川上量生が、世の中のクリエイターはあまねく表現技術に収束する旨を言っているのは、単純にクリエイターが限界を悟っただけちゃうの?
クリエイターが、自分の求める"あるべき世界"を目指して表現し続けるならば、表現技術に収束してしまうはずがありません。
"あるべき世界"を目指して挫折するか、或いは最初から目指すものがないからこそ、表現技術をよりどころとするしかなくなるのでは、と私は思います。
何度同じ表現技術を使おうが、自分の思う"あるべき世界"に近づくのはなかなか難しいです。
端的なのが街頭演説ですよね。
街頭演説が単なる言葉の羅列ではなく、人々を惹きつけるパフォーマンスになればいいとは思います。
ナチスをはじめとしたアジ演説だって、パフォーマンスといえばパフォーマンスです。
しかし、もっと効果的なパフォーマンスってきっとあると思います。
私もいい例を思いつきませんが、だからたたき台として挙げると、たとえばAKBメンバーがAKBの衣装を着て街頭演説したら、相当多くの人間を惹きつけられると思います。
・・・いやしかし、やはり表現とは、自分を表現するのではなく、相手を理解することから始まるのです。
そうすると街頭演説で、目の前に現れた論客を相手に議論するのが、やはりいちばん手っ取り早いという結論になってしまいますよね。
論戦って人々は見てしまうもの。
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