裏切られた暴走族取材
「この取材には、正直答えたくないですね」私の前に座っている人物は、厳しい表情でそう告げた。まずいと思った私は「いや、ちょっとまって」と言葉を挟むが、つけいる隙が無い。「あなたみたいな人が、日系ブラジル人の悪い側面を面白おかしく強調して、彼らのイメージをねじ曲げていくんです。僕は、浜松で暮らす日系ブラジル人を応援する立場の人間なんで、彼らを貶めるような事には、協力したくないんですよ」その人物は、ブラジル帰りで、現在ラジオDJとして活躍する鶴田俊美さんである。ポルトガル語と日本語による番組のパーソナリティーを務め、地元では有名人だ。ミュージシャンでもある鶴田さんは、日系ブラジル人のユースカルチャーにも詳しく、さまざまな事情が聞けると期待して取材をお願いしていた。私は日系ブラジル人の若者の実情に迫ろうと考え、「ブラジル人暴走族」に的を絞った取材を計画していた。しかし私の取材計画は、鶴田さんからの一言で出鼻をくじかれてしまった。私はそれでも懲りずに「”ブラジル人暴走族”という極端な対象をテーマにすれば、記事にも注目が集まるだろうし、結果的に日系ブラジル人社会への理解が深まるんじゃないですか」と持論を展開し、賛同を得ようと鶴田さんに食い下がった。しかし鶴田さんは、「記事に注目が集まれば、あなたは成功かもしれません。でも、私たちはすり込まれた偏見を背負って、ずっとここで生きていかないといけないんです」と、ため息をついた。私の目をしっかり見つめながら「はっきり言うけど、あなたのやろうとしていることは、ヘイトスピーチみたいなもんですよ」と静かにいった。協力してもらえると踏んでいた鶴田さんに、ここまでの叱責を受けるとは思っていなかった。ヘイトとまで言われたことは、心外でもあった。それでも尚、かつて手に取ったヤンキー雑誌のグラビアに写っていた、「浜松のブラジル人暴走族」と書かれた少年たちの殺気に満ちた目が、脳裏から離れなかった。
夜の彷徨
あきらめきれなかった私は、深夜二時、浜松市東区天王町にある、24時間営業のアミューズメント施設の駐車場にいた。「ここなら、ブラジル人暴走族に遭遇できるかもしれない」と、駐車場の入り口近くに停めた軽自動車の中で、改造車や暴走族らしきグループが入ってくるのを待ちかまえていた。しばらくすると極端に車高の低い、黒いセダンが入ってきた。改造車特有の耳障りなマフラー音に期待が高鳴る。重低音のダンス音楽が鳴り響く車内から降りてきたのは、暴走族というには迫力の欠ける男女4人組だった。運転席から降りてきたサーフパンツの男に、おそるおそる「すいません、日系ブラジル人暴走族の取材をしているんですが、周囲や知りあいにそういう方はいませんか?」と私は声を掛けてみた。サーフパンツ男が首をかしげながら、「ここ最近、ブラジル人も減ったしなぁ。暴走族は知らねえけど、高丘のコンビニに行ったら、普通のブラジル人はいたよ」と答えてくれた。ジャージをだらしなく羽織った連れの女性に目が合うと、迷惑そうに首を横に振って知らないという仕草を返してくる。「あのさぁ、ブラジル人に直接聞けば良いんじゃないの?」・・・なにを聞いても、こんな返事しか返ってこなかった。仕方なく翌日、彼らに聞いた高丘という土地に向かった。浜松駅から車を20分ほど走らせたところにある高丘は、住宅と倉庫や工場が混在する郊外の町並みだった。路地に入ってあてもなく車を走らせていると、プレハブ建ての格闘技道場があり、ブラジル国旗のステッカーとカポエラの文字が目に入った。なにか手がかりがあるかもしれないと思い、この道場を覗いてみることにした。扉を開ける前から、大音量のブラジル音楽が鳴り響いている。3人の男たちが、音楽に合わせて側転のような動きをゆっくり繰り返す、ブラジルの伝統格闘技「カポエラ」の型を練習していた。血の気の多い日系ブラジル人が、身体を鍛えにやって来ているに違いない。彼らなら、本物のワルと繋がっているかもしれないなどと、私は想像を膨らませた、彼らに「話を聞かせて欲しい」と声を掛けた。出てきてくれた1人が、工業高校の夜間部に通うワカスギ・カイオ・シルバ・ケンジ(17)さんだった。
暴走族という居場所

カポエラ道場で練習に励む ワカスギ・カイオ・シルバ・ケンジさん(17)
日系ブラジル人の取材であることを告げ、特に暴走族を探していると話すと、ワカスギ君は「ああ、自分も昔ヤンキーやってたんで、ボウソウとかもしてました」と、照れくさそうに打ち明けた。私は身を乗り出し「日系ブラジル人だけの、暴走族だったの?」と聞くと、「いや、日本人ばかりですけど……」と、不思議そうに答える。逆に彼から、「ブラジル人だけの暴走族ってのが、あるんですか」と聞かれて、私は答えに詰まってしまった。彼がいわゆる「ヤンキー」に走ったきっかけは、些細なことだった。「中学に上がって、サッカー部に入ったんですけど顧問と喧嘩して辞めちゃったんです。それで、放課後やる事が無くて近所の友達や先輩とつるんでるうちに、先にヤンキーやってた仲間に誘われて」当時の彼にとっては、ヤンキーという「居場所」が暇をもてあました彼の唯一の選択肢だったのだろう。私は、日系ブラジル人である事が、ヤンキーになったことに関係していないかと思い、「小学校や中学でいじめられたりとかしたことはある?」と、遠回しに質問を投げた。先読みした彼は、「日系ブラジル人だからって、いじめられたりとか・・・そういうのは、ほとんど経験が無くて。だから、ヤンキーになったのも、ブラジル人だからって理由じゃ無いんです。ぱっと見、ブラジル人って外見からわかんないし、そういう風には見られてなかったとおもう」と、すぐに否定した。その時、脇に置いてあった彼の携帯の着信音がなった。「ちょっと、すいません」と断ってワカスギさんが電話に出る。電話の相手にポルトガル語で、なにかを手短に答えて通話を切り、稽古に励んでいる日本人に向かって大声で呼びかけた。「大城さん、イワモトくんは、9時ぐらいに来るみたいです」。言葉はどっちが得意なのと聞くと、「普段の生活だと、日本語を使う時間の方が多いですね」という。日本生まれのワカスギさんは、ブラジルにいったことも2回しか無いという。9歳の時に、2ヶ月ほどブラジルの親戚の所に滞在したのが初めてだそうだ。ポルトガル語を使う機会は、家族や日系ブラジル人とコミュニケーションを取る時ぐらいだという。「生まれた時は家族でも日本語で話していたけど、いまの家族とはポルトガル語で話します」事情を聞くと、「生まれてすぐ、両親が離婚したあと小学生の時に再婚したんです」と言う。だから、家族構成が昔と違い、コミュニケーションの言語も変化した。
ぼくの祖国がわからない

ワカスギ・カイオ・シルバ・ケンジさん(17)
ワカスギさんが、ブラジルの伝統的な格闘技、カポエラを習い始めたのは、15歳の頃だった。中学にも行かず、バイクを乗り回す息子を心配した父が「ケンジ、カポエラやってみたらどうだ」と、声をかけたのが始まりだった。「近所の友人も通っていたので、最初はのぞきに行くだけのつもりだった」とあまり気乗りはしていなかったようだが、それでも道場に足を向けた。教室に通ってすぐ、一通り基本を教えてもらった頃にたまたま他流試合があった。先生に「試合に出てみないか」と声を掛けられ相手を見たら、年下の小柄な少年だった。「余裕だと思って突っ込んでいったら、いきなりバーンッって倒されて、すごいムカついた」という。そのときからワカスギさんは、とにかく倒されたやつに、勝ちたいという一心で真剣に教室に通うようになった。カポエラをやるうちに、「暴走族がカッコ悪く思えてきた」ワカスギさんは、ヤンキーの仲間とも徐々に会わなくなり、カポエラが生活の中心になっていった。「部活も喧嘩して辞めて、中学も行かなくなって、それまではいろんな物から逃げてたけど、今回はちゃんとやろうかなと思ったんですよ」そう思えたのは、道場の先生の存在も大きかった。「カポエラの先生が、僕らの居場所を道場の中に作ってくれた感じなんですよ。練習が終わると、みんなで輪になって先生とたわいもない話をするんです。先生に気にしてもらえる事が嬉しかった」その後、ワカスギさんは夜間高校に進学し、昼間は自動車部品関連の工場で、働き始める。カポエラを始めてから忍耐強くなり、それが仕事にも繋がっているという。「せっかく入った職場で、クビになりたくないですし」と笑顔を浮かべる。「出来ないことがあってもぶち壊さずに、出来るまで努力するようになりました。あたらしい技を練習するみたいに,仕事も覚えていく感じです。たまにイラついたりもするけど、集中力もついたし、乗り切れるようになって。全部、カポエラとおなじです」そんな、ワカスギさんにも心配ごとが一つある。「お父さんが最近、あと2年ほどしたらにブラジルに帰るとか言いだして、いま家ですごい揉めてるんですよ」それは彼の人生を左右する重要な話だ。彼らはそうした常にふたつの祖国の間で身の振り方を決めなければならない立場なのだ。そうしたことに私たちはどれほど関心を寄せているだろうか。彼は深刻な表情を浮かべる。ブラジルには戻りたくないの?と聞くと、「ええ、まぁ」と歯切れの悪い返事のあと、あと沈黙が続いた。「正直、自分でも分からないんです。ブラジル戻るのが良いのか、日本に居たいのか……普段は自分が日系ブラジル人だって意識はしてないんすけど、日本の職場や学校だと教師や上司から”こいつはブラジル人だ“って見られるじゃないですか。でも、ブラジルに行ったら、”こいつは日本人だ”って言われて外国人扱いされるんです」
再び沈黙したワカスギさんは、しばらく壁を見つめている。そこには、カポエラ大会の案内ポスターが掛かっている。日本の国旗とブラジルの国旗が並んで描かれてた。「自分の居場所はどっちだろうって考えても、わかんなくなるんです。自分の本来の場所はどっちなんだろうって」私は最後にもういちど、「お父さんがブラジルに戻るって言ったら、一緒にかえっちゃうの?」と問いかけてみた。彼は、「そうですね。やっぱり、僕は日本に住みたいなって思います」と即答した。そして、最後にもう一度、確かめるように「残りたいです」と力をこめた。
遠州弁のブラジル人

ワカスギ・カイオ・シルバ・ケンジさん(17)
翌日、カポエラ道場から歩いて10分ほどの距離にある、市営のコミュニティーセンターを訪れた。日系ブラジル人向けの日本語教室が開かれると聞き、様子見にやって来たのだ。駐車場に面した体育館の前を通ると、中から日本語とポルトガル語の混じった歓声が聞こえてきた。コートを覗くと、バスケットボールに興じる6名ほどの若者たちの姿が目についた。日本人に混じって、1人のブラジル人らしい顔つきの青年が縦横無尽にコートを駆け回っている。ひときわ大柄のこの青年が、しなやかなに伸び上がりシュートを放つ。ボールは綺麗な円弧を描き、ゴールに吸い込まれていく。その瞬間、大きな歓声が上がり、仲間が駆け寄ってハイタッチを交わしている。
シュートを決めた青年の名は、サントス・ウェズレイさん(15)、浜松市中区に住む日系ブラジル人だ。日本で生まれてすぐに家族でブラジルに戻り、4歳になって再び来日したという。「親の仕事の関係で日本に来たんです」と言う彼は、地元の公立小学校、中学校を経て、現在はブラジル人学校に通っている。お父さんは日本国籍を持たないブラジル人で、お母さんが日系ブラジル人だというウェズレイさんは、「お母さんの祖母、僕にとっては曾祖母が最初に日本からブラジルに渡ったんです。だから自分は、日系ブラジル人4世になるんですかね」と、ルーツを説明してくれた。日本の若者とバスケをはじめた経緯を聞くと「週末は体育館が開放されるんですよ。だもんで、最初は一人で来てんだけど、たまたまここに来ていた者同士で顔見知りになって、自然と一緒にバスケをするようになったんですよ」と答えてくれた。そのバスケ仲間だという、18歳の専門学校生が、我々のやり取りを聞きながら、驚いた表情で「へー、ウェズレイって、まだ15歳なの?高1みたいなもんなのか。背がデカいから、てっきり同い年ぐらいかと思ってた……」と思わず割り込んで来た。ウェズレイさんがニコニコしながら「そうだよ、俺の方が若いから、みんなよりも未来があるんだよ」と冗談を言う。別の高校生が「ウェズレイって、実は年齢詐称でほんとはもうオッサンじゃないの」と、いたずらっぽく返すと周囲がどっと沸いた。ウェズレイさんもまんざらではない表情で、「いやー、いつもこんな感じでやってますよ」と仲間の方を指しながら、笑顔で答えてくれた。ヤンキー雑誌の暴走族グラビアの影響で、日系ブラジル人の若者は皆は日本人に反発していると思い込んでいた私は、ウェズレイさんが地元の日本人と一緒にバスケをしている光景に驚きを覚えた。ブラジル人らしい顔立ちながら、遠州弁のアクセントで仲間とふざけあうウェズレイさんの様子は、この場に完全に溶け込んでいる。むしろ、明るくて人懐っこいウェズレイさんの人柄を中心に、この場が回っているようにすら感じる。
努力しないと生き残れない

ムードメーカーのウェズレイさんは、遠州弁で冗談をとばし仲間を笑わせている
「ブラジル人として、ポルトガル語の話せる子になって欲しい」という両親の希望で、ウェズレイさんは小学校時代も放課後に、ポルトガル教室に通っていた。高校進学について迷っていたとき、日本語とポルトガル語が両方学べるブラジル人学校があると聞き、両親の勧めもあってブラジル人学校に進んだ。小中学校時代を振り返り「ここら辺の学校に通ってると、日系ブラジル人の姿があたりまえなので、自分が外国人だって意識したことは無かったけど、浜松を離れると町中で英語で話しかけられることがあり、やっぱり外国人に見えるんだなって気づかされますね」とウェズレイさんは話す。「小中学校で、同級生からの差別やいじめは経験しなかった」というウェズレイさんだが、「中学に入って、クラスの大勢でふざけてたら、先生から日系ブラジル人の生徒だけ叩かれたり、ポルトガル語を話していたら突然キレられたり、どうして日系ブラジル人だけ……って感じたことはありましたね」と声を潜める。わたしは明るい話題にしようと、将来の夢について聞く。「えーっと、なれるんだったら、体育の先生になりです!」と、目を輝かせるウェズレイさんだが、具体的なプランについて聞くと「浜松だと静岡大学とかそういう所に行かないと、体育教師の資格はとれないんですよ。どうかなぁ、ぼくはちょっと難しいかもしれません」と、うつむき加減に答える。しばらく考えたあと「だもんで、日本で体育の先生やるなら、今行ってるブラジル人学校終わってから、大検とか取って大学に行くか、あとはブラジルで体育の先生やるか、どっちかですね」「他には?」と聞くと、「日本に居るなら、決まった1つの仕事で働きたいんですよ。自分の周りのブラジル人の先輩とかは、だいたいみんな3ヶ月とかの短い工場の仕事を探して、終わったら次また探してって転々とやってるんですよ。でも、仕事が無い期間もあるし、景気が悪くなったら帰国しないといけないじゃないですか。だもんで、自分はサラリーマンでも良いし、エンジニアでも良いし、なにか1箇所でちゃんと長く働きたいなと思うんですよ」と話してくれた。「具体的には、なにか考えているの?」と尋ねると、「浜松に、ポルトガル語で受講できる専門学校があったもんで、パソコンの修理の資格を取ったんですよ」という。「次は、日本語でもおんなじ様な資格を勉強して、日本でもブラジルでもどっちに住んでも、そういう資格を使って、専門的な仕事に就きたい」と教えてくれた。
しばらく彼らのゲームを観戦したわたしは、体育館を離れることにした。駐車場で缶コーヒーを飲んで一息ついていると、ウェズレイさんが自転車でわたしの前を横切っていく。思わず「どこにいくの?」と声を掛けると「いまからバイトなんです。この近くのコンビニで5時から!」という。見に行って良いかと聞くと「もちろん!」と答えてくれたので、彼のバイト先について行くことにした。彼の職場は、片側1車線のバス通りに面したコンビニエンスストアだった。「総合病院とか自動車メーカーの工場がすぐ近くにあるし、結構人がきて忙しいんですよ」という。バイト中のウェズレイさんは、体育館の様子とはうってかわって真面目に見えた。たばこを買いに来た日本人客に、素早く商品と釣り銭を渡し、次のブラジル人客には、ポルトガル語でなにかを説明しながら、電子レンジで弁当を温めている。去り際に、ウェズレイさんに向かって「日本でいい仕事に就けると良いね」と声を掛けると、殊勝な声で「ありがとうございます」と頭を下げる。わたしが右手を差し出すと、「えーっと、将来の仕事とか、いろいろあきらめずにがんばります!」といいながら、しっかりと握り返してくれた。彼の働くコンビニを背に歩き出しながら、自分の足取りが心なしか軽やかなことに気づく。本当に、気持ちの良い明るい青年だった。がんばって欲しいという気持ちが心の底から沸き起こってきた。そしてふと、自分がもともと持っていた取材テーマが頭をよぎる。日本人となじまず、社会に背を向け、鋭い眼光で周囲を威嚇していた、日系ブラジル人暴走族たちは、浜松のどこに居るのだろうか。
ブラジル人がブラジル人を助ける

磐田市東新町の多文化共生センターで行われる、外国人中学生向けの学習支援教室
私はさらに日系ブラジル人の若者を探すため、浜松の隣の磐田市にある、東新町団地を訪れることにした。ここは昭和53年に完成した公団住宅で、エレベーターのない急な階段を上っていくスタイルの、昔ながらの団地の風景が広がっていた。周囲には田畑も多く残っており、耳を澄ませると車の騒音に混じって、蛙の鳴き声が聞こえてくる。団地の外れにある、多文化交流センターに行ってみることにした。日系ブラジル人の中学生が集まると聞いたからだ。毎週水曜日と金曜日は、センターの2階にある学習室で、「無料の学習支援」が行われている。磐田市が運営するこの施設では、職員と共に、地元の塾講師や教師経験者らがボランティアとして参加し、日系ブラジル人を中心とした外国人定住者の生徒に、学校の宿題の手伝いや、受験の為の補習授業をおこなっている。夜7時。外には、横殴りの激しい雨が降っており、時折稲光が明滅した。そこへ、近隣の中学生が続々とやって来る。傘を持っていないのだろうか。カバンと髪をびっしょり濡らした一人の生徒が駆け込んできた。地元の神明中学校に通う中学一年生の女子生徒だ。彼女はリュックから、ノート取り出し、空いている机に座ると、国語の授業で出されたという宿題のページを開き、自習をはじめた。

学習支援ボランティアで国語を教える、日系ブラジル人4世の田中カルビン琢問さん(19)
横8列、縦15個のマス目が並ぶ、漢字の書き取り帳には、「上」や「土」という簡単な漢字が並んでいる。彼女の右手にはディズニーキャラクターのシャーペン、左手には消しゴムが握られている。3列目の「夕」という漢字を書こうとして、首をかしげた。ペン先は、ノートのマス目に向かっているが、一向に筆が進まない。彼女の様子に気づいて、講師を務めるボランティアの大学生が近づいて来た。田中カルビン琢問さん、19歳。静岡文化芸術大学の2年生だ。女子生徒が早口のポルトガル語でなにかを訴えている。ジーンズに白いポロシャツを着た田中さんが、流ちょうなポルトガル語で、説明をはじめた。時折「カタカナ」や「漢字」という単語が聞こえてくる。女子生徒は納得したように何度か頷き、再び一人で漢字の書き写しをはじめた。見た目では分からなかったが、田中さん自身が、日系ブラジル人定住者として、3人の弟と母親と共に暮らしている。日本で生まれ、小学校二年生の時にブラジルに一家で帰国。それが初めてのブラジル滞在だった。しかし、現地になじめず2年間、弟と共に「日本に戻りたい」と訴え続けて、小学校4年生の時に再来日している。その後、磐田市の中学校、高校を経て大学に進学した。田中さんはさきほどの女子生徒について、「彼女は、ブラジルで生まれて、8歳で来日し、そのあと日本にあるブラジル系の私塾に通っていました。日常でもポルトガル語で生活していたので、あまり日本語が話せません。10歳になって地元の小学校4年生に編入したけど、授業について行けないようです」と話してくれた。現在この女子生徒は、地元の神明中学に進学している。全校生徒数380人のうちでは、9.6%が日系ブラジル人で占められているため、彼女のような日本語が不得意な生徒に向けて「取り出し授業」と呼ばれる少人数の補習授業が設けられているという。田中さんは、先ほどの女生徒についてこうも付け加えた。「以前はもうすこし日本語の習得にも意欲的だったんですが、最近はポルトガル語の通じる日系ブラジル人の子とばかり遊んでいるようです。日本語の授業について行けなくなり、やる気をなくしているのかもしれません。あきらめずに、がんばって欲しいのですが……」
団地でみた現実の世界
翌日、田中さんに団地の中を案内してもらうことにした。総数150戸のうち約7割の世帯が、外国人定住者で占められており、その大半が日系ブラジル人だという。団地の近くにある保育園に勤務する、田中さんのお母さん・多美さんにも合流してもらって、あまり人気がない休日の東新町団地を歩いた。私たちが歩いていると、団地の2階にある部屋のサッシが開き、洗濯物を抱えた女性がベランダに現れた。その女性の部屋からは、大きな音楽が漏れ聞こえてくる。演奏中のライブハウスの扉を開いたような音量だ。洗濯物を干す女性は、リズムに合わせて身体を揺らしながら、物干し竿にタオルを掛けている。「これって、ブラジルだと当たり前の光景なんですけど、日本だと近所迷惑ですよね」と、田中さんがうつむきながら話す。多美さんが「こういう生活習慣の違いがあるから、なかなか日本人には理解してもらえないし、近寄りがたいと思われてしまうんですよね」と相槌を打った。団地の駐輪場にさしかかると、5人ほどの若者がたむろしている姿が見えた。「あの子たち、この団地に住んでいる高校生ですよ」と、田中君が教えてくれる。ブラジルで生まれて、小学校高学年で来日し地元の中学に通い始めたが、日本語が苦手で学校の授業について行けなくなり、ドロップアウトしたと聞く。本来なら高校に通っている年齢だが、バイトをしながらブラブラしているのだという。地面に座って、ペットボトルの炭酸飲料を飲みながら、スマートホンを弄ったり、バイクを空ぶかしして暇をもてあましているようだった。ポテトチップスの袋から、たべかけの中身がこぼれて周囲に散乱しているがだれも気にしていない。彼らは、年齢を重ねて行くにつれどういう人生を歩んでいくのだろうか。「日本語が話せなくても勤まる単純労働の仕事があるので、当面食べることには困らないんじゃないかな」と田中さんが話すと、「そういう仕事は、長く勤めても給料も上がらないし、体力勝負の内容が多いでしょ。30代、40代、と続けるのがむずかしいくなってくる」と、多美さんが付け加えた。さらに多美さんは、「ブラジルとの繋がりが残る私たち親の世代は、ブラジルに帰るという選択肢があるけど、日本で生まれた子どもたちや、ポルトガル語が十分話せない子は帰国するという選択肢も無い。行き場を失うのではないか」と言って不安げな表情を浮かべた。

日系ブラジル人が多く通う保育園でアルバイトをする田中カルビン琢問さん(19)と、そこに勤務中の母・多美さん
多美さんは私に言った。「もちろん本人の問題もあるけど、親が子供たちに学校に行って欲しいと思っているかどうかが大きいですね。日本を単なる就労の場所と考えて、語学習得や異文化への理解の大切さを教えなければ、子供たちも当然、苦しい思いをして日本語を覚えたり学校に行こうとは思わない。私たち外国人定住者が日本で幸せに暮らせるかどうかは、家族の理解と応援が大きく影響するんです」田中さんも母親の言葉を受けてこう語った。「僕たちの世代も、社会に出て結婚する人も出てきました。学校をドロップアウトして、工場のアルバイトで生活する若い男女が、同じような境遇の相手と結婚して子どもを生むケースもあります。日本語を話せない親が、限られたポルトガル語だけで子育てをはじめたら、当然その子供は日本語が話せなくなる。教育への理解が無い場合、学校にすら行けない可能性がある。それが本当に心配ですね」とわたしたちは団地を抜け、コンビニの駐車場にやって来た。「そろそろアルバイトに行く時間なので」と田中さんが腕時計を見る。田中さんは高校時代から、自宅近くのファーストフード店で、放課後や休日のアルバイトを続けている。そうして、自らの学費を捻出してきたのだ。そんな忙しい合間を縫って、田中さんは毎週のように学習支援教室に足を運んでいる。「同じ境遇の小中学生が僕を見て、アルバイトをしながら高校に行くことも出来るし、日系ブラジル人でも大学にも行けると感じてくれたらうれしい」というのが、田中さんのモチベーションになっている。「ぼくは周囲のサポートのおかげで、こうして大学に通うことも出来た。今度は自分より若い世代のために僕も応援する側に回りたいんです」。
先ほどの若者たちが、原付バイクにまたがって、異様に甲高いマフラー音を響かせて走り去っていった。日系ブラジル人の若者が、ヘルメットもかぶらずに改造バイクで連れだって。当初探していた「日系ブラジル人暴走族」そのものだったが、私の興味はもはやそこにはなかった。いまの時代を生きている、在日ブラジル人の若者たちの多様性や価値観を知りたいと思った。かつて雑誌のグラビアで見た在日ブラジル暴走族の若者たちの、あの鋭い眼光はどこかへ消え去っていた。私は、田中さんの大学進学大きな影響を与えたという、日系ブラジル人の先輩の話を聞きたいと思った。
ブラジル人の居ないビーチ
浜松駅から南に15分ほど車を走らせると、太平洋を望む遠州灘海浜公園にたどり着く。駐車場に車を停め、小高い松の防風林を歩いて越えると、アカウミガメの産卵地としても知られている、中田島砂丘が現れる。南国のビーチを連想させる広大な白砂の海岸には、数年前までは夏になるとたくさんの日系ブラジル人が好んでやって来たという。日系ブラジル人たちは、いまでも海岸で休日を過ごしているのだろうか。ビーチでバーベキューでもしている彼らに出会えるかもしれないと思い、期待を込めてやって来が彼らの姿を見つけることは出来なかった。代わって砂浜にいたのは黒いウエットスーツに身を包んだサーファーたちだった。1990年の出入国管理法改正を皮切りに、日系4世まで日本の定住資格を得る事が出来るようになり、多くの日系ブラジル人が来日した。彼らの目的は「デカセギ」だ。以降、自動車関連や工業製品の製造現場には欠かせない存在として、浜松に根を下ろす。最盛期は2万人近くが定住していた浜松の日系ブラジル人も、2008年のリーマンショックを境に、工場の派遣労働が激減し、職を失ったブラジル人たちの帰国ラッシュが始まる。2015年7月の取材時には9000人を割り込んでいる。かつては、130世帯の日系ブラジル人が暮らし、夏祭りではサンバが鳴り響いていたという中田島団地を歩いてみると、空き部屋が目についた。団地を後にした私は、車を浜松駅に向けた。日系ブラジル人たちで賑わっていた頃の中田島団地で日本の生活をスタートさせたという、女性に会うことになっていたからだ。静岡文化芸術大学の4年生、宮城ユキミさん(20)。先に話を聞いた、田中カルビン琢問さんの先輩にあたり、彼の大学進学にもきっかけを与えた一人だ。
心に火を付けた、ひとこと

大学の同窓生と談笑する宮城ユキミさん(20)中央
「9年前に来日したときは、カタカナとひらがなさえ分からなかったんですよ」と、話す宮城さんだが、現在のイントネーションにはよどみが無く、日本語に苦労したという面影は感じられない。10歳の誕生日を迎える頃に両親の「デカセギ」で来日した宮城さんは、すぐに公立の小学校に編入する。初日に髪のメッシュを入れたまま、ネイルやピアスを外さずに登校し、先生におこられてカルチャーショックを受けたという。「両親もブラジルの学校で教育を受けたので、日本の学校事情や常識は分からなかったんですよ」国語と社会は「取り出し授業」と呼ばれる特別授業を、別室で受けた。他の授業はクラスメイトに混じって受けたが、黒板になにが書いてあるのかも分からず、日本語が話せないので友達も出来なかった。「とにかく、孤独でした」と振り返る彼女は、「日本語を話せない限り、ここではやっていけない」と思い知る。そんな彼女が、日本語の猛勉強をはじめたきっかけは、同級生のこころもとない一言だった。算数のテストで、問題の日本語が分からず回答できなかったところ、「どうせ、ブラジル人だし出来ないでしょ」とからかわれたのだ。外国人を理由にバカにされた事に腹が立った。「日本語を覚えて、算数では負けないように見返してやりたい」と思った宮城さんは、先生に小学校1年生から5年生の漢字ドリルを借り、5年分の国語の学習を1年間でやり切ったという。このときあきらめずに、奮起できた事が彼女のその後の人生を支えている。日本語を話せるようになったことで、世界が変わった。その陰には、2人の教師の存在がある。親身になって、国語を教えてくれた取り出し授業の先生と、わからないことばを黒板の隅っこにイラストで描いて説明してくれた担任の先生だ。「先生が、いつも自分のことを見てくれているって安心感があったんですよ。だから頑張れたんです」中学に入る頃には、日本語の読み書きも不自由が無くなった。
一方で、日本語の上達と共に、母語のポルトガル語を忘れていく不安も募った。「このままでは、どっちのことばも中途半端なまま大人になってしまうんじゃないか」という不安があった宮城さんは、中学卒業後にはブラジル人学校へ通うことを考えていた。ここでは、ブラジルの義務教育修了資格を得る事が出来る。いつか、もしも、ブラジルに帰国するのであれば、この資格は必要なものとなる。反面、日本の高校の資格は得られない。日本の最終学歴は中学校卒業となってしまい、就職の選択肢を狭めることは間違いない。当時の中学の担任が、「それはもったいない。浜松市立高校にインターナショナルクラスが開設されて、ポルトガル語の授業も始まったから、ここを受験してみなさい」と進学を勧めた。「この時の担任のアドバイスがなければ、大学進学はなかったと思う」という宮城さんは、「日系ブラジル人の進学が少ないのは、日本語やお金の問題だけでは無い」と力を込める。親の世代が日本の教育に触れていないため、日本の高校から大学に進むという選択肢について、圧倒的に情報が無いのだと言う。高校では、インターナショナルクラスに進学したおかげで、自分と同じように日本語の壁を乗り越えて進学してきた、日系ブラジル人や外国籍の仲間に数多く出会う。「苦しい思いをしてきたのは自分だけではない」と気づくと同時に、「自分たちの経験を生かして、なにか出来ることはなにだろうか」と考えるようになった宮城さんは、自然と大学進学を意識しはじめる。「課題は国語でした」という宮城さんは「自分は日本人と同じレベルで戦えるのか」という不安を抱きながらも、センター試験の会場に向かう。2012年の春、宮城さんは一般入試の枠から静岡文化芸術大学への進学を果たす。大学に入った宮城さんは、自分たちと同じ境遇の子どもたちを助けたいという目標が明確になった。大学のゼミが中心となり行われた、日系ブラジル人家庭を支援するプロジェクトに参加する。小さな子供を持つ日系ブラジル人家庭に向けて、日本の小学生の生活や持ち物、習慣などを記したポルトガル語の絵本を配布した。その際、宮城さん自身も家庭を訪問し、自身の学校体験や受験の経験を伝えたという。日系ブラジル人の若者が、日本語で苦労しながら大学にまで進学したという話しは、瞬く間に伝わり、「うちにも来てもらえないか」と連絡がることもあった。訪問先の家庭からは、「どうやったら、そんなに日本語を早く覚えられたの?」「日本の学校になじむ方法は?」「奨学金は、どこに申し込めば良いの?」「学校の制服は、どれぐらいお金が掛かったの?」などと、たくさんの質問を受けたという。なかには、深刻ないじめの相談を受けるようにもなった。
日本人と同じ土俵で闘う
現在、宮城さんは就職活動を行っている。ブラジルと関わりがある企業へアプローチ中だ。宮城さんは、自身の強みを「ポルトガル語と日本語の語学力に加え、両国で10年ずつ生活してきた文化の理解」だと話す。「これからも、家族の近くで暮らしていきたいから、やっぱり浜松の会社が良いですね」と話す。「留学生は、外国語が堪能という目で見てもらえるのに、私たち定住者は”日本語の能力に不安はないか?”といった、ネガティブな印象で見られています」という宮城さんは、とにかく「面接官に会ってもらって、人となりを見てもらえるように、細心の注意を払っている」と話す。履歴書に「日系ブラジル人」と書いたことが理由で落とされないように、特技の欄にだけ「ポルトガル語」と書き、面接官に「どうしてポルトガル語が得意なの?」と問われた時にはじめて「実は、わたし日系ブラジル人で……」と話しをするのだという。宮城さんへ、将来の帰国の可能性について聞くと「仕事で一時的にブラジルに滞在することはあっても、自分の拠点は、これからも日本だと思っている」と断言する。自分は何人だと思う?という質問に変えると、彼女は少し考えながらこう話してくれた。「将来は日本人と結婚するかもしれないし、国籍上は日本のパスポートを取得するかもしれません。でも、わたしのルーツはブラジルにあることは変わりないし、ブラジルにルーツを持つ”ブラジル系日本人”としてこれからも日本で、浜松で暮らしていきたいです」
彼らは、工場労働を望んでいない

静岡文化芸術大学の池上重弘教授
浜松駅の北側に広がる繁華街を抜け、銀行や役所の建ち並ぶオフィス街を眺めながら10分ほど歩くと、緩やかな波形の校舎が目を引く近代的な校舎が目に入った。浜松市街を一望できる屋上には芝生が敷き詰められ、気持ちの良い風が吹き抜ける。わたしは、公立静岡文化芸術大学のキャンパスにやって来た。この大学で、日系ブラジル人に関する実地調査を行っているという、池上重弘教授の話を聞こうと私は思った。池上教授は、わたしが出会った、田中君や宮城さんの担当教授として、多文化共生のさまざまな取り組みにも関わっており、日系ブラジル人の若者の意識の変化について地道な研究を続けているからだ。池上教授は、「リーマンショックと東日本大震災の2つの出来事により、日系ブラジル人の意識が大きく変化している」と指摘する。そもそも日本にやってくる日系ブラジル人のバックグラウンドを知る必要があると池上氏は言う。「ブラジル人労働者の仕事といえば、工場の単純労働をイメージしませんか?」という池上氏からの問いに、わたしは、「日本語や技術がなくても、すぐに働けるから、外国人には適した仕事だと思います」と即答した。すると池上氏は、「彼らがもともと、そうした作業に向いているわけではないんですよ」と私の思い込みをあっさりと否定した。「いわゆる工場での単純作業に、ブラジル滞在時から従事していた人は、約10%しか居ないんです。それが、日本に来ると初職で76%、長く滞在している人でも64%が、工場での単純労働で働くことになってしまうのです。もともとは、販売員、事務職、デザイナー、自営業、弁護士など、多様な職業についていた人たちが、日本側の労働需要に応じて、工場労働という均一な受け皿に集約されているに過ぎない。しそして彼らの7割近くが、不安定な間接雇用の条件下で長期間働いているというのが現状なのです」08年のリーマンショックにより、雇用環境が一気に悪化し、多くの日系ブラジル人が職を失った。「デカセギ」が目的の日系ブラジル人たちは、稼げなくなった瞬間に日本で暮らす目的を失う。彼らの多くは、雇用環境が当分回復しないと分かると、帰国を選択したという。では現在、残っている日系ブラジル人は、どういった目的を持っているのだろうか。「厳しい環境の中でも雇用が継続された、いわゆる優秀な労働者と、多少我慢をしてでも日本での生活を継続させたいと望んだ世帯の人たちだ」と池上氏は説明する。
また池上氏が2014年に東新町団地で行った調査では、対象となった日系ブラジル人世帯の大半で、非正規・間接雇用による工場労働に従事していることが分かったという。一方で、「自分たちの子どもに、親と同じ仕事に就いて欲しいか」という問いに対しては、工場労働で働く親の100%が、「同じ仕事には就いて欲しくない」と答え、「専門生のある仕事」「事務職」「販売」等の仕事を、望んでいることが分かったという。現在日本に残った日系ブラジル人世帯の大半は、就学中の子どもがおり、突然のブラジル帰国を子どもたちが望まなかったケースや、そもそもポルトガル語の習得や現地への順応に不安があり、日本での生活を希望した人たちなどだ。繰り返すが、彼らの来日のきっかけは、金を稼ぐ「デカセギ」だ。しかし、多くの外国人定住者が帰国したリーマンショックや東日本大震災を経ても日本に残る選択をした彼らは、「家族」が居ることを理由に、日本での生活を継続している。こうした背景から、池上氏は「日系ブラジル人の永住化志向が強くなっている」と指摘している。池上教授はさらに次のように付け加えた。「今までに無かったことが始まっています。親に連れてこられて日本に住むことになった、移住第2世代と呼ばれる日系4世の若者が、ここ数年で学校教育を終え、社会に羽ばたこうとしています。彼らの一部が、宮城ユキミや田中豚問のように大学まで進学し、自らの境遇や同胞の抱える課題を日本語で発信し解決しようと、自分たちで行動をはじめたんです。彼らのような学生は一握りかもしれないが、わたしは彼らに光を当てたいと思うんです。彼らの存在が、日系ブラジル人を取り巻く環境を変えるトリガーになるかもしれない」
ようやく気づいた過ち
わたしはようやく、取材者としての自分の「過ち」にたどり着いた気がした。日系ブラジル人社会の現実を紐解きたいと考え、「日系ブラジル人暴走族」というビビッドな題材をテーマに据え、この問題に切り込もうとしたが、根底には怖い物見たさの野次馬意識と日系ブラジル人に対する先入観があったように思う。振り返れば、最初の取材者である鶴田俊美さんから「あなたの取材はヘイトも同然だ」と指摘され、混乱と憤慨した気持ちを抱いて取材をスタートさせた。しかし、わたしは行けども行けども、周囲に鋭い威嚇の目を向けるブラジル人暴走族には出会うことが出来なかった。むしろ途中から、わたし自身の取材対象への意識が変わって行ったことも大きい。目の前に現れた日系ブラジル人の若者たちは、周囲の偏見や厳しい環境を真摯に受け止め、たくましく生き抜こうとする姿が印象的だった。彼らの生き様に触れたいまなら、鶴田さんが意を決してわたしに向けた言葉の真意を、理解することが出来る。そして、わたし自身が迷走した結果、偶然にも鶴田さんが最初に示していた本質に少しだけ触れることができたかもしれない。そこには、「無関心」と「先入観」により埋もれてしまっていた、日系ブラジル人の若者の姿があった。ブラジル人としてのルーツを大切にしながらも、日本での永住を志し、積極的な社会参加を目指す若者たちの「意識の変化」と、言語的・文化的なバランス感覚を発揮する「優れた才能」の二つだ。労働力不足を補うため、積極的に外国人定住者による労働力確保を目指すといわれる日本。数年後、われわれが身近に経験するであろう出来事が、ここ浜松ではすでに起こっている。わたしは、「外国人定住者」がいまよりももっと身近な存在になる社会が到来したとしても、身構えること無く一人の隣人として接して行きたいとおもう。(この記事はジャーナリストキャンプ2015浜松の作品です。執筆:岸田浩和、デスク:藤井誠二)
----------岸田浩和・プロフィール京都市生まれ。立命館大学在学中に、ヤンゴン外国語大学(ミャンマー)へ留学。民主化前の混乱期にあったミャンマーで、映像制作に触れる。2000年より商社・光学メーカーで勤務の傍ら、光学専門誌の寄稿からライターのキャリアを開始した。震災を機に「月刊東北まぐ」(まぐまぐ)を創刊。東北被災地に暮らす人たちを44ヶ月にわたって取材し、写真レポート記事をのべ1億通発行した。2012年3月、短編ドキュメンタリー「缶闘記」を発表。同作で5ヶ国9箇所の映画際に入選・入賞。2013年に独立し、広告映像やドキュメンタリー制作、ニュースサイトの映像記者として活動中。www.kishidahirokazu.com
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