NHK高校講座 日本史「キリスト教禁止と鎖国」 2015.09.25


歴史に対する憧れと深い知識を持ったアイドルの養成所。
それが日本史研究の殿堂高橋歴史女学館である。
高橋歴史女学館へようこそ。
今回も日本の歴史を推理していきます。
歴女を目指すみんなは今は何時代を勉強していたんでしたっけ?江戸時代ですよね館長。
家康さんが江戸に幕府を開いたんでしたよね。
平和な江戸時代の始まりでした。
そうでしたね。
あれ?土保君は?何か現地調査に行ったらしいですよ。
いいね。
ねっ羨ましい。
(土保)ただいま。
(向井地込山)お帰り!お土産買ってきましたよ。
どうもありがとう。
何これ。
何何?ジャ〜ン。
おお〜!カステラで〜す。
それではですねここでクイズを出題します。
この中で江戸時代に日本に入ってきたものはどれだと思いますか?さあどれでしょう。
クローバーは自然に生えるものだからビール!ええ?でも江戸時代の人がビール飲んでる姿って想像できないから私はビリヤード。
館長はどれだと思いますか?私はねえ…。
まあ入ってきたものっていう事になるとやっぱりビールかな。
ああ一緒。
正解知りたいですか?
(2人)知りた〜い。
正解は…ジャン!全部でした〜!
(2人)ええ!ええ?全部?全部なんです。
皆さん大正解です。
おめでとうございます。
(2人)イエ〜イ。
という事で詳しくは後ほどご紹介します。
楽しみですねそれは。
では早速ですね今回学ぶべき重要ポイントを見てみよう。
今回は…大きな戦乱がなく天下太平の世だったこの時代。
しかしキリスト教徒による大きな反乱一揆が起こります。
この乱は江戸幕府にどのような影響を与えたのでしょうか。
今回押さえるべき「三つの要」は…江戸幕府の海外政策その歴史をお伝えします。
江戸時代に大きな反乱があったんですね。
そうなんですよ。
それには日本国内だけではなくて海外との関係も大きく関係していたんですね。
ではまず当時の日本と外国との関係から見ていこう。
「三つの要」その一。
江戸幕府を開いた当初徳川家康は明や朝鮮東南アジアとの貿易を積極的に行いました。
ルソンベトナムカンボジアなどと貿易をするために朱印状を商人や九州の大名たちに与え幕府公認の貿易船朱印船を派遣したのです。
朱印船の貿易によって輸出されたものは銀や銅鉄などの鉱山物資や工芸品など輸入品は中国の生糸や絹織物南方からは象牙や砂糖などでした。
更にオランダやイギリスなどヨーロッパからも船が来航。
その中でも最大の貿易相手はマカオを根拠地としたポルトガルでした。
スペインポルトガルからはキリスト教の布教のため宣教師たちもやって来ました。
家康は貿易の利益のためキリスト教宣教師の渡来や布教を黙認。
その結果キリスト教は各地に広まり信者が激増。
1605年ごろには全国で…増大するキリスト教徒に不安を感じた家康は1612年幕府直轄地に…更に翌年それを全国に広げ信者に改宗を迫ります。
教会堂を取り壊し宣教師を国外へ追放しました。
幕府は貿易も制限していきます。
1616年…三代将軍徳川家光は更に貿易の制限と禁教を推し進めます。
1635年…当初積極的な貿易政策を行っていた江戸幕府でしたが増大するキリスト教徒に不安を感じ貿易を統制するようになっていったのです。
江戸幕府も最初は海外と盛んに貿易していたんですね。
そうなんですね。
やっぱり経済的な理由を考えますと海外との貿易これはやりたかったんでしょうね。
じゃあこのような外国との関係はこのままずっと続いたんですか?いえいえ。
このあと江戸幕府の海外政策を大きく変えてしまう大きな乱が起きるんですね。
ではその様子を見てみよう。
「三つの要」その二。
戦国時代長崎の島原と熊本の天草はキリスト教を信じるキリシタン大名と呼ばれた有馬晴信と小西行長の領地でした。
そしてその領民もほとんどがキリスト教徒でした。
しかし江戸時代に入りキリスト教を排除する機運が高まると新しく領主となった…更に領民たちに過酷な重税を課していきます。
そして1637年島原・天草地方のキリシタン農民らが中心となり重税への反発とキリスト教の容認を求めた一揆が起こります。
そのリーダーは天草四郎時貞という16歳の敬けんなキリスト教徒でした。
島原半島の突端にある原城跡。
ここに立て籠もった一揆軍は総勢3万8,000人に上ったといわれます。
幕府は九州諸藩を中心に12万余りの大軍を動員し鎮圧しようとしました。
しかし一揆軍は多大な犠牲者を出しながらも強い団結の下激しく抵抗を続けます。
一揆を鎮圧できたのはおよそ3か月後でした。
一揆軍の犠牲者は3万人以上に上りました。
キリスト教徒による抵抗の激しさは幕府に大きな衝撃を与えました。
以後徹底的にキリスト教を排除していきます。
島原の乱の2年後ポルトガル船の来航を禁止。
日本からポルトガル人を追放したのです。
1641年オランダ人の貿易活動にも制限を加えていきます。
ここ以外に行き来する事を固く禁止しました。
幕府はポルトガル人のみならず西洋人全体に統制をかけていったのです。
島原の乱をきっかけに江戸幕府は外国との交流を厳しく制限。
この鎖国体制は以後幕末まで続いていきます。
キリスト教を禁止するために日本は国を閉ざしてしまったんですね。
でも館長。
ポルトガルの人は追放したけどオランダの人はまだ長崎にいたんですよね。
おお!鋭い質問ですね。
それではね先生にお願いしましょうか。
山本先生!よろしくお願いします。
我が女学館の特別講師山本博文先生です。
(一同)よろしくお願いします。
ポルトガルとスペインそれとオランダがどう違うかという事ですよね。
皆さんはカトリックとプロテスタントというキリスト教の派があるってご存じですか?
(生徒たち)知ってます。
ポルトガルとスペインはカトリック。
でオランダはプロテスタントなんですね。
カトリックの国というのは布教を行ってそれに伴って貿易も行う。
そういう事をやってたんですね。
従って貿易と布教というのは切り離せないんですね。
むしろ宣教師がやって来て貿易商人も連れてくるという形だったんですね。
一方オランダは東インド会社という会社の中の商人なんですね。
彼らは布教はしなくて貿易だけやる。
幕府はキリスト教が日本に入ってくる事を非常に嫌っていたんですね。
だからポルトガルやスペインは追放して貿易はオランダとやる。
彼らはキリスト教の布教をしないので安心だという。
(3人)へえ〜。
鎖国してしまった日本は世界から孤立してしまったんですか?はい館長。
その事は私が調べてきました。
あっさっきのお土産と関係ありますね。
そうなんです。
江戸時代海外との交流はどのように行われていたんでしょうか。
「三つの要」その三。
土保さんが訪れたのは…。
私がやって来たのはここ長崎県。
ご覧下さいこの海。
初長崎県行ってきま〜す!今回訪れたのは長崎県長崎市。
古くから西洋との交流が活発に行われていた国際都市です。
土保さんは鎖国体制だった江戸時代に唯一開かれた港出島の跡地へとやって来ました。
こんにちは。
こんにちは。
今日はここで江戸時代の時に貿易が行われていたと聞いてやって来ました。
はいそうなんです。
案内して下さるのは長崎で観光ガイドをしている…今からこの中をご案内致します。
お願いします。
よろしくお願いします。
ここ出島は鎖国体制の江戸時代にオランダ人を収容し貿易を行っていました。
オランダ人も日本人も許可なく出はいりする事ができない特別なエリアでした。
現在では当時の出島の建物や町並みを忠実に復元しています。
あの人誰ですか?あちらはですね鎖国時代の貿易の取締りをしたお役人さんです。
そうでござるぞ。
建物だけではなく役人や門番も再現しています。
ここにはどんな品物が入ってきたのでしょうか。
(三好)これ…え?この袋に入ってるものですか?
(三好)はい。
え!今ではどこでも手に入るような当たり前のものなんですけど昔は日本では取れなかったので輸入するしかなかったんですね。
ですので非常に貴重なものでした。
当時…外国から入ってきた大量の砂糖。
それをもとにさまざまなお菓子が作られました。
その一つがカステラでした。
ポルトガルから伝えられたといわれるカステラは江戸時代に長崎の名産品になりました。
ビールもこのころに出島に伝わったといわれています。
更にガラス製品などを輸入する際壊れないようにクローバーの干し草を詰め物として使っていました。
そこからクローバーをシロツメクサと呼ぶようになりました。
時間がある時にオランダの人たちはビリヤードを楽しんでいたそうです。
イエ〜イ!すご〜い。
出島には鎖国体制の時代にもさまざまな外国からの品物や文化が入ってきていました。
長崎ではオランダだけではなく中国との貿易も行われました。
1688年にはこれまで長崎の町に住んでいた清の商人を集め新しく築いた居留地に居住させました。
この清の商人の居留地を唐人屋敷といいます。
江戸時代日本には長崎をはじめとして外国との窓口が4つありました。
朝鮮とは対馬を介し江戸時代を通じて交流していました。
国書を交換する唯一の正式な外交関係を結び朝鮮からは通信使が来日。
江戸まで行列をなして移動した通信使たちは江戸の人たちにとって最も身近な外国人であり目にする事ができる貴重な外国の文化でした。
鹿児島の薩摩藩は琉球と交易を行っていました。
1609年薩摩藩は幕府の許可の下琉球に侵攻。
敗北した琉球は実質的に薩摩藩の支配下に置かれます。
その琉球を介して薩摩藩は中国からの輸入品を手に入れる事ができました。
また蝦夷地の南端を支配していた松前藩はアイヌの人たちとの交易を行い鮭や昆布毛皮などを手に入れていました。
鎖国体制だった江戸時代。
しかし日本は4つの窓を通じて外国と交流していたのです。
鎖国だった日本も実際には物や人が入ってきていたんですね。
はい。
長崎はカステラなどお菓子が名産品になってるだけではなく料理の味付けも甘いんですよ。
甘いんだ。
長崎に行って今に至る歴史をたくさん知る事ができました。
でも館長。
さっき鎖国と言っていましたけど外国から食べ物や服文化まで入ってきていたなんて国を閉じてないんじゃないですか?鎖国なのかそうじゃないのか一体どっちなんですか?怒ってしまいましたねえ。
確かにそうですよね。
じゃあ一体どうなのか特別講師に聞いてみましょうか。
(3人)はい。
山本先生改めてよろしくお願いします。
(一同)よろしくお願いします。
鎖国か鎖国じゃないかですよね。
これは研究者によっても立場によって鎖国だと言う人とそうじゃないって言う人がいるんですね。
これは見方によるんですが私は鎖国だろうと思ってる訳ですね。
鎖国と言っていいだろうと。
それはなぜかと言うと日本人は外国に出ていく事ができないんですね。
外国にいる日本人も日本に帰る事はできない。
日本に来ている外国人も非常に行動を規制されている。
そういう事を考えたら鎖国と言っていいと。
だから国のドアは全く閉まってるんですね。
しかし窓は先ほどあったように広く開いてるんですね。
外国から情報は入ってくる貿易品は入ってくる。
ドアは閉まってて窓は開いてる状態。
これを窓から見ると鎖国じゃない。
ドアが閉まってるのを見ると鎖国だっていう。
こういうふうに2つに意見が分かれる。
鎖国した事で日本の近代化が後れたじゃないかみたいな事よく言われますけどどうだったんですか?戦争の技術っていうのは多分後れたと思うんですね。
そういう面では幕末に困る訳です。
黒船がやって来て驚く訳ですからね。
しかし貿易を非常に制限してますよね。
貿易を制限してる事によって日本では必要な物資を日本だけで作ろうという意識も出てくる。
ものづくりにも非常に役に立っちゃう逆に。
自分の手だけで…。
作れるようになっちゃう。
そういう意味では鎖国というのは損だったというだけではなくてその事によって日本国内の産業が育成されるとかいろんないい面もあるんですね。
へえ〜。
(一同)どうもありがとうございました。
皆さん長崎のお土産食べませんか?そろそろ。
食べる〜。
食べたい。
そりゃ待ってますよ。
ねえ。
これ最初食べた…あっどうぞ。
はい。
これ最初食べた人はびっくりしたでしょうね。
江戸幕府は当初海外との貿易を…1637年島原・天草地方のキリシタン農民らが中心となった一揆が起こった。
この一揆をきっかけに江戸幕府は…鎖国下の日本でも…2015/09/25(金) 14:00〜14:20
NHKEテレ1大阪
NHK高校講座 日本史「キリスト教禁止と鎖国」[字]

日本の今は、誰が、どのように作り上げたのか? 日本史研究の殿堂、高橋歴史女学館がその謎に迫る。出演:高橋英樹・AKB48(向井地美音、土保瑞希、込山榛香)

詳細情報
番組内容
今回のテーマは江戸時代の日本と海外との関係。江戸時代の初め、幕府は海外との貿易に積極的だった。しかし、九州で発生した島原の乱などを契機に鎖国政策へと変わっていく。それはどうしてだったのだろうか? 鎖国状態の江戸時代にも、長崎や対馬など4つの窓口によって海外との交流は行われていた。それぞれの窓口を通じて、どんな交流が行われたのだろうか? 江戸時代の海外との交流の実態を学ぶ。
出演者
【司会】高橋英樹,【出演】土保瑞希,向井地美音,込山榛香,【講師】東京大学史料編纂所教授…山本博文,【語り】杉村理加

ジャンル :
趣味/教育 – 中学生・高校生
趣味/教育 – 大学生・受験
趣味/教育 – 生涯教育・資格

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音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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