〝交戦権取得〟とその習性との適否
-外へ向かって伸ばされてゆくか、内に向かって詰められてゆくかの決定的な相違に関して-
きょうはヴァレーへ向かう前に、東京からの速報がL.A.のメディアで報じられていました。安保一括法案がその成立目前となったとのそれであります。北方へ向かう車中で考えました彼是はありますが、私たちは日本全体を診るのでして、日本の人びとの党派間の争いというものはやはり関係がない。ですからなぜこうしたことが起こってくる日本というものを診ることになるわけです。そこに私を捉えるのは、外に向かって伸ばされること、内に向かって詰められてゆくことという双つの相違についてでありました。
いまがそうではないからU・S・A的問題の奈辺がそこに存ると私意している一つに外へ向いてか、内に向かってかがありますが、それは扨置いて───。
人は空間によって支配されます。
ですから空間がどのような規模かによって、それに支配されて生きている人の発想様態は自ずと違ってくる。家がそうですね。U・S・Aの家、日本の家、世界の家々───。その空間規模は生き方という背丈を決めます。生活の背丈といってもいい。特にクルマはまさしく空間移動の最たるもので、その大きさによって人はやはり影響を受けます。ではその規模ですけれども、その人も自らの生きているあらゆる空間の背丈で発想し描画してゆくわけです。Americaのクルマはその設計に於いて先ずシートをドンと央に置きます。そこから外に向かって線が伸ばされてゆく。アメリカン・フルサイズはそこから来ています。長く・低く・広くの黄金率です。
日本はどうか───。
規格が設計前に決められてしまっている。規格枠めいっぱいに線を描くこと───。つまり、外に向かって伸ばされる人間に備わる遍き自然の欲求は、外の限度ギリギリまで線を多少引ける限定的なものであって、より外へ向かっての欲求を断念せざるを得ないものだと謂うことであります。ですから内に向かって線が詰められてゆく。
小さいモノをつくるのは得意だが大きいものをつくるのは苦手であるという比較文化のはなしになるんでしょうけれども、人間の発想にやはり決定的な違いを双方は齎さざるを得ないでしょう。
安保一括法案にせよ、間接税にせよ、やはり日本には外枠ですね、規格が決められてしまっている───が存る。発想の自由さを断念させる限界が先ず嵌められてしまう。外枠を置いたほうが勝ちで、その賛否は自動的に枠内でやられる習性を持っている人びとだとおもいます。「対案を出せ」式の発想もまさしくこの習性から来ているでしょう。出さないといけないのではないかというドキドキ、オロオロさもやはりこの習性から来ているものと私意している。
だが私は一つの分かっていることがあるということを述べて置きたいのです。それは、日本の習性として大きなものは作れない、想像外のことであり、非習性な異質の類であるということであり、それは安保一括法案の成立によって、交戦権を取得したとしても、やはり描けないということです。
私は既投のなかで、<国家の合理的な自己拘束>というはなしを致しました。それは立憲主義と体制を意味するものでもありますけれども、自己拘束を前提とする約束される社会と体制下に、拘束されることを忌み嫌い、否定する勢力が主導権をきままに揮うとどういうことが起こるか───。
これから日本には全般的な危機としてそれらが起こってくるはずです。その表現はさまざまな形を伴って現れてくるでしょう。それらは描けない世界でもありましょう。
そしてさほど遠くなく、<国家の合理的な自己拘束>なしには、あらゆる主義主張と体制が成立し得ないことに誰もが直面し、その復帰を求めることになる───。はっきり言えることはこれのみです。