|
はじめに
私は1962年に社会人になって今年で50年となるが、最初の30年は古河電工に、次の20年は日本サッカー協会(以下“JFA”)に在籍している。国際的なサッカー界との繋がりが始まったロンドン駐在時代から起算すると30年となる。演題のサブタイトル“~日本サッカーの国際化を支えて40年~“は、正しくは”30年”である。今年6月に日本サッカー協会の会長を退いたのを機に、今日までの自分とサッカーとの関わりについて当倶楽部で話すよう依頼があり、本日講演することになった。本日の演題のメインタイトル「夢があるから強くなる」はJFAが『2005年宣言』(下掲)で掲げたスローガン“DREAM~夢があるから強くなる”から引いたものである。
|
1.日本サッカーの歩み
日本のサッカーの発祥と発展
世界のサッカーの起源は1863年に英国で「アソシエーションフットボール」と「ラグビーフットボール」にそれぞれルールが分けられ、前者が手を使わない「サッカー」に、後者が手も使える「ラグビー」となった。来年英国サッカー協会は設立150年を迎える。
日本にサッカーが伝わったのは1873年、築地にあった海軍兵学寮で英国人将校が教えたのが最初とされている。その後1919年にイングランドサッカー協会(The
FA)から日本に「FAシルバーカップ」が寄贈されたことを機に、1921年に「大日本蹴球協会」が設立された。戦前のサッカーの歴史で大きい出来事は1929年に世界サッカー連盟(以下”FIFA”)に初加盟し、第二次世界大戦時に除名されたことの他、特筆すべきは1936年のベルリン・オリンピックで初参加の日本代表が優勝候補のスエーデンを3-2で破り、ベスト8になったことである。戦後は、先ず1950年にFIFAに再加盟し、1954年にアジアサッカー連盟(以下”AFC”)が発足し、日本もファウンダーとして加盟した。1960年にクラマー氏を日本代表の初の外国人コーチとして迎えて以来、日本サッカーも再興し、1964年東京オリンピックでベスト8に、1965年にはクラマー氏の進言で日本初の全国リーグ「日本サッカーリーグ(JSL)」が発足、1968年にはメキシコオリンピックで銅メダルを獲得するに到った。
丸の内御三家と新日鉄
1960年代以降日本のサッカー界を支えてきたのが『「丸の内御三家」(古河電工、三菱重工、日立製作)+新日鉄』といって過言ではない。現在「日本サッカー殿堂」に”殿堂入り”している62名のうち、「御三家+新日鉄」の出身者が20名にも及ぶ。古河が最も多く8名、次いで三菱6名、日立3名、新日鉄3名となっている。古河の8名は長沼健、平木隆三、八重樫茂生、川淵三郎、鎌田光夫、宮本征勝、
の各氏に加え、今年殿堂入りした奥寺康彦、永井良和の両氏である。
歴代日本代表監督
日本の歴代代表監督を下表1に示す。
表1.歴代日本代表監督
氏名(出身社)
|
在任期間
|
氏名(出身社)
|
在任期間
|
二宮 洋一
|
1951. 2 ~ 1951.
3
|
森 孝慈 (M)
|
1981. 5 ~ 1985.11
|
竹腰 重丸
|
1951.11 ~ 1956.11
|
石井 義信
|
1986. 5 ~ 1987.10
|
高橋 英辰(H)
|
1957.10 ~ 1957.11
|
横山 健三(M)
|
1988. 1 ~ 1991.
7
|
川本 泰三
|
1958. 5 ~ 1958.
5
|
オフト
|
1992. 5 ~ 1993.10
|
竹腰 重丸
|
1958.12 ~ 1959.12
|
ファルカン
|
1994. 5 ~ 1994.10
|
高橋 英辰(H)
|
1960. 8 ~ 1962.
9
|
加茂 周
|
1995. 1 ~ 1997.10
|
長沼 腱 (F)
|
1962.12 ~ 1969.10
|
岡田 武史(F)
|
1997.10 ~ 1998.
6
|
岡野 俊一郎
|
1970. 3 ~ 1971.10
|
トルシエ
|
1998.10 ~ 2002.
6
|
長沼 腱 (F)
|
1972. 1 ~ 1976.
4
|
ジーコ
|
2002. 8 ~ 2006.
6
|
二宮 寛 (M)
|
1976. 5 ~ 1978.12
|
オシム
|
2006. 7 ~ 2007.12
|
下村 幸男
|
1979. 3 ~ 1980.
4
|
岡田 武史(F)
|
2007.12 ~ 2010.
7
|
渡辺 正 (S)
|
1980. 5 ~ 1980.
6
|
ザッケローニ
|
2010. 8 ~ |
川渕 三郎(F)
|
1980.11 ~ 1981.
3
|
|
|
(注)出身会社: 古河(F) 三菱(M) 日立(H) 新日鉄(S)
歴代監督25代の中、日本人監督が19代、うち11代を「御三家+新日鉄」出身者で占め、彼等が日本のサッカーの活躍に多大な貢献をしたことが分かる。中でも長沼健氏は歴代監督の中で最も長い期間代表監督を務め、東京、メキシコオリンピックで好成績を収めた。横山謙三監督の時代までは、監督・選手の給与は全て出身会社が負担していたので、それぞれの出身会社が財政面でも日本サッカーを支えていたといえる。1992年より、日本サッカーはプロ化を目指すため、プロの外国人監督を招聘することになった。最初の外国人監督としてオランダよりオフト氏が就任し、次いでファルカン氏、トルシエ氏、ジーコ氏、オシム氏、ザッケローニ氏などの外国人が代表監督を務めることになった。その間の日本人監督は加茂、岡田
の両氏のみである。
日本サッカーで古河電工が果たした役割
戦後の日本のサッカーで古河電工が果たした役割は大きい。1955年に長沼健氏が古河電工に入社して以来、同氏を慕って多くの有力選手が古河電工に入社し、1960年にはそれまで学生を中心とするチームが独占していた天皇杯を古河電工が実業団単独のチームとして初めて獲得し、翌1961年も連続して獲ることになる。これは日本のサッカーが学生スポーツから社会人スポーツとして、いわば「大人のサッカー」に変わったことを象徴する画期的な出来事といってよい。1965年のJSL発足に当たっては、本日ご出席の西村章一
氏が総指揮を執り、西本八壽雄氏などが手伝って、古河電工広報課に実質的な事務局を置いて旗振りをした。日本のサッカーが1968年メキシコオリンピックで銅メダルを得た後、長い低迷期に入ってしまった背景には、限られた数の選手層の中で少数のエリートを育てるという実業団・学生の選手育成・競技システムに限界があったといえる。その中で、古河電工は1976年にJSLと天皇杯の二冠を制覇した。翌1977年には中心選手であった奥寺康彦
選手がドイツのバイスバイラー監督の誘いに応じてドイツのブンデスリーガに移籍、奥寺康彦選手はFCケルン、ヘルタベルリン、ブレーメンで9年間プレーし、その間、欧州リーグ(UEFA)でアジア人として目覚ましい活躍をした。
日本サッカーの活性化とJリーグの発足
日本のサッカーはその後長い間国際的な繋がりを持てないでいたが、1981年から世界のクラブチームによる選手権「トヨタカップ」が25年間続けて中立国日本で開催され、このような国際大会を日本で催す能力があることを世界に示すことができた。また日本人も世界の一流プレーヤーの試合を目のあたりにすることができた。
日本サッカーの世界の表舞台での活躍には、オリンピックで1968年のメキシコから1996年アトランタ出場まで28年間の空白、ワールドカップで1954年の初挑戦から1998年のフランス大会で初出場を果たすまで44年もの年月を要した。私は1981年から1987年まで6年間ロンドンに駐在した。その間サッカー関連業務にかまけて、本来の駐在員業務を疎かにしたのではないかと反省している。しかし、サッカーで培った人脈・知識は、仕事にも活用できたばかりでなく、その後のサッカー協会での任務を行なう上で大いに役立ったといえる。1987年に帰国後、大津寄雄祐氏の後任として古河電工サッカー部の部長を務めることになる。
その当時、日本サッカーは1986年のワールドカップメキシコ大会、1988年のソウルオリンピックと何れも出場を逃し、JFA、JSL共に今後どのようにして日本サッカーを強化すべきか非常に悩んでいた時期であった。当時JSLの総務主事・森健児氏(三菱)、副総務主事・木之本興三氏(古河)が中心となって「JSL活性化委員会」を立ち上げつつあった。そこへロンドンから帰任したばかりの私が欧州のサッカー先進国の事情に詳しいことを買われて、1988年に活性化委員会の委員長に就任し、第一次、第二次の答申を策定することになった。第一次メンバーの村田、木之元、杉山、森(孝)などの各氏と、総務主事として第二次委員会から加わった川淵三郎氏を委員として綿密な検討を重ねた。
第一次、第二次答申に折り込んだ結論は「日本サッカーリーグのプロリーグ化」であった。欧州、南米のサッカー強豪国は例外なく伝統あるプロリーグを持っている。日本でもその頃から実業団チームの社員でも仕事に就かず終日練習・試合をするサッカー選手を抱える会社が現れ始めていた。また、スペシャルライセンス選手として奥寺、木村(和)などのプロ選手も加入するようになり、プロリーグ化への素地も少しずつ形成されつつあった。丁度その頃、FIFAのアベランジェ会長が演説で「21世紀にはワールドカップを従来の欧州、米州のみならず、アジア、アフリカでも開催してもよい」と述べたことが、この委員会の結論を導くための強い追い風となった。結論の主旨は「アジアで日本がワールドカップのホスト国となるためには、ホスト国に相応しい強いチームを持ち、ワールドカップで勝てる実力を備えなければならない。そのためには日本でもプロリーグを作らなければならない。またワールドカップを開催するためには、ナイター設備を備えた国際基準を満たすスタジアムを日本国内に最低10カ所以上設置すること」であった。
しかし、当時は未だ「プロ」と言えばプロ野球、大相撲のイメージを抱く人が多く、会社定款上プロスポーツの経営など許されないなどとして、プロ化には強い抵抗もあった。そのため答申ではリーグの名称を「プロリーグ」に代えて「スペシャルリーグ」とすることを提案した。また、当時「企業メッセナ」として企業の社会・地域への貢献が求められていたので、サッカーチーム名には本拠を置く都市・地域名を入れることも条件とした。委員の中の選手経験者から、企業内チームでは社員とその家族だけの応援しか受けられないが、地域を代表するチームであれば、多くのファン・サポーターの応援を受けられ、プレーに一層励みが与えられるという意見も多かった。
この答申を受けて翌1989年6月にJFAに「プロリーグ検討委員会」が設置され、1990年3月にプロリーグの設立趣旨と参加条件がまとめられた。約20チームから参加希望が寄せられ、1990年11月に川淵氏をチェアマンとする「日本プロサッカーリーグ」(通称“Jリーグ”)が設立され、当初10チームでスタートした。この時期の日本経済は正に「バブル崩壊」の直前でもあった。若しJリーグ参加企業の募集が半年遅れていたら、参加を見送っていたであろうという企業も少なからずあった。その後Jリーグは大きく発展し、現在はJ1、J2も含め29の都道府県で40チームが展開している。理想は47都道府県がすべてチームを持つことである。
ワールドカップ日本招致
Jリーグ発足の一方で、もう一つの大きな課題を抱えていた。委員会答申にも折り込まれた「2002年ワールドカップ日本招致」である。FIFAアベランジェ会長はもともと日本びいきであり、同氏が「21世紀にはアジア、アフリカでもワールドカップを・・・」と言った時、アジアでの最初の開催地として日本が念頭にあったものと想像される。そこで、同氏の示唆を得て、日本がFIFA主催世界選手権試合を日本で開催する能力を備えていることを示すため、1993年に「FIFA U17ワールドカップ」を日本で開催した。しかし、1994年ワールドカップ・アメリカ大会のアジア地区予選の最終戦、イラクとの対戦で「ドーハの悲劇」が起き、出場を逃した。若し、ここでワールドカップに出場していたら、2002年のワールドカップは日本単独開催が実現していたかも知れない。一方で、仮にここで出場出来ていたら、ワールドカップの厳しさを自覚せず、慢心してしまい実力の底上げができなかったのではないかとも考えられる。
しかし、翌1995年に「2002年大会日本招致」を正式にFIFAに申請した。日本、韓国、メキシコが同大会に立候補したが、後にメキシコが経済危機を理由に取り下げたため、最終的に日韓の争いになった。アベランジェ会長は日本を強く推していたが、もともと反アベランジェ派のヨハンソン副会長をはじめとするヨーロッパ勢は、日本単独開催を認めれば結果的にアベランジェ会長に服することになるため、日本開催に反対の意見が強かった。一方、日本の企業はFIFAやヨーロッパリーグの各大会の有力スポンサーであったため、日本開催を拒否すると、それら日本スポンサーが降りてしまうことも懸念され、FIFA及びヨーロッパは板挟み状態になってしまった。FIFAのルールではワールドカップの試合は「同一国境の中で開催すること」と明確に規定され、二カ国での共同開催は認められていなかったにもかかわらず、苦肉の策として、ヨハンソン副会長が「日韓共同開催」の提案をしてきた。開催地決定期限ぎりぎりの土壇場になって、FIFAより韓国が共同開催を条件付きで受け入れたとして、半ば強制的に、日本の受け入れ意志の確認を求めてきた。日本側はFIFA理事会での日本支持の票読みなどもしながら、白熱した議論の末、不本意ながら共同開催を受け入れることとした。
しかし、開催は決まったものの、過去のワールドカップ開催国でワールドカップに出場したことのない国は日本以外にはなかった。そこで、2002年までに日本に残された唯一の出場機会となる1998年フランス大会には何が何でも出場しなければ「日本はワールドカップ未出場国がホスト国になる最初の国」という不名誉な記録を歴史に残すことになってしまう。そのため耐えがたい重圧が日本代表にかけられることになった。前回1994大会の最終予選での「ドーハの悲劇」の苦い経験があるので、予選開催地が中東になることを極力避けたかった。予選開催地を巡ってコンペティションコミティーで中東勢と半ば喧嘩腰の議論をした結果、一次予選はホーム&アウエイとなったが、プレーオフは中立国マレーシアで行なうことになった。日本代表は1997年11月マレーシア・ジョホールバルでのアジア地区第3代表決定戦でイランに勝ち、初挑戦以来44年にしてついにワールドカップ本大会に出場することになった。
“笑顔のワールドカップ”
2002年日韓共同開催では、日本がベスト16、韓国がベスト4になるなど好成績を挙げたが、特筆すべきは、日韓両国のホスト国としてのホスピタリティーが高く評価され、FIFAから2002年大会を“World
Cup of Smile”(“笑顔のワールドカップ”)と呼ぶという特別な美称を与えられたことである。私が2002年8月にFIFA理事に当選できたのは日本が2002年大会を成功裡に運営したという実績が高く評価されたためと信じている。理事就任後、最初に出席したFIFAの会議でこの美称が与えられるという栄誉に浴することになった。2002年大会共催が決定して以降、日韓の関係が大きく改善されたことは、それ以前は韓国で行なわれる日韓試合で日本国歌斉唱に対して毎回ブーイングで騒然としていたのが、それ以降はピタリと止まり静かになったことに象徴される。
2.JFA2005年宣言
2002年ワールドカップを成功裡に終え、JFAとして新たな目標を掲げて、日本サッカーの更なる発展を目指すことになった。そこで発表したのが冒頭に掲げた『JFA2005年宣言』である。日本サッカーは現在FIFA世界ランキング24位であるが、オリンピックは1996アトランタ大会以来2012ロンドン大会まで5回連続、ワールドカップも1998フランス大会以来、2014ブラジル大会に出場すれば、5大会連続出場となるという実績を重ねてきた。この『宣言』に掲げた目標は決して実現不可能な夢ではない。次に続く世代にこの夢を託して行きたい。
3.女子サッカーの躍進
最近の日本女子サッカーの活躍には目覚ましいものがあるが、それまでは女子サッカーはこれほど注目を浴びることはなかった。しかし、女子サッカーは1989年に日本女子サッカーリーグが発足し、1991年には第1回女子ワールドカップに出場し、1996年にはアトランタオリンピックに出場するなど実績を積み重ねた結果、ついには2011年女子ワールドカップに優勝することになった。しかし女子サッカーは未だ選手層が薄いので、Jリーグ各チームに女子チームをおくこと、学校に対しても地域をまたがったチーム編成を要請することなどの強化策を進めている。
(ビデオ「なでしこJapan総集編」上映)。
4.FIFAの課題と目指すもの
図1.FIFAの課題と目指すもの
FIFAは今や加盟国・地域が209、競技人口3億人の巨大組織となった。TV観戦を含む観衆は10億人といわれる。FIFAの理事会は現在女性1人を含む25名の理事で構成され、ワールドカップ開催に関する事柄、加盟国間の紛争解決などの重要事項についての最高決定機関である。FIFAは加盟各国に、必要あれば資金援助をして、「ヘッドクオーター」と「ナショナルトレーニングセンター」を設置させた。これにより209の協会はすべてメール通信網で結ばれ、必要な情報は全世界に一瞬で送信される態勢が整えられている。国連加盟国は197カ国であるが、相互に国交がない国もあるので、FIFAに比べられる情報伝達システムを持つ組織は他にない。FIFA理事は本部での会議の他、世界各地でのFIFA主催大会が開催されるたびに各地に出向いて、運営上の役割りを分担している。日本は現在FIFA理事を出していないが、田嶋幸三氏を次期理事にすべく運動中である。
FIFAの財政収入のうちTV放映権が60%、スポンサー広告が30%で、TV放映に大きく依存している。一方で、試合の細部まで多数のTVカメラに映されるため、審判の判定に対する観衆の眼が厳しくなり、誤審が許されなくなった。電子システムによるゴール判定の導入を進めざるをえなくなった。
FIFAの主な役割のうち、{医事分野}では選手の健康管理のため、試合日程、怪我の防止、高地、高温・低温下での試合制限、年令詐称の判定などを行い、{クラブのアイデンティティー}ではクラブチームの出場選手の国籍を最低6人は地元の出身者に制限、ライセンスシステムによるクラブの財政監視、{加盟協会への政治的介入排除}では基準規約の順守による協会の独立性の担保、{競技分野}では女子、フットサル、ビーチサッカーの成長支援、{コンプライアンス分野}では不正な賭けが行われないように“アーリーウオーニング・システムの構築など、{財政分野}ではアフリカ、アジア(中国、インド、インドネシア)等の人口大国への資金援助による競技人口の拡大、{社会的責任}では新スローガンに”For
the World”を加え、貧困、人種差別、環境保全などに貢献することを唱っている。
5.JFA心のプロジェクト=「夢先生」プロジェクト
JFAでは社会貢献の一環として、2005年以来、東北被災地の学校を含む日本各地の小中学校3千校以上で、いじめや自殺防止のため、サッカーOB選手などを「夢先生」として派遣し、自分たちの失敗談などの話をさせ、子供たちに将来への夢を持たせる運動をしている。
(ビデオ「JFA心のプロジェクト」上映)
最後に、現在日本代表は2014年ワールドカップ・ブラジル大会を目指してアジア最終予選を戦っていて、グループBで首位に立っているが、11月14日のオマーンとのアウエイ戦に勝てば、ブラジル行きはほぼ確実となる。ぜひ応援をお願いしたい。併せて、川淵さんや私がサッカーでこのような仕事をさせていただいているのは、偏に古河電工でお世話になったお陰であり、深く感謝している。
Q & A
Q1:白人主義のFIFAの中にあって、日本のサッカーの地位をここまで引き上げて来られたことに敬意を表したい。チームプレーが重視されるサッカーで、世界各地に散らばっている代表選手が試合直前に召集されて果たしてチームプレーが巧くできるのか?
A1:有力選手の海外流出でJリーグが空洞化するのではないかという質問をよく受けるが、彼らに刺激されて若い選手達がどんどん育っているので、余り心配していない。代表選手は予め立てた作戦によって役割分担をきちんと決め、監督の意向・指揮に従って動いているので、連係プレーに余り齟齬は生じていない。
Q2:JFAのHPで会長が「JFAが世界のトップレベルの組織となるためには、常に国際競争の中に身を置いておかなければならない」と述べておられるが、平田元JFA専務理事の言うように、アジア極東地域でのロシアとの連携を深めるため、ロシアとのマッチメークを進められないか?
A2:ロシアはヨーロッパ地域では一流サッカー国であり、日本も交流試合を希望しているが、日程調整がうまく行かず実現していない。ただ、アイスホッケーと違い、ロシアの極東地域には有力なチームがないので、この地域での試合は期待できない。
Q3:東京に有力チームがないのはスタジアムがないこと、一極集中を避け底辺を拡大するため敢えて東京にチームを作るのを避けたとも聞いているが、マーケットの大きさも考えて東京に強いチームをもっと作るべきではないか?
A3:Jリーグが発足した時、東京を意図的に避けたということは全くなく、当時の在京チームは都内にスタジアムを設けたくて、色々探し回ったが、残念ながら適当な場所がなかった。調布の「味の素スタジアム」を本拠とするFC東京が強くなることを期待したい。最近、東京にスタジアムを新たに建設しようという動きもあるので、今後首都東京に強いチームができてJリーグを牽引していくことを常に望んでいる。
Q4:JEF千葉の強化策は?
A4:やはり監督である。オシムの去った後の監督に恵まれない。かつての古河の監督は選手に厳しく練習させていた。スタジアムも練習場もJリーグ屈指の設備を持っている。最近チームに戻ってきた清雲アドバイザーの手腕に期待したい。
(記録:井上邦信)
|