Vol. 3 僕のヒーロー(中編)
Guest:ミュンヘンオリンピック・男子バレーボール金メダリスト/全日本女子元監督 横田忠義さん
mc:
旭川の繁華街まで移動してまいりました。
神宮前WEB チャンネル。第二回のゲスト横田忠義さんのお話の中編をお送りいたします。
横田:
まぁ、能書きは良いから先ずは乾杯しよう。
大崎:
そうですね。
横田:
ようこそ、旭川へ。乾杯!
一同「乾杯!」
横田:
(ビールを一口味わったところで)
ここは、新鮮な北海道の幸を出してくれるから、バレー関係者が来た時なんか、連れてきたりするんだわ。
大崎:
そうですか! 元全日本のメンバーもいらしたりしたんですか?
横田:
いや、旭川に越してきてまだ一年だから、そういう機会には恵まれていないけれどなぁ。
あいつらも忙しくて、あらかじめ言ってくれればいいんだが、「明日、北海道にいくんだけど」のように急に連絡してきたりするから、なかなかタイミングが合わんのだわ。
mc:
宴席と言えば、前編のインタビューにて「東京オリンピックの祝勝会の時に男子バレーのメンバーにとって屈辱的ともいえることがあった」とおっしゃっていましたが、どんなことだったのですか?
横田:
皆さんご存じの通り、東京オリンピックで女子は優勝をして、男子は3位だった。オリンピックの祝勝会をするということになっていたんだけれど、強化委員の役員の手違いでその連絡が通じていなかったんだわ。
いつまでたっても男子が来ないから「男子は何をしているんだ」と松平さんの所に電話が入った。「祝勝会をやるなんてきいていない」と伝えると「遅れてでもいいからすぐに来い」ということになり駆けつけた。その時の屈辱から「オリンピックは優勝しないと何も価値がない。大会が終わって直ぐなのに3位でも忘れられてしまう。絶対に世界一になってやる」と松平さんは心に誓った。強くするためには選手を鍛えるだけじゃだめだ。マスコミにも注目を浴びて、週刊誌やテレビに扱われるようにならないと励みにもならないということで、松平さんが先頭に立って、取り上げてもらうように努力をした。それでも、メキシコまではそれほどでもなかったんだけど、その後ぐらいから徐々に人気が出始めた。
mc:
「ミュンヘンへの道」という、男子バレーの選手を一人ずつ取り上げる番組がありましたが、そんな経緯があったんですね。
横田:
あれは、松平さんが全部プロデュースした。当時は、アマチュアスポーツに対して、そういうことをする発想がなかったので、誰も手を出さなかった。大手の広告会社も「そんなことをしたって商売にならない」という感覚の時代だった。今は、スポーツの選手に寄ってたかって、アホ扱いまでされるような時代。「メダリストしての自覚を持て」と言いたいぐらい、当時そんなことをしたら一発でクビだった。
大崎:
「ミュンヘンへの道」という番組は、日曜日の夜のゴールデンタイムに放映されていたんです。これも、松平さんのお力なんですね。12人それぞれのエピソードを紹介し、最後は松平さんご自身の回だった。横田監督もご自身の回は録画してお持ちだと娘さんから聞いています。
横田:
あったっけなぁ(笑)
mc:
逆に、それだけの人気になってしまうと、ファンに囲まれたりして大変だったんじゃないですか?
横田:
東京体育館の前の広場がファンでいっぱいになってバスが入れなくなってしまい、脇に止めて体育館に入場するなんてことがあったんだけど、ファンもよく分かっていて森田が行くとプレゼントを沢山用意していて、相撲取りのように触るわけ、次に大古が行くとちょっと道が開く、その後に俺が行くとサーッと3mぐらい道が開く。練習や試合での態度から怖いイメージがあったんだろうね
mc:
コート以外でも役割分担ができていたということですね。
横田:
森田は東京育ちで如才なく、誰とでもニコニコお話しできる。大古は周囲と合わせつつもエースということで、威厳がなくてはという気持ちもある。
大崎:
私にとっては、横田監督は笑顔で接してくれて、スポーツについての情熱も感じますから、皆が道をあけるということが信じられませんけど、ようするに凄すぎたんでしょうね。
横田:
ニコニコして試合をするわけでもないし、スパイクが決まったとしても「決めようと思って打っているんだから決まって当然」と思っているから、そんなに大喜びをするわけでもなかったからね。
mc:
ヒーロー戦隊物のように、役割分担があって、ファンが近づきやすい人もいれば、そういう人だけではチームはまとまらない。本当に大事なことなんですね。
さて、ご子息の一義さんが全日本クラスで頑張っていらっしゃいますが、親の立場から見てどんな風に感じていらっしゃるのですか?
横田:
全日本のユニフォームを着るのは今回初めてだし、まだ分からんねぇ
学生選抜やジュニアでは選ばれたことはあるけれど、全日本というのはまた違うからね。スタメンでやれるようになれば「がんばったな」ということになるけれど、今はまだ「がんばれよ」というぐらいしかないね
大崎:
全日本の選抜方法は、今も昔も変わらないんですか?
横田:
昔は半年ぐらい前に12 名を選んで、骨折したりなどよほどのことがないかぎり通して行く、多少の怪我なら連れてゆくという方式だったんだが、松平さんが変わってからかな、怪我をしたらすぐ変えられるということになって、それだとみんなが怪我をしないようにと思い切った練習を出来ないから、18 名を選んでおいて大会の時に12 名を選ぶ方式になった。
大崎:
そうなんですか
横田:
その後、リベロができて、今は14 名がベンチに入れる。
日本の場合、18 名の中から16 名ぐらいつれて歩いてその日に出る14 名を選ぶ。カズ(一義さん)も連れては行ってもらえるだろうけれど、ベンチに入れるかはその日の監督の考え次第だね。
キツイ言い方かもしれないけれど、その程度では、まだ評価には値しないかな。
大崎:
ご自身が、金メダルまで獲った方だから、どうしてもハードルが高くなりますよね。一般の親御さんだとすると、「全日本に選ばれるのではないか」という時点で舞い上がるところですよ。
横田:
いや、舞い上がっているのが家にもいるよ。
カミさんにとっては、息子だからいくつになっても可愛んだろうな(笑)
mc:
ハードルが高い方が育ちますよね。松平さんが「絶対金を獲る」と言わずに「入賞で良い」とおっしゃっていたら、金は獲れていなかったのでしょうしね。
横田:
それでは金に、なっていないね。
mc:
評価基準が高く、「それが当たり前なんだ」というのが自分の中に刷り込まれていると、そこまで成長できますね。
横田:
先輩たちが東京オリンピックで銅をとってくれて、俺たちが全日本に選ばた時には分かりやすい目標があったわけ。
大古にしても俺にしても、池さん以上のスパイカーになろう。森田にしてみれば、南さん以上のセンターになれば銅から銀に行ける。こういう目の前の目標があった。こういうのが天の時。東京オリンピックが終わった時に俺たち3 人が出てきた。当時高校生だった俺たちが、ミュンヘンでは25 歳になっていた。ちょうど、キャリアを積んでいた。いろいろな面で恵まれた。
mc:
それに加えて「金でないと、こんな扱いか」という悔しさもあったのでしょうね。銅メダルでチヤホヤされていたら、そこまで気持ちがあがってこなかったかもしれませんよね。
横田:
祝勝会に最初から呼ばれていて、「良かったね」なんて言われていたら、松平さんが自分から手を挙げてまで監督になっていたかどうかも分からないしね。
mc:
悔しさも大事な要素ということですね。
大崎:
ミュンヘンの後、男子のバレーは低迷が続き、ワールドカップでのメダルはあってもオリンピックでは一度もメダルをとっていませんよね。現在では、オリンピックに出るかでないかという状況ですが、監督、不躾な質問ですが日本はいつかはオリンピックで金を獲る時はくるのでしょうか。
横田:
ないだろうね。
大崎:
3 位まではあるでしょうか。
横田:
それも難しいね。
大崎:
監督が言うのは、本当に重いんです。
それは、教育体制なんでしょうか、世界との差なんでしょうか。
横田:
トータルで
mc:
では、今の全日本に一番欠けているものは何なのでしょうか。
横田:
それは、根性さ
大崎:
ミュンヘンメンバーぐらいの根性がないと。
根性があってもなかなか獲れないのが金メダルだから。
mc:
ところで、金メダルはどこかの博物館などに保管されているんですか?
横田:
いいや、自宅にあるよ。
メキシコの銀も。 観るかい?
mc:
是非、拝見させてください。
横田:
じゃぁ、そろそろ戻ろうか
次号(後編)に続く
2012 年2 月12 日公開予定
平成23年12月31日、日本バレーボール協会名誉顧問でミュンヘン五輪の男子バレーボール監督の
松平康隆様がお亡くなりになりました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。