海軍が地方都市に与えた文化的影響
清酒「千福」とセーラー万年筆
はじめに
呉市発展、呉市の現在を建いたのが海軍であることは「軍港ありて呉市あり、 軍港起らずんば遂に呉市あるなし。 之を想えば呉市民たるもの、 海軍の恩沢に対して深大の感謝を払はざる可からず(1頁)」との『呉ー明治の海軍と市民生活』を引用しなくとも、 呉と海軍との深い関係は万人の認めるところであろう。 黒船の来航、 列強の中国侵略に直面した明治政府の「富国強兵」のスローガンのもとに、 明治19年5月に人口5000の寒村「呉浦」に第2海軍区鎮守府を設置することが定められた。そして、 明治22年には鎮守府が開庁され、 明治35年には鎮守府の名をとった呉市が誕生した。 極東の小国日本は日清・日露・第一次世界大戦をへて、 世界の5大国に成長したが、 海軍の「城下町呉」も明治35年には人口も6万、 昭和10年には23万で全国第9位、 昭和17年には40万と全国第7位の大都市に成長した。 電灯は明治32年に県下で3番目に点灯、 市内電車は明治42年に全国で6番目に開通し、電話・電報・水道・公園などの整備も他の都市より早かった。 道路は海軍の指導で8間道路となり、 水道は海軍から市に分与され、 野外音楽堂も海軍の寄付であった。 また、 市民は海軍を通して西洋音楽や西洋料理、 それにバレー・ボールや野球を知った。
バレー・ボールでは呉海軍工廠が何度となく全国優勝を飾った。 ゴルフ・テニスも海軍から市民に広がり、 また、 明治37年には工員の福利を目的とした現代の生協にも相当する呉工廠共済組合や、 日本最初の職域病院である呉工廠共済会病院(現呉共済病院)も設立した。 また、 海軍工廠では明治末期に官営工場最初の大ストライキを行い、 大正初期の労働運動や民権運動にも大きな足跡を残した。さらに、 呉は近代日本を揺るがしたシーメンス事件や米騒動の舞台も提供した。しかし、 鎮守府建設では1023戸が立ち退かされ、 戦争が勃発すれば好景気となるが戦争が終われば大量の失業者が町に溢れた。また、 急速な近代化・大都市化に道路・学校・衛生施設・住宅などが追い付けず、 小学校の2部教育や住宅問題、 若い職工や水兵による風紀の乱れなどの問題を起こし市民生活を混乱させた。さらに、 今次大戦では延2170機の空襲を受け市街地の大部分を焼失し、 敗戦後には英豪軍を迎え風紀問題や犯罪、 混血児問題などの基地問題を抱えることにもなった。 とはいえ、呉市民は海軍を「呉海軍」と愛称し、 軍縮には軍縮反対市民大会を開き、 上海事変に出動する艦隊を提燈行列で送り、さらにヒトラーユゲントの来訪を熱烈に歓迎した。 そして、 戦争が終わると呉を基地として内海の掃海を行っていた呉海軍が航路啓開隊、 海上保安庁航路啓開隊、 海上警備隊となり、 さらに海上自衛隊となり、 その後裔の第2掃海隊群が呉からペルシャ湾に出動した。 このように呉市の歴史は近代日本史のあらゆる側面が見られる近代日本史の宝庫である。 本シリーズでは日本の近代史に大きな足跡を遺した呉市の歴史を、 海軍の地方都市に与えた文化的影響ー海軍の功罪という観点からみてみたい。
千福の創立と海軍
海軍士官や海上自衛隊員ならば、 知らぬ者のない清酒「千福」の醸造元の三宅本店は、 三宅清七により安政3年(1856年)に味淋・焼酎・白酒の製造販売から始められた。 そして、 清七の後を継いだ初代清兵衛が清酒醸造に踏みきったのは明治35年(1902年)、呉に市政が布かれた年であった。三宅本店の初年度の醸造は376石であったが、明治39年(1906年)には3000石台となり広島県の首位に躍進、第1次大戦が始まった大正3年(1914年)には5338石と5000石台に達し、兵庫県以西、西日本の首位を占め、大正12年春には「千福」が全国新酒鑑評会で第1位を取り醸造高も1万6657石と1万5000石を越え、 昭和12年(1936年)には全国6位と帝国海軍の拡充に伴い創業僅か20年で全国8000の業者中の10指に入るまでに発展した。そして、 さらに、 昭和8年(1933年)12月には満州国に進出し、 「満州千福醸造株式会社」を創設し、 満州では2位の菊政宗の9900石の2倍近い1万7550石を生産し、 満州全土を席巻したが、 さらに昭和14年12月には中国の青島に東亜千福醸造株式会社を創設し、 昭和20年には6000石を醸造し、 一時は呉の本社を加えれば造酒量は3万5000石を突破し、 一時は日本第1位の醸造高に達した。 (2-呉市347-348)そして、 この発展のきつかけとなったのが、海軍への納入によるものであった。 そのいきさつを『三宅本店百拾年』は次のように記している。(2)
三宅本店では海軍へ酒を正式に納入したいとかねてから切望していた。海軍とともに暮らし、海軍と共に繁栄してきた西日本随一の酒造家の三宅としては、当然の念願であろう。それに日本の4軍港、横須賀・呉・佐世保・舞鶴、 要港部の大湊・鎮海などの所在地ではこれといわれる酒造家もなく、名の通った酒を造っているのは三宅だけであった。もちろん、以前から納めてはいた。しかし、 それも他の酒造家も一緒で、それぞれ地元だけに色々のコネをもっていて、納める酒もまちまちであった。大正8年(1919年)に艦船部隊購売部が新設されたのを機会に、思いもかけずにその機会が到来した。艦船部隊購売部の初代購売部主任は兵曹長上がりの海軍特務大尉・今井文四郎という人で、呉にはなじみ深い古参士官であった(3)。
間もなくその購売部から三宅に呼び出しがあり、係りの店員・木村俊夫が訪ねて行くと、 今井特務大尉との間に話がすぐにまとまり、その年から艦船部隊に納めることになった。今井特務大尉は親切で世話好きの人物で、 勝手のわからない特殊の世界である鎮守府管内はもとより、在泊中の艦内までランチで案内し艦内の酒保委員長や酒保委員を紹介し、帰りには委員達の性格や扱い方まで教示してくれた。長い海軍生活の特務大尉だけにだれでも知っていて海軍の虫といわれていた。納入場所は横須賀、呉、佐世保、舞鶴は各軍港地の購売部宛に一括納入し、そこから各艦船の酒保へ納める仕組みになっていたが、大湊・鎮海は直接納入するので、たいていの場合、酒は特務艦に搭載して現地へ運び、現地で立ち会うために社員は汽車や商船でその地へ向かわなければならなかった。 艦艇の場合には各艦艇の酒保を訪れて、次の寄港地に注文分の数量を先に運んでおいて入港を待つわけで、艦船の次の寄港地や寄港予定日もあらかじめ知らされていた。だんだん販路が拡大し、大連・旅順・澎湖島・サイパン方面にまで運送するようになり、全盛時には年間3000石以上も海軍に納入するようになった。
三宅の酒が海軍購売部に納入後2、3年のうちにぐんぐんとその量を増やし、日本の全海軍区にその販路を広げるに至ったのは、やはりうまい酒という評判をとったことと、納入品に対する信用であった。昔は戦地へ送り出す食糧や物資の中に、わざと何%かの粗悪品を混入して送ったり、中には漬物樽の中に石を詰め込んで送った御用商人があったりしたが、大正の頃でもそれほど悪質ではないまでも、それでもなお上等酒の中に下等酒や等外品をまぎれこまして納める非良心的な商人は少なくなかった。悪質納入業者の一例を日清戦争当時の新聞は次のように報じている。
「日清戦役当時に於いて奸譎なる商人種々の悪策を逞しふしたるを以て、今回は当局者に於いても非常に其取締を厳にし、注意到らざる処なきにも拘らず、尚、
往々奸策を運らすものありと見え、(中略)左記の通り軍艦新高より報告ありたり。
福岡丸便乗酒保品販売者 荒川紋治
右販売者は3月3日購入せし物品は、左記の通り不正品あるを発見候に付念の為報告候他
@『リリー』印煉牛乳1箱(48個入)の中5個を抜取りて代わりに藁を詰め込みあり。
A朝鮮飴1箱(250個入)の中42個不足、 前記同様に藁を詰め込みあり。
B『ジャム』1箱(40個入)の中6個は空壜なり。
3月14日 軍艦 新高
まずい酒を納めていれば将兵から苦情がでて、自然に淘汰されていくが、海軍の方で最も警戒したのは防腐剤の混入で、艦船積み込みの最中に突然抜き打ち検査を行ったりした。その頃常習のホルマリン混入検査で、
しばしば摘発されその場で積み下ろしを命ぜられるというようなことも少なくなかった。その検査に際し三宅の酒からは、
そうした薬剤が一度も検出されたことがなかった。というのは瓶詰に防腐剤を入れない酒というのが三宅の酒の最初からの特徴で、腐らない酒というのをモットーとしていたからである。しまいには三宅の酒なら検査は要らぬといわれるようになり、両者の手間が省けて納入が円滑に、
また敏活に行われるようになった。三宅の酒は下士官兵集会所や水交社でも喜ばれたが、殊に艦船部隊では圧倒的に三宅の酒一辺倒の傾向が強かった。大正9年から10年にかけて、南洋方面を行動した練習艦隊積載の酒が7カ月余の炎熱下に、味が変わらず賞味されて、酒保委員長から証明書を貰った話が全艦船に宣伝され、俺の艦もうちの部隊もということになり益々信用が増したという。
軍艦浅間の品質証明書(4)
大正9年に『浅間』を旗艦とする練習艦隊が南洋方面に遠洋航海の途中、 呉に入港し当時の千福の代表酒『呉鶴』を多量に積み込んで出港した。日本酒は従来1年酒とされており、夏を越すと余程保存がよくない限り内地でも多少味が変わる。それを艦隊は赤道を往復するわけなので、それでなくても暑さに弱い日本酒を、南方に携行して腐敗しないか否かが問題となったが、 赤道を通過しても少しも味が変わらなかったということで、酒保委員長から次のような証明書が贈られた。(4)
「証明書
清酒「呉鶴」壜詰
右ハ本艦大正9、 10年度練習航海ニ於テ
酒保ニ搭載シ南阿南米方面ヲ航海シテ
内地帰着迄220日余日ヲ経過シ
其ノ間赤道ヲ通過スル事2回、 太陽直下ヲ
通過スル事6回ニ及ビシモ、 変質変味等ナク
毫モ飲用ニ差支エナカリシモノタル事ヲ証明ス。
大正10年4月14日
軍艦浅間
酒保委員長 海軍中佐 成富保治
同
酒保委員 海軍大尉 小島 正」
また、 大正15年の練習艦隊は「八雲」「出雲」で編成され欧州方面を訪れたが、 この時「出雲」が初めて「千福」を搭載した。
この時も前の「浅間」のときと同様に品質することはなかった。 ここで「出雲」の酒保委員長も、
また次のような品質証明書を出した。
証明書
清酒「千福」壜詰
右ハ本艦大正15年度練習艦隊トシテ遠洋航海中、 酒保ニ搭載シ
地中海、阿沸利加東岸ニ回航シ、 日ヲ閲スルコト200余日、 其ノ間
印度洋、紅海ヲ往復シ、 赤道ヲ通過スルコト4回ニ及ビシモ、 変質、
変味等ナク飲用ニ差支ナカリシコトヲ証明ス
昭和2年1月2日
軍艦出雲 酒保委員長 海軍中佐 難波常三郎(印)
酒保委員 海軍少佐 大崎安見(印)
酒造家にとってはヘタな勲章を貰ったよりも名誉で誇りがましい証明書といえよう。科学処理の進んだ現代でも、220余も赤道の近くを往ったり来たりして、焼けるような暑さに蒸されたら、 酒の味は保証致しかねるのではあるまいか。南方用だからといって、 「呉鶴」にそれだけの装備を施したわけではない。要は造る側の良心の問題といえよう。近年では一年酒ということが常識となっている。それは日本酒が夏の暑さに弱いことを自らが証明しているようなもので、しっかりした酒ならそんな筈はないし、またそんな酒ではどうかと思う。あるいはビールに影響されている点があるかも知れないし、毎年一定の醸造酒を売り切るための工作かもしれないが、せっかく樽詰を壜詰専用にし防腐処置まで施しながら、 なおかつ日本の夏程度の暑さで味が変わるようなら、それは日本酒の規格を喪失した酒といわれても仕方がないであろう。いずれにしても大正9年ごろの、赤道直下を通過して腐らない三宅の酒の真価は、これによって大いに再認識され、特に海軍で特別の人気を集めたのであった。それにしても当時の海軍の大らかな雰囲気が良く現れているように思われる。 このような証明書をしかも連名で出すとは、 『千福』の社史は「酒落た軍人さんも居たものである」と記し、 海軍の「おおらかさ」を称えている。
一方、 第一次世界大戦終了後、 ロシアに革命が騒ぎが起こり、日本がシベリヤに出兵して鎮圧につとめたことがあったが、
海軍は大正9年にウラジオストックに警備隊を派遣した。軍艦「石見」がそのために幾度となく、
内地とウラジオストックとの間を往返したが、 その際には必ず三宅の『千福』を名ざしで大量に積み込んで運んだ。ところが今度の場合は、南洋と反対に極寒地なので、4斗樽の方がよかろうと両者が話し合い樽で送ることにした。
ところが冬期になると海水が凍って艦の航行が途絶する港であるから酒も凍結してしまい、
やむなく次の便からは瓶詰に代えたという。
昭和7年の第一次上海事変の時には、特務艦「労山」が1升瓶詰1打入り500箱を積載して上海に向かった。三宅からも係員の木村俊夫が派遣されて便乗した。着いてみると直接陸戦隊へ納入しろということなので、トラックに積み直して呉淞桟橋に向かい途中で敵弾の洗礼を受けたこともあった。 こうして海軍への納入が増え、 それに応じて大連、旅順、澎湖島、サイパン方面にまで運ぶようになり海軍だけで年間3000石を越え、さらに呉海軍工廠の購買組合にも要請によって値引きをするため千福を「廠の友」と名づけて納入した。この他に海軍工廠への特定銘柄としては、「東洋一」「国防」「海防」などがあった。艦船部隊購売部も海軍工廠購売組合も、値引きのため三宅としてはたいして採算の採れない納入であったとしているが、 事実、 海軍は隊員の福祉事業として当時から生活共同組合的な者を組織し、 家族に値引き販売をしていたため、 呉の商工業者を圧迫した。 しして、 それが海軍時代には1軒のデパートも呉にはできなかった理由でもあった。 (5)
すなわち、 呉には呉海軍共済組合購買所をはじめ呉会館・工廠倶楽部・海工会・水交社・下士官集会所などの売店があり、 市価より安く、 さらにチケット販売が行われ、 呉海軍共済組合購買所だけで300万円または400万円、 海軍関係の購買施設で1000万円にのぼる物資が販売され、 それが市内の商店を圧迫し、 昭和11年6月には横須賀実業連合会から代表を招き、 海軍の購買所対策協議会が開催され、 「各地共産業組合の不当進出に依り中小商人は極端に疲弊せる折柄なる軍港地には更に海軍共済組合購買所及下士官兵集会所売店等種々なる海軍の配給機関が完備し、 特に購買所の配給額の如きは年額400万円内外に及ぶと称せらる。 この強大なる海軍の配給機関と産業組合の挟撃に会して微力なる中小商人の到底対抗し長く営業することは不可能にして真に油の尽きたる燈の火の如き運命にあるのが現下軍港地の商人である」と海軍の購買組合がある軍港都市の収益税の廃止または緩和を要求することとなった。
こうした商工会議所などの陳情にもかかわらず、 購買所などの海軍関係の購買施設はしだいに拡張され、 昭和12年3月からは酒類の販売も開始されることとなった。これを知った呉酒類商組合は3月9日に1カ年の猶予を求めた次の嘆願書を呉市および商工会議所を通じて海軍に陳情した。
嘆願書
今般海軍共済組合購買所に於いて酒類の配給せられんとするの方針あるを仄聞した業者は晴天の霹靂として驚愕狼狽措く所を知らず。
今哉生業を奪われんとする者の不安と脅威はその極に達せんとす。 先に大正7年購買所が米の配給を開始せられし当時370の現業者は忽ちにして半減し廃業転業失業者続出するの惨状を呈したることは呉市商業史上特筆すべき事実にして吾人の心胆深く徹し想起して慄然たるものあり。
今哉此の災厄が巡で吾酒類業者に及ばんとす。 思うに呉市は天下に誇る銘醸地にして生産の豊富と品質の優良価格の低廉は他都市にその比を見ざる所にして敢て購買所の配給を要せある品目なりと思料す。
軍港地特殊経済情勢下に喘ぐ中小販売業者即ち酒類業者にこの鉄槌を下さるることは遺憾の極みと言うべし。
大正7年米国業者の惨状を再現せしむるは明らかなり。 600の業者3000の家族の大半は廃業転業失業を余儀なくせらるべし。
然りと雖も此が工廠従業員の唯一の福利増進の道とあらば業者は帝国海軍の為、
涙を飲んで敢えて忍ぶべしとするも、 せめて前後処置の準備期間として1カ年の猶予を懇願するものなり、
かくして廃業するものの困窮の度を軽減する事に特別の御同情御配慮を仰ぎ度く茲に業者の連署を以て嘆願哀訴する所なり。(6)
しかし、 海軍の購買所は呉市および広村(当時)で醸造される全部の酒類を市価より1升あたり10銭安く販売を始めた(当時の酒の価格は1升1円50銭)。
これに対して呉商工会議所は代表を呉海軍工廠に送り窮状を訴えた。 しかし、 応対にでた総務部長は、
「最近の物価暴騰時代にあたり1銭でも安い品物を配給することは従業員の待遇改善上当然のことであり、
この意味に於いて酒類販売は已むを得ぬことである」と酒類販売継続の態度を崩さなかった。
そこで呉商工会議所は役員会を開き対策委員会を設置し、 正副会頭が酒類商組合代表を伴って状況し艦政本部長や商工大臣などに陳情した。
しかし、 海軍の態度を変えることはできなかった。
しかし、 それより大きな打撃は米の配給制度であり、 さらに昭和16年12月に勃発した太平洋戦争が酒造業者を直撃し、 米不足のためどこの酒造業者も減産を重ね、 三宅も最盛時の40%位にまで落ち込んでしまい、陸海軍が要求する酒さえも数量が揃わず、たまりかねた陸海軍は各地の酒造メーカーに納入組合を作って納入の円滑を図って貰いたいと要請し、広島以西は「桜星会」、灘方面は近畿以東を担当して「竹友会」と名づけられた軍に対する納入組合が結成された。各地の納入組合は海軍と陸軍とに分けられ桜星会の海軍納入事務所は三宅本店内に、陸軍の納入事務所は西条の賀茂鶴株式会社内に置かれたが、 終戦と組合は解散し、 ここに三宅と海軍の50年にわたる付き合いは終わった。(7)
千福の再建と海軍
昭和20年7月1日夜半、 約100機(アメリカ戦略爆撃調査団資料では152機、 『新広島県警察史』によれば80機)が主として市街地を対象に1万6611個(1082トン)の焼夷弾を投下し、 この爆撃で町の大半は一夜の内に灰塵と化してしまった。 空襲による被害は死者1869名、 負傷者2000名、 住宅のの全焼全壊2万2164戸、 被害者12万5000人といわれている。 そして、 昭和18年(1943年)には人口40万4250人、 それに海軍軍人を加えると50万人近い人口を誇った6大都市に次ぐと称された呉の人口が(8)、 その月のうちに半減してしまったのであった。 この空襲で千福の酒造工場も戦火を受けたが、その消火作業に海軍が出動し、そのお礼に海軍が酒を散水車で貰い、またそのお礼に海軍が千福の再建に協力したという記事が社史にあるので紹介しょう。(9)
社史によれば「大正庫の火は一向に衰えそうもない。火を噴いている間は危険でもあるし、熱気のため付近を片付くこともできない。階下は酒の貯蔵庫になっていて、現に何千石という酒が桶の中に眠っている。できたら無事に取り戻したい。そこで海軍防備隊に消火を要請することになって、懇意な憲兵隊長藤本憲兵中佐を通じて、呉鎮守府参謀長に頼んで貰った。その理由というのが、倉庫の酒には莫大な酒税がかかっている。無事に助け出すことが出来たら、それだけ国庫の財政を助けることになるうえ、物資不足の折柄、軍や国民の士気を昂揚する大切な生命の水であるというものであった。そして、これを助けることは即戦力昂揚の一助となると信ずるから、防火隊を派遣して欲しいという要請であった。考えたものである。ところがこれが海軍側の入れるところとなり、快く防火隊の派遣を応諾してくれた。中前海軍少佐の率いる防火隊が駆けつけると、そこは専門家である。2階の鉄扉を打ち破り、各窓から幾条ものホースを挿入して水を注ぎかけると、ようやく火勢が衰えついに鎮火した。蔵人たちが階下の貯蔵酒を点検してみると、灰やほこりで多少汚れた桶もあったが、味に変わりはなく完全に焼失を免れていた。しかし、 これまでは温度を調節した冷蔵庫の中で貯蔵していたので別条なかったが、冷蔵機を焼失した夏季32度以上の炎天下で、そのまま外気を当てて放置すれば、どうしても腐敗変質の危険がある。そこで税務署と折衝の末、市民や軍に無料で配給するという条件のもとに、火災による損失として処理することを許可された。酒は言葉どおり全部無料でバラまいた。まず世話になった海軍の残留部隊、鎮守府、守備隊、諸官庁、諸会社の関係方面へ戦災見舞いとして分配、呉市の被災民10万余人に、1人当たり1合当て無料配給といった具合である。
被災者の中には容器も焼けて、鍋・釜・バケツ・桶・びんを持って、延々長蛇の列をつくり本店から電車通りまで続いた行列が、何時間も立ち尽くした末に喜々として各容器に満たして帰って行ったという。奮っていたのは海軍である。何しろ大世帯だけにちょっとした容器では間にあわない。撒水車を連ねてやってきて、そのタンクの中に詰めて運び、貯蔵には大きな風呂を消毒しその中に一応充満させ後から容器を探がしたという。何にしても思い切ったことをしたものである。三宅家の善行は世に知られており、初代清兵衛時代から数々の救済ー貧民、孤児、病患者などー社会事業といえば何をおいても率先して多額の寄付をしているが、自家が殆ど丸焼けに近い状態に被災しながら、売り物の酒を何百石も無償で放出するということはなかなかできることではない。しかし、
こうした善行が後の再建に大きく影響し、市民の有形無形の援助が、今日の三宅を築く礎をなしが、
その好例が海軍の協力であった。完膚なきまでにたたきつけられた海軍は、その年8月15日の終戦とともに瓦解したが、鎮守府、工廠が残した資材や設備を野放しにするわけにも行かず、しばらくは敗戦後も管理のために将兵が置かれていた。
三宅としてはどんなにたたき付けられても、まず酒を造ることが先決である。9棟の醸造蔵のうち焼け残ったのは、明治庫と呼ばれる最も古い五号蔵と、鉄筋作りの大正庫だが、大正庫は外壁が残っただけで貯蔵桶のあった二階は殆ど全滅、そのままでは使用できない。そこで応急処置を施して、とにかくその仕込みに間に合わすためには、相当の資材を必要とするが市の3分の2を焼失した戦災都市の再建はどこも同じことで極度の資材難であった。そこで目をつけたのが海軍が保有していた資材の活用である。社の者が敗戦処理のため残された当局を訪れ、払い下げ方を懇請すると、三宅本店と聞いて「三宅なら借りがある。空襲の時に酒を撒水車で配給してくれ、将兵達が大変に喜んでくれたことは未だに忘れてはいない。われわれで出来ることがあったら大いに尽力する。どうか1日も早く復興して、またうまい酒を造ってくれ」と言って関係者一同に呼びかけ、払い下げ方に協力してくれた。そのため曲がりなりにもその年の仕込みを終えることが出来たとしている。
後日談
このような海軍との特別の関係からか、 例年練習艦隊の呉入港時や防衛大学校の夏
季訓練時の見学などでは特別の接遇を行っているが、 特に昭和59年の呉地方隊開隊30
周年記念に際しては営利を度外視して、 「祝 呉地方隊開隊30周年」のラベルを付した記
念の酒を特別に造り、 呉市内に多数の「祝 呉地方隊開隊30周年」との祝賀看板を立て、
祝賀ムードを盛り挙げてくれた。 また、 現在同社社長三宅清兵衛氏は呉自衛隊協力会
会長でもある。
呉海軍工廠とセーラー万年筆
昭和初期の呉市の工業の代表的なものは前述のとおり酒造であり、 これに次いで金ペン・万年筆などが当時の呉の二大産業で、 当時は「金ペン王国(11)」といわれ、 現在ではカートリッジ式万年筆を発売するなど日本を代表する万年筆製造会社である。このセーラー万年筆を生み出したのが、 呉海軍であり呉海軍工廠であった。創業者の阪田久五郎は筆に筆壺時代に、洋行帰りの士官が筆汁を付けずに字を書く万年筆を見て制作をはじめた。しかし、万年筆の命であるペン先が摩耗し上手く行かない。そこで工廠の冶金部でメッキを行っている技師に相談、そして生まれたのが阪田の金ペンであった。阪田は明治44(1911)年に呉市稲岡町に会社を創設したが、高級幹部だけでなく庶民も使えるようにと水兵(セーラー)の名を取りセーラー万年筆と命名した。その後、昭和7年(1932年)8月18日に資本金50万円で株式会社に組織を変更し、 社名をセーラー万年筆阪田製作所と改め、 昭和7年には金ペン・文房具などの製造工場を新設し、 昭和9年には大日本文具交友会と決別して全国各地と大連・京城・台北に、 昭和11年には天津に、 それぞれ営業所や出張所を設置したが、 さらに昭和14年4月には呉市天応に約1万坪(約3万3058平方メートル)の敷地を得て、 当時としては大規模な万年筆工場を、 さらに昭和17年には上海にも万年筆工場を建設した。 その間昭和11年11月には資本金を50万円に、 19年10月には100万円に増額した。(12) しかし、昭和20年の呉空襲で呉市内の浜田工場と岩方工場を焼失したため、残存の天応工場を足場に立ち上がり、昭和23年には業界のトップを切ってボールペンを発売し、ボールペンブームを起こしたが、昭和33年にはカートリッジ式(特許昭和29年に取得)を発売するなど現在も万年筆業界のトップを走り続けてきたが、その後は出版やロボットなどの分野にも進出し資本金も48,8億円の大会社に成長している。
参考
セーラー万年筆の名称や金ペンの由来について『故阪田久五郎翁略伝』には次のように書かれている。
「翁は岡山県後月郡出部村の出身であり、 兄斎次郎を慕って呉に出て、 海軍工廠に工員としてその腕を磨き、
後、 兄の金属金具工場を助けた。 明治の中期、 当時の日本海軍はその規範を英国海軍に求めて建設していたので呉からも海軍将校がよく英国に派遣された。
それらの将校が持ち帰った英国の万年筆を見て、 この新しい筆記具が、 当時の日本の主流であった毛筆を駆逐して、
将来これにとって代わるであろうことを予見して、 その製造を志し、 海軍工廠の技師であった友人、
故白髪長三郎氏等の技術的なアドバイスを受けながら兄と共に苦心研鑽して日本で初めて金ペンの製造に成功した。
そして東京の万年筆業者に、 その製品を供給していたが、 その後に万年筆の完成品を自らの手で作ることを計画して独立し、
阪田製作所として明治44年2月11日(当時の紀元節)の佳日をトして創設した。 時に翁は28歳であった。
軍港都市呉にあり、 将来は自からの製品を船によって輸出し、 海外に覇を唱えたいという念願と、
一人の提督より多くの「水兵」が大切という民主主義的思想を盛り込んで商標を「セーラー」と命名し、
錨に水兵がまたがっている図柄を作った。 このデザインは終戦まで万年筆やインク、
その他すべてのセーラー製品に使用されていたが、 終戦より軍国的な色採のあるものは一切抹殺した時を以て使用を中止した。
その後は日本語のセーラーと英語のSailorを商標として今日に至っている」。このように終戦後にはセーラー服の水兵のロゴは消えいたが、創立95周年を記念して製作された極上金ペンレオロ(Reolo)には旧海軍の錨のデザインを採用している。
註
(1)呉公論社編『呉ー明治の海軍と呉市民生活』(呉公論社、 明治43年、 復刻:あき書房、 198 5年)28頁。
(2)知切光蔵『株式会社 三宅本店百拾年史』(三宅本店社史編纂会、 1965年)241-244頁。
(3)今井特務大尉について千福の社史は「『千福』を海軍に納入の際、種々尽力してくれた艦船部隊購買部長であった特務大尉今井文四郎が、その後、呉海軍下士官兵集会所事務長を最後に、昭和3年暮に退職するとともに、平素からデブ大尉と呼ばれて、呉海軍きっての肥満型であった。ところから、呉相撲協会を作りたいと三宅に協力を申し入れてきたので、 三宅では往年の厚誼を思って物心両面の協力を辞せず、今井が翌年六月に呉相撲協会を創設した時には長男の三宅清人が会長を引き受け、今井文四郎を副会長に挙げて地方チームと海軍チームの対抗相撲などを行なって海軍と呉市との交流に努めた」。
(4)前掲、 知切、 123-125頁。
(5)呉市史編纂委員会編『呉市史』第5巻(呉市役所、 1987年)331-333頁。
(6)呉商工会議所『所報』第17号、 昭和12年3月、 51-52頁。
(7)前掲、 知切、 241-244頁。
(8)前掲『呉市史』第5巻、 28-29頁、1134-1135頁。
(9)前掲、知切、 159-163頁。
(10)前掲『呉市史』第5巻、 351-352頁。
(11)中島四郎『故阪田久五郎翁略伝』(セーラー万年筆株式会社、 昭和34年)
(12)セーラー万年筆のホームページ(沿革の部):
http://www.sailor.co.jp/CORPORATE/history.html
(13)天応工場訪問記:http://www.rakuten.ne.jp/gold/nagasawa/hitorigoto/2001-2002/45/
おまけ(25年前の随想):旅ー地酒を求めて-地方文化との触れ合いー
町には3っの玄関があり3っの顔がある。陸の玄関は国鉄の駅、その顔は駅前広場、海からの玄関は港、その顔は波止場、空からの玄関は空港、その顔はロビーである。3っの玄関、3っの顔を同時に持っ町は少ない。普通の町の場合、駅がその町の玄関である。この玄関には東京、横浜、大阪駅等の近代的だが冷たい顔と、また、その土地柄の溢れる個性豊かな暖かい顔とがあるが、この顔は概して、ひなびたローカル線に多いように思われる。 しかし、一般に余り知られていない顔に海からの顔がある。雪山を戴く小樽・新潟、六甲が港を圧する神戸、桜島を借景とする鹿児島と、この玄関に近付くと、まず山が見え、岬続いて灯台、街の景観、そして波止場が見えてくるが、この顔は船乗りにしか判からないし、この顔の暖かさ、懐かしさは海軍や海上自衛隊に勤務したことのある人にしか判らないと思う。波止場には自動車が一面に並び、コンテナの高く積み上げられた横浜、名古屋、広島、材木の積み上げられた新潟、敦賀、舞鶴等の外国を向いた顔があり、四日市、和歌山、徳山等石油コンビナート群の並ぶ近代的顔もある。
さらに、魚の水揚げで活気はあるが、港の入り口から魚の臭いが漂う稚内、八戸、境、また、交通のターミナルとしての機能美人の高松、松山、青森、函館、稚内等があるが、この顔は急激な交通手段の変遷を受け栄華盛衰が速く、年輪の深く刻まれた顔が多いように思われる。特に、稚内や小樽などは樺太が日本領土であった時には、日本の北への玄関として繁栄を極めたが、樺太・千島を失い、日本の非運を表徴するかのように、寂れ疲れ、それでいて、過ぎし日の栄光や華やかさをひそめた顔を残している。
そして、3っ目の近代的な顔、それは空港だ。この顔は、駅と同じく遠くから見えてくるが、この顔を持つている町は広島、福岡、札幌、仙台、秋田、名古屋、鹿児島、松山等意外と少ない。それに、名前は大阪でも京都、神戸と共有の所属不明な顔もあれば、空港が離れた郊外にあるため、まつたく、町と無関係な、顔の無い空港もある。しかし、この顔はやや近代的過ぎて個性に欠ける恨みがある。そのためか、この空からの顔は昼より、概して、夜の顔の方が美しい。いずれにしても、自動車で行かぬ限りこの3っの玄関のいずれからか町に入り、町と対面する訳だが、町も人間と同じく、それぞれに、特徴と個性があるように思われる。しかし、顔は顔であり、駅や港や空港からその町の個性を判断することは出来ない。その街の個性、特徴等を短期間に理解するため、私は出張や寄港の都度、必ずその町の地図を買い、自分の歩いた経路を記入し訪問記念として残してきた。地図を買ったら自分のいるとこ、これから訪問するところ、夜の探索経路を地図上にマークするが、通りの名前や町の名前に、自分の持っている浅い歴史や文学の知識にある地名や記念碑等を発見した時の喜びは大きい。しかし、この楽しみは日本より外国のほうが大きく、また、豊富である。トルコで東郷(平八郎)通、エクアドルで野口(英世)通、パナマでは大平(正芳)通に長野(重雄)ヒルという岡を見付けた時には驚いた。
そして、夜ともなれば、街に出て酒を飲み、その地方の特産物を味わうことにしているが、酒は地酒に限る。地酒はその土地の風土と長い歴史の中から生まれ、育ち、受け継がれてきただけに格別だ。地酒の味は、その土地の料理ととも飲んでこそ、その味わいがでるものである。広島ならかき、金沢なら甘えび、稚内ならいか、そして秋田ならきりたんぽ、鹿児島なら竹の子料理と、日本とはどうしてこうも食べ物が繊細で豊富なのかと感嘆せざるを得ない。郷土料理を食べながら、その土地の話を聞くこと、これも旅の楽しみの一つだ。このような店に出会えると、旅そのものが充実したものとなるが、残念ながら近ごろ、この種の店が段々と減り、探すのが難しくなつてしまつた。安価大量販売のチェーン系列化の流れは、全国どこえ行つても同じような味と、そして値段、合理的かもしれないが情緒がなくなつてしまつた。そのうえ、どこへ入っても、東京で流行っている演歌をボリウーム一杯に上げ、スター気取りの「カラプロ」の天下、話しなんか出来る雰囲気ではない。郷土料理が食べられて、地酒が飲め、土地の話しを聞ける店を探すには、全国どこにでもある銀座とか千日通り、それにプラザとかいう横文字名の付いた場所と店を避け、川岸とか駅の裏、それに港の近くが良いように思われる。このような店の外観的特徴は、小さいのれんとちょうちん、入り口の戸が前後にでなく左右に開き、入口に塩の山がある小さな店であることが条件だ。もちろん、カラオケのないことが絶対条件ではあるが。
それにしても、 近ごろ日本酒の売上が減ったそうで残念なことだ。 日本酒を出す場合には、箸おき、小鉢、銚子(徳利)、猪口(盃)とテーブルの上には日本文化が並び、地酒・地の料理には、その土地の文化があると言うのに。日本の男性諸君、日本文化のために、地方文化のために日本酒を、地酒を飲もう。いや、この頃は女性も飲まれるそうで、女性をも含め『レヂィ・アンド・ジェントルマン
日本文化・地酒のために 乾杯!』と行こうか。