阪神に衝撃が走った。編成責任者の中村勝広ゼネラルマネジャー(GM)が23日、都内のチーム宿舎で急性心不全のため急死した。66歳だった。大混戦で、チームが優勝争いしている中、突然の悲報に接した。和田豊監督(53)や選手には巨人戦(東京ドーム)の試合後に伝えられた。早大から71年ドラフト2位で入団。二塁手として活躍し、90年から監督も務めた。球界が悲しみに暮れた。

 東京ドームに向かう阪神ナインを乗せたバスが出発して、約1時間後だった。この日の正午頃、都内の選手宿舎にサイレン音を鳴らしながら、救急車が到着した。救急隊員がせわしなくストレッチャーを搬入し、AED(自動体外式除細動器)も持っていた。約20分後には、現場検証に向かう警察官も入っていった。明らかな異変だった。

 この日は南球団社長と午前11時半に宿舎ロビーで待ち合わせ、球場に向かう流れだった。予定時刻を過ぎても姿を見せず、電話も不通。同社長が宿舎スタッフを同行して様子を見に行くとベッドで布団をかぶり、あおむけになった状態で亡くなっていたという。球団は急性心不全と発表した。

 南社長は沈痛の面持ちで「中に入ると、冷たくなって、息を引き取っていた。ベッドの上であおむけになって、お亡くなりになっていた。大ショックで、言葉も口から出てこない。30年近い付き合いですから」と話した。和田監督には巨人戦直後に伝わり、首脳陣や選手には宿舎に戻ってから南社長が状況を説明。全員で黙とうし、死を悼んだ。

 中村氏は71年ドラフト2位で阪神に入団して11年間、プレー。阪神監督の92年は新庄・亀山の若手コンビを中心に優勝争いを演じた。その後オリックスGM、監督などを歴任。豊富な経験を買われて12年9月、球団史上初のGMに就いていた。戦力補強の中心的役割を担い、今年も7月に渡米し、8月には渡韓して来季の新戦力候補をチェック。合間を縫って高校や大学・社会人野球を視察するなど、多忙だった。前日22日は東京ドームで巨人戦を見守り、帰路の足取りもしっかりしていた。だが、血圧が高く、降圧剤を飲み、病院へ通う姿を見られたこともあった。

 突然の悲報に周囲も動揺を隠せない。遺体は高輪署に安置され、和田監督や平田ヘッドコーチらのほか、球団関係者が対面。和田監督が目頭を押さえるしぐさもみられた。南社長は、ナインにこう伝えたという。

 「試合が残っている。非常に厳しいけど1戦1戦、全力でいいプレーをして、1つでも勝ってくれ。それが、いまできる我々のGMに対する供養になる」

 今季も球場で無数の試合を見て、南社長に「今年は大チャンス。優勝を勝ち取ろう」と意気込んでいた。6月には球団取締役として契約を更新し、来季のGM続行も決まっていた。10月のドラフト会議への影響は避けられない。巨人にサヨナラ負けした。優勝の可能性が消えていく現実以上に、つらく悲しい1日になった。

 ◆中村勝広(なかむら・かつひろ)1949年(昭24)6月6日、千葉県生まれ。成東高-早大。早大では主将。71年ドラフト2位で阪神入団。二塁手として活躍し、78年に二塁手の日本記録(当時)となる守備率9割9分5厘。球宴出場3度。82年限りで引退し、阪神の2軍監督、コーチを歴任。90年監督就任。95年7月に休養し、同年退団。03年オリックスのGM就任。近鉄との球団合併を経験し、06年に監督就任。07年に再度フロント入りし、シニア・アドバイザーを経て球団本部長就任。09年退団。12年9月に阪神の初代GMに就任。現役時代は177センチ、65キロ。右投げ右打ち。タレント小倉優子は遠戚。