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恋愛自給自足の間

哲学好きの社会学徒による恋愛論、それと趣味

なぜフェミニストとオタクは分かり合えないのか

表現規制

 先日、私はこのようなツイートを投稿しました。

 するとこのような反論が来たわけでございます。

 この方は、「表現の自由」と「フェミニズム」とは和解できない、という信念をお持ちのようで、「規制派フェミを止めたり、異議を唱えるフェミは誰もいなかったのが現実」だと主張しています。
 さて、これに対する私の反論はとても単純です。

 では、上野千鶴子の主張というものを、著作を通してちゃんと検討してみましょう。
 上で私が引用したのは、上野千鶴子『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』p.80の文章です。上野は「暴力的なポルノ」であっても法的に規制されるべきではないとしています。その理屈は次のようなものです。

 まず上野は「性欲と性行為と性関係とは、厳密に区別されなければならない」と声高に宣言します(p.75)。
 まず「性欲」について、上野は全米性教育情報協議会(SIECUS)によるセクシュアリティの定義を確認しながら、「性欲は、個人の内部で完結する大脳内の現象である」(p.75)とします。そこから導き出されるのは、「欲望そのものは個人内で完結しているから[……]その限りで、欲望は――想像力と同様に――自由である」という、至極まっとうな結論です(p.76)。
 このように個人的な「性欲」に対して、「性行為とは、欲望が行動化したものである」(p.76)。これは、他者と性行為をする「公的なセックス」(社会関係とは他者との関わりのことであり、二人の間にも成立するのです)と、他者を必要としない自己完結した「私的セックス」(=マスターベーション)との二つに分類されます(p.77)。「性関係」というのは、このうちの「公的なセックス」においてのみ発生するものです(p.78)。こちらは個人を超えて他者と関わります。つまり、差別が効力を発揮するのは、他者が存在する「性関係」のみだということです。

以上のような説明ののちに、上野は自身の立場を明確に示します。

想像力は取り締まれない――それが多数派のフェミニストが暴力的なポルノの法的な取り締まりを求めることに、わたしが同調できない理由である。(前掲書 p.80)

 そして同じページのなかで、「わたし自身は、フェミニストのなかでも『表現の自由』を擁護する少数派に属する」という言葉を残します。正当であるばかりではなく、甲賀志さんのような「表現の自由」擁護派の主張とも一致しているものだというのがお分かりいただけたかと思います。

 では、さきほど甲賀志さんが「現実の上野千鶴子」と称してネット記事から孫引きしてきた文章についてはどうでしょうか。

 元記事を見てみますと、なぜか「再生産」という言葉が叩かれています。ここで上野が書いた「再生産」という言葉は” reproduction”の訳語であり、社会学などで広く使われるものです(「再生産」の意味や正しい使われ方については各自調べてください)。これについては記事執筆者の社会学的教養が足りないというだけの話で、完全に言いがかりです。

 次に、オタクを「ノイズ嫌いでめんどうくさがりやの男」と形容した部分について。これはおそらく本田透のような「男性弱者」論者を仮想敵として据えた上での言葉です。
 「男性弱者」論にも重要かつ正当な主張はあります。「一部の男性」が「一部の女性」によって迫害されている、という抗議は当然なされるべきものです。ところが「男性弱者」論は「一部の」という部分を切り落としてしまい、「すべての男性」が「すべての女性」に迫害されている、という単純化された二元論に陥っている場合が多いのです。上野の言説は、このような危機感から戦略的にひねり出された言葉だと考えた方がよいと考えられます(とはいえ、偏ったオタクイメージを補強しているという点は問題だとは思いますが)。

 ……とまあ、このような説明では納得されない読者もいるかと思います。
 ですので簡単に言ってしまいましょう。

・「幼女エロい」と思うだけなら自由で、

  問題は幼女に手を出すことである。
・「オタクキモい」と思うだけなら自由で、

  問題はオタクの表現を規制しようとすることである。
 この二つはまったく同じ論理です。

 なぜ「オタクキモい」という意見が問題視されるかというと、往々にして「個人的にオタクはキモいと思う、だから公的に殲滅すべきだ」という主張につながりがちだからです。
 ですが上野千鶴子の主張を要約するなら、「個人的にオタクはキモいと思うが、それでも公的にはオタクの表現は守られるべきだ」なのです。
 一人で二次元を楽しんでいるかぎりにおいて、オタクは女性に迷惑をかけてなどいない。元記事でも引用部分をよく読めば分かるように、このことを上野千鶴子はしっかりと認識しているのです。

ヴァーチャルなシンボルで充足できる「二次元萌え」のオタクや、草食系男子のほうが、「やらせろ」と迫る野蛮な肉食系男子よりましだ。(前掲書 p.86)

 このように、フェミニズムだからといって、すぐさま「表現の自由」規制派だというわけではなく、むしろ共闘できる可能性もあるのです。

 さて、どうして私がフェミニズム擁護のような話をしてきたのか。
 本題はここからです。
 「表現の自由」を擁護する上で重要なのは、「いかに不要な敵を増やさないか(いかに味方を増やすか)」という部分です。
 議論は二者間で行われているわけではありません。その議論の成り行きを見守る「第三者」が必ずいます。ですので、特に政治的な主張をする場合は、相手とケンカすることを考えるより、周囲の「世間」を納得させることを考えた方が戦略的に有利なのです(逆に、相手が不正義な主張をしている場合でも、それが周囲を納得させてしまった場合、非常に面倒なことになります)。

 フェミニズムに賛否両論あるのは百も承知で、私自身も全面的にフェミニズムを支持するつもりはありません。ですが歴史的役割から見て明らかなように、フェミニズムには(部分的ではあるが)正当かつ重要な主張が含まれています。なのでフェミニズム全体を完全に敵扱いすると、「フェミニズムの正当な部分にまで異議を唱えている」と世間から誤解され、さらに敵が増えることになりかねません。

 重要なのは、敵味方を誤認しないバランス感覚と、味方に誤爆しない精密さです。規制派フェミへ抗議するのはもちろん大切ですが、擁護派フェミの存在も見落とさず、できるだけ敵を増やさない(かつ味方を増やす)主張を行うのが肝要だと思われます。

 ついでに、「現実」を示そうとするときには、ネットからの孫引きに頼らず、論者自身の主張を原典に戻って確認しましょう。

余談:

(この記事は、2015/09/11に私の旧ブログで発表した文章の再掲です)