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2011-08-16

小説版『あの花』紹介 《アニメ見てない人は、絶対に読むな!》

 

 

 秩父の町を舞台に、かつて友達だった高校生が忘れかけた秘密基地に集う。

 そんな青春劇を描いて人気を博したアニメが『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』(通称:あの花)である。

 今回、紹介するのは、アニメでも脚本を担当した岡田麿里によってノベライズされた小説版『あの花』。

 種々のマルチメディア展開にウンザリしている人も「マリーによる小説ならば面白いはずだ」と期待しているかもしれない。

 しかし、その見込みは甘い。甘すぎる。人生経験が足りないと説教したいぐらいだ。

 

 例えば、あなたがアニメ『あの花』のファンで、ひとりでも多くの人にその面白さを伝えたいと思っていると仮定する。

 そんなあなたには、ちょっと知的な友人がいる。彼女はアニメを見るよりも小説を読むほうが好きで、あなたの熱っぽいアニメの話には振り向こうとしない。

 そこで、あなたは『あの花』小説版をプレゼントすることにする。あなたはその本を読んでいないけれど、何しろアニメの脚本家自身が書いているのだ。間違いが起こるはずがない、とあなたは信じる。

 その一日後、ウンザリした顔で、彼女はその本をあなたに渡すだろう。

「どうしたの?」

「もう読んだ」

「そ、そう。……でも、面白かったでしょ?」

「ねえ、『くぱぁ』ってなに?」

「……はい?」

「本文が始まって最初のページにね、六回も出てくるの。『くぱぁ』って言葉が。何かの呪文みたいに」

「……ははは、それ、マリーさんなりのジョークだな。あいかわらず、独特のセンスしてるんだよね、あの人、はははは」

「そのあとも、気に入ったフレーズをやたらと繰り返してくるし……あたしがどれだけウンザリしたか、あんたにはわかる?」

「い、いや……」

「そりゃ、小学生のときは誰だってそうよ。テレビのCMに合わせて、意味ないキャッチコピーを叫んだり、学校で芸人の一発芸をみんなでマネしたり……でも、こいつら高校生でしょ? さすがに、それは問題あるかと」

「そ、そうかな? でも、いい場面だって……」

「とにかく!」

「……はい?」

「こんな本を勧めてくるあんたとは、わかりあえないことに気づいた。永遠に、永久にね! それがあたしの感想」

「へ?」

 

 実はこういう悲劇は、これまで何度も繰り返されたのである。

 アニメが人気作でも、その小説版が面白くない例はいくらでもある。

 例えば、ガンダムとか。

 

 

機動戦士ガンダム〈1〉 (角川文庫―スニーカー文庫)

機動戦士ガンダム〈1〉 (角川文庫―スニーカー文庫)

 

 『機動戦士ガンダム』は1980年代を代表するアニメである。

 その小説は富野由悠季監督みずからが書いている。

 しかし、その内容は驚くほどつまらない。

 

 というのは、小説というメディアでは機体のカッコ良さよりも、それぞれの登場人物が持つ信念に、読者の関心が注がれるからである。

 特に、ガンダムの場合、シャア・アズナブルという人物が実質の主人公として活躍するのだが、その思想というのが、どうもよくわからない。

 作者の富野自身も小説を書いているうちにシャアにウンザリしたようで、最後はカイ・シデンの口を借りて「シャアが嫌いになった」とまで言わせている。いやいや、シャアを魅力的を描くことが、ガンダム世界を深化させる最良の手段ではなかったのか。

 まあ、ガンダムの小説版は、独自の展開を見せるし、アニメとは別物と考えるべきなのかもしれない。

 ただ、ガンダムという作品が、登場人物の信念が魅力的だったから人気になったわけではないことを、小説版を読めば知ることができるはずだ。

 『ゼータ』でのシャアのダカール演説は、初期ガンダムのハイライトとなるはずの場面なのだが、何を言っているのか僕にはサッパリわからないし、そういう奴のために命を賭ける連中の気が知れない。

 でも、そんな小説的要素がつまらなかったとしても、ガンダムの面白さが色褪せることはない。『初代』のジャブロー侵入とか今見ても興奮する。アッガイ最高、ズゴック最高である。

 

 やや話がそれた。

 『あの花』小説版は、いちおう、そんな悪しき例とは異なり、おおむねアニメ通りに物語は進行する。

 バーベキュー大会の前にマックに集まったり、ポケモンのキャラを仁太ひとりでゲットしたりなどと細部の違いがあるものの、そのほとんどでアニメでおなじみのシーンが続く。

 だから、アニメを見ている僕のような人間は、すいすい読めたはずで、二時間足らずで上巻を読了できた計算になるのだが、その間に何度も小休憩を入れなければならなかった。

 なんていうか、やたらと機嫌のいい饒舌なおしゃべりに付き合ってる感じなのである。

 話している相手の表情が楽しそうだから、ついつい面白そうだと聞きこんでみるものの、ちょっと立ち止まって考えると「あれ? この話の何が面白いんだ?」と疑問をいだいてしまうのである。

 現実の場合は、そういう怪訝な顔をすると「どうしたの?」と返答のしようがない質問をされる。あげくのはてには「あんたが、そんな顔してるから、話したいこと忘れちゃったじゃない!」と逆ギレされる。

 でも、小説の場合はそんなことはない。ゆっくりコーヒーを飲んで、一服しながら、落ち着いて向きあうことができる。

 

 それにしても、めんまってなんなのだ?

 死んだはずなのに、まわりの物体に影響を与えることができる幽霊。

 僕はそんなものを信じることはできない。

 

 古代でもそう考える人は多かった。

 例えば、『旧約聖書』とか。

 意外だと思われるかもしれないが、旧約聖書には死後の世界に対する記述が一つもない。

 そして、死者が世界に影響を及ぼす例は一度もない。モーセとかダビデとか、そういう偉大な連中も死んだらそれまでである。

 我々が油断したら死者のたたりだと考えてしまうことも、『旧約聖書』によれば、それはすべて神の仕業ということになっている。

 しかも、その神はあまりにも偉大なので、その行為を人間ごときが知ることはできないとしている。その神に恐れ、過去の歴史を学び、社会の教えに従うしかない、と説くのが『旧約聖書』の主な内容である。

 

 僕は幽霊はまったく信じないが、神は信じてもいいと思っている。

 例えば、魂について。

 きっと、魂なんてものは存在しない。でも、魂まで否定してしまったら、自分が何だかわからなくなって、それを考えるだけで無駄な時間を浪費してしまう。

 それと同じように、さっきのそよ風は死んだあの人がもたらしたとか、そんな無駄な期待を抱くよりも、神の仕業と考えたほうが、気が楽ではないかと思う。残念ながら、我々は死に対してあまりにも無力だからだ。

 

 ちなみに、話はそれるが、死後キリストと称されたナザレのイエスは、生前に「天国」という言葉は発していなかったと考えられている。

 彼のいった「神の王国」が、いつの間にやら「天の王国」に変わり、「天国」と呼ばれるようになった。その「神の国」というのが、どういうものであるかは、話すと長くなる。そこに、あなたのイメージする「天国」が微塵もないことだけは確かだが。

 とにかく、キリスト教が「死んだら天国に行ける」と説いているように見えるのは、ギリシャ神話を始めとした数多くの要素を取り入れた方便みたいなものである。イエスは「神の国の入り口は狭い」と語ったが、信者を増やしたいキリスト教は「天国の入り口を広い」と教えている。世界宗教となるために、キリスト教はイエスの言葉をいろいろねじ曲げてきて、現在に至る。

 そして、ナザレのイエスは、当時からすればかなり異端の考えの持ち主だったが、それでも幽霊の存在を軽はずみに信じるほど愚かではなかった。

 

 そんなわけで、僕は『あの花』の都合のいい幽霊という存在が大嫌いなのである。そんなものを信じても、世間に悪影響しか及ぼさないではないか。

 愛があれば、死後もあらわれるとか、冗談もたいがいにしてほしい。

 それならば、神なんてものを、わざわざ創作する必要はない。先祖崇拝だけではどうしようもないから、宗教なんてものが生まれたのだから。

 

 でも、『あの花』には良い場面は多かったことも事実で、気に入らないシーンも多かったけど、最終回終了後に僕は作品の舞台となった秩父に行ってしまったり、二次創作を書いたりしちゃったのである。

 

 そうそう、その二次創作について。

 僕はアニメ最終回放映直前に、彼らの少年時代を勝手に想像して『ビフォア・ザ・超平和バスターズ』という二次小説を書いた。

 

【あの花 二次創作】ビフォア・ザ・超平和バスターズ

 

 そこで僕が設定したものを、この小説版はものの見事に否定している。

 

 少年時代、仁太は何でもナンバー1だったらしい。松雪集(ユキアツ)が仁太に勝てたのは音楽の成績だけだったという。勉強もスポーツも、ユキアツは仁太の二番手だったのである。

 ぽっぽと仁太が友達になったいきさつは特にない。仁太はぽっぽを頭が悪いけど面白い奴としか思っていない。それでも、ぽっぽは仁太を「俺のヒーロー」と思っている。

 めんまこと本間芽衣子はクォーターである。祖父が外国人であるらしい。(じゃあ、イレーヌという母親の名前はなんなのだ。ああ、イレーヌはハーフなのか)

 なお、鶴子とユキアツは、秘密基地時代は、それほど親しくなかったみたいである。(じゃあ、鶴子は誰と親しかったんだ? どうやって、仲間に入ったんだ?)

 

 と、アニメでは曖昧にされていた設定がどんどん明らかになるにつれて、僕の関心はどんどんしぼんでしまうのだ。なんでもナンバー1だったと言いはる仁太の独白なんて、世に腐るほどある社長の回想録のような印象しかない。社長の回顧録ならば「どうすれば金持ちになれるのか」という庶民の欲望をくすぐることができるが、元リーダー仁太の回顧録なんて、そういうメリットもない。

 僕の二次創作のような、ユキアツのほうが勉強もできてスポーツもできて先生にもひいきにされてるんだけど、とある事件によって、秘密基地のリーダーは仁太、という設定のほうが、面白いんじゃないかと思う。

 

 そんなわけで、あまりにも不自然なキャストが集まった『超平和バスターズ』結成のいきさつは語られないまま小説版は進む。

 少年時代のガキ大将が高校になって引きこもる、というのは面白いシチュエーションだけど、あまりにも「かつての俺がナンバー1」を強調するものだから、少年期がどうも薄っぺらい。そんな過去を持つ仁太に共感を抱く人は少ないのではないか。

 それが仁太の思い込みにすぎなければ、まだ救いがある。芥川龍之介の『藪の中』みたいな「誰が真実の過去をにぎっているのか」というミステリー要素があってもいい。

 でも、残念ながら、この本は仁太視点の一人称だけではないのだ。

 

 仁太のいない場面は、主に三人称で語られている。

 こういう視点をぐるぐる変えるやり方は、構成上計算されているのならば楽しめるのだが、「作者が語りやすいから」とか、そういう安易な理由だと、読者に余計な負担をしいるだけの結果に終わる。

 それなら、最初から三人称にしてくれと思う。一人称には一人称の、三人称には三人称の面白さがある。その両方を同じ小説で展開しても中途半端に終わるだけではないか。

 

 そのような小説を書くうえでの技巧的工夫は、この本では皆無といっていい。何しろ、岡田マリーは売れっ子脚本家なのだ。そんな工夫をする時間なんてなかったのだ。

 

 20世紀最高の小説のひとつ『百年の孤独』を書いたガルシア・マルケスは、その執筆のために18ヶ月間、家に引きこもった。それほどの期間を、外部からの接触を立ち、みずからの言葉をつづり続けなければ、かのような傑作は生み出されないのである。

 小説というのは、そういうものだ。

 

 ということで、1クールで複数の脚本を受け持つ岡田麿里の小説が「純粋に小説として」面白いはずがないのである。

 それを踏まえた上で読めば、アニメの限られた枠では語られなかった登場人物の造形が明らかになるだろう。

 でも、それでアニメのファンがいっそうの愛着が持てるかどうかは疑問である。

 アニメでのシャアの存在感が好きな人が、小説版のシャアの思想にはうなずけないように。

 個人的には、アニメの展開のほうが洗練されていると思う。

 アニメを見ていない人には、とてもオススメできる本ではない。

 

 そして、驚くべきことに、この上巻では、第二のめんまの謎が明らかになるところまでしか描かれていない。アニメでいうと、第四話までしか進んでいないのである。僕はすっかり上下巻だと思っていたが、アニメのペースを考えると、上中下巻もあり得る。

 はたして、全巻を購入する人はいても、それを読み通す人はどれだけいるか、僕は疑問視している。読みやすいとはいえ、時にコーヒー飲んだりして気を静めないとやってられない文体なのだ。