんです!」
身も蓋もないルイの言葉にジャンは思わず激昂した。
ルイは一度は忠誠を誓った主君である。
退位させたのも、残る人生を平穏に送ってほしいと思ったからこそだ。
こんな自殺紛いのことをさせるつもりでは断じてなかった。
「――――この国を頼む、ジャン。私を少しでも思ってくれるなら、この私を亡国の王にだけはしないでくれ」
大陸でも有数の軍事国家であったはずのハウレリア王国は、今や各国にとんだ張子の虎と思われている。
たかが一子爵に完敗したのだから無理からぬ話であった。
相手が弱いと見ればかさにかかってくるのが国際政治というものである。
一刻も早くマウリシア王国との和平をまとめなければ、ハウレリア王国は各国の草刈り場と化すであろう。
敵ではあるが、老獪なマウリシアの狸がそれを望むはずがないことをルイは確信していた。
「先んじて私の首を送りつければそれほど無理難題をふっかけてはくるまい。あの男にとってもハウレリアに友好的な政権ができることは歓迎すべきはずだからな」
サンファン王国との同盟にも見られるように、ウェルキンの視線はトリストヴィーに向いている。
気質的に統治の難しいハウレリアを占領する気がないのは、ほとんど追撃らしい追撃を受けなかったことでも明らかであった。
淡々と己の命を捨てる話を語るルイに、ジャンは声をあげて嗚咽した。
「つらい役目を押しつけるが――すまん」
三日後、恭順してきた反国王派貴族が見守る中、先国王ルイは王都の中央広場で斬首の刑を執行された。
密蝋漬にされたルイの首はウェルキンのもとに送り届けられ、ウェルキンは宿敵の変わり果てた姿にしばし言葉もなかったという。
ルイの王としての覚悟に感じいったかはわからないが、マウリシア王国はいくばくかの領土の割譲と賠償金と引き換えに、ハウレリア王国におけるジャン国王の正当性を認めた。
要するに、ジャンに対して反乱を起こしたり、侵攻したりしたらマウリシア王国が相手になるぞと宣言したわけである。
そして最後に、マウリシア国内でのボーフォート公の反乱だけが残された。
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