人は、文字を書くことで人を救うことができるのだろうか。書くことばかりしていると、ふとそんなことを考えてしまうことがある。
私は文字で救われているが、だからといって他人も同様に救われるとは限らない。私は自分の心を代弁しているような文章や自分が考えたことのない音の羅列のような文字に心を打たれたとき、少しだけ救われたような気になる。それは文字に起こすことがどれだけの労力と心を使うかということをこのブログを通して痛感したからとも言えるが、人の心を打つ文章はきっと誰しもひとつくらいあってもおかしくないだろう。
でも、どんなに文字で救われても、救いきれない辛さに出会ってしまうことは必ず起こる。例えば自分のことを言ってしまえばどんなに自殺の悲しみを問うても自死遺族の寂しさを文字へ載せて伝えても、社会にでればただの一般人な私は当たり前のように罵声を浴びせられることもあるわけで。この世にいらない存在だと言われるときすらあるわけで。そんなときに文字へ縋り付いても余計に傷だらけになることだってあるわけだ。自死遺族ということを口にしたときの周りの反応が怖い。一歩退いた人の顔を見ることが怖い。怖がりな私は自分の経験や経験から得た心を書くことで救いを求めた。
私は私が当たり前に他人を批判して愚痴を言っていることがおかしなことだと、感覚が麻痺しているのではないかと思いだしている。愚痴を向けたその人を愚痴対象のあの人を、その人達が紡ぎ出す言葉を私はまだ全て知らないままだ。あの人達の心からの文字を知らないままに、私は他人を批判しようとしている。その責任も負えないままに、どうしようもなく。
その様な思いを、書くことで懺悔している。書くことで人を救えるだろうか。「読ませてくれてありがとう」その言葉に報いることはできるのだろうか。誰かが書くことで私が傷つく、誰かが傷つけられ、私は救われて、誰かが傷つけている。そんななかで、自分の心を書くことで、いったい誰が救えるというのだろう。
書くことにどれだけの力が必要なのだろう。怒りに任せて書くことも、涙しながら書くこともあった。書くことで人を救えるかという問い自体が私のエゴだろうか、驕りだろうか。きっとそれすらも書くことで答えが得られることなのだろう。
できればいろんな人に書くことをしてもらいたいと思う。それは自分のためでもあり、他人のためでもある。人が心から書いた言葉をたくさん見たい。たくさん見て、たくさん共感したい、たくさん新しい発見を得たい。そのためなら誰かの書くことも許さなければならないのかもしれない。そこはまだ答えは出せずにいるが、書くことで救われるかもしれない人が一人でもいるなら、書いて欲しいし、書いていたいと思う。
書くことで人を救えるか。書くことで人は救われるのか。ずっとずっと答えの出ない文字の羅列を書き連ねている。
そもそもブログは無理して頑張らなくていいんだよな。自分も忘れがちなんだけども。
— ポンコつっこ (@ponkotukko) 2015, 9月 21