小よく大を制す。 |
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2015・09・17(木) 5:50 |
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「結局、中小企業は大企業には勝てないということか?」
僕の研修の後、
受講者から出たクレーム。
えっ?
って感じだった。
正直、ここについて説明しようと
考えたことが無かった。
中小企業が大企業に育って
他の大企業に勝つ。
弱い者いじめの原則でやられたら、
強くなって
弱い者いじめの原則でやり返す。
大前提を埋めないまま、
そんなストーリーを説明していた。
こんな場合、たぶん、
中小企業が大企業に勝った!
とは言わないだろう。
小規模企業中心に
3年間でその1割近くに相当する
35万社が減った現実。
数にすると0.3%しかない大企業が、
サラリーマンの雇用の3分の1を生み出し、
日本全体の付加価値の49%を稼ぎ出している。
中小企業サラリーマンが
その半分の人数の大企業サラリーマンと
ほぼ同じだけの付加価値しか
生んでいないということは、
大雑把な話、所得は半分だ。
そんな解説をしていた。
これ、
十分に大企業の勝ちだろう。
と僕はあとで振り返って思った。
しかし、受講者が受け止めたことが真実。
人間社会には、解釈しか存在しない。
いつもこれで上手く行っていたが、
中小企業の人間が、
簡単に「負け」を認めるはずが無かった。
負けを認めたとき、
人は素直になって
選択肢は急に拡大して道が開けるという経験を
僕は数多くしてきた。
しかし、経営者でない人に危機意識は無く、
余裕を常に持っている。
だから、「負け」を認めさせた上で
奮起を促すストーリーに無理があった。
結果、
「お前ら負けてるぜ」「気づけよ」
という初期設定の時点ですでに
拒絶されることになってしまったわけだ。
「勝利する」という言葉の定義が
一つに統一できない限り
「勝つ」という言葉は
安易に使ってはダメだった。
ということで、いろいろ整理した。
例えば、
特許訴訟で大企業に勝った
個人事務所レベルの会社があった。
一人の人間として十分な金額を手にした。
これは1つの勝利ではある。
だが、
世の中に与えている影響の
大きさと範囲では
大企業側の圧勝だ。
大企業の製品が支持されたことで、
その特許は世に出ることができて、
訴訟という段階を経てはいるが
金額という数字につながった。
敵が金を生んだのを十分に確認した後で
訴訟を起こしてその金を横取りする。
サブマリン作戦。
ビジネスとしてはアリだ。
美意識としてはナシだ。
売上を急拡大したあと、
10年で潰れた会社もあるし、
細々とやり続けて安定し、
30年継続している会社もある。
どっちを勝利と捉えるか。
最終的に潰れたら負けというのは
頭ではわかる。
しかし、
そこまでに生み出した価値の全てが
そこで消滅するわけではない。
膨大なものを残していたのだ。
結局、みんな
自分を勝者にするためのルールや価値基準を
あとから作っている。
勝ち負けやランク付けを決する統一ルールを
先に作るのであれば、
考え方はシンプルになるが、
ただの敗者を、
明確に敗者だと判定された人たちを
大量に作り出すことになる。
そこから奮起してトップを目指せる人はわずかだ。
ごく少数の人だけを残して、
ここで全てを失って全滅することになる。
理屈で考えて行くと、
「あらゆる場面・あらゆる尺度での永続的な勝利」
が、
理論上、目指す勝利だ。
完璧な勝利というか。
となると、
大前提として、大企業が勝つ。
その前提に立ち向かうのが中小企業。
1試合だけ、1つの尺度だけを見れば
小規模企業でも勝てる。
そうやって限定することで、
自分たちに有利に持って行くことができる。
と、ここまでは
勝ち負けにこだわった場合の思考だ。
こだわっている人、
割合としては少数派。
今日では、時間の流れとともに減少中。
「勝利」よりも「いい人」。
これが、勢力を拡大してすでに多数派。
対立しないことが、社会の近代化…
なのだ。
しかし、
「いい人」のままでいられれば、
「勝利」できなくて良いとしても、
「負ける」と惨めだ。
この「惨め」。
これは絶対的な存在として
避けねばならないものとして僕の中には存在する。
何を目指そうが自由だ。
しかし、ここに陥らせてはいけない。
惨めな状況を味わったからこその価値観。
1試合、1つの尺度だけの負けであれば
大した問題ではない。
いくらでも言い訳して
プライドと体裁を保つことはできる。
しかし、
それはただ「自分を守る」ために
「気分」をコントロールする機能であって
問題の先送り。
「いい人」にも危機は向こうからやってくる。
危機に気づくまでは気楽にいられるが、
それが現実化すると
「勝負を避けてきた人」ほど、パニックに陥る。
社会の通念が「いい人」の方向なのに、
社会の現実は
モノ余り・人余り・会社余り・店余り。
お客様は「選択」する。
かつての「拘束」の時代と異なり、
「選択」の時代は、
選ばれなければ、危機はすぐにやってくる。
対立しない方向に意識が進んできたのに、
対立して勝たないと生き残れない社会状況。
ここで、多くの人は脱落する。
100人中5人に
選ばれれば良かった小規模企業も
競争相手が出現し、
勝負を挑んで来られると困る。
勝負の準備をしてきていないのだ。
選んでくれる人が1人・2人と減って行く。
兆し・見通し・実績。
「減った」というのが実績まで来てしまうと
絶望感しか残らない。
「仕事」にはいろんな種類があって、
仕事をこなす仕事と、
仕事をつくる仕事がある。
仕事をこなす仕事をして
選ばれなくなったら
業績は下降する。
仕事をつくる仕事をして
選ばれるようにできなければ
業績は上昇できない。
選ばれるかどうかの基準は、
かつての合理性から
モノ余りの時代になって
主観へとシフトしてきていて
計算ができなくなってきている。
これが「選択の時代」の正体。
計算ができないにしても、
「こうした方が良さそう」
というムードを感じることはできる。
こんな「ニュアンス的」なことを
目の前の仕事をこなす仕事でも、
将来の仕事をつくる仕事でも
取り組む必要がある。
考慮すべき事柄と、
それに影響を与える要素の数は
膨大になる。
そして、ここからが問題。
目の前のことと、将来のこと、
同時進行できるかどうか。
できないのだ。
人をタイプ分けすると、
手当たり次第に片づけることができる
ランダムアクセスタイプの人と、
順番にこなして行くことしかできない
シーケンシャルアクセスタイプの人がいる。
ランダムアクセスの方が有効そうだが
彼らの仕事の仕上がりは雑だ。
つまり、目の前のことに弱い。
シーケンシャルタイプの方が
仕上がりに対する評価は上になる。
とはいえ融通が利かないから
変化への対応はできない。
つまり、将来のことが苦手だ。
この、それぞれのタイプの弱点を埋めるために、
「ランダムアクセスを計画する」ようにした。
デイリーのマネジメントタイムを行い、
1日の業務をシーケンシャル化する。
順番を決める判断基準は
「緊急度」と「重要度」があって、
「緊急」を全てこなしてからでないと
「重要」なことに取り組むのは難しい。
しかし、
「重要」なことに事前に取り組んでおかないと
「緊急」なことはどんどん増加し切迫する。
いろいろ取り組んできたが、難しい。
どちらに力を入れるべきか、
「判断基準」に影響を与える要素が
膨大にあって、しかも変化する。
しかし、簡単な話、
大きな会社になると、
「緊急」と「重要」とで
人の役割を分けることができる。
上級職は「重要」を中心に、
下級職は「緊急」を中心にやっている。
役割分担ができる分だけ、
「能力が低い人」でも仕事ができる。
小さい会社ほど、
勝利するためには
「能力が高い人」が必要であるという
大原則はここでも変わらない。
しかしすでに述べたように、
現場で有能なシーケンシャルタイプと
経営で有能なランダムタイプを
同居させるのは難しい。
「能力の高い人」には簡単にはなれない。
頭で考えると2者択一。
困難を承知で、自分や自分たちが
一騎当千の「能力の高い人」になるか、
チームを拡大して
「能力が低くてもできる」ようにするか。
僕は、
一騎当千を目指す方向を
「あえての中小企業化」と言い、
チーム拡大の方向を
「普通に大企業化」
と名付けて分類している。
「好み」の話に聞こえるかもしれないが、
現場の「こなす仕事」の評判が良く
「人気」を得ることができれば、
企業は流れに乗って
「自然に大企業化」する。
最初から小さな市場を相手にしていれば
伸びる大きさの限界が低いから
たとえ人気が高くても
「無意識の中小企業化」に追い込まれる。
ここから「あえての…」に行って勝利するには
時間と才能が必要だ。
売れていることを模倣し、
何かを加算減算して勝利する「大企業化」。
やりたいことにこだわって
信じるものを提案して行く「あえての中小企業化」。
企業経営における
「重要」部分の役割分担!…
を下請する身としては、
まず選ぶのは「大企業化」。
そこで勝利して、
その先で、
「あえての中小企業化」要素を
プラスすることで
模倣ではない新価値を社会に生み出し
自社の存在意義を一気に高める。
これは僕のパターン。
勝利の方程式。
この経営手法に、名称は無い。
「○○式」など特別な名前を持つのは
「王道」ではないからだ。
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