Arnieo's Picks
低ビットレートを愛するには
Pitchforkに面白い記事があったので訳してみました。デジタル時代のノスタルジーと云うのは色々とネタになりそうな話です。
原文のリンクは http://pitchfork.com/thepitch/902-learning-to-love-low-bit-rates/ 、著者はAdam Wardという方、翻訳と注はarnieoです。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
16の誕生日に付き合ってた子がミックステープを作ってくれた。ミックステープは間違いのないプレゼントだし、彼女のはそれ以上だった。彼女は僕より音楽の趣味が良かったし、僕よりクールだった(たぶん今も)。そのCDにはFueled by Ramen(*1)の隠れた名曲もあれば、ごく自然にButch WalkerのMixtape(この曲は長年にわたって愛することになる)も入っており、それらの曲を僕は今に至るまで大事に思っている。それはミックステープを作ってくれた子への思いよりはあの秋の雰囲気を思い出させるものとしてなのだが。CDに入っていたthe Get Up KidsのOverdueは彼女がCDコレクションから取り込んだものではなかった。それはごく初期のYouTubeからクリアにリッピングされた128kbpsのmp3だった。僕はその霞がかかったようで勢いのないファイルをかれこれ10年の間ずっと持っている。iPodからPCへ、そこからスマホへと時が経っても移していって。
音楽の変化・発見の流れの幾つかの点においては、音質は決定的な要素ではなかった。mp3プレイヤーの黎明期において、最大の売りは持ち歩ける曲数だった。2001年にiPodを世に出した時にスティーヴ・ジョブズは「あなたの音楽ライブラリをポケットに」と紹介した。その後にファイル共有が爆発的に広がった時にはもはやルールなんか無かった。低レートのmp3ファイルが21世紀はじめの新しい音楽発見体験を彩っていた。LimewireやKazaaやNapsterではビットレートでファイル検索結果を並べ替えることができたけれど、そんなのは二の次だった。ファイル共有の海賊行為では常に音質より便利さのほうが重要だった。それに最初のiPodの記憶容量はたったの5GBだったけれど、ユーザーは出来る限りの曲を持ち歩きたかったから。128kbpsが基本設定として使われていた。今の音楽共有コミュニティでは笑い飛ばされているが、そもそも今もiTunesのとり込み設定では今も128kbpsが"Good Quality"と表記されている。
僕はこうした酷い音質のファイルを愛するようになった。ほとんどの場合、僕には高音質の非圧縮音源がしっくりとこない。僕の持っているMarioのLet Me Love YouはMVから取り込んだので頭にスキットが付いているが、それ無しの曲を聞くのはやな感じだ。度重なる音源圧縮の結果として実質的にはあなたはそのファイルを共有しコピーした数千の人々の破壊的な電子指紋も聴くことになる。CDからリッピングされ、ストリーミングサイトにアップロードされ、ピアトゥピアで共有され、ミックステープとして再度CDに焼かれた曲はとんでもない数の歪を受ける。それはまるで過剰に圧縮されたInstagramミームと同じようなものだ。こうしたミーム("shitpics"とBrian Feldmanは名づけているが(*2))はそれらの爆発的な広がりを明らかにしている。これはInstagramにリポスト機能がないこととKermitがお茶をすする写真(*3)をシェアしようとしてリポスト機能がないという障害を越えようとする創意工夫によるものだが。
古きBlogariddms podcast への投稿(*4)では低音質の古いmp3を聴く楽しみを知るための素晴らしい言葉を読むことができる。古くさい音が団子になっているのを正当化するかのように彼らはこう言っている。「Limewireから落としてきた64kbpsのイカれて突っ張った音のRuff SqwadのアンセムR U Double Fのような曲は決してリリースされることないけれど天才的な作品だ。これはmp3のダブプレートなんだ。グルーヴは度重なる圧縮で屈服させられている。(私たちは多くの低ビットレートの曲をこのミックスの中で使っている。なぜなら私達にとって歪んだmp3の音こそがこの時代の音楽を聴くもっとも重要な部分なんだから。)」
私自身沢山のこの手の曲をまだPCの中に残している。KyussのSupa Scoopa and Mighty Scoopの58kbpsのコピーはまるで公衆電話越しに聴くような音がしている。ジミヘンのデモの海賊版CDはどこからかで128kbpsに変換されていた。それに僕が聴いてきたいわゆるローファイミュージックやデルタブルースやフォークの多くはテープヒスや表面雑音がその曲の雰囲気を掻き立てるのに必要な効果となっている。いくつかの点において昔ながらの音で聴くことに対するノスタルジアは完璧な音への欲求を凌駕する。レコードのノイズに対する賞賛や最近見られるVHSテープの歪への関心もそれで説明できる。
音楽消費者の模範的な姿を考えるとき私たちはオーディオマニアを思い浮かべる。膨大なレコードと細心の注意を払って調整された高価な高級サウンドシステム取り憑かれたような人だ。彼らが音楽を愛していてバンドが意図したとおりの音で聴くために沢山の時間とお金をかけていることは間違いない。Neil Youngのいささか疑問の余地のあるPonoプレイヤーやTidal(*5)による高音質デジタル音楽への動きは単にバカバカしいほど陳腐なだけでなく階級差別主義者に等しい。ごく限られたものだけがゼンハイザーの300ドルのヘッドホンと数千ドルのターンテーブルでレコード・ストア・デイ限定リマスターレコードの真の体験をする余裕があるのだ。Tidal HiFiは月20ドルでPonoプレイヤーは400ドルする。SoundcloudもYouTubeもただだ。ほとんど収入がない18歳以下の音楽ファンの子どもたちにとって価格は品質以上に重要だ。
低音質のmp3における水面下のようにくぐもった圧縮は僕らの世代にとってのレコードのノイズやCDの音飛びだ。それはその時代の音楽体験を特徴付ける技術の限界なのだ。それは画面に顔を押し付けるようにしてFargoのボロボロのVHSを150回も見ているクミコ(*6)の姿だ。Simon Reynoldsは彼の2011年の著書Retromania(*7)でこう語っている。「カセットテープは存在しているか否か不確かな幽霊のようなフォーマットとみなすことができる。レコードにおけるスクラッチ音や表面雑音のようにテープのヒスノイズはそれが録音であることを常にあなたに想起させるからだ。」低音質のmp3も同様に機能する。違いはもはやカセットテープが優先度の高い選択肢ではなくなったことぐらいだ。我々がレコードの"温かみ"と比べてデジタル音楽の冷たさについて語るとき、我々はデジタル圧縮の特別な特徴に焦点を当てることを忘れている。もし我々が音楽媒体の急変の意味を認識するまでだれかがmp3を古臭いものとするシリコンバレー的なアルゴリズムを発明するのがかかるのなら、感傷は大幅に期限をすぎることになるだろう。
(*1)ニューヨークのポップパンク系レーベル。Cobra Starship、
Gym Class Heroes、Panic! At The Discoなどが所属。
(*2)http://www.theawl.com/2014/12/the-triumphant-rise-of-the-shitpic
(*3)http://knowyourmeme.com/memes/but-thats-none-of-my-business
(*4)http://web.archive.org/web/20101015182153/http://dot-alt.blogspot.com/2002/10/blogariddims.html
(*5)PonoはNeil Youngが送り出したハイレゾ対応オーディオプレイヤー。TidalはJay-Zによるハイレゾ配信サービス。
(*6)映画 “Kumiko, The Treasure Hunter" 主演でKumikoを演じるのは菊地凛子。 https://www.youtube.com/watch?v=sDK9jdtwdTo
(*7)Simon Reynoldsはイギリスの音楽ジャーナリスト、評論家。Retromaniaについては以下を参照。http://d.hatena.ne.jp/saebou/20130826/p1