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2015/09/24

『Rewrite』論:何故「鍵の少女」は殺されなければならなかったのか――樹木信仰と奇跡学―― 

 こちらは以前、then-dさん主宰のサークル『theoria』さん刊行の、『恋愛ゲーム総合論集2』に寄稿させていただいたRewrite論の再録版です。
 
 『Rewrite』だけに本文をリライトとして再構成したい・・・と思いましたが、やはりこれも今までの足跡ということで、変更点は誤字の訂正と段組の調整のみで『恋愛ゲーム総合論集2』と同内容となっております。今客観的に眺めてみると、論の運びが所々飛躍しまくっていて何とかひとまとまりに収まっているのがやっとという印象ですが、興味がありましたら覗いていってもらえれば幸いです。
『Rewrite』のネタばれは勿論のこと、『Kanon』をはじめとしたKey作品のネタばれ含みます。
 
 ちなみに『Rewriteレビュー』と、このRewrite論の原型である『Rewriteと宇宙木に関する小考』はそれぞれリンク先にて。

何故「鍵の少女」は殺されなければならなかったのか――樹木信仰と奇跡学―― 

(初出:『恋愛ゲーム総合論集2』 2011年コミックマーケット81)

 
 

1.はじめに  

 『Rewrite』は、樹木信仰の世界観を全面に押し出した作品である。
 様々な販促、初回版パッケージにも見られるように、そこには森と特徴的な一本の樹が描き込まれている。そこで、『Rewrite』の樹木信仰の世界観を辿りつつ、その背後に流れる思想について考えていきたいと思う。そうすることで、『Rewrite』の持っている作品性や他のKey作品との関連性も見えてくるのではないだろうか。
 もとより、この考察の動機は、自分が『Rewrite』をプレイし終えた時抱いた困惑の解消の為であった。『Rewrite』はKeyのブランドカラーとは異なると各所で言われているが本当にそうなのか否か、そもそも「Keyらしさとは何か」という疑問や違和感。それを『Rewrite』に流れる樹木信仰を中心線にしながら自分なりに解いてみたい。
 
2.死にゆく「鍵の少女」
 
  『Rewrite』の作中で、文字通りキーパーソンと言える人物、それが「鍵の少女」たる篝である。彼女は地球にあっては滅びを司る星の霊であり、月にあっては多重化された世界で地球の運命を測る者である。地球の篝も、月の篝も、自然や人間の生死を秤に掛ける存在であり、彼女(達?)こそが生命の理の体現者であるのは間違いない。(*1)  そんな設定上の重要人物の篝であるが、作中で何度も何度も執拗に殺害されている。また、Moon編では瑚太朗が「篝を殺すもの」としての役割を与えられて月世界に召喚された、と作中で強調されて述べられている。更に、Terra編ラストシーンで篝を殺害するシーンは非常に印象的である。
 単に展開上やルート選択の都合上犠牲になって死んでいくのならば、ここまで殊更に殺すことや、殺す者という言葉に執着する必要はない。ならば、彼女の死に何かしらの意味があってしかるべきではないだろうか。何故鍵の少女は殺されなければならなかったのか、その問いを始点に作中のシンボルを探ることで篝が体現している自然や生命の背景思想、樹木信仰に行き着くはずだろう。
 
3.鍵の生まれる地と中心のシンボリズム  
 
 殺される「鍵の少女」。彼女が生まれる場所は風祭市郊外の森の奥深く、ドルイドの守る結界の中にある巨樹の下である。その巨樹は背景からも分かるように、あまりに巨大かつ異様、明らかに周囲の樹木とは一線を分かつ樹木であった。そしてそこには生命の源である「パワースポット」があった。
 このような特徴的な樹木はしばしば神話や古代的信仰に於いて世界の中心に位置づけられ、世界樹、宇宙木、生命の樹などと呼ばれる。これは、宗教学者ミルチャ=エリアーデの提唱した「中心のシンボリズム」という神話的思考法だ。 この中心のシンボリズムは樹木に限らず、山、神殿、塔など特徴的な自然物や人工物に適応されるもので、中心に据えられた物体は根源的な生命や聖性の示現として理解される。この時、単に物体そのものに対する信仰ではなく、それを通して圧倒的な聖性を見出そうとする信仰であることが中心のシンボリズムのミソである。
 樹そのものが凄いのではなく、それを通して聖なる力、生命力が示現されているから凄いのだ。(*2)樹木そのものに聖性があるのではなく、その背後に「パワースポット」という生命力の示現たる源があることから、篝が生まれる樹木は的確に中心のシンボリズムの条件を満たしていると言える。そして、実際に地球の命運と生命を巡って争われる闘争が風祭市の森の中で行なわれるのであるから、篝の生まれる地はかなり意図的に中心としての役割を与えられたのではないかと思われる。風祭市、巨樹の森は作中に於いて中心と聖性を持つ「場所」である。
 
4.繰り返されるガイアとガーディアンの闘争  
 
 篝が生まれる風祭市はガーディアンとガイアの闘争の舞台である。しかし、その闘争は経済的・政治的な俗界の闘争ではなく、神話的・宇宙的な闘争であった。ガーディアンとガイアがそれぞれ、英雄と怪物に類され、その原型を継承していると見做されているのがその証拠である。彼らの闘争・能力の起源は、先にも参照したエリアーデの思想にモチーフを負っている所が大きいのではないかと思われる。
 ガーディアンの持つ超人的な能力は、個人個人が自立的に開発・習得した能力ではなく、人類がこれまでの歴史の中で潜在的に蓄積してきた「獲得形質」を引き出すことで使用可能になる能力である、と終盤になって明かされる。その三つの能力系統、「伐採系」「狩猟系」「汚染系」から理解出来るように、これらの能力は人間が自然に対して働きかける技術や能力であり、太古において彼らは文明を牽引する英雄達であった。ここには、「祖型と反復」という神話的思考法が色濃く表れているように思われる。祖型と反復とは、古代的信仰の儀礼に於いて、原初に由来を持つ特定の行為を模倣・反復することによって「かのはじまりの時」、つまり歴史を超えた原初の時そのものに参入しようとする思考法である。その行為の中には人間が自然の中で生きて行くのに必要な知恵・技術の起源も含まれる。狩猟をする技術、道具を作る技術、農耕の技術など、それらははじまりの時に文化英雄たちが手に入れた技術であった。そして、これらを模倣することがその行為に聖性を付加することになり、更にそれだけに留まらずその行為を行なっている時にまさにその英雄となる。(*3)『Rewrite』のガーディアンもまた同様である。

ルイスを思い出した。
彼の技を。
それはどこから来たのだろう?
意識が飛ぶ。
幻視が起こった。
遠い、過去の記憶。
遺伝子の外に置かれた、ヒトの記憶。
半裸の男が、槍を持っている。
今の人間とは体格がまるで違う。
骨格、脳のサイズ、全てが。
男の前を、巨鳥が悠然と横切っている。
高く、遠い。
とうてい届くはずのない距離。
だが、挑む。
歴史さえもはるかに超えた超歴史。
記録されたこともない歴史のプロセスにおいて、誰もなしえないことに挑んだ者たちがいた。
彼はひとつの時代では数えるほどしかいなかった。
だが、実在した。
時間の方向に沿って数えれば、驚くほどの数がいたのだ。
最初のひとりは失敗した。
二人目も。
百人目も。
千人目がはじめて翼をかすめた。
飽くなき探求は続けられた。
成功したのは、数千年前という、歴史的にはつい最近のことだ。
獲得形質。
後天的技能を伝承する現象。
それを読み出すという行為こそ、超人化の精髄に他ならない。

(Terra)
ガーディアンの使用する能力もまた太古に技術を生み出し研鑽してきた無数の人々の能力の模倣と反復であり、それを行なう能力者は英雄に類される以上、祖型と反復をその背景に負っていると言えるのではないだろうか。
 一方でガイアの能力である魔物の創出もまた祖型と反復に照らし合わせて考えてみることが出来る。ガイアの魔物の創出は、命のエネルギーを用いて生物を再創造する技である。これにより、死体の蘇生や神話時代の怪物の再現など様々な奇跡が可能となる。これは祖型と反復の思想に照らし合せれば、かの始まりの時の生命創出、もしくは天地創造の模倣・再現に関連付けられる。始まりの時の再現であり、再示現でもある祖型と反復は、技術・行為の起源だけではない。世界の起源である天地創造・生命の創造も反復され得る。むしろ、これらの方がより根源的である。(*4)創造とは、未分化な混沌から生命を生み出すことである。故に創造の前には、混沌たる暗闇がある。この点はガイアの魔物創出のイメージに深く関わっている。

【瑚太朗】「暗いですね…」
【朱音】「魔物を生み出すには、この方がいいのよ」
【朱音】「目に見えるものを曖昧にすることで、観測力が弱まり、命の定義がほつれる…」
【朱音】「その現実と異界のあわいに、魔物が存在する余地が生まれる」
【朱音】「いいこと?鍵というのは、魔物の原型のような存在なの」
【朱音】「不安定であるかわりに、望む形にこねあげることが出来る、生命未満の命。それが魔物」

(朱音ルート)
 また、魔物創出に当たっては自由に素材を加工して作ることが困難であり、強い魔物を作る為にはそのモデルとなる生物の正確な骨格や起源を理解している必要があった。(*5)祖型と反復の思考法に於いて、重要なことの一つは正確に物の起源を理解していることである。魔術・呪術は支配するものの起源を知っていることによってのみ超自然的な力が行使出来るとされる。動物や植物に於いてその起源を知ることは、それらの支配・増加・生産が可能なことを意味する。(*6)  
 更にガーディアンやガイアの能力が太古の行為や知識の反復というだけでなく、彼らの闘争そのものが反復されたものであると作中で仄めかされている。古くから風祭の地ではガーディアンとガイアが闘争を繰り広げてきたのであり、更に現人類以前の滅び去った旧世代の人類もまたガーディアンとガイアの陣営に分かれて戦ってきたとされる。作中で語られる闘争は一回性の歴史的事実ではなく、歴史を超えた長大なタイムスパンで繰り広げられている。その中で前世界から続く闘争を祖型として反復しているのだろう。そして、その闘争の舞台は中心の樹木であり生命の根源がある宇宙木の下である。宇宙木の下で英雄と怪物が戦うというモチーフもまた神話では頻出しているもので、そのような意味でも『Rewrite』に於ける闘争は単なる歴史的、一回的なものとは思えない。何度も何度も滅びを繰り返しながら反復される雄大な闘争。『Rewrite』は神話的「時間」を持つ叙事詩である。
 
5.篝と月と周期的再生  
 
 ガーディアンとガイアの闘争、それだけでなく全人類・全生命の歴史を観測する存在が月面にいる。それは、鍵の少女と同じ容姿をした篝(月)である。
 彼女は、地球の生命が根絶やしにならぬよう、月面で独り命の理論の研究を進める。全ての命の歴史を理解しようとする彼女の性質は、神話の月、月神に与えられるシンボルとかなり親和性があるように思われる。度々参照しているエリアーデの神話学に於いても、月は植物・水・女性・再生の様々なシンボルを統合するイメージが見出されると述べられている。月自身の満ち欠けは死と再生の自律運動と見做される。それが植物と再生のイメージと深く絡み合い、その周期的運動から諸シンボルに法則性を与えていく。この周期性・法則性故、月は「測る」行為と類比的に捉えられるのである。(*7)『Rewrite』の篝(月)は、地球に起こる諸事象、繁殖、破滅と再生を一枚の命の系統樹に収める者であったし、まさに命と運命を「測る」者であった。

命の理論は単なる机上のものではない。
現実の出来事と、完全な対応関係にあるのだ。
篝の元には全情報が集まる。
太陽光をレンズで収束するみたいに一点に凝縮させたものが、この理論だ。
水面の月。
現実側から投射された写像。
篝とは、模索するものだ。
言うなれば、ある種の機能…
篝が探し求めているもの…それは可能性に他ならない。
生命が生存するための。

(Moon)
 そして、この篝(月)と対となるのが篝(地球)である。「鍵の少女」と呼ばれる篝(地球)は、地上に滅びをもたらす存在。滅びはエネルギーをリサイクルし、生命の再創造を行なう為に地上のあらゆる文明を分解しつくす。この滅びとエネルギーの再利用という名の再生は、作中でノアの方舟神話に託されて語られるように、オリエント・インドを中心に見られる周期的再生の終末論のそのままの焼き直しである。(*8)特に洪水による終末には、形があるもの一切を崩し、築かれた歴史をも侵食して解かすイメージがあり、それは水の形を持たない潜在性に由来するとされる。(*9)この水は、植物と再生に結びつき、やがて月の周期性がそれを纏め上げる。『Rewrite』には水のシンボルは直接出てこないものの、篝(地球)の起こす滅びは地上の個物を潜在的なものに分解してしまうという点で、類比的に捉えられるだろう。

篝がなぜ鍵と同じ姿をしているかわかった。
鍵は世界を滅ぼす。
資源が失われないうちに、再進化を引き起こすためだ。
それでもう一度、世界はチャレンジできる。
現行人類にとっては確かに災難に違いない。
けど、星と命にとっては無我夢中の生存欲求の発露だ。

(Moon)

【瑚太朗】「以前の篝が、大きな破壊を引き起こしたという記録がある」
【瑚太朗】「ひとつの国が消滅したって」
【篝】「再進化が起こるにあたり、今の命は結び目を解かれる」
【篝】「そのようにして命を取りだし、再び活用するためです」
【瑚太朗】「…命のリサイクルみたいだな」
…いやな考えだ。

(Terra)
 月の持つ、地上の植物・水・再生のシンボルを纏め上げる役割を考えると、植物と再生が物語の鍵を握る『Rewrite』で月の存在が重要性を持つのは当然のことなのではないだろうか。
 またゲーム上、Moon編がこれまで経てきたヒロイン達の個別ルートを統合、各所に散りばめられていた滅びや再生の伏線を回収して世界観を鮮明なものとし、続くTerra編への導きとなった点は、やはり月の持つ神話的イメージ(様々なシンボルの統合)を思い起こさせる。偶然だとしても面白い一致だろう。
 
6.ドルイドと森の王、神殺し  
 
 月の篝が測ることを役割とするなら、地球の篝は滅びを引き起こすことを役割とする。両者とも生命の力を絶やさぬ為のシステム。そして、その地球の篝を、「鍵の少女」を守護する宿命を背負う者こそがドルイドである。
 小鳥は、山中の事故で両親を失った後、森の中でヤドリギを見つけドルイドの契約を交わす。このドルイドは単語を変えず直球ストレートに、ケルト社会の森の祭司に原像を持っている。その宗教儀礼に於いて重要な役割を果たすのがオークのヤドリギである。ヤドリギは癒しと豊饒を導くものであり、ドルイドにとって極めて象徴的な意味を持つ。(*10)
 さて、オーク・ヤドリギ・ドルイドにまつわる研究で最も有名なものと言えば、社会人類学者フレイザーの『金枝篇』であろう。『Rewrite』では『金枝篇』から直接的にシンボルが引用されている。『金枝篇』は人類学の大著であり、進歩主義的思考や安楽椅子人類学などの問題を抱えているものの、呪術に関する豊富な史料・証言ゆえにやはり重要な古典である。
 『金枝篇』ではイタリアのネミの森の、森の王と呼ばれる司祭とその殺害、という一見奇妙な風習の内実を探ることがその目的となっている。司祭と戦って殺す権利を得るためには、逃亡奴隷が触れてはならない聖樹のヤドリギを手折ることが必要で、このヤドリギこそが金枝である。この『金枝篇』でのキーワードは神殺し。 神や王を殺すのは、自然の生命力の写し身である者(神・王)を殺すことで汚れ衰えた生命の力を再生することが出来るという思考があるからだと語られる。(*11)ここで重要となるのは、神殺しによって得られる再生と豊饒である。  
 篝(地球)に与えられた役割は、世界に滅びをもたらしエネルギーを回収、新しい生命の再生を助けることである。そして、彼女はそのまま自然の理(システム)の反映であった。これは、『金枝篇』における自然の理の反映という神と森の王のイメージに符号する。また、彼女を守護するドルイドは、ヤドリギの枝を手折ることでその資格を得るのであり、『金枝篇』ではネミの森の王を象徴する樹木はオークであると語られる以上、その関連性はより強固なものとなる。ヤドリギとオークの信仰者であるドルイドが、神・森の王に類する篝(地球)の守護を責務とするのは自然だろう。そして両者とも「再生」に関わってくる。

【小鳥】「人間だけが<鍵>を殺すことができる」
そのセリフには、深遠なものが宿っているように感じられた。
だとしてもそれは、あまりよろしくはない心理に違いない。
神殺し、という言葉が浮かんで消える。
あるいは禁忌と。

(小鳥ルート)
 『金枝篇』では森の王が徘徊するネミの森には、一本の神聖な樹が生えていると述べられている。その一本の樹は、エリアーデに引き寄せて考えるならば、中心のシンボリズムとしての宇宙木に該当するであろう。両者の神話的思考を併せるならば、中心を持つ場所とそれを取り巻く時間があり、その時空が再生によって生命の力を取り戻す、という世界像が想定できる。
 これまで考察してきたことを踏まえれば、神話的思考のイメージを帯びる『Rewrite』は「場所」と「時間」と「再生」が密接に関わりあった世界観を下地に持つと言えるのではないだろうか。しかし、『Rewrite』をプレイし終えた方ならば、この結論では違和感をおぼえると思われる。何故なら、『Rewrite』の地球は既に再生が不可能であると繰り返し述べられているからだ。生命力は枯渇しかかっているのだ。  
 
7.母樹の切断と再生不可能性  
 
 『Rewrite』の世界では、地球の環境破壊が深刻となり、最早生命は風前の灯となっている。その危機に対しガーディアンは、人類の持つ潜在能力と科学を武器にして人間や環境そのものの改変を目指す。しかし、それは人間本位の楽観的なものであり、目先の利益を重視する姿勢に過ぎず、人類は例外なく資源を使い果たし星の生命は尽きる。(と月の篝に分析されている。)
 一方ガイアは、人類の自然に対する傲慢な態度を批判し、鍵に滅びを招来させ地上の文明を一掃した上で地球を新しく再生させようと説く。だが、これも滅びの後の再生に要するエネルギーが大きすぎて将来的には完全滅亡の道を辿る。

鍵を殺害すれば滅びは起こらない。
この予測に基づき、狩猟者の一団が実行した予備策のひとつだ。
確かに鍵を抹消すれば滅びは起こらない。
そのかわり、資源の浪費を止めるブレーキがなくなる。
鍵は殺してもいずれ再構成されるが、最短でも数百年はかかる。
数百年は一瞬だが、人類が資源を使い果たす方が早い。
間に合わないのだ。
滅びが、資源が枯渇する前にやりなおしをするシステムだったことを考えれば、このあたりの理屈はわかるはずだ。
結果、ごく短期間でその後の世界は荒廃する。
文化的生活の崩壊。
つまり、人が人らしく生きることができなくなるということだ。
よくあるマンガのような、弱肉強食の世の中。
そして百年程度で死滅に至った。
鍵を殺すのは目先の判断だ。
ではどうすれば、救われたと見なせるのか?
鍵が世界を滅ぼしてしまえば、手っ取り早い。
ところがそうした可能性でも、世界は例外なく滅びている。
だから枝世界はどれも細くなって途絶えるのだ。
再進化をもってしても失敗するさだめだということだ。
なら、どうする?

(Moon)
 地球は、地上の文明によってあまりにも傷つき過ぎた。いかなる手段を以てしても地球は救えない。再進化によっても、原初の星の輝きを取り戻すことは出来ない。滅びは必定。その滅びは再生をもたらすことのない、生命の絶対的無である。一体どのようにして絶対的な滅びを回避するのか。これが、篝(月)が探究する理論の目的であり、篝(地球)の求める「良き記憶」の先にあるものである。  
 作中での解答を簡潔に述べてしまえば、その答えは地球という惑星を捨てて外宇宙の生存可能な惑星に移住して命のリレーを繋いでいくべきだ、というものであった。その為に、地球は人類の未来への踏み台、蹴り落とされる梯子とならねばならない。ガーディアンもガイアもその他無知なる人々も、地球を大切にしなければならない、と考えていた。しかし、それは根本からの間違いであったわけだ。地球は自然に再生することはない。これまで生きてきた場所を捨て、積み重ねてきた時間から外れ、人間は未来に命を運んでいくべきだと。この解答は、エンディングテーマである「CANOE」の歌詞に良く表れている。

島の外には何かあるのか?
少年と少女たちは
森の木を使って海の向こうに広がる
水平線を見渡せるほど高い櫓を建て始めた
果て無き夢を目指し彼らはやり遂げた
ぐらつく足下
度胸は大丈夫か
その頂に今立つ あの海を遠く遠く見渡す
その向こうに新しい世界が見えた 幻想のように
その場所にはどうすればいけるのか
少年は決めた
船を造ろうとそれで渡ろう
それにはもっと沢山の木が必要で切り倒し続け
とうとう島の木を全て切り株に変えてしまった

でもまだ足りないものがある
風を受ける帆の柱
ただひとつ残された母樹と呼ばれる命
それにも手をかけ彼らは旅へ
振り返ると島は何かに食い荒らされた跡のような姿で小さくなってく
それは他でもない僕らで
生まれてしまった僕らで
生きていこうとする僕らで
この海を遠く遠く越えてゆけ
大きな帆で風をいっぱい受け止め
新世界を目指せ
もしまた終わりが訪れたとしても
きみに届けたい
この長い長い旅のその意味を
希望を繋ぐため

(「CANOE」)
 この歌詞の中で語られる「母樹」という言葉に注目していただきたい。そのイメージは、先に考察してきた中心のシンボリズム、すなわち宇宙木のイメージとぴったり重なる。命の根源たる母なる樹。それは『金枝篇』で語られるネミの森のオークの聖樹であり、植物と月と女性の関わる聖なるシンボルであり、ひいてはその生命の理の具現である「鍵の少女」そのものである。この母樹の切断、言い換えれば鍵の少女の殺害は、端的に「再生」の不可能性、加えてそれを取り巻く「場所」と「時間」の超克に繋がってくるだろう。
 様々なシンボルが織り成し色合いを与えてきた世界観、『Rewrite』は最後に聖なる「空間」と「時間」・「再生」を乗り越えて旅へと向かう。  冒頭の「何故鍵の少女は殺されなければならなかったのか」という問いは、ここに収斂していくと思われる。しかし、その理由に関しては考察できたとしても、作品全体におけるその意味合いについては不十分だろう。この鍵の殺害にはどんな意味が見出せるのだろうか。その為に、Keyの過去作と比較して、その意味を考えてみたい。ひとまず、注目するのは、同様に樹木信仰を持つ作品、『Kanon』である。
 
8.『Kanon』と奇跡の象徴としての樹木信仰、中心のシンボリズム
 
  『Kanon』を起動してKeyのロゴが出た後、「朝霧」と共に姿を現す大樹。『Kanon』をプレイしたことのある人ならば、お馴染みであろう。『Kanon』もまた『Rewrite』程直接的ではないにしろ樹木信仰が表れている作品であると言える。  
 よく考えてみれば、美少女ゲーム、特に泣きゲーと呼ばれるジャンルには樹木信仰をモチーフにしている作品が多い。『ときめきメモリアル』では「伝説の樹の下で」告白を受けたカップルは永遠に幸せになるとしているし、『D.C.』では枯れない桜と小さな魔法が登場する。『君が望む永遠』でも学校裏の一本の木は実に象徴的であるし、『銀色』では花であるあやめが作品を彩る。他にも挙げようと思えば枚挙に暇がない。
 全てのゲームに登場する樹木信仰を個々別に紐解いていくならば、当然であるが紙幅が圧倒的に足りない。また、樹木信仰自体も多岐多様である為、解釈を与えようと思えば無数に可能である。それこそ、鈍器並みの厚さを誇るフレイザーの『金枝篇』にも劣らない文量になるに違いない。しかし、何かしら樹木信仰から見出されるモチーフは語れる筈だ。とりあえず、『Kanon』の樹木信仰の考察に入る前に泣きゲーと樹木信仰の関連性について概略として見取り図を取ってみたい。そうすれば『Kanon』の樹木信仰の輪郭も浮かび上がってくるはずだ。  
 度々述べてきたように、一本の象徴的な樹木には中心のシンボリズムとも言うべき思考法が付きまとう。それは生命力の根源としての樹木なのであった。加えて、この中心のシンボリズムは、周囲の空間を聖別することが可能である。世界の中心を持つ空間は、その外側の混沌とした世界や俗的な世界とは区別される。(*12)泣きゲーでは殆どの作品が一つの街を舞台として物語が展開されるが、この際空間の聖別という効果は絶大な威力を発揮する。とある変哲もない街に対し、一本の樹木を登場させることで、何かしら神秘的かつ特別なイメージを付加することが出来るからである。  
 また樹木には枯死、成長と再生というイメージがある。これによって主人公とヒロインの間に結ばれる関係性の変化、過去から未来への時間的な推移、人間的成長を比喩的に表現することも可能となる。特に泣きゲーと呼ばれるジャンルの場合、人と人との絆を断つものは悲劇的な不条理である。この関係性の切断や回復、過去の想起においてその表現を助けることが出来る。  
 更に空間・時間の聖別・特別化することで、不条理の救済としての奇跡を正当化する強力なバックボーンとなり得る。通常の世界では、何かしらの原因や原理の追究を免れない奇跡だが、聖別された世界では話は変わってくる。俗的な世界からすれば起こるはずのない奇跡だが、聖別された世界を通して見れば起きてもおかしくないもの、「そのようなもの」だと自然に理解させることが可能になる。故に、樹木は奇跡と深い関わりを持つのであろう。よって、ゲームに中心の樹木を登場させることで、その世界観全体に聖性を与えることが出来るのである。箱庭化すると言い換えてもいいかもしれない。しばしば、神話の中で世界樹というものが表れるが、これはエリアーデによれば世界全体の表象なのである。(*13)神話では樹木=世界というイメージが元よりある。ならば、ある意味神聖な世界の物語である泣きゲーに樹木が登場するのは何も不思議なことではないのかもしれない。(*14)
 『Kanon』はここに挙げたほぼ全ての条件を備えた作品だと言える。祐一は七年ぶりに幼き日を過ごした街へと帰る。そこは、忘れてしまった記憶と夢が入り混じった幻想的な世界であった。かつての過去の記憶を再現するように反復されるイベント。直線的な俗の時間ではない、聖化された時間がそこにはあった。

夢。
夢に終わりがなくなった日。
いつものように…。
いつもの場所で…。
ずっとずっと…。
ただ、待つことしかできなくて…。
それしかなくて…。
だから…。
今も、待ち続けている…。

(『Kanon』共通ルート1月13日)

【あゆ】「祐一君、このベンチ覚えてる?」
赤く染まる、木のベンチ。
駅前の広場に設けられたその場所は、薄く雪が積もっていた。
オレンジの雪…。
赤いベンチ…。
そして、少女の笑顔…。
【あゆ】「ボク、ずっと待ってたんだよ」

(『Kanon』あゆルート1月24日)
 そして、その中で一時的に途切れてしまっていた、関係を再構築しようとする。再生のイメージだ。冬という生命が停滞し擬似的に死ぬ季節から、春という再生と新しい始まりの季節への移り変わり。そこに集約されるだろう。変わり行く世界は確かに不条理だが、一方でその先に再生と成長が見据えられている。  
 また『Kanon』では直接的に奇跡が現れている。三つの願いを叶える天使の人形。奇跡が実現可能となるのは、やはり少女の夢と記憶とが入り混じった聖化された世界が故である。単にご都合主義を超えて、世界観からのその根拠を引き出すことが出来る。だからこそ、祝福された喜劇に感じられるのだろう。

「行くぞ、あゆっ」
「うんっ」
とまっていた思い出が、ゆっくりと流れ始める…
たったひとつの奇跡のかけらを抱きしめながら…

(『Kanon』あゆエピローグ)
 加えて、『Kanon』で重要となっていくのが、「最後まで笑っていられる強さ」である。奇跡は確かに超自然的なものだが、自然に降って来るものではなかった。それを引き起こすトリガーとなり得るもの、それこそが不条理に対する強さであり、それでも生きることを肯定出来る強さだ。ずっと同じままではいられない、変化し続ける世界の不条理性。これに対する生の肯定が、世界の再生のイメージと共振していく。ある意味、再生されるのは実は関係ではなく、本質的には生きている人間の生そのものなのだ。故に、不条理を乗り越えた時、世界は奇跡のように思われ、聖性に満ちるのだろう。その生の高貴さは、ついには聖なる樹木の世界と一致する。  
 無論、これは作品から見出され得る潜在的なイメージに過ぎない。表立ってストレートに表現されることはなかった。しかし、『Rewrite』では明確に、直接的に樹木信仰の持つイメージが挙がって来る。何故なのだろうか。そして、その世界観と裏腹に神聖な樹木を意図的に切り倒そうとしたのは何ゆえだろうか。
 
9.再生する世界と行き詰まった世界  
 
 『Kanon』の大樹の切り倒しは離別と喪失の表現であるが、その先には再生があった。無論、Keyの作品全てが再生に全て丸く収まるわけではない。『AIR』や『智代アフター』などは別れを描いた物語である。しかし、その別れも決定的な終着点にはならない。むしろ別れを乗り越えること、別れをその先へ繋いでいくことが積極的に示されてきた。それは、先にも述べた生を肯定出来る高貴さである。不条理を乗り越え生きることを肯定する姿そのものが奇跡だと言っていい。だからこそ、早春の風には生まれたての生の息吹が宿り、死に行く少女の視た空は無窮に煌き、永遠の愛を誓い合った愛する人と眺めた夕焼けは世界で最も美しい光景となり得たのだろう。そして奇跡が舞い降りたり、その光景が奇跡に感じられるのは、常に「今」・「ここ」においてである。変化することで何か失われるとしても、別れを受け継ぎ「今」・「ここ」にある生を肯定するが故にそれは尊い。明確に樹木信仰が見出せるのは『Kanon』だけであるが、他の作品にも変化する自然の中で「今」と「ここ」に永遠に再生し続ける奇跡の世界があった。(*15)
 Key作品には不条理から来る悲しみがあったとしても、それを生への肯定へと変えていけると信じさせるだけの力強さと聖性が世界像に宿っていた。それは再生を可能とする根拠である。そういう意味では優しく理想的な世界であると言えよう。こうした世界に再生をもたらす無尽蔵の力があると素朴に信じる思考は、フレイザーやエリアーデの記した神話的思考法と同じ傾向を持つ。  
 対して『Rewrite』の世界観は直接樹木信仰の世界観を持ちながら、再生が不可能であると繰り返す。『Rewrite』の世界に於ける滅びは再生に一切結びつかない。『Kanon』や他のKey作品が何度でも「今」・「ここ」からやり直せる、再生できるとした世界観とは正反対である。人々は争い合い、無為に死んでいく。決して何者にも受け継がれず、残されるものはない。最早、枯れ果てて希望や強さを信じさせる余地もない弱りきった世界。しかし、その世界で生きている人々はそのことを知らないのだ。まさに「何もかもが隠された世界」である。真実の世界は現実的でありながら非情な世界であると言わざるを得ない。よって、瑚太朗は一見奇跡の世界であると見せかけられている偽りの世界像を打破する必要があった。これが『Rewrite』に於ける母樹の切り倒しの意味であるように思う。それは、偽りの「今」・「ここ」からの脱却とも言える。(*16)
 そうして、樹木信仰は世界観に根拠を与えるのものではなく、むしろ相対し乗り越えられるべき障壁と化す。故に、フレイザーとエリアーデの神話的思考法もまた乗り越えられる。
 
10.鍵の奇跡学
 
 そうすると当然両作品の「奇跡」の意味も違ってくる。『Kanon』において奇跡は世界が聖別されているからこそ、その顕現に根拠を与えられている。対して、『Rewrite』では奇跡の根拠となる筈の聖別された世界は、母樹の倒木によって乗り越えられてしまう。変化の中で、「今」と「ここ」に回帰し「再生」する世界は乗り越えられてしまうのだ。ということは『Rewrite』は母樹の倒木を通して「奇跡」の根拠を揺るがしている、すなわち「奇跡とは何か」と問うていることになるのではないだろうか。  
 『Rewrite』では「アウロラの奇跡学」なるチャプターが存在する。それはMoon編のアウロラの特性を説明するシーンだ。

その初期の命は、アウロラと記述されていた。
ラテン語では夜明けを意味する言葉だ。
俺は知らなかったのだが、オーロラの語源でもある。
「命」、「万能」という意味で使われているが、もっと適した言葉にも訳せる。
「奇跡」だ。
ご都合主義的にも聞こえてしまうが、そうではなくこれはある種の逆説だ。
命というものはあまりにも物理で説明できないから、奇跡と呼ぶ。

(Moon)
 ここでは、奇跡とは命ではないか、と考えられている。では、命とは何なのだろうか。これも、Moon編で追究される。

【命】 玄妙なるもの。
…命は偶発することがあるが、極めて小さな可能性であり、
宇宙開闢(かいびゃく)から死滅に至るまでの時間内で自然発生する可能性は0.000000000002%程度と…

(Moon)
 つまり、よく分からないのである。よく分からないからこその命。だから、命は奇跡、奇跡は命、としか言いようがない。このわけの分からないものを解析しようとして、瑚太朗は知性を書き換え、「命とは何か」という命題を解こうとする。  こうした何々とは何か、と問う姿勢があるからこそ、奇跡学という言葉が成立するのだろう。単に、奇跡を信仰し自明のものとしているだけでは学とは言えない。そこから距離を取り客観的に分析することではじめて学問として成立する。だが、それは同時に知性によって対象を客体化することに繋がる。そうした、知性の冷たさ、孤独を描いたシーンがやはりMoon編で登場する。

もしこの宇宙に神というものがいるなら、そいつはとてつもない苦痛の中に生きているはずだ。
知性は自らの孤独を浮き彫りにする。
絶望と、物理の無情から目をそらせなくする。
人間とは何と幸せなんだ。
万物が見えないということで、どれだけ救われていることか。
人間は愛さえあれば救われる。
だが、神は愛だけでは救われない。

(Moon)
 まさにラプラスの魔の苦しみである。全てが客体化されてしまうことの恐怖。何かを問い続けるということは常に孤独なのだ。だからこそ、その身に孤独を刻んだ瑚太朗は日常に埋もれることなく、人類の希望を見出す問いに挑めたとも言える。

【吉野】「なあ、教えろよ。オレは…何かの役に立てたのか…?」
【瑚太朗】「立ったさ」
【瑚太朗】「おまえが受け入れなかったからこそ、俺は孤独でいることができた」
【瑚太朗】「わかるか?孤独でなくなったら、俺は人間関係に満足して、埋没してた」
【瑚太朗】「そこで立ち止まって、終わってたんだ」
【瑚太朗】「可能性を辿る旅は、いつだって孤独なものなんだ」
【瑚太朗】「小さな関係の中にいれば、ささやかな幸せを得ることはできる。けどそうなったら、長い旅には出られないんだよ、吉野」
今の極限の中で悟ったことだった。
【瑚太朗】「適応してしまったら開拓者にはなれないんだ。人が選べるのはどちらかひとつだけなんだ」
【吉野】「複雑な話だが…なんとなく分かる気がするぜ…」
【瑚太朗】「だから俺たちは、永遠のライバルってことだよ、吉野」
【吉野】「永遠のライバルか…そりゃいいな…」
【吉野】「サイコーに…マッハだぜ」

(Moon)
 『Rewrite』が人間同士の絆だけに目を向けずに、知性と徹底された孤独にも目を向けている点に注目したい。それは何かを問いかける行為に繋がっていくのである。それに比べて『Kanon』の奇跡に対する姿勢は実に素朴なのものである。奇跡に対する問答と言えば、栞シナリオが有名だ。

【香里】「奇跡ってね、そんな簡単に起こるものじゃないのよ」
【栞】「起きないから、奇跡って言うんですよ」
【祐一】「起きる可能性があるから、奇跡って言うんだ」

 三者共に、実に簡潔である。「奇跡とは何か」という本質的な問いはここにはない。重要になってくることは信じることと、そして「最後まで笑っていられる強さ」だ。そして、同時に奇跡は人と人の交わりの中にしかない。『CLANNAD』で人と人の絆、街を思う願いの重なりが奇跡を起こしたように。瑚太朗の言う「人間関係に埋没」こそが重要なのだ。    
 『Rewrite』の主題歌「Philosophyz」とは哲学の意である。哲学の定義付けや哲学史の作成そのものが哲学的な思考を孕むが故、一つの定義に絞ることは出来ないが、ある一面で哲学は「何かを問う」姿勢そのものに他ならないと言える。かつて、ソクラテスが「徳とは何か」を問うたように、プラトンが「存在とは何か」と問うたように。変化し続ける個別的な物や事象に目を取られるのではなく、それらを成立せしめる本質的な何かを求め、己が未だ知らずとする所から哲学、知を愛することは始まる。だとするならば、『Rewrite』の「Philosophyz」は少し興味深い意味を帯びてくる。『Rewrite』の「奇跡とは何か」という問いは、個別的な奇跡ではなく、まさに奇跡を「奇跡足らしめるもの」の追究だと考えれば、そこに哲学の語義的な意味と関連を見出せるのではないか。仮に「Philosophyz」の超訳が奇跡学だったら面白い。(*17)
 
11.何故鍵の少女は殺されなければならなかったのか  
 
 無論、奇跡の真理の追究はただそれのみ行なわれるのではない。瑚太朗は日常世界に半分埋もれながら、仮面を被り続ける孤独に苦しみ、その中でやがて本質的な所へ赴こうとする。(*18)だからこそ人を捨てて探究へと踏み出すことに説得力が与えられるのである。生命の研究を進めるシステムの反映である篝(月)と人になれない孤独な瑚太朗が出会うのはある意味必然だった。初めて篝(月)と心を通じ合わせるシーンは特に切なく、美しい。

未知なる理論が紡がれる、青く小さな四辺の王国に、ついに俺は招かれた。
あまりにも小さな国。
だけど見ろ。
この小王国には、嘘も見栄もない。
自分を良く見せようとする、虚栄の心はない。
透明の絆が、俺たちの間に渡されていた。
それは蜘蛛の糸よりも細く、今にも切れてしまいそうだった。
…切りたくない。
この貴重なものを、二度とはない繋がりを、断ち切ってしまいたくはない。

(Moon)
 『Rewrite』は日常世界と「奇跡」の探究という二重の世界に引き裂かれている。そして、この二重性から抜け出すことは、今まで浸っていた世界を乗り越えていくことでもある。だが、その世界を乗り越えるということは、ただ頭ごなしに否定することではない。地上の人間が死者の蘇生や来世などの奇跡を求めてしまう弱さ、もしくは自己の力を奇跡に等しいものとする過信、その両方を受け止める必要があるからだ。そうすることで初めて「奇跡」の価値を測ることが出来るのだろう。

【江坂】「私の人生も大したものではないが、奇跡など降って湧くものではない。それを起こすのは、どのような時も人の全力の努力だ」

(静流ルート)

講義は、俺たちを常識と科学から解き放つものだった。
現世が歪んでおり、格差的であることを非難した。
俺たちの悩みや苦しみが正当なものであり、その証拠に、外界を改革する力が実在すると語られた。
我々には来世という希望がある。
生まれ変わりがあるのだと。
(中略)
【女】「私たちも救われるんですか」
喜びの涙だ。
奇跡は実在した。なら救いもあるのではないか。
抗議した男がはらはらと涙を流して膝を折る。

(Terra)
 瑚太朗は、ガーディアンの自己の力を信じる強さを基本としながら、一方でガイアの奇跡に救済を求めてしまう弱さに対しても深い共感を持つ。そして最終的に「自己を変えるか」、「世界を変えるか」という問いかけに対して「分からない」と答える。それはやはり、何事か特定の価値に埋もれず、二重性を生きるからであろう。「奇跡とは何か」という姿勢があるからこそ、どちらの側にもなれずに先の見えない暗闇を彷徨い続けた。その中で唯一行く先を示す灯火こそが篝だったのである。  瑚太朗のこのような在り方はまさに『Rewrite』の神話的イメージに浸りながら、それを乗り越えようとする構造とパラレルにある。故に、何故あえて神話的イメージを使い最後に樹を切り倒したのかと言えば、それは奇跡の象徴としての樹木から成る聖なる世界象を真摯に問う必要があったからではないかと私は考える。
 何故、鍵の少女が殺されなければならなかったのか。それは『Kanon』を初めとするKeyのゲームの背景色としてあった、樹木を中心とする祝福された奇跡の世界、これを乗り越え「奇跡」の価値と可能性を問う為に殺されなければならなかったのではないだろうか。フレイザーの『金枝篇』で神々が死にゆくのと、丁度同じ仕方で。しかし、それとは全く正反対の意味を持たせて。
 
12.解けない問い
 
 では、問われていた「奇跡」とは何だったのであろうか。言い換えるなら命とは何だったのであろうか。「奇跡」の意味を問い、命の可能性を求めた旅の果てに、まさにこれだと言われる解答は与えられなかった。しかし、間違いなく『Rewrite』は命の肯定、つまり「奇跡」の肯定だった。勿論、これまで考察を踏まえれば分かるように、手放しに素晴らしいと言われるものではなかった。その本質を問うことは対象を客体化してしまうことだ。だから、命も奇跡も一面的ではいられない。

【小鳥】「命って、汚くてくさくて、不気味なものだよ」

(共通ルート10月23日)

【瑚太朗】「それは蘇生の術じゃなかったんだな」
小鳥は頷いた。
【小鳥】「…昔の人はあれが蘇生だって受け入れていたみたい」
【小鳥】「光栄なことでもあるって、思ってたんじゃないかな」
【小鳥】「強くなるし、おしゃべりしなくなるし、忠実になるし…」
【小鳥】「なーにが福音の奇跡だい…」
【小鳥】「こんなの、呪いだよねっ?」
最後だけ声が乱れた。

(小鳥ルート)
 命や奇跡は祝福されたものや美しいものとは限らない。それどころか、その不可解さは苦しみや絶望にも繋がる。『Rewrite』で底なしに命を憎み、その果てに全ての命を虚無に葬り去ろうとした人物がいる。加島桜である。彼女も探究の末、月世界に辿り着いていた。生命の可能性を求めた瑚太朗とはまさに対極に位置する人物である。

【瑚太朗】「…加島桜は全てを憎んでいたんだ」
【瑚太朗】「命を、憎んでいた」
【瑚太朗】「それはきっと人間社会だけを疎んじていたわけではない」
【瑚太朗】「命というシステムそのものを、憎悪していたんだな…」

(Moon)
 命に意味を見出すことが出来ない。全てに意味などなかった。加島桜の思考はそのような虚無主義である。対して瑚太朗はそれとは全く反対だった。命に絶対的な意味は見出せない。だが、いやだからこそ、それこそが「奇跡」。意味などない、それでもなお命を肯定する。根拠を奪われた、しかしその掛け替えなさ、根拠の無さこそが「奇跡」なのだ。

【瑚太朗】「…行かせてくれ…俺は…俺たちは…」
【瑚太朗】「まだ生きることを諦めちゃいないんだ!」
俺の絶叫の裏で、朱音も言葉にならない叫びをあげていた。
それは、命そのものみたいに頼もしくて力強くて…
だから、奇跡は起きたのだろう。
誰かが、俺を後ろから押した。
三人分の力だった。

(Terra)
13.鍵よさらば
 
 
 樹木信仰の聖なる世界を問う、探究の旅は命と「奇跡」の再肯定によって幕を下ろす。鍵の少女は殺される。だけれども、タイトル画面のBGM「旅」の通り、そして「CANOE」の歌詞にもあるように、人類の旅はむしろこれから始まるのである。旅の終わりから旅の始まりへ。ある意味、「奇跡」を再び肯定したことによってまたKey的な聖なる世界に戻ってきたと言えるのかもしれない。(*19)  
 エピローグ、瑚太朗が探究の孤独な旅へ出たことで終わりを迎えた筈のオカ研は、新しい世界で再び結成される。彼が捨てざるを得なかった青春が、彼女達によってついに成し遂げられたのだ。その関係の再生は奇跡と言ってもいいだろう。あるいはいつの日か、人類の地球からの旅立ちは偉大なるエクソダスとして神話的記憶となるのかもれない。そうなれば、古いものを乗り越えて新しい光を求めた神聖な旅として語られるのだろう。旅の先で人類は新しい世界を見つけ、その世界で新しい「今」と「ここ」を肯定していく。そうすることで初めて地球を失ったことを自覚出来、鍵の少女の死は新世界の到来と言う形で受け継がれるのではないか。それが本当の意味での「今」と「ここ」となるだろう。  
 『Rewrite』は確かにKeyらしくない作品とは言われている。しかし、それはこれまでのKey作品の構造自体を問うものであったからであり、結局それは再びKey作品の構造に還っていったのではないか。『Rewrite』の終幕は、むしろKey的なゲームの始まりに位置する。絶対的滅びを遠ざけ、恒久的な変化の中で生きて行くことを自覚し生を肯定出来るかもしれない世界が開かれたのだ。そんな世界はやはり奇跡そのものだろう。  
 そう考えると、鍵の少女の殺害は、果たして本当にフレイザーの神の殺害と反対の意味であったのか。衰弱し汚れきった『Rewrite』の世界を一度脱却し、Key作品的な新世界を開いたというのならば、それはまさしく再生に他ならないのではないか。  
 奇跡と命を運ぶ旅は始まったばかりだ。故にそれに対して確かなことは言えないが、ひとまずはその旅立ちを祝福したいと思うのである。  
 
 “鍵の少女は亡くなられた。新世界、万歳。”
 
 
 
 
 
 
 
(*1)メモリーのフレンドでも分けられているように月の篝と地球の篝は容姿が同じでも単純に同一存在ではない。以下区別する必要がある場合に応じて、地球の篝は篝(地球)、月の篝は篝(月)と表記することとする。ちなみに魔法の第三惑精クリーミィ☆かがりんを含めると篝は三人いると言ってもいいかもしれない。多くてややこしい。ひとり欲しいものである。
 
(*2)ミルチア=エリアーデ著『エリアーデ著作集第三巻“聖なる空間と時間”』第十章「聖なる空間-寺院、宮殿、「世界の中心」」参照
 
(*3)ミルチア=エリアーデ著『永遠回帰の神話-祖型と反復-』第一章「祖型と反復」参照
 
(*4)ミルチア=エリアーデ著『永遠回帰の神話-祖型と反復-』第一章「祖型と反復」参照
 
(*5)一方で葉竜やクリボイログ、キリマンジャロなどの「架空種」と呼ばれる魔物もいて、彼らは現実の生物の進化に起源を持っていない。しかし、彼らの姿は神話時代の怪物そのものであり、イメージ的には祖型を持っているのかもしれない。
 
(*6)ミルチア=エリアーデ著『エリアーデ著作集第七巻“神話と現実”』第一章「神話の構造」参照 
 
(*7)ミルチア=エリアーデ著『エリアーデ著作集第二巻“豊饒と再生”』第四章「月と月の神秘学」参照 
 
(*8)ミルチア=エリアーデ著『永遠回帰の神話-祖型と反復-』第三章「不幸と歴史」参照
 
(*9)ミルチア=エリアーデ著『エリアーデ著作集第二巻“豊饒と再生”』第五章「水と水のシンボリズム」参照
 
(*10)ミランダ=J=グリーン著『図説ドルイド』第一章「ドルイドの発見」参照
 
(*11)J=G=フレーザー著、M=ダグラス監修、S=マーコック編集『図説金枝篇』第三部「死にゆく神」参照
 
(*12)ミルチア=エリアーデ著『エリアーデ著作集第三巻“聖なる空間と時間”』第十章「聖なる空間-寺院、宮殿、「世界の中心」」参照
 
(*13)ミルチア=エリアーデ著『エリアーデ著作集第二巻“豊饒と再生”』第八章「植物-再生の象徴と儀礼」参照
 
(*14)nix in desertis『エロゲの樹木にまつわる雑感』
http://blog.livedoor.jp/dg_law/archives/51573445.html
 
くろうのだらオタ日記『「樹木信仰」が萌え作品と相性が良い理由』
http://d.hatena.ne.jp/crow2/20090126/1232983155 を参照させていただいた。
 
(*15)「恒久的変化としての永遠性」。『Tactics/Keyゲーム評論集“永遠の現在”』then-d氏の「『智代アフター』試論 ―Life is like a "Pendulum"―」を参照させていただいた。
 
(*16)もっとも、どうしてそれを偽りであると断言することが出来るのか、という問題はある。その点から見ると、「良い記憶」を持たぬ限り人類を滅ぼし続ける篝(地球)は恐ろしく邪悪な存在に見えてくる。例え無知で目先のことしか見ていなくても、先にあるものが滅びだとしても、ささやかな幸せを手に入れられる人々はいる。どうして、そのささやかな幸せを偽りや幻と言えようか。そういう意味では私はガーディアンに深く共感する。
 
(*17)『ユリイカ11月臨時増刊号「魔法少女まどか☆マギカ特集-魔法少女に花束を』の中の虚淵玄×田中ロミオ特集で、ロミオ氏は『Rewrite』のシナリオを書いている折に「奇跡ってなんだろう」と考えたと述べている。本稿は、樹木信仰のシンボリズムを中心に書いた為、シナリオライターに焦点を絞ってこなかったが、世界観設定を行なったロミオ氏の思考が『Rewrite』には大分反映されていると読むことは出来そうである。
 
(*18)瑚太朗の持つRewriterとしての能力は、自身を書き換えることで圧倒的な力を得る反面、その変化は不可逆であった。だからこそ、書き換えれば書き換える程、彼は日常を送りにくくなる。言い換えれば、書き換えは青春を奪う力であった。作品冒頭から「青春ってなんだろう」と問う瑚太朗はこの能力によって二つに引き裂かれている。一方で吉野が青春を「いちいち考えることじゃねぇ」と突っぱねたり、前作である『リトルバスターズ!』のキャッチコピーが「この青春を駆け抜けろ」であったことを考えると興味深い。
 
(*19)おっぱいENDがクリア後にしか行けないのはそういうことなのかもしれない。おっぱいENDは、本編では絶対不可能な奇跡を可能とする祝祭空間。ならば、ここでは奇跡の根拠はおっぱい。おっぱいは奇跡。よって、おっぱい=奇跡という式が成り立つ。更に奇跡=命ならば、命=おっぱい。おっぱい=命=奇跡。なんというおっぱい三位一体。案外真理かもしれない。なんというおっぱいな真理…。乳よさらば!
 

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