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開所に至る経緯
終戦直後より在満・在朝
日本人は塗炭の苦しみを味わうことになった。
追放や財産の略奪に止まらず、
強制連行や
虐殺などで、祖国の地を踏むことなく無念のうちに斃れた者も少なくなかった。これに加えて女性は戦勝国人、特に
朝鮮人や
ソ連兵[2]
等による度重なる陵辱を受けた末、心ならずも妊娠したり、
性病に罹ったりしたにもかかわらず、何ら医療的治療が施されずにいた。そして陵辱により妊娠・性病罹患した女性の中には、これを苦にして自殺する者が少なからず出た。
釜山日本人世話会の調査によると、調査対象者885人のうち、レイプ被害者70人、性病罹患患者19人、約1割が
性犯罪の被害に遭っているという数字が示された。
在外同胞援護会救療部では、引揚船に
医師を派遣し、
引揚者の治療に当たったが、殊のほか女性の性的被害が多いことに愕然し、早急に専門の治療施設を作る必要があると上部に掛け合った。こういう経緯で、1946年3月25日に「
二日市保養所」が開設されることになった。医師は在外同胞援護会救療部員(旧
京城帝国大学医学部医局員によって構成)が担当した。
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施設の概要
二日市保養所は、かつての愛国婦人会の保養所だったところである。小さい部屋に分かれていたので、
プライバシーが保てる病室に最適で、皮膚疾患によい温泉も湧き出ていた。そして何よりも交通の便が良いが、人目に触れにくい場所であることから選定された。
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施設の職員
以下の職員によって構成された。
- 医師2人(うち1人は所長)
- 看護婦10人(うち3人は産婆資格あり)
- 事務職員3人(うち1人は事務長)
- 用務員4人
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患者の収容
当該女性に対して、この施設の存在をどのようにして知らせるかが大きな問題であった。内容が内容だけに、慎重な対処が求められた。
そこで採られたのが、引揚船の医師を通じてのパンフレット配布であった。そこには「不法な暴力と脅迫で体に異常を感じつつある方は、診療所へ収容し健全なる体にする」旨が記されていた。婉曲的表現になっているのは、被害に遭った女性に対する配慮である。
その後、引揚港に婦人相談所が設置され、15歳から55歳までの女性に相談所への相談が義務付けられるようになった。
また、既に引揚が完了し全国に散っていった女性に対しては、有力紙に前述のパンフレットと同様の「本人には解るような」婉曲的表現の広告を出し、施設の存在を知らせていた。
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患者の治療
麻酔薬が不足していたため、麻酔無しの堕胎手術が行われ、死者も少なからず出た。当時の医師の証言によると、閉鎖まで約500人に堕胎手術を施したという。梅毒や淋病などの性病患者も約500人いたという。
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その後の二日市保養所
二日市保養所は、次第に引揚者が少なくなったこともあり、1947年秋頃に閉鎖した。
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他の医師グループによる堕胎
二日市保養所は、旧京城帝国大学医学部のグループが主体になったが、他にも
九州帝国大学医学部のグループが堕胎手術を行ったという。
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参考文献
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脚注
- ^
これについて左翼・リベラル系論者の中には、日本民族の純血性保護のため、異民族の血を引く胎児を処分をするように厚生省が命令したと主張する者もいる。
- ^
二日市保養所の報告(1946年6月10日)によると、2ヶ月間に治療を行った47人を陵辱し、不法妊娠させた男の国籍は以下の通りである。
- 朝鮮人28人、ソ連人8人、中国人6人、アメリカ人3人、台湾人・フィリピン人各1人
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関連項目
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外部リンク