たとえばクールベのおおきな絵を見て、がっかりする、ということがある。
えらそーに、とおもってはいけません。
いや、えらそーなんだけどね。
わしはそのときまだお子供さんだったので、子供というものは
常にえらそーなものなのです。
あるいは、えらそーでなければならない。
ちやほやされないと、残りのやってらんない人生を生きていけませんから。
ともかく14歳のガキわしは、期待がおおきかったぶん、がっかりした。
あるいは、どういうタイミングの理屈か、びっくりするようにひとが少ない午後のMoMAで、ゴッホの「星月夜」が予想外にカッコイイのでびっくりしてしまう。
ゴッホどころか、印象派なんて、けけけ、と考えていたのに、こうやって人が少ないところでのんびり眺めていると、ぶっくらこいちまうくらい良い絵で、画集でみたりするのとは、ぜんぜん違うでないの、と考えて困ってしまう。
いくつか並べてみると一目瞭然だが、同じ絵でも、画集によって、発色がまったく異なっている。
明るいゴッホ、暗いゴッホ、なんだかくすんで、明暗を決めかねている優柔不断なゴッホ。
画集ではダメで、「ほんもの」を観に行かないとダメだよ、という。
「ほんもの」というところが、なんとなく「庶民」な、微笑ましい感じがする言い方だが、ほんものと画集は、たとえばクールベなら三畳間を横倒しにしたくらいはありそうな「画家のアトリエ」を実物大で装幀するのはたいへんだろうから、壁にかかっている「ほんもの」と、書棚からだして、えっこらせ、と手にする画集では「違う絵」であるに決まっている。
おおきさと色彩が異なって、ほんものと印刷されたものが異なるのはあたりまえなんじゃないの?というと、ほんものとそうでないものとの違いは、実際にはそれだけでもないみたいよ、というややこしいことを、これから書こうとしている。
サムソンは新しいGearVR(VR=Virtual Reality)をUS$99で出すという。
http://www.theverge.com/2015/9/25/9397569/samsung-oculus-consumer-gear-vr-design
年末商戦用です。
記事中にもあるようにOculusからも出るよーだ。
質は、いろいろな点から考えてOculusのほうが良いはずです。
たしかVictorの製品だったとおもうが、わしはHMD(ヘッドマウントディスプレー)を買って持っていたことがあった。
1999年で、だいたい50万円くらいだったと思います。
向こう側に、仮想的な50インチディスプレーが見えるようになっている。
買って、初めの日に妹にカウチに寝転がって使っているところを写真に撮られて大笑いされた。
仮想現実は現実に対してvulnerableであることを学習して、そのままワードローブ行きになって、もったいないことだった。
そのときのHMDより性能がよくて、US$99なので、もしかしたら、どっと普及しはじめて、一家に一台どころか、ひとり一台のスマートフォン並の市場になるのではないか。
現実が現実なのではなくて、その現実への認識こそが「現実」なのである、あるいは、それが出発点でしかありえない、とルネ・デカルトは述べている。
Cogito ergo sum という例の漱石の「三四郎」にも出てくる「あれ」です。
日本語でいまちょっと見てみると、ずいぶん哲学的にとらえられているが、どちらかと言えば、いま振り返ると科学の基礎になった考え方であるとおもわれる。
なんでもかんでも意匠をはぎとって、ふたりのチョー美人のねーちゃん(←言葉が浮薄)が目の前に立っていても「不完全な2」だと考えるバカタレな習慣がある数学では、たとえば投影図を使って現実がいかに現実でないかを示すことができる。
錯視図形も、そういうことどもの、わかりやすい表現です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Optical_illusion
もうブログ記事で何度も書いたので、繰り返さずに端折るが、いまでは「受動意識仮説」と日本語で名前が付いている仮説の検討にまですすんでいる。
わしが敬愛(←敬老、ではない)する年長友、村上憲郎が、わかりやすい記事を書いています。
http://www.nikkei.com/article/DGXBZO35846920U1A021C1000000
ちょっと考えると判るが、受動意識仮説を検証していって、支障なく説明が成立すれば、現実と認識の関係についての、Cogito ergo sumな居心地の悪さ、気持ち悪さは解消されることになる。
アラン・チューリングの、人間の脳とおなじ機能を「外見上」持てば、それは人間なんだよ、という意見が、こだわりなく受け入れられるようになる。
まったく逆方向に、サイコパスのような「心が欠落した人間」も普通の人間と同じ人格線上にならべて、見通しがよいところで見渡せるようになります。
これもなんべんも書いたが、わしはごく近い将来に仮想現実と現実は、いまの立場を逆転して、すべての文明の進化の方向は仮想現実の欲求にあわせて現実がつくりかえられる方向になると思っている。
日本語で書いていて、誰も読んでやしないので、こっそり書いておくと、
コンサーバティブでない、よりアグレッシブな投資は、すべてこの方向の軸上に並んでいる。
投資したオカネがどんどん増えていくに従って(←チョー下品)、予想した方向に世の中は進んでいるのを実感もしている。
常に誰にでも直感的にわかりやすい、ハードウエアの例をあげると、ごく早い段階で、人体へのチップの埋め込みが始まると思うが、始まる前に方向が見えるようにしておかなければ、テクノロジーとはそういうもので、「マイナンバー」の需要でチップの埋め込みが始まったり、進化に逆行して社会的な退行の道具として支配層が使うことになる。
いまのNSAの盗聴技術のような事象を目を近づけて見れば、明らかなことだとおもう。
ここまでの話を、とんとんとんと、すべてつなげると、簡単に判ることは、判断の主体が人間の脳髄にあったはずのものが仮想現実ネットワークそのものに移行するわけで、なんだか1984
https://en.wikipedia.org/wiki/Nineteen_Eighty-Four
っぽくない?と言いたくなるけれども、これにはおおきな理由があって、「人間の知能ではもう、これからやってくるアフリカの人口爆発と中国/インドの貧困解消を内容とする新しいタイプの過剰人口・絶対資源不足の時代を乗り切る見込みがない」という、どんなに楽観的な人間でも認めないわけにはいかない科学上の見通しがあります。
仮想現実が現実よりも上位になることを忌避するのではなくて、正面から考えていかねばならない理由の最根底は、そこに理由がある。
クールベの森の鹿はがっかりだったが、パリから郊外の湖へ、夕暮れどき、クルマを走らせていると、豪勢な角の鹿が木立のあいだから、じっとこちらをみつめている。
そういうとき、思い出すのは必ずクールベの絵で、絵柄が似ている絵はたくさん頭に入っていても、現実が最初に脳髄から引き出してくるのはクールベの絵でした。
一方で、先入観を軽々と超えて、すっかりわしをびっくりさせてしまったゴッホの「星月夜」は現実の景色によって喚起されることはなくて、そういう言い方をすれば、一種の仮想現実であるようでした。
芸術は古い時代から現実の人間のある部分を支配してきた仮想現実としての側面があって、その観点から見た世界の、まっすぐなライン上に、あの人間の魂がそこから出発した痕跡であるような
Cueva de El Castillo
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/07/21/cueva-de-el-castillo/
から、仮想現実が人間に代わって「意識」を持つ、未来の世界まで、見通しよく並べることが出来るようです。
ほんの少し、観測者の位置が変わるだけなのだけど。