福田直之
2015年9月23日05時30分
戦後70年。そしてプラザ合意から30年。日本経済は円高、円安の波にもまれてきた。沖縄で使われた米軍票「B円」の物語。それは本土の復興と沖縄の基地拡充を同時に進めるための仕掛けでもあった。
沖縄には戦後まもなく、通貨が使われなかった時期がある。沖縄戦に少年兵の鉄血勤皇隊として参加した与座章健(よざしょうけん)(86)は当時をよく覚えている。
1945年6月14日に米軍に収容され、翌日から道路工事にかり出された。仕事が終わって受け取ったのは、米1升と豚肉の缶詰。「通貨はなかったが、米軍の配給で何とか生きていた。米軍の食べ残し、それから兵隊が着ていた服も配られていた」
数多くの県民が亡くなり、経済の基盤が破壊された沖縄。軍政を敷いた米軍はまず金銭取引を禁止した。白地から作った通貨制度は、二転三転しながら、やがて冷戦構造の影響を受けていく。
ソ連が東欧で影響力を強めるのに伴い、48年ごろから日本の占領政策は大きな変化を見せた。それまでの徹底した非軍事化から、日本を「反共の防波堤」にするようにかじを切った。そのための策が、日本の経済復興、そして沖縄の米軍基地の拡充だった。
二つを結びつけたのが、ドルに価値を裏打ちされた軍票「B円」だった。米軍は基地の建設のため沖縄の人々を大量に雇い、B円で賃金を支払う。そこで生まれた購買力を元に、本土から物資が輸入される。B円はドルに姿を変え、本土に流れていく――。
しかも、為替相場は極度の「円安B円高」に設定された。
後に芥川賞作家となる大城立裕(おおしろたつひろ)(90)は50年4月12日、琉球列島貿易庁に就職した。この日、軍政府との事務調整から戻って来た総裁の宮里辰彦が大きな声で言ったのを聞いた。「120円になったよ」。決まったのは、ドルとB円の固定相場だった。
円とB円は少し前まで等価だったが、これにより1B円=3円の極端な円安B円高になった。本土から何を買うか。大城の周りはにわかに慌ただしくなった。
貿易庁から本土に買い付けにいくと大歓待され、「百万ドルのお客様」と報じられた。だが、大城は思った。「沖縄は、お客様なのか」。同胞扱いされていないと感じた。
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