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第五十八話 マゴットの過去その9
長くお付き合いありがとうございました。
次回から本編に戻ります。
「リーシャ母様!」
「大丈夫、大丈夫だから……ね」
そういうリーシャの顔色は蝋のように白かった。
マルグリットと会話を交わしていられたのはその日のうちだけで、翌日からリーシャは昏睡状態に陥っていた。
「お医者様は……お医者様はいないの?」
顔見知りになっているカーディフの街の人間にマルグリットは懇願するようにして聞くが、返事は決して芳しいものではなかった。
ようやく見つけた街医者には、私の腕では及ばないとさじを投げられるだけだったのである。
「ひぐっ、えぐっ……死なないでリーシャ母様……」
あの日トリストヴィーでダリアとナイジェルの死を知ってからずっと耐えていた涙が、マルグリットの頬をあとからあとから滑り落ちていった。
リーシャに死なれればマルグリットは本当にこの世にひとりぼっちとなってしまうのだ。
意識の戻らぬリーシャを、マルグリットは必死で看病した。
高熱が続いているのに水分を摂らなければ、人は容易く脱水症状に陥る。
口うつしで水と食事を送り込み続けて丸二日の時が過ぎた。
こんなとき、ラミリーズがいてくれたらどんなに心強かったろうとマルグリットは思う。
強くなったと思っていた。
それなのに、どうして自分は、いつも本当に大事な時に弱さを実感するのか。
――三日目に入るとようやくリーシャの熱が下がり始めた。
「よかった! あと少しだから頑張ってリーシャ母様!」
そこに回復の希望を見たマルグリットは、栄養価の高い食糧を買い込み疲れていた身体を奮い立たせた。
しかし彼女は知らない。
人体が熱を発するということは、体内の毒素と戦っているということでもある。
リーシャの身体はもう、熱を発することもできないほどに衰弱していたのであった。
マルグリットを守るためだけに、気丈に振舞ってきたリーシャだが、その身体はダリアとナイジェルを失った精神的衝撃と、慣れない国での生活にぼろぼろに疲弊しきっていた。
ラミリーズを倒し、マルグリットがひとまず一人前であると認められたことで、これまで抑えてきた疲労が一気に噴き出したのである。
もうすぐリーシャが目を覚ましてくれる。
身体がよくなればまた穏やかな日々が戻ってきてくれる。
そう信じるマルグリットの願いは、もはや叶うはずもなかった。
その日の深夜、リーシャの容態は目に見えて悪化した。
呼吸は頬を近づけなければわからぬほどに浅くなり、脳への酸素供給が低下して幻覚を見始めたのである。
「……ナイジェル」
「何? しっかりしてリーシャ母様!」
「許しておくれ私のたった一人の息子、主のためにお前を見捨てた鬼畜な母を」
「え……何を……言っているの?」
まるで心臓を鷲掴みにされたような、恐ろしい予感にマルグリットの身体は震えた。
マルグリットは自分が男でないことを知っている。
それはナイジェルという王子を隠すために、女である自分が替え玉として必要だったのではなかったか。
私の息子、とはいったいどういう意味なのか。
「よくやってくれた。王女様を守ってお前は本当にお家に尽くしてくれた。お前を褒めて頭を撫でることすらできない母を許しておくれ」
それは慟哭であった。
ずっとリーシャの胸の奥で語られることのなかった血を吐くような懺悔であった。
王女を守ってナイジェルが死んだ、それが意味するところをマルグリットは理解した。
しかし理解はしてもそれを受け止められるかどうかは別問題である。
「嘘……嘘よ……それならマールお姉様は……ナイジェルお兄様はっ!」
――――自分が殺した。
リーシャが危篤であることも忘れ、マルグリットは崩れ落ちるようにして泣き叫んだ。
「いやああああああああああああっ!」
――――自分が守ると誓った。
――――本当は自分が守られていた。
透き通るようににこやかな笑みを浮かべて、あのときナイジェルは死を覚悟していたのだろうか。
「ああ、私がお前の死を望んでいたなどと思わないでおくれ。どこに息子の死を望む親がいるものか。全ては、奥様とお嬢様のために……」
鈍器で頭を殴られたような衝撃が走った。
いつもにこやかな笑みを浮かべて優しいリーシャ母様。
家事のことになるととても厳しくなるけれど、ラミリーズとの訓練ではいつも心配ばかりしてくれていた。
ベッドで眠るときには、マルグリットが眠るまで優しく頭を撫でてくれる温かいリーシャ母様。
彼女から息子を奪ったのは自分なのだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
ずっとリーシャの愛情を独占してきた。
でもそれは、本当はナイジェルが受けるべきものだったのである。
悔やんでも悔やみきれない子供だった自分に、罪悪感が溢れて涙が止まらない。
「私馬鹿で……何も知らなくてごめんなさいリーシャ母様!」
リーシャのうわ言が続いている。
「愛しているわナイジェル。でももしも生まれ変わることがあるとしたら……今度は主に仕える私のような女ではなく、生活の苦しくない農家か商家に生まれなさい。そして平凡な幸せを掴みなさい」
もう一度私の息子に生まれてほしいけれど……それを望んでしまっては罰があたるかな。
かすかに残った思考のなかでリーシャはそう思う。
最後の最後までリーシャはパザロフ家に仕える侍女であった。
息子より主を選んだ自分が、再び息子を望むのは許されないのかもしれなかった。
「私のせいで……私のせいでごめんなさい! 私頑張って働くから! リーシャ母様の言いつけを破ったりしないから! 何でもするからお願いだから死なないで!」
なんの償いもできぬままに、謝罪を受け取る意識もないままにリーシャに死なれたくない。
それ以上にリーシャの愛情を疑いたくなかった。
もう一度、あの幸せな毎日が戻ってくることを信じたかった。
リーシャに謝って、許してもらって、また穏やかに暮らせるのだと信じたかったのだ。
「――ダリア様、私は貴女のお役に立てたでしょうか……」
息子の命も、自らの寿命も投げ出した成果が無駄であったとは考えたくなかった。
しかしリーシャはダリアがよくやったと褒めてくれることを確信してもいる。
なぜならたくましくも美しく成長したマルグリットがいるからだ。
「奥……様? お母様? リーシャ母様を連れて行かないで! 大好きなリーシャ母様! 私のこと嫌いにならないでええ!」
かすかな意識の片隅で、リーシャはマルグリットが泣き叫ぶ声を聴いた。
自分が死んだらこの娘はどうなるのだろう。
ラミリーズを正面から倒せるマルグリットをどうこうできる人間がそういるとは思えないが、同じ歳の友人も縁戚もいないマルグリットはひとりぼっちだ。
「……………生きなさい、マルグリット」
愛している。
ナイジェルと同じくらいお前を愛している。
どうか愛する男性と結ばれ、女としての幸せを掴んでほしい。
そんな言葉を紡ぐ力は、もはやリーシャにはなかった。
マルグリットが何より欲した、愛しているのか、恨んでいるのか、憎んでいるのか、それともその全てか。
その胸に刻んだ真実を永久に飲みこんだまま、リーシャの魂はダリアたちの後を追った。
「いやあああああああああああああああああああああああ!」
それからいったいどれほどの時間が過ぎたのか。
一日かもしれないし、二日かもしれない、あるいは三日かも。
額がじんじんと疼痛を訴えているところを見ると、数時間ほどしか経っていないのかもしれない。
身体中のあちこちが痛いのは、無意識のうちに暴れ回っていたせいなのだろう。
「……リーシャ母様」
穏やかな死に顔だった。
マルグリットに恨みを残した人間の顔ではない。
本心ではそんなことはわかっていた。
リーシャは恨みを隠して愛する振りをするほど器用な女性ではないことを。
それでもどこか一抹の不安を払しょくすることができない。
それはマルグリットの負い目という自分自身から湧きあがる感情なのだから。
「…………埋めてあげなきゃ」
まだ涼しい季節であるとはいえ、人の腐敗は見た目以上に早く進むものだ。
大切なリーシャを醜く腐らせるなどできるはずがなかった。
死んだ魚のような目をしたまま、何かに操られるようにマルグリットは庭の土を掘り始めた。
――――ポツリ、ポツリ
山裾まで降りてきた厚い雲から滴のように降り始めた雨は、やがて銀の糸を織り込んだような本降りとなった。
マルグリットの小さな身体を、雨が包むように濡らしていく。
髪から滴り降りる滴は、まるで滝のように涙が溢れているかのようであった。
あるいは、それは雨ではなかったのかもしれない。
「――――誰だ?」
静かな声に深いいらだちを滲ませてマルグリットは尋ねた。
いつの間に集まってきたのか、およそ十人ほどの男たちがマルグリットをぐるりと取り囲んでいた。
彼らが発する殺気を敏感に感じ取ってマルグリットは、たまりにたまった鬱憤に導火線が点火したのを自覚した。
リーシャの弔いも済んでいないとはいえ、黙って見過ごす気にはなれなかった。
「マルグリット殿下だな?」
代表格らしい男が確認するように問いかける。
彼の言葉を合図に残りの男たちが一斉に抜刀した。
その訓練された統率ぶりは、流しの傭兵にはありえないものであった。
「あんたたち騎士かい? こんな田舎まで御苦労なこったね」
「……やれ」
短く命令すると男は自らも剣を抜いてマルグリットめがけて突進した。
前後左右逃げ道は閉ざされている。
誰もが無惨に刺殺されるマルグリットの姿を幻視した。
「今日は機嫌が悪いんだ。容赦しないよ」
左からマルグリットに襲いかかった騎士が弾かれたように吹き飛んだ。
「何?」
そのあまりの早さに、マルグリットに包囲を突破されたことに気づくまで数瞬の時間が必要であった。
「まさか、部分強化なのか?」
数の優位を生かすうえで、速度差というものは天敵に等しい。
これが技量や膂力であれば、粛然とした絶対の統率を持つ騎士の勝利は動かなかったであろう。
しかし速度で圧倒的に上回られると、守備ではなく攻撃側に立たねばならない騎士たちの対応は困難を極めた。
「この程度で私が倒せると思うな?」
すれ違いざまに騎士の剣を奪ったマルグリットは、時計回りに二人の騎士を打ち倒した。
「逃がすな! 命に代えても王女を殺すのだ!」
「逃げやしないよ。自分より弱い相手にはね」
挑発するようにマルグリットは自ら騎士に向かってその身体を投げ出した。
侮られた、と激昂した騎士が身体ごとぶつかってくるのを華麗にかわして、マルグリットはさらに三人の騎士を屠った。
残る騎士の数は四人まで減っていた。
「くそっ! 生きて帰ると思うな! 皆、ここで命を捨てよ!」
「おうっ!」
「生憎と殺されてやる義理はないね」
生来の勘と身体能力に加え、ラミリーズから教え込まれた戦況分析と戦術、正統な剣術槍術を会得したマルグリットである。
命を捨ててかかったからといって急に倒せるはずもない。
一対一の実力においても、両者の差は隔絶していた。
――――ザクリ
背後から最後の騎士に剣を突き刺してマルグリットが一息ついたときである。
「いやいや、すげえな嬢ちゃん」
全く気配を感じなかったところから、唐突に男の声が聞こえた。
自分が気配を見逃していたという事実に、マルグリットは背筋が凍る思いで身構えた。
男がその気であれば、今この瞬間に決着がついていたはずであった。
「――何者だ?」
「そこの騎士が失敗したときの保険で雇われた傭兵さ」
マウリシア王国では珍しい大きな犬耳。
マルグリットが初めて出会う獣人族の男であった。
男が恐ろしい手練であることを勘で察したマルグリットは警戒を高めた。
「ほう、いい勘をしている。惜しいな。あと三年もあれば楽しめたかもしれん」
「随分と余裕じゃないか!」
男が油断ならぬ敵であるとわかっていても、上から目線で批評されて平静でいられるほどマルグリットはまだ大人ではなかった。
「よっ!」
「きゃあああああっ!」
あっさりバランスを崩されて背中から地面に叩きつけられるのを、かろうじて受け身をとってマルグリットは防いだ。
速度ではマルグリットのほうが勝っている。
にもかかわらずどうして自分のバランスが崩されたのか。
「どうやらあまり強い相手と戦ったことがないようだな。自分より強い相手は師匠くらいだったか?」
確かにマルグリットより強い相手は、ずっとラミリーズだけだった。
実際に敵として戦ったのは、遥かに格下の刺客だけである。
搦め手を使わないラミリーズの相手に慣れた弊害がここで覿面に出た。
「目はいいようだが気を読めないうちは半人前だぜ?」
「くっ」
男の巧みなフェイントに身体が追いつかない。
かろうじて数分打ちあったが、マルグリットの身体には大小無数の傷が刻まれていた。
失血で朦朧としてくる意識のなかで、マルグリットは半ば本能で男の攻撃を凌ぎ続けた。
(もう、だめかもしれない)
男の変幻自在の剣術に勝てる気がしない。
何より自分の剣筋が完全に見切られていた。
(私が生きていても……)
また誰かの重荷になるのが関の山ではないのか。
自分が産まれたばかりに不幸になった人間はいても幸せになった人間はいないではないか。
半ばマルグリットが諦めたとき、リーシャの最後の言葉が脳裏によみがえった。
「生きなさい、マルグリット」
(――――死ねない!)
渾身の力とともにマルグリットは男の剣を弾きかえした。
ダリアが、ナイジェルが、リーシャが命を懸けて守ってくれた命。
彼らがこの世に生きた最後の証である自分が諦めてどうする?
技量に劣るからどうした?
もっともっと鋭く! 早く! 技量が追いつかないほどの一撃を!
ずっと力が欲しいと思い続けてきた。
しかしそれは違う。
求めるべき力はすでにこの身体のうちにある。
自分が夢見る最強の理想は、ただこの身体で眠りについているにすぎないのだ。
「来い!」
眠る私の力。
私の大切なものを守りきる最強の力。
「――――馬鹿な! 変生、いやこれは……自力で王門を開いたというのか!」
男は自分の師にあたる化け物のような女性の面影をマルグリットに見た。
(誰かに似てると思っちゃいたが……!)
まっすぐに突き出された剣が迫る。
何の工夫もない素直な一撃だ。
それでも避けることも弾くことも間に合わないことを男は悟った。
来るとわかっていながら防ぐことができない。
それは努力だけでは決して辿りつくことができない、選ばれたものだけの至高の一撃であった。
「ぐふっ!」
痛みよりも先に火傷したような熱いものがこみあげてきて、男は口から真っ赤な血を吐きだした。
致命傷であることを男の経験が教えていた。
「やれやれ、自力で王門を開く奴なんて規格外にもほどがあるぜ」
「王門?」
不思議そうに首を傾げる様子は、まだ十二歳の少女に相応しく愛らしかった。
こんな子供に完敗するとは、と自嘲気味に男は嗤う。
「ノルトランドのエレブルーにジーナって婆さんがいる。俺の勘が確かなら、お前さんの祖母さんだ」
「ダリア母様のお母様?」
「獣人族だから身を引いたのか知らんが、ダリアに受け継がれた獣人の血ってのは間違いなくあの婆さんのものだな。くそっ、そうと知ってればこんな依頼何ぞ受けなかったものを……」
誰が好き好んであの化け物の血を引く人間を相手にするものか。
あの師匠に会って、自分の限界を悟ってノルトランド(故郷)を出たってのに……。
「強くなりたいか?」
「うん」
マルグリットは即答した。
生きていくために、守る抜くために、強くなることだけがマルグリットの生きる目標だった。
「なら、ジーナに会え。お前には、お前だけには本当に強くなる資格がある」
戦いを楽しむだけの俺にその資格はなかったな。
「…………俺の名はベッティル・オーグレーン。ジーナの婆さんにすまん、と伝えてくんな」
「わかった」
「気をつけろ。お前が獣人族の混血であることを隠したい連中がいるぞ」
「…………だからダリア母様は私が死んだことにしたかったのかな」
独りごとのようなマルグリットの問いに、もうベッティルが答えることはなかった。
長い長いため息をついてマゴットはゆっくりとソファに背中を沈めた。
「そして私はジーナに会って正式に王門を開き、銀光マゴットになった」
好評連載中のアルマディアノス英雄伝もどうぞよろしくお願いします!
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