不滅のコイル

作/ 太田 忠司

壁に映し出されたグラフが切り替わり、同じようなグラフが二つ映し出された。右下に居すわる〈NHモーターズ〉という社名のアルファベットが何の意味を持つのかぼんやりと考えた。
グラフを操作した銀行上がりだというCFO(最高財務責任者)の山下が、おれと、隣に座る但馬(たじま)の顔を順繰りにのぞき込む。履き古したジーンズと太鼓腹を包む黒いタートルネックの組み合わせは伝説となった彼の真似なのだろう。謝れ。
ジョブズに謝れ。
矢閒(やま)さん、但馬さん。いいですか、ここが大事なところなんですよ」
山下は、おれの向かいで退屈そうな素振りもなくプレゼンテーションを見ているくせ毛の、チェック柄のシャツにジーンズを履いた素粒子物理学の若い博士──王頭(おうず)へ腕を伸ばした。
こちら、王頭博士の〝モーター〟には、計り知れない、ほんとうに計り知れない価値があるのですよ」
山下は──これもジョブスのものと同じフレームレスの眼鏡を中指でまん丸な顔に押しつけて声を落とした。
出たよ、出ました〝計り知れない〟。自分に計る能力がないだけだというのに、このフレーズを口にしたがる経営者は少なくない。このCFOが次に言う台詞は正確に予測できる。
市場価値、応用範囲は無限です」
出ました〝無限〟。これに〝革新的〟が揃えば思考停止ゲームでフルハウスがとれる。
CERNで素粒子物理学をやっていたという王頭の発想は本当に「計り知れない」ものかもしれない。だが、それになんとしてでも数字の裏付けを与えるのがCFOの仕事なんだよ、山下さん。
なる、ほどね」と先を促す。
慣れっこだ。
投資の判断を下すおれと技術アナリストの但馬が二人でやっている小さなベンチャーキャピタル〈ソウルブースター〉は、撒かれたばかりの種(シード)企業に投資を行う。いわゆるシード投資を専門にしている。山下のような素人CFOに出会うことは珍しくもない。
王頭が考案したという〝モーター〟から本物の臭いが数パーセントでも立ちのぼれば一年ほど開発を続けられる事業資金を第三者割当増資で突っ込んで、プロの経営チームをあてがってやればいいだけの話だ。
なあ、但馬──と目配せすると、頷いた但馬が口を開いた。
無限て──それを計るのがCFOの仕事ではないんですか? 山下さん」
おい、但馬」慌てて止めるがもう遅い。
おれたちの顔を見比べた山下が眼鏡の奥でまぶたを三度、しばたたかせた。
そう……なんですか?」
ええ、そうです」おれも腹を決めた。「御社の場合、その〝モーター〟を発明した王頭さんは新たな価値を生み出したわけですね。発明家だ。ベンチャーのCEOは会社ごとに役割が違いますが、CFOは同じなんです。その価値に、誰の目から見てもわかる形を与えるのがCFOの仕事なんですよ」
怒っても仕方のない言葉をかけられた山下だが、意外なことに肩を落とした。
そう……なんですか」
まあ、おいおい勉強していきましょう。投資することになればいろいろ教えていきますから。それより、その〝モーター〟の説明をお聞かせください。但馬もうずうずしてるんです」
はい」
山下がテーブルに手をつくと、リモコンが動作してグラフが横にずれていき、壁に〝発明〟という文字だけ書かれたシートが表示された。このセンスでは、仮に王頭の発明とやらが本物でも、山下には早々に退場いただく方がよさそうだ。
僕の番ですね」
名刺交換から一言も発していなかった王頭は嬉しそうに言って、テーブルの上に透明な樹脂製の、二十センチほどの筒を立てた。直径は五センチほど。筒の下部には透明な液体が入っていて、中央には複雑な内部構造が見える。下から上に向かって枝分かれしていく細い管は血管のように絡まり合って片側に寄せられていた。その出口のあたりには風車が置いてあり、歯車に繋がっている。
液体を出し入れするためなのだろうか、下部を取り外すために本体に切られたネジの他には継ぎ目らしいものはない。血管のような管の集合体には、人間の手で作り出せないほど複雑ながら明らかな規則性があり、高度なコンピューターシミュレーションで産み出されたものだということもわかる。
微かに異臭を感じたが、3Dプリンターで一体成型した装置だ。まだ樹脂が安定していないか、洗浄剤が残っているのかもしれない。
だが目的が分からない。模型なのだろうか。モーターだというのにコイルも電池も、それどころか制御用の電子回路すら入っていないようだ。
じっと見つめていると王頭は言った。
体温で回るモーターです」
え?」おれと但馬の第一声は重なった。
自動車用じゃないんですか? 社名にモーターズってあるじゃないですか」
おかしいですか?」王頭はまだ立ったままの山下を向いた。
おれと但馬が視線を追うと山下が首をすくめる。事業の実態と関係のない、それどころかミスリードを誘う社名をつけていたのだ。山下め。
……まあ、社名はまだ変えられますし。とにかく、その模型は何のモデルなんですか」
王頭は筒をとりあげて、液体の収められた下部を両手で包んだ。
模型じゃないです。これが本体なんですよ。もう動くんです」
王頭が言い終わる前に筒の内側に泡が生まれた。
よく見ようと但馬が身を乗り出すと、ぼこりと大きな泡が立ちのぼり、見る間に中央部の構造体が曇っていく。結露だ。上部の羽根車が回りはじめ、歯車を回す。
──なんだ、これは。
そんな問いを発する前に、王頭が包んでいる液体は激しく沸騰して羽根車は目にも留まらぬ速度で回り始めた。プラスチックのギアがたてる音から察するに、小型の模型用モーターほどの出力がありそうだ。
管で結露した液体は筒の反対側を流れ、下部で沸き立つ液体に落ちていく。
その……液体は?」但馬がやっとのこと、という風に言葉を押し出した。
アンモニアです」
……じゃあ、さっきの臭いは樹脂洗浄剤じゃなくて?」
ええ、アンモニア臭です。綺麗に拭いたはずなんですが、ほんの少し残ってたみたいですね。ごめんなさい」
ボトルをテーブルに置いた王頭は席を立って山下の手からリモコンを受け取り、プレゼンテーションのシートを一枚めくった。

NH3。窒素原子に水素が三つ結合した無機化合物。
常温常圧では無色透明の気体だが、8.46気圧で液体になるありふれた分子だ。水によく溶け、引火もしない。毒性はあるが、極めて強い刺激臭のあるアンモニアが漏れればすぐにわかるので、死亡事故や失明は驚くほど少ない。
沸点は二十一度。その低さに王頭は目をつけたのだという。
王頭の説明を聞いた但馬は恐る恐る筒に手を伸ばした。
触っていいですか?」
もちろんどうぞ」
王頭の了解を得て筒を受け取った但馬が、液体の部分を両手で包んだ。
体温で沸くように調整された、液化アンモニア……」
但馬がじっと、半透明の円筒を見つめた。
手の当たる部分からすぐに小さな泡が湧き出て、アンモニアが沸き、気化したアンモニアは中央部の管を通りぬけて上部の羽根車を回す。
しばらく回していると、筒の外側に小さな水滴が浮き始めた。その水滴を指でなぞった但馬は「やっぱり冷えてる」とつぶやいて、筒をテーブルに戻した。
これは……カンですね」
おれと王頭、そしてようやく気を取り直した山下の三人は申し合わせたように「カン?」と言い、首を傾げた。但馬はメモ帳に〝罐〟と書いておれに見せ、ひっくり返して王頭と山下の方へ滑らせた。
なんて読むんだよ」
だからカンだって」
但馬は画数の多い漢字の上下に文字を書き足した。
〝機罐車〟
きかんしゃ、か」
そう。機罐車の罐──。わかりません? ああもう。なんでこれで通じないかな。王頭さん、モーターって言ってますけど、違います。これ、ボイラーですよ」
そう勢い込んだ但馬は〝モーター〟を持ち上げて、内部構造に指を這わせた。
タンクの液化アンモニアを気化させて、この管を通してタービンを回すんでしょ。沸かして、蒸気のエネルギーを取り出してる。立派なボイラーじゃないですか。体温で動くのがいいな。どうせ捨てるエネルギーですよ。人間はただ息をしてるだけで70ワットぐらい捨ててるんです。てのひらから出る熱量なんてたいしたことはないが、これだけ回るんだ。スマホ用に発電機をつけたっていいし──」
これで何ワット出る? スマホの充電に何時間ぐらいかかるかな」
但馬は唇を結んで天井を睨んだ。
そんな出力はないよ。それよりも、直接動力を取り出した方が面白いかもしれないな。とにかく、人の熱を仕事に変えられるのが見えるのがいい。この形じゃなくったっていいんですよね。たとえば、布に仕込んじゃうとか」
ええ。あ、それなら服に縫い止められますね」と王頭。
ベッドマットに仕込めば寝てる間に回し続けることもできるよ。一晩あればスマホぐらい充電できる」
ようやく、おれは但馬の興奮を理解した。
体温で動くこのボイラーは、本物だ。
ちゃんとした名前つけましょう」
賛成」と但馬。王頭は嬉しそうにうなずく。
山下さん、いいですか」
……はい」
モーターズなんて書いたら自動車作ってるメーカーみたいでしょ。そんな会社が革新的なモーター作ってるって言ったら、電気自動車か燃料電池車用のモーターだと思うに決まってるじゃないですか。これはエネルギー革命なんです」
おれは立ち上がって、プレゼンテーションが映し出されている壁にマーカーで大きく書いた。
〝低熱循環システム〟
ローヒートサイクラー、LHCです。これしかありません」

LHCは当たった。
いや、それは控えめすぎる言い方だ。
この十年で、第二蒸気革命と呼ばれるムーブメントを引き起こした。
おれたちはまず、動力アシスト自転車の動力源をサドルに仕込んだLHCに置き換えたLHC自転車をリリースした。初期のLHC自転車は電動アシスト自転車ほどの出力を出せなかったが、安価で、メンテナンスフリーであることが受けた。ヒット商品になったのは、増資が受けられずにくすぶっていたプロダクトデザイナーを探し出して博士の会社に送り込み、キュートなデザインを提案させたおれの手柄でもある。
出力の低さも徐々に解消されていった。靴底やジャケットの裏地、そして帽子型のLHCは膨大な熱を発し続ける頭からエネルギーを取り出して、ウェアラブル機器の電源問題を解消した。
一つ十ドルほどまで値下がったカプセル型のインモータルボイラーは安価で電池の必要のない義手や義足の登場を促した。
複数の金属を焼結させることのできる3Dプリンターが、複雑なインモータルボイラーを万年筆ほどの大きさにまで縮めてしまうと、電動ドライバーにハンドミキサー、電動歯ブラシ、ドライヤーなどの手持ち工具の動力源が続々と置き換えられていった。
おれと但馬は利用できる他分野の発明を次々と買い込み、LHCのサイクルに組み込んでいった。
シンガポールのバイオテクノロジー起業がが生んだストロングケルプ──強化昆布だ──から穫れる強靭な繊維はLHCで巻き上げるゼンマイに生まれ変わった。ただ身体に触れさせておくだけで動力を溜め込んでおけるようになったLHCは、より大きな力を必要とする作業用パワードスーツを産み出した。
LHC経済圏も生まれた。人が熱を売れるようになったのだ。
アンモニアが網の目のように張り巡らされた〈ねじまきマット〉は寝ている間に強化コンブのゼンマイを巻き上げる。
それを取り外してコンビニのLHCボックスに放り込めば、二百五十円ほどのチケットが手に入る。集められた巻き上げ済みゼンマイのエネルギーは電気として回収されて、自動ドアにエレベーター、エスカレーターなど、施設の動力に利用されている。
新興国では掠ってきた子供に〈ねじまきスーツ〉を着せる熱搾取まで始まったというが、LHCのもたらした低価格なエネルギー革命が、いずれ経済成長で救ってくれるはずだ──が、心を痛めたおれは但馬を誘って、LHC熱搾取を止めるためのNPOを立ち上げた。
第二蒸気革命はおれたちに巨額の富を。そして王頭にノーベル賞をもたらした。
もちろんそれだけではない。思わぬ副産物が人類の未来も切り開いた。
窒素一つに水素三つで構成されるアンモニアは、ほんの八気圧で運搬しやすい液体になり、ガソリン並みのエネルギーを抱え込みながら引火することも爆発することもない。なによりその化学式、NH3が示すように大量の水素を抱え込んでいる特徴が、燃料電池の普及に拍車を掛けた。
アンモニアは燃料電池に必要な水素を運ぶことができるのだ。LHCのおかげで安価になり、流通網も整備されたアンモニアを世界中の燃料電池車メーカーが燃料として採用しはじめた。今では街中にガソリンスタンドならぬアンモニアスタンドが立ち並ぶ。
発電だけではなかった。アンモニアは、それそのものが燃える・・・のだ。そこに着目した電力会社はガスタービン発電機の燃料として純アンモニアを用いる〝火力発電所〟を作りはじめた。燃やせばスモッグの原因として悪名高い窒素酸化物(NOx)が発生するが、それもまたアンモニアで窒素と水に分離できる。二酸化炭素を出さないのだ。安価に製造できるようになったアンモニアは、産業革命以来、毎秒続いていた人類の失敗──温室効果をついに終わらせようとしていた。
純粋な水素社会の実現をこそ目指すべきだ、または太陽電池や地熱をはじめとする再生可能エネルギー社会を目指すべきだという声も少なくはない。
だが、市場はそのときそこにあるものを使う・・・・・・・・・・・・・・のだ。
水素とアンモニアによる社会変革は、ハイドロアンモニア革命と呼ばれ、概ね歓迎されている。
だが、アンモニアには一つ、誰もが知る大きな欠点があった。

マスクをずらした但馬が、顔をしかめて鼻を摘まんだ。
うわ……、ごごばまだひどいな(ここはまた酷いな)」
そうか?」
おれは大きく息を吸い込んで綿菓子のような雲が浮かぶ、真っ青な空を見上げた。
ハイドロアンモニア革命のおかげで化石燃料は一掃された。石炭を燃やす必要のなくなった中国ではPM2.5と総称されていた汚染物質が消えて、青空が戻りつつあるという。東京の空は言うまでもない。真っ青な青空にぽっかりとした雲が浮かぶ。
だが、わずかでも感じてしまう臭気だけは防げない──らしい。
日本だけで五億本ほどが使われているインモータルボイラーが全てアンモニアを封じきれているわけではない。ガソリンスタンドに取って代わったアンモニアスタンドからは何重もの防壁を通り抜けてほんのわずかだけ空気中に漏れ出したアンモニアが刺激臭を立ちのぼらせている。
健康被害が出たわけではないが、人工密度の大きな都市が、しょんべんくさくなってしまったのだ。
おれは鼻を指さしてみせた。
お前も、やりゃあいいんだよ。痛くないよ」
嗅覚の神経細胞を遺伝子組み換えする〈アンチ・アンモニアノーズ〉はハイドロアンモニア社会を快適に生きるための新製品だ。ちょっとした副作用はあるが、アンモニアが危険な濃度になれば光って教えてくれもする。
アイディアは王頭が出してくれた。
すぐにおれと但馬はLHC関連企業を作ったときと同じ手順でiPS細胞と遺伝子組み換えの関連企業を買い上げて商品化した。いまは売り込みの真っ最中だ。
但馬はおれの鼻に指を突きつけた。
赤鼻は、い・や・だ」
確かに副作用はちょいと受けが悪い。鼻の頭が絵に描いた酔っ払いのように赤くなってしまうのだ。だが、おれのように不格好なマスクよりもマシだと考える人は少なくない。
うちの商品だぜ。取締役が処理してくれないと困るんだがな」
嫌だと言ったら嫌なんだ」
但馬はマスクを戻し、待ち合わせの席に座っているチェック柄のシャツに顎を振った。
ノーベル賞博士を待たせちゃったよ」
王頭の印象は十年前から変わっていない。チェック柄のシャツを着て、コーヒーカップを目の前に、嬉しそうに周囲を眺めている。
久しぶり」アイスコーヒーを二つ頼んで席に着くと王頭はすぐに切り出してきた。
いいものを、お見せしますよ」
懐かしい、透明な筒がテーブルの上にそっと置かれた。
下部に液体の貯まるタンクがあり、中央には細い管が血管のように這い回る。上に羽根車──もうタービンと呼ぶ方が慣れている機構が取り付けてあるのも同じだった。
この十年の間に進化した3Dプリンターのおかげで精度は高まっているが、懐かしいLHCの一号機と同じに見える。
これは?」
博士はいたずらっ子のように笑って下部の水が溜まるタンクを両手で包んだ。見る間に泡が立ちのぼり、細かなチューブが真っ白に曇る。チューブの上のタービンが勢いよく回り始めた。
LHCだよね。どうしたの、また懐かしいもの作っちゃって」
新型なんです。熱媒を変えたんです」王頭は液体のあたりを指さした。
筒に手を伸ばそうとしていた但馬がぎょっとした顔で指先を引っ込める。
大丈夫ですよ、但馬さん。これ、水です。H2O」
但馬が戻した手で額を叩いた。
そうか! 思いつかなかったよ。つまり、減圧したんだな」
ええ。臭いがないんです。毒性もありません。0.3気圧なら体温で沸騰するので……出力はLHCより低いんですが、管の形をらせん状に回してモーメントが連続するようにしてみました。あの、出力はまだ弱いんですけど……」
但馬が気にするなという風に、と王頭の肩を叩く。
大丈夫ですよ、博士。十年前と違ってナノテクも進化してる。管にグラフェンの弁を使えば逆流もしないし、バッキーボールの分子ベアリングもある。強化昆布のゼンマイだって使えるじゃない。ロスなく充分なエネルギーが溜められるよ」
十年の間に、但馬はLHCを取り巻くテクノロジーに誰よりも詳しくなっていた。
ちょっと貸して」
おれは王頭から筒を受け取って、同じように手で包んだ。
十年前に感じたのと同じ、泡のたてる小さな振動が手に伝わって、すぐに上部のタービンが勢いよく回り始める。
王頭が長い息を吐いた。
やっとお見せできました」
やっと? まさか、アンモニアの前にこれを思いついてたの?」
博士は頰をかいて、照れくさそうに言った。
臭い方が化学者らしいかな……と」
お──」
とっさに言葉が出ない。
但馬が吹き出した。
臭わない方法、はじめから考えてたんだな」
──おい、ちょっと待てよ。この臭い、要らなかったのか?」
王頭がいたずらを見つかった子供のように、くすりと笑って頷いた。
おれの、おれのこの鼻! 赤くすることなかったのか!」
掴みかかろうとしたおれの腕を但馬が押さえた。
まあまあ、いいじゃないの」
良くない!」
王頭が顔を曇らせる。
だめでしたか?」
だめでしたかってお前、臭くなきゃ、こんなこと──」
いや、いいですよ。王頭博士」再び但馬がおれの言葉を遮った。
インパクトはあった。アンモニアっていう意外性とあの臭いがなきゃ、ここまで引っ張れたかどうか怪しいもんだ。LHCがちょっと便利なモーターという一線を越えられたのも、ハイドロアンモニア革命で内燃機関を一掃できたのも、アンモニアのおかげだよ」
但馬の言葉で徐々に頭が冷えていく。確かにその通りだ。水は、アンモニアに比べると燃料電池の水素キャリアとしては不適切な分子だ。温室効果と煤煙から人類を救ったのは、ハイドロアンモニア社会だ。
水を用いたモーターを考案しておきながら、アンモニアのほうを提案してくれた王頭のおかげなのだ。
アンモニアがエネルギーの血液として回り始めた今、動力源としてのLHCは当初の役目を終えた。だから王頭はこの段階になってから気温と体温程度の温度差で動く、よりクリーンなボイラーをおれたちに見せてくれたのだ。
深呼吸して赤い鼻をさすり、まだ笑っている王頭に──不機嫌さの残る声を投げた。
わかったよ。例によって名前を決めようか」
王頭が、決めてあるんですと口にして、コーヒーカップを持ち上げた。
不滅のコイル」
但馬と顔を合わせ、グラスを持ち上げる。そのまま、博士の持つカップと打ち合わせた。
決まりだ」
止まらない人の営みを現すのに、これほど良いネーミングはない。正しいものが残るわけではない。動くもの、使えるようになったものだけが世界を変えていける。
不滅のコイル。いい名前だよ。どこまで行けるか分からないが、これから、こいつで塗り替えていこうじゃないの」

作者紹介

藤井 太洋

藤井 太洋さんの画像が表示されています。
作家、1971年生まれ。
2012年に自己出版した電子書籍『Gene Mapper』が「ベストオブKindle本」で文芸一位にランクイン、翌2013年の商業デビュー作『Gene Mapper -full build-』と2014年2月に刊行された『オービタル・クラウド』が二年連続で日本SF大賞にノミネートされる。
最新刊は文藝春秋文春文庫『ビッグデータ・コネクト』。
日本SF作家クラブ会員。