今回ご紹介したのはポーズを終えたあとも気持ちのよい感じが長く続くポーズです。
ゆっくりとした呼吸とともに練習して下さいね。
今回は西郷隆盛をはじめ一流の人物を育てた名君が登場します。
先生これまでで教え子さんって何人ぐらいになるんですか?何人ぐらいですかね。
随分教えた子は多いですね。
じゃあ大勢教えてらっしゃるんですね。
いや実はねビビるさんに弟子を取ったらいいんじゃないかと言われまして。
確かに今後のお店の展開を考えるとそれもありかなと思ったんですけれどもただ人に教えた経験が実はなくて。
難しそうじゃないですか。
ですから歴史上の人物で人をたくさん教えて大きな人物に育て上げた。
そんな人物はいらっしゃらないですかね?いい人いますね。
島津斉彬という人。
はいはい聞いた事あります。
西郷隆盛の師匠筋にあたる人ですね。
西郷隆盛を。
西郷を育てたのがこの斉彬で他にもたくさん小松帯刀とか育ててる人間いるんですね。
いい人いるじゃないですか。
じゃ今日のお薦めは島津斉彬で。
そうですね。
いきましょうか。
260年以上続いた徳川幕府が倒れ新しい時代の幕が上がります。
明治維新と呼ばれる歴史上の大転換を支えたのはきら星のごとき英雄たち。
幕末なぜこれほど多彩な若者たちが次々と現れたのか。
そこには来たるべき時代を見据え教育に力を注いだ指導者たちの存在がありました。
人材の宝庫と言われた摩藩で西郷たちを育て上げたのが今回の主人公…あの篤姫を養女として迎え入れた事でも有名ですよね。
斉彬が藩主になったのは嘉永年間。
ペリー来航により開国か鎖国かで国論が二分され混乱を極めた時代でした。
そんな中斉彬が積極的に行ったのが人材登用。
身分にとらわれず優秀な若者を見いだしその意見を藩政に取り入れる事でした。
西郷隆盛など低い家柄の者たちが斉彬の抜擢によって藩の中心的人物へと成長。
彼らの登場により藩は明治維新の主役となる大躍進を遂げました。
勝海舟はこう言っています。
今日は幕末屈指の名君島津斉彬の人材育成の極意に迫ります。
さあというわけで今宵のテーマはこちら。
「一流の人材を育てるには?」という事で味わっていこうと思います。
ただ2人きりで話してると家庭教師をやってるみたいで嫌ですね。
すいませんお客が少ないお店で。
誰か来ないんですかね。
いつもこんな感じなんですよ。
もうさみしくてね。
どうしましょうかね。
(大木)いやどうもやってます?ビビるさんいいとこに来て下さいました。
お待ちしてましたよ。
僕を歓迎するの珍しいですね。
いやいつでも歓迎してますよ。
怪しいな逆に。
いやいやもうウェルカムでしたからもう。
今日お客さん連れてきましたから。
ありがたい!入りましょう。
どうぞどうぞ。
こんばんは。
おっこんばんは。
あれ?スポーツ解説でよく見かける方?そうですよ。
陸上の小山裕三先生ですよ。
よろしくお願いいたします。
はじめまして。
ようこそいらっしゃいました。
どうぞお掛け下さい。
失礼いたします。
ありがとうございます。
連れてきましたよ!いやいやよく拝見してます。
ありがとうございます。
今回島津斉彬の知恵を読み解くのは日本大学陸上競技部監督の小山裕三さん。
小山さんは現役時代砲丸投げのトップ選手として活躍。
引退後は指導者に転向し多くのアスリートを育て上げました。
その中にはアテネオリンピックのハンマー投げで金メダルを取った室伏広治さんやドイツで開催された世界選手権のやり投げで銅メダルを取った村上幸史さんもいます。
33年のコーチ人生で育てた選手の数はなんと1,000人以上。
最近は選手の気持ちを知り尽くした解説者として世界陸上でも大活躍。
選手の秘めた力を最大限に引き出し開花させてきた小山裕三さん。
明治維新の功労者となる人物を多く育てた島津斉彬の知恵をどう読み解くのでしょうか。
日本大学陸上競技の監督でいらして。
あの室伏選手をはじめね多くの方を育てていらした。
早速ちょっと聞きたいんですけれども人に教えるうえで大事にされている事ってどんな事ですか?それはとにかく1から10まで全部その者を知るという事ですね。
知る。
例えばその子がどのような形で育ってきたか。
褒められて育ってきたか怒られて育ってきたか。
カレーライスが好きなのかラーメンが好きなのかというような事までもう全部知らないふりして相手の事を全部知るわけです。
へえ〜。
小山さんなぜそこまで知る必要があるんですか?私はそうでないとやはり同じチャンネルに合わせられない。
例えば何を考えてるか今何がしたいのかとかそれこそあ・うんの呼吸といいますか。
そこで本気のキャッチボールができるようになるまでにはやっぱり知る必要がある。
ありますね。
でないとやっぱり相当微妙な事をやりますから肉体的な事だけで勝負はできません。
やっぱり精神的なものって大きいですからそういう事というのは大事ですよね。
今日見ていくのが島津斉彬という人物で島津斉彬についてはご存じですか?そうですね西郷隆盛という人物を知るには島津斉彬と。
もう絶対出てくる人ですから。
今日はですねじっくりと見ていきますがまずは藩主になる前の斉彬からひもといていこうと思います。
斉彬は摩藩主・斉興の嫡男として江戸の摩藩邸で生まれました。
幼い頃から利発で11歳の頃既に四書五経をそらんじ和歌や茶道にも習熟。
摩の示現流による剣術や荻野流の砲術も究めた文武両道の若者でした。
20歳を過ぎる頃には幕府閣僚の間でもその才覚が注目され「外様大名でなければ老中として国政を任せたい人物」と言われたほどでした。
ところがこの斉彬老中どころか40歳を過ぎても摩藩主にさえなれませんでした。
父である斉興が斉彬に藩主の座を譲ろうとしなかったためでした。
父が懸念したのは斉彬の西洋文化への傾倒。
「オランダかぶれ」と揶揄されるほど舶来品に熱中し金をつぎ込んでいた事が藩内で問題視されたのです。
幕末の摩藩は極度の財政難に苦しみ一時は藩の借金が年収の40倍にあたる500万両になった事もありました。
新たに抜擢された家老調所広郷が徹底的な緊縮で収支の改善を図りこの時期ようやく再建が成功した段階でした。
調所は「オランダかぶれの斉彬公が当主になれば今度こそ摩藩は破綻します」と警告を発していました。
父の斉興は斉彬に藩主を譲る事をためらい側室の子で聞き分けのよい次男の久光を次期藩主にしようと考えていたのです。
しかし藩外では幕府老中の阿部正弘などが斉彬の一刻も早い藩主就任を訴えていました。
この時期西洋列強がアジアに接近して植民地化を進めており日本にもその脅威が迫っていました。
…というのが阿部政権の一番課題としたところですからそれを担ってくれるのは非常に英明の誉れ高い斉彬だろうという事ですね。
そうした中藩内で大きな発言力を持っていた調所が死去。
幕府側が強力に後押しした事でついに斉彬の摩藩11代藩主就任が実現します。
摩のみならず国難打開の任を背負い立ち上がる事になったのです。
当時の日本の状況というのはどういう事だったんですか?200年以上続いた鎖国がなかなか維持できなくなってるんですね。
イギリスとかフランスが植民地戦争をやりながら東アジアに進出してきますね。
1840年のアヘン戦争でねこれはあの強大そうな清がイギリスと戦争して負けて香港とかを奪われてしまう。
このままにしておくと日本もそういう西洋の列強がやって来て植民地になるんじゃないかという。
こういう危機感の中で斉彬は成長してるわけなんですね。
それにしても随分西洋の文化西洋かぶれだったんですね。
ええ。
蘭癖という西洋かぶれというような意味ですけどね。
自分の曽祖父の重豪という人が非常に蘭癖で長崎に行ったりしていろんな西洋の文物を取り入れてたんですね。
その重豪の薫陶を受けて育ったものですから自分も西洋の事は非常に好きで西洋の技術を受け入れて摩藩を近代化しようというか科学技術を発展させようと考えたわけなんですね。
ようやく藩主になれた斉彬です。
このあとどのようにして西郷隆盛をはじめ優秀な人材を育てていったのか。
その知恵を味わっていきましょう。
藩主として摩へ初のお国入りを果たした斉彬。
財政再建に代わり新たな柱としたのが人材登用。
「身分を問わず意見がある者は誰でも書面で提出せよ」と呼びかけます。
集まった書状を丹念に読んでいくと同じ意見をしつこく送る者がいる事に気付きます。
「年貢を取り立てる役人が不正を働き私腹を肥やしています。
そんな役人は首にすべきです」。
差出人は下級藩士の西郷吉之助後の隆盛です。
当時西郷は23歳。
農民から年貢を取り立てる役に就いていました。
部署には賄賂をもらう役人たちが多く西郷はその全員の免職を主張していました。
斉彬は西郷を呼び出しこう伝えました。
「お前の訴えは視野が狭い。
仲間を告発し彼らを一掃すれば藩は良くなると思うか。
ましてお前の正義も孤立しては意味がなく賛同者がいなければ何もできないと心得よ」。
自分の意見が通らなかったどころか周りと協調できない変わり者と戒められ落ち込む西郷。
しかし一方で斉彬は西郷の持つ頑固さに大きな可能性を感じていました。
あの男の言うとおりにすれば摩藩は蜂の巣をつついたような大騒ぎになる。
今はまだ採用するわけにはいかないがあの純粋さひたむきさは育て方しだいでは途方もない大物になるかもしれない。
それから3年後の安政元年。
斉彬は身の回りの雑用を務める御庭番として西郷を抜擢。
そばに置き直接指導を始めます。
斉彬の指導方法は独特でした。
まず相手に自分の意見を存分に話させます。
当時西郷が熱中していたのは「攘夷論」。
欧米列強が接近してきたら武力で打ち払い遠ざけるというものでした。
西郷の話を十分聞いたうえで斉彬は別の見方を示しました。
「開国し交易した方が国は強くなるのではないか」。
根気よく対話していく事で頑固者の視野を徐々に広げさせていく。
それが斉彬のやり方でした。
斉彬はこう言っています。
見いだした偏屈な若者は他にもいます。
参上いたしました。
藩士の小松帯刀です。
小松は後に家老に抜擢。
幕末動乱のさなか摩藩を見事に束ね明治維新の実現に貢献した人物です。
この小松幼い頃から極め付きの変人として有名。
一たび勉強し始めると食事を忘れ昼夜の別なく没頭し体を壊すありさま。
母親が気晴らしに琵琶でも弾けと勧めると今度は一日中琵琶を弾き続け再び病気を悪化。
友達からは融通の利かないばか扱いされていました。
うわさを聞いて興味を持ったのが斉彬。
小松を呼び出し自由に意見を言わせてみたところ…。
提案したのはなんと藩士の外国への密航。
幕府に無断で海外留学させるものでした。
もし発覚すれば藩の取り潰しは免れぬぞ。
大丈夫です。
留学生は一旦脱藩させ琉球に身を潜ませた後に折を見て琉球に来る外国船に潜り込ませるのです。
その大胆さを気に入った斉彬は小松に留学生派遣計画の立案を命じます。
残念ながらこのあと斉彬が急死したため計画は頓挫します。
しかし小松は斉彬の遺志を継ぎ7年後の慶応元年16名の留学生をイギリスに送り出す事に成功します。
帰国した若者たちは外交官や官吏となり明治政府の礎となりました。
激動の時代に必要なのは器用さよりまず意志の強さ。
斉彬の頑固者に着目した人材登用により摩藩は危機をものともしない藩に成長していきました。
西郷隆盛に小松帯刀他に育てた人物どんな方がいたんですか?養女になりますけど13代将軍家定の正室になった篤姫とか明治になって大阪商工会議所をつくった五代友厚とかいろんな人がいるんですね。
また摩藩の教育システムというのはかなり新しくするんでそういう中でもどんどん新しい人材が出てきてるわけですね。
まあそれにしてもビビるさんね。
はい。
西郷というのは面倒くさい人だったんですね。
そんなイメージなかったんですけどね。
あの人私心がないんです。
私の心がないんですね。
だから不正をやってる人間は許せないし自分の保身を考えて上に擦り寄る事もしないんですね。
だからすごく扱いにくいわけです。
普通は利益誘導をすれば言う事を聞くわけだけど絶対自分が間違ってると思ってる事言う事を聞かないわけですね西郷は。
だから斉彬は自分でないと西郷を操る事はできないだろうというふうに言ってるんですね。
それこそアスリートの世界というのはこだわりを持ってらっしゃる方が大勢いるんじゃないですか?そうですね。
すごいのもいましたね。
全く考え方が違うと。
大体投てき選手というのは体重を増やせば遠くへ飛ぶというような事が普通なんですね。
ところが「僕は体重が少なくて遠くへ飛ばす」と。
「僕はそれをやります」というふうに言われたわけですね。
小山さんはそうじゃないという意見を。
そうですね。
技術的な理屈からいえば反発をする種目なんですね。
反発を利用して投げる種目なので反発するというのは体重が重い方が反発した時には力になるわけなんです。
でもはなから否定しないで「だったらどうなんだ」と。
3時間ぐらいやり合ったんです。
そうしたところ「じゃあ先生の言うとおり一回やってみましょうか」と。
「もしやってみて駄目だったら先生私の言う事を聞きますか」と。
「よし聞くよ」と。
約3か月後に結果が出たんです。
「先生の言ったとおり体重を増やしたら記録が2m伸びました」と。
「やっぱり先生の言うとおりです」って。
それからその者との信頼関係というのはすごかったですね。
じゃこだわりは持っていた方がいいというお考えですか?そうですね。
やはり自分の意見が主張できるという事。
これがまず大事ですね。
しかしそれを聞いてあげるんですけども正しい方向に導いてあげるという事がこれが私の役目ですから。
運動系だと四の五の言わずにやれというようなイメージですけどそういうわけでもないんですね。
小山さんの場合は。
先生という立場というよりも人と人のぶつかり合いですね。
上から目線でなくて同じ土俵でじゃ話し合おうじゃないかと。
例えばその3時間だったらどっちが意見を言う時間の配分は長いんですか?それは学生の方が言う時間は長いですね。
じゃもうずっと聞いてるんですか?しばらく。
私はどっちかというと説得しようと思ってませんから。
こう言わせて。
言わせて言わせてですね。
もう全部聞いてそれで私の考えを言って「じゃあ先生の言うとおりやってみましょう」というふうに話は持っていくわけですけども。
聞いてくれたら向こうもちょっと聞いてみようかなという。
そうですね。
ですからふだんの考え方の中でも1やっぱり言いたかったら10ぐらい聞いてあげますね。
さっきの話を聞くとそのこだわりがあった人は一旦壁を乗り越えるとそれだけの関係が生まれるという事なんですか?そうですね。
ですからかえって素直で自分の意見を言わずに先生の意見を尊重しながら聞いてる者よりもむしろそういうこだわりを持っている者の方がいざ信頼関係を得た時にはこれはもう絶対的なものですね。
聞いてみたいのが先生の教え子の一人で室伏選手いらっしゃるじゃないですか。
メダリストですよ。
そうですよ。
室伏選手は…室伏さんはこだわりは?自分が納得しないという事これはもう全て動きにつながらないんですね。
自分が納得したらやりますと。
ですから私を納得させて下さいというスタンスなんですね。
具体的なエピソードあります?例えば「よしじゃあ今から走るよ」と。
「じゃあ100m走ろうぜ」と言った。
「先生これが80mじゃいけないんですか?」と。
「なぜ100mなんですか?」というくらいのこだわりをするわけですね。
本人が納得しない事があると食い下がってくるわけです。
その中でまだ納得しないとなってくると家に帰って徹底的に調べ上げてくるんですね。
すごく細かく調べてくるんですね。
それで完璧なまでに自分が調べてきて勉強してきて「先生昨日の話なんですけど」と。
これ来るわけですよ。
ですから正しい事をどうやって見極めていくかという事。
これにこだわるわけですね。
いやいやすごいですね。
さあ島津斉彬ですけれどもまだまだ一流の人を育て上げるこんな知恵があるんです。
江戸時代は藩が一つの国であり他藩との必要以上の接触は極力制限されていました。
その中で藩の枠を超え同じ考えを持つ遠くの人々と積極的につながろうとしたのが斉彬でした。
特に親しかった仲間の一人が…斉昭と交わした書状は見つかっているだけでも70通。
他にも福井の松平慶永や宇和島の伊達宗城佐賀の鍋島斉正など西洋文化に興味を持つ大名たちと連絡を取り合いその知識を深くしていきました。
斉彬はこのネットワークを人材育成にも活用しようと考えます。
つきあいのある藩主のもとへ若者たちを送り出しました。
とにかく視野を広げてヨーロッパワールドワイドな視野を持つためには摩一国の中ではとても駄目ですね。
ただ鎖国して海外にはまだ行けないのでじゃできるだけ日本のいろんなとこに行って勉強してこいと。
ただ下級武士の場合所得が低いのでお金がありませんから藩から奨学金を出してそれで長崎なり江戸なりいろんな所に遊学勉強に行かせるという制度をとってます。
斉彬が重視したのは同じ志を持つ者たちを引き合わせる事でした。
ある時御庭番を務めていた西郷に福井藩と接触させます。
福井藩には西郷と同じ頃合いの若者がいました。
秀才として藩主松平慶永に抜擢され西郷と同じように各地の伝令役などをこなしていました。
橋本は西郷にこう主張します。
「これからの日本は富国強兵に力を注ぎ身分を問わず誰もが政治に参加できる国にしなくてはならない」。
最初は反発も感じた西郷でしたが意見をぶつけ合ううちいつしか無二の親友に。
以後西郷と橋本は徳川家の将軍擁立問題などで協力。
しかし橋本は26歳の時志半ばで亡くなります。
西郷は「自分は橋本左内に学問においても人物においても遠くおよばなかった」と言って深く死を悼んだそうです。
斉彬は他にも幕府が長崎に海軍伝習所を開設すると聞くとすぐに航海術に興味を持つ若者を派遣。
長州に腕のいい医者がいて門弟が集まっていると聞くと医学を志す者を送り出します。
同じ志を持つ者たちの出会いが次々生まれていきました。
人材育成の先に日本の近代化を夢みていた斉彬。
安政5年突然の病に倒れこの世を去ります。
享年50。
亡き主君の思いを引き継いだのが西郷などの若き藩士たちでした。
難局に立ち向かう彼らを行くさきざきで救ったのが斉彬が引き合わせてくれた友人たちのネットワ−クでした。
藩を超えた若者たちの結束によって明治維新の偉業が成し遂げられる事になったのです。
さきざきまで見据えた主君の慧眼に対し西郷はこう語っています。
なぜ奨学金を出してまで遊学に行かせたんでしょうか?摩藩って意外と閉鎖的なんですね。
外から人が来るのも結構シャットアウトしてますし自分のところの藩の人間がいろんなところとつきあうのも禁止してるんですね。
ただこういう場合はきちんとお金を出して高名な人間と引き合わせようと。
そこまでやっぱり教育というものに対して熱心だったんですね。
そうですね。
小山さんスポーツの世界で外に出て同類に会うという事はどんな刺激どんな効果があるんですか?例えば砲丸投げで20mというラインがあるとしますね。
目指してますね。
自分がやってない事をやってた時にああああいう事が20mを狙うのに大切な事なのかなとか。
今まで自分がやってきてる事よりもいい事なのかなとかという事をやはり考えさせるわけですね。
自分自身をですね。
そういうとこなんですね。
考える事。
はい。
あとは行くさきざきでもしかしたら西郷のように盟友というかライバルと出会うケースもあるかもしれないですね。
いろんな新しい知識を教えられたり議論したり違う考え方を教わったりですね。
そうなると自分も考えますよね。
そうですね。
その違いを乗り越えて何ていうか信頼し合った人間は非常に結束が強くなるわけですね。
ですからやはり…室伏なんかはそのライバルが日本でいないわけなんですね。
ですから海外に行ってライバルをつくるわけですね。
その者たちとは敵じゃないんでライバルですから試合が終わればノーサイドですから。
モチベーションというものが全然違ってきて日本選手権10連覇だ20連覇というよりも貪欲に記録を伸ばすという事自分の技術の完成をさせるんだという事。
ですから室伏は相当負けました。
日本にいたら負けないんですよ。
負けないという事はいい事でもあるけども上に伸びるという事に関しては意外とマイナスになるかもしれませんね。
そうですよね。
ついつい慢心してしまいますしね。
これでいいんだって感じになりますよね。
そうなんですね。
とにかく…自分より強い人に出会わなきゃ駄目なんですね。
駄目なんですね。
そこはやっぱり外に出て出会うという事しかないわけですね。
室伏の場合にはもう外に出ていかなければなかったんですね。
いやもう話が広がったところで。
さあ人材育成にたけていた斉彬ですけれども実は西洋文化も積極的に取り入れたんですよね。
その辺りのところを特命店員が丹念に調べてきてくれましたので味わって頂きましょう。
主人公ゆかりの地から取って置きのネタをお届けする…特命店員の前川香菜です。
店長今回は蘭学好きだった斉彬公がいかにハイカラな趣味を持っていたのかをご紹介したいと思います。
どんなものが出てくるか楽しみにしていて下さいね。
では早速行きましょう。
まず訪れたのはこちら。
今年7月に「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産にめでたく登録された仙巌園。
もともと島津家の別邸だったところで広さはなんと1万5,000坪。
歴代の藩主たちが代々整備してきました。
ここは斉彬公もお気に入りで勝海舟やオランダの貿易商など賓客が来ると案内したそうです
仙巌園に来たらどうしても見てほしい景色があるんです。
それがこちらです!雄大な桜島その手前に広がる鹿児島湾。
どうですか?この景色。
きれいですよね。
鹿児島湾を池に桜島を築山に見立て設計された庭園。
さすが島津家スケールが違いますね
実はこの庭園の中に斉彬公がつくらせたというあるハイカラなものがあるんですが何だと思いますか?カメラさんパンして下さい。
さあ一体どれでしょうか?正解はあちらです。
あのちょっと不思議な形をした石灯籠なんです。
この灯籠笠の形が鶴が羽を広げたように見える事から鶴灯籠と呼ばれているそうです
形がハイカラだという事なんですか?いえこれは日本で初めてのガス灯なんです。
日本初のガス灯。
ガス灯なんですね。
どうやって使ってたんですか?あちらのお屋敷の中にガス室を設けましてその中で石炭を蒸し焼きにしてガス管をこの下に通してこちらにガスの火をともしていました。
(前川)当時としては驚き。
考え方もハイカラですよね。
ハイカラですよね。
安政4年にガス灯籠点火に成功した斉彬は城下をガス灯の町にする事を夢みていたそうです。
斉彬の急死でついえたこの計画ですが平成元年鹿児島市は城の周りにガス灯を設置し斉彬の夢を実現させました
仙巌園には斉彬がとりわけ力を入れた技術も残っています。
それが反射炉です。
反射炉というのは純度の高い鉄を作るのに必要な高温を作り出す事のできる溶鉱炉の一種。
当時日本で製作に成功したのは佐賀藩と摩藩だけでした。
この反射炉で製作したのがこちらの大砲です。
長さ4.5m重さ8.3トン。
70キロの砲弾を3キロ先に飛ばす事ができ日本屈指の飛距離を誇りました
斉彬はこの地に反射炉を中心にした工場群を築きました。
反射炉で鋳造した砲身を削って仕上げる工場や蒸気機関の研究所。
とりわけ人々の注目を集めたのがガラス工場で軍艦の窓につける強固なガラスの製造などが行われていました
仙巌園の隣にある尚古集成館にも斉彬が取り組んだハイカラなものが残されています
ここは鎌倉時代から昭和初期までの島津家に関する史料をおよそ1万点も所蔵しています
斉彬が安政元年に造った摩藩初の西洋式軍艦がこちらの昇平丸です
全長31mで大砲も16門装備した最新鋭の船でした
斉彬が近代化を強力に進めた背景には摩という土地柄も関わっていました
摩の地理的な特殊性にあります。
鹿児島は日本の南の玄関口でございました。
幕末は黒船。
つまり西洋の軍艦が南から北に上がってくる。
ペリーもその航路で日本にやって来ています。
摩藩が西洋列強の砲艦外交の的になるのではないかと。
それに対抗するためには近代化を図ってそして西洋式の軍艦も欲しいと。
他にも蘭学書をもとに日本で最初に開発したハイカラなものがあると聞き見せてもらいました
こちらなんです。
何ですか?これ。
これは斉彬が研究したタゲレオタイプという写真の史料です。
(前川)写真ですか?
(田村)はい。
当時の最先端の写真技術を10年近く研究して成功させたと。
(前川)これ最初に何を写したんですか?島津斉彬本人でございます。
あっ斉彬本人を。
はい。
それがこちら。
日本人が日本人を写した現存する最古の写真で斉彬が亡くなる1年前に撮影されたものなんだそうです
(田村)後にですねこの写真を見て斉彬公をふだんからよく知ってらっしゃる方はいや斉彬公のふだんのお姿とは違うなと思われたらしいです。
というのはね痩せておられる。
つまりこれはご病気の直後に撮られた写真です。
ですからその後斉彬公のご肖像を作成する段階で非常に貴重な史料にはなったんですけれども実際に出来上がった肖像画はもっとふっくらしておられるんですね。
(前川)元気な時。
では最後に斉彬公が作らせそのハイカラさから大名たちの間でも大人気だったという摩の特産品をご紹介します。
それがこちら。
摩切子と呼ばれるガラス工芸品です。
ご覧下さい。
この発色。
そしてカットの美しさ。
江戸時代に作られたものだとは到底思えませんよね。
赤いガラスを作るのは難しく温度管理や湿度など色調整に失敗すると黒くなるそうです。
ガラスを削る深さを調節する事で深みのあるグラデーションをつける事にも成功しました。
こうした赤いガラスの加工は日本では摩でしかできなかったため斉彬は大名にプレゼントしては自慢していたそうです
西洋と対等におつきあいができるようになったら西洋の方々に好まれる日本のガラス工芸品というものが必要になってくるだろうと考えたわけですね。
将来の事も見据えながら彼は物産開発をやっていったという事です。
これらのハイカラな取り組みは全て斉彬が藩主だった僅か7年の間に行われた事。
もし斉彬が急死せず長生きしていたら摩は世界に知られる最先端の都市になっていたかもしれません。
店長是非鹿児島に来た時は世界遺産の仙巌園と集成館に足を延ばしてみて下さい
すごいですね赤いガラス。
きれいですよね。
江戸時代ですもんね。
あのころは強い軍隊をつくるというのが課題だったわけです。
摩は外国から攻められるかもしれないので。
強い軍隊のためには船も必要だし大砲が必要なんですね。
こういうふうにしてつくられた大砲が薩英戦争の時に使われてイギリスの軍艦にかなりの損害を与えたわけですから結構ね斉彬が考えた強兵策というのは成功してるわけなんですね。
今日見てきましたけれども最後はやはり今日のテーマ「一流の人材を育てるには?」。
小山さんの極意。
やはり自分自身は100を知ってなきゃいけないという事。
この努力はやっぱりコーチはしなきゃいけない。
しかし100を求めない。
100にこだわらないという事ですね。
この言葉に尽きるんじゃないかと思うんですね。
コーチはやっぱり自分を持ってなきゃいけない。
知識も100知ってなきゃいけないと。
しかしその100にこだわらないと。
あまりこだわりを持つなと。
「型を持って型にこだわらず」という事。
これが一番重要な事じゃないかなと。
今から来る若い連中というのは将来がありまだまだ伸びる子たちばかりですから私の型にはめてしまったらかわいそうですよね。
ですから私のできる範囲であまりこだわりを持たずに伸び伸びとつくってあげたいなというふうに思うんですね。
真剣に向き合って羽ばたく時はさあ羽ばたけというような気持ちですかね。
そうですね。
いやあ今日ほんとにいろいろと学びました。
また来て下さいます?よろしくお願いします。
こんな店ですけれどいいですか?ありがとうございました。
2015/09/22(火) 12:00〜12:45
NHKEテレ1大阪
先人たちの底力 知恵泉「変人こそが国の宝 島津斉彬の人材育成術」[解][字][再]
明治維新を導いた幕末屈指の名君、島津斉彬。人材育成のモットーは「変人の登用」。西郷隆盛、小松帯刀たちを育てた異色の教育方法とは?世界遺産に残る斉彬の遺産も紹介。
詳細情報
番組内容
明治維新の原動力となった島津家。その立て役者が名君、島津斉彬だ。急死するまでわずか7年という在任期間の間に西郷隆盛、小松帯刀など、きら星のごとき人材を見いだした。その人材登用のモットーは「変人こそが国家の宝」というもの。幕藩体制が崩れようとする中、扱いづらい個性の強い若者たちをあえて抜てきし藩の原動力として育てた。今年、世界遺産に登録された鹿児島の庭園に残る斉彬の貴重な近代化遺産も紹介する。
出演者
【ゲスト】陸上連盟強化委員会テクニカルコーチ…小山裕三,【出演】東京大学史料編纂所教授…山本博文,ビビる大木,【司会】近田雄一
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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