日本キリスト教婦人矯風会と廃娼運動
楊 善英
本論文は、日本キリスト教婦人矯風会(以下、矯風会と略記する)を中心とする廃娼運動に焦点を当てて、運動の実態とその意義を明らかにしようとしたものである。対象とする時期は、その前身である東京婦人矯風会の設立した1886年から、廃娼連盟が解消して国民純潔同盟が成立する1935年までの約50年間である。
矯風会についてのこれまでの研究は、その機関誌に書かれた指導部の言説や行動を中心として分析されたものが多く、全国各地に作られた支部の活動については一部しか解明されていない。また、矯風会が他の団体と連携しながら展開した廃娼運動の具体的なあり方や、さらにはその運動に対する一般の人々の考え方や反応についても、まだ十分に検証されているとは言えない。
廃娼運動に関する近年の研究のあり方には、多様な内容を含むこの運動のうちでも、廃娼運動家に「差別的娼妓観」があったことや、彼らが後のアジア太平洋戦争期に国家に協力という負の側面をあまりにも強調している面がある。そのために、この運動が当時の社会の中で果たした役割、特に人身売買や人身拘束を公認するシステムとしての公娼制度を社会問題化して、売買春問題の解決を読みようとした意義の評価が低められたのみならず、その研究の停滞を招いてしまったように思われる。
本研究は、以上のようなことを踏まえて、各地の支部を含む矯風会の活動を詳しく追うとともに、矯風会が他の団体とともに展開した廃娼運動の実状を跡づけることにより、廃娼運動の意義(その限界も含めて)を改めて確認しようとするものである。
本論文は序章、第一章、第二章、第三章、第四章、第五章、終章から構成されている。その概要は、以下の通りである。
第一章は、矯風会の設立過程とその後の活動を明らかにしたものである。矯風会は1886年12月、世界キリスト教婦人禁酒同盟の影響を受け、高等教育を受けた女性キリスト教徒が中心となって設立されたが、日本の実情に照らして、禁酒運動だけではなく幅広い矯風運動に乗り出すことになった。すなわち、女性の地位向上や権利拡張のため、旧来の悪習・風俗・制度を矯正することをめざした。さらに、一夫一婦制に反する芸娼妓や妾をなくすことに重点が置かれることになる。矯風会の活動は、次の先駆的な三つの運動として具体化される。第一は、「刑法及び民法改正請願」の運動、つまり一夫一婦精神に基づき姦通罪における男女平等の立法を求めた運動である。第二は、海外売春婦の密航取り締りの強化を要求した「在外国売淫取締法制定の請願」の運動である。第三は、廃娼運動である。廃娼問題については、まず機関誌の刊行や演説会の開催によって、それを積極的に取り上げて世論の喚起に努めた。その後、1890年の国会開設の前後に盛り上がった廃娼運動を背景として、矯風会が全国廃娼同盟会の中心的な団体となり、廃娼に関する請願運動を進めていった。
第二章は、日本婦人矯風会の結成と1900年代に展開された遊廓反対運動の具体的なあり方を考察し、矯風会とその支部の役割を明らかにしたものである。矯風会は1893年4月3日、全国的組織としての日本婦人矯風会へと発展する。そして、1900年代に入り、遊廓の新設や増設が大きな社会問題となるなかで、その反対運動の中心を担うことになった。具体的には、前橋・旭川・和歌山・大阪支部による遊廓設置反対運動や、遊廓移転運動である。遊廓の問題はそれぞれの地域の人々にとっても関心のあることであり、反対運動には地域の多くの人々が参加した。矯風会は、他の団体と連帯するのみならず、新聞社に働きかけたことにより、遊廓問題は記事として取り上げられ、広く注目されるようになった。これらのことを通じて、矯風会は廃娼運動における主な女性団体として、地域における女性活動家たちを束ね、運動の拠点として位置づけられるようになったのである。
第三章は、1911年の廓清会の発足から、矯風会が廃娼の年として掲げた1921年までの10年間にわたる廃娼運動を検討したものである。この時期の特徴を次の五点に総括できる。第一に、廃娼運動は廓清会の発足や公娼全廃教育運動の展開により、男女平等の貞操観念を規範とする国民道徳を確立しようとする側面が強くなったことである。第二に、矯風会が地方巡回演説を通じて、支部の新設や会員の増加に力をいれるとともに、教会の婦人会や女学校などのキリスト教団体、女性記者倶楽部、処女会、他の女性団体との連帯を模索・構築していったことである。第三に、矯風会がそれまで行っていた海外売春婦防止への取り組みにおいて、その取締法の強化を求める請願運動から、シベリアや島原・天草地方への実状視察などの実践的行動へと移し、より根本的な海外売春婦の防止策を講じようとしたことである。第四に、人身売買や暴力による強制売春を社会問題化し、そこから女性を保護する法律の制定運動を展開したことである。第五に、矯風会が「五銭袋運動」という創意的な募金方法を考案し、財源を安定的に確保することによって、廃娼運動を持続的に繰り広げることを可能にしたことである。
第四章は、1923年9月の関東大震災直後、女性たちの間に広がっていったネットワークを背景にして、廃娼運動が社会運動としてのみならず政治運動へと発展していくに過程と、それに対する反応・反響や世論を検討したものである。
大震災時における娼妓の大惨事により、公娼制度は「奴隷的」な人身拘束であるという事実が顕在化したことから、娼妓に対し同情が寄せられ、東京復興を機として、遊廓の再建を禁止しようとする動きが高まり、それが廃娼運動の盛り上がりを促したのである。また、大震災という国難をともに乗り越えようとする社会的な雰囲気は、東京における女性団体の結成を容易にした。特に、全国公娼廃止同盟会には、さまざまな立場の者たちが結集した。わけても、母性保護論争以来「母性保護」に対して意見を異にしてきた者が、公娼廃止という点ではともに一致して行動したことには大きな意義がある。さらに、この時期には、急激に盛り上がった廃娼運動の気運が朝鮮にも波及し、朝鮮の廃娼運動の前進に刺戟や影響を与えることになったことも注目すべき出来事と言えよう。
第五章は、1920年代後半から1930年代前半における矯風会と廓清会の連合運動に着目し、廃娼運動の高揚と転換を考察したものである。矯風会は1926年6月、廓清会との連合組織である廃娼連盟を結成した。その活動は、両団体の明確な役割分担によって推進されたが、矯風会は主に資金の集めに専念した。このように、矯風会は前述した五銭袋運動をはじめ、廃娼運動の資金作りに大きな役割を果たしたのである。
廃娼連盟は、各地で矯風会・廓清会支部を拠点として廃娼運動団体を結成するとともに、対県会活動に重心を置くことになった。その運動を通じて全国的廃娼運動のネットワークが作られ、そこには禁酒会・教会・学校・婦人会・仏教団体など、地域団体が多く参加した。かくして、1926年から34年までの間に、全国41県で廃娼運動団体が組織され、それぞれの地域に根ざした身近な運動から出発して公娼制度撤廃運動へと進めていくことができた。それは、十数県の県会における廃娼決議や、埼玉・秋田県での廃娼実施をもたらした決定的な要因となったのである。
さらに、公娼制度をめぐる国内外の情勢が大きく変化し、間もなく内務省が娼妓取締規則の撤廃を公布するのではないかとの期待が高まるなかで、廃娼連盟は廃娼運動から純潔運動への転換を図ることになった。そして、英米における純潔運動や諸団体の事例なども参考としながら、「絶娼」をめざして、公娼制度の廃止と廃娼後の対策を担う全国的な組織、つまり国民純潔同盟を結成する。かくして、廃娼運動は純潔運動の一環として位置づけられ、運動が進められていくことになった。すなわち、純潔運動は私娼に対する対策や女性の救済・保護をはじめ、従来の廃娼運動においては十分に取り組まれてこなかった部分を含む広範囲の運動となったのである。
終章は、各章で明らかにしたことをふまえて、その意義と問題点を挙げ、最後に今後の課題を述べたものである。まず、問題点としては、次の四点を指摘できる。第一は、矯風会の中心的な担い手である女性たちが、社会的には中・上流階級であることからくる芸娼妓、海外売春婦に対する蔑視があったことである。第二は、1900年代の遊廓反対運動において、遊廓や公娼、ひいては売春制度を生み出している社会的構造、さらには戦争・軍隊というその背景に対する視点が欠如していた点である。特に、遊廓を移転すべきであるという主張には、遊廓やそこに働く娼妓たちを"社会悪"や"見てはいけないもの"とする先験的な決めつけがあった。第三は、権力との微妙な協力関係についてである。特に、矯風会と処女会との協力関係をはじめ、矯風会が当時の国民統合路線の一翼を担ったということは無視できない。第四に、廃娼運動から純潔運動への転換ついてのことである。つまり、全国純潔同盟の結成においては、極めて理論的・モラル的な側面が前面に出てきて、地方運動の担い手として各地で作られていた廃娼運動団体との話し合いが十分になされないままに、トップダウン的に新たな運動に取り込んでいった。しかし、廃娼運動から純潔運動への転換は、活動団体だけでは解決できない多くの課題を抱えることになった。またそれは、国家の全面的な協力を必要としていたことから、官民共同運動の色を帯びて、次第に体制内に取り込まれていくことになったのである。
しかし、矯風会の廃娼運動に、上のような限界や問題点があったことを事実として認めつつも、やはり当時の時代状況の中で果たした歴史的な役割を評価すべきであろう。
まず、矯風会は、それぞれの時代において、自分たちの身のたけに合わせた最大限の運動を展開し、それなりの成果を挙げたということである。廃娼運動における矯風会の批判の対象は、芸娼妓や海外売春婦よりも、彼女たちを必要とする日本の男性、社会および国家であった。矯風会の活動は、それらに対する大きな反論であったと言える。また、その運動の展開により、多くの人々に売買春が公然と存在している日本の実態を広く知らせることになり、わずかなりとも政府に一定の対応の姿勢をとらせるようになったのである。
また、矯風会が処女会をはじめとする官製団体と共通するところがあったことは、事実にしても、男性の性的放縦への反対、貞操における男女平等の重視、公娼制度の廃止を強調したという点においては、明らかに立場を異にするものであった。そこではむしろ、矯風会が地方の各地にまで運動を広げていく上で、処女会というルートが少なからざる役割を果たしたという事実だけは確認できる。つまり、矯風会が官製団体や政府当局との協力関係を強調したのは、廃娼運動の拡大のための方法であり、戦術であったのである。
さらに、廃娼運動から純潔運動への方向転換が、当時の国家の政策の中に取り込まれていった面があるにしても、それによって、長年にわたり闘い続けてきた目標がようやく実現へ向けての現実的な接点をもつことができたということをも評価すべきであろう。
当時の運動を、現代的な観点から限界を指摘して批判することは重要である。しかし、当時の運動が現代とは比べることもできない種々の困難の中で繰り広げられてきたものであることを考えるとき、その成果や到達点をもきちんと評価し、位置づけておくことは、さらに重要なのではないであろうか。この点から、改めて矯風会の廃娼運動を見たとき、それが現代においても十分に検証に耐えうる意義のある運動であったと言えよう。
最後に、今後の課題として最大のものは、本論で対象とした時期をさらに引き下げて、全国純潔同盟の結成の1930年代後半から1956年の売春防止法の公布に至るまでの矯風会の活動を明らかにすることである。これらの研究によって、近代日本における矯風会の廃娼運動を総合的・全体的に構成することが可能となるからである。これはまた、次なる研究目標でもある。