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自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

『性嫌悪と自分の内なる加害者性について』の記事の反響を見ての反省

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 予想外に炎上してしまった記事ですが、この記事に対する反響をまとめていく中で見えてきたものもあり、また多くの人に迷惑をかけてしまったので、その反省を書こうと思います。

 

 まずはどうして僕がこの記事を書こうと思ったか述べようと思います。正直な気持ちを書こうとすると記事を書こうと思った理由は複数あります。一つめは自意識過剰で承認欲求が強いからです。二つめは、自分の罪悪感が赦されたと思ってしまったことで、テンションが上がっていたからです。この二つは多くの人が「気持ち悪い」と受け止めたと思われることなのでよくわかることだと思います。三つめは、自身の性の加害者性について語ることは、性暴力の問題を考えるうえで大事な資料になると思ったからです。

 冒頭の記事に対して、以下のようなコメントがありました。 

 

 性暴力を減らす取り組みをしてきた男性によるこの意見は、かなり説得力があるのではないでしょうか。僕も一応、森岡正博さんや杉田聡さんの著作を読む中で、この価値観を共有していたつもりです。しかし、自分の加害者性について語ることはかなり勇気のいることです。責められること間違いなしだからです。誰も味方がいないのにそんなことはできませんでした。だから今まで隠していました。そのことを語るために、僕はまず誰かに「罪悪感を持っている自分」をそのまま認識してもらうことが必要でした。その時に選んだのが例の彼女でした。そして「罪悪感を持っている自分」を認識してもらえたことを「赦してもらった」「救われた」と表現しました。そして僕のとった行動や表現の仕方は、性暴力に関心を向けている女性が最も気持ち悪がるものでありました。僕はそのことを全く理解していませんでした。記事の反響を読む中で初めて知りました。そのせいで、「自身の性の加害者性について語ることは、性暴力の問題を考えるうえで大事な資料になる」という僕の目論見はどこへやら、「気持ち悪い」という感想ばかりになってしまいました。これは完全に「女性ジェンダー」に関する僕の認識不足が原因だと思いました。そしてこの点にこそ、性暴力を考えるうえで大切な問題があると思いました。

 

 この「赦す・赦される」関係の描写について、女性から驚くほど多くの批判が挙がりました。批判をしている女性のほとんどが、「過去に男性の暴力を赦して自分が我慢してしまったこと」「赦し続けて我慢した結果、自分の身心が崩壊してしまったこと」に対する苦い経験やトラウマがあるようでした。そして批判している女性の中で少なくない人が、「今でも自分が男の暴力についてついつい赦してしまいそうになる」ことと闘っているようでした。それはほとんど身体に染み付いてしまったものであるような印象を受けました。だからそれは常に格闘し続けなければならない性質のものなのだと思いました。よって、音大の彼女の『赦すことで救われた』というコメントにも『悲しい』というコメントがたくさんあったのだと思います。その点は僕が無自覚に利用してしまったので、取り返しのつかないことですが、申し訳ないと思います。

 恐らく女性は、「赦す存在であること」を社会的に期待され続けてきたのだし、これからも期待され続ける存在であるのだと思います(少なくとも、現代の日本社会では)。僕は男性であるので、このことにほとんど気付いていなかったのだと思います。女性が「赦す存在であること」を期待され続けるのと補完するように、男性は「赦される存在であること」を社会では期待され続けています。「赦される存在」である男性は「罪を持つ者」でもあり「加害者」であることが認められます。「赦す存在」である女性は「罪を許す者」であり「被害者」であることを求められます。双方とも小さな頃から社会的にそう期待され続けているので、それは同様に身体に染み付いたもののようになっているのだと思います。

 「赦される存在」=「加害者」であることを強く内面化してしまった僕は、年下の女性を屋上に呼び出し、膝枕をしてもらって、手を繋いでもらって、泣きながら罪を告白するということをしました。そのおかげで、僕はやっと自分の加害者性を記事にすることができました。しかし、素朴に「赦される存在」=「加害者」でいてもよいことを信じてしまっていた(僕が罪の告白の相手に女性を選んだのもこういった理由からでしょう)ので、それは性暴力に関心が向いている女性からしたら最高に気持ち悪い記事になってしまいました。なぜなら性暴力に関心が向いている女性は、「赦す存在」=「被害者」であったことに苦い経験やトラウマを持っている人が多いからです。母性神話を称賛するような記事は、自身の苦い経験やトラウマを喚起するもので、最も受け付けられないものだと思われます。だから僕の「自身の性の加害者性について語ることは、性暴力の問題を考えるうえで大事な資料になる」という目論見は全く意味のないものになってしまい、「気持ち悪い」というコメントばかりになってしまったのだと思います。これは完全に僕の認識不足と表現の問題です。

 

 その上で述べさせてもらうと、やはり僕の加害者性についての記事は(母性神話の気持ち悪さを一旦横におけば)、多少は「性暴力の問題を考えるうえで大事な資料になる」と思います。なぜなら、一般的な男性は「赦される存在」=「加害者」であることを社会で期待され続け、それが身体的に染み付いているからです。それは一般的な女性が「赦す存在」=「被害者」であることが身体的に染み付いてしまっているのと同様なことです。それを言語化し、記事にするということは、それなりの時間と労力が必要なものです。性暴力の問題に関心を向けている女性が、自分の中にどうしようもなく「赦す存在」=「被害者」である側面があり、それに悩まされるのと同様に、男性である僕は、『赦される存在』=「加害者」である自分に悩まされているのだと思います。その対称性を考えると、互いのことを多少は想像できるものなのではないかと思います。

 すると、性暴力に関心のある女性の多くが不可解に思っていた現象も少しは納得がいくのではないでしょうか。それは、少なくない男性が僕の記事に「よく言った」「すごい勇気だ」「尊敬する」などとコメントしたことです。この裏には、男性が『赦される存在』=『加害者』であることが身体化されてしまっているという事実があると思います。その感覚を嫌悪する女性には、一体何がすごい勇気なのか全くわからないのでしょう(女性の中にもグラデーションがあるようで、男性を許したい願望が強い、もしくはその願望を自覚している女性ほど、称賛する傾向にあったと思います)。『この記事に共感する』『自分にもこういった傾向がある』とコメントしてくれた男性もいましたが、ツイートする時に心臓がバクバクしたり手が震えたりした人もいるのではないかと思います。僕の友人の一人は、そうコメントするだけでもとても躊躇したと言っていました。それほど一般的な男性にとっては、自らの加害者性を認めることは、勇気のいることなのだと思います。一方で、『男性の加害者性の告白』の語りが、性暴力に関心の向いている女性に非難されてしまうということも或る程度は理解できます。なぜなら、彼女たちはそういった告白に対して、「俺を赦せ」というメッセージを感じ取ってしまうからだと思います。それもまた、身体化されたものであるので、過剰に反応してしまう(ように見える)のは仕方がない側面が大きいのだと思います。男性にも同じことが言えます。性暴力の問題に関心の向いている女性は、「男性の暴力は許すべきではない」ということを主張します。それを聞いた男性は、「私はお前を許さない」というメッセージを感じ取ってしまいます。『赦される存在』=『加害者』であることが身体化されてしまっているので、過剰に反応してしまう(ように見える)ことになります。双方が身体に染み付いてしまったものを抱えつつ主張をしあうので、性暴力の問題は常に罵倒の応酬が避けられなくなってしまうのだと思いました。お互い様みたいな話になってしまいましたが、日本は現在でも明らかな男尊女卑社会であるので、男女平等を目指すのならば、女性の声を拾うことの方が圧倒的に大切なこととなるのは明らかなことだと思いますが。

 理想を言えば、男性も女性も自分の身体化されてしまっている欲望を自覚し、罵倒することなくお互いのことを理解しようとすることが必要なのだと思います。しかし、それは現実問題難しいことだと思います。そして本当に男女平等を目指すのなら、呼吸してるだけで女性よりも利益にありつける男性の積極的な貢献が必要でしょう。しかし、男性は呼吸してるだけで女性より利益を得られる存在なので、自分の罪を認めるなどというハイリスクなことはわざわざしないようです。冒頭の記事を書いた後に興味深い出来事がありました。

 僕が自らの加害者性について記事を書いたことにより、個人的にメールで自らの性癖を告白してくれる人が現れました。恐らく今まで一人で抱え込んでいた人も多いのでしょう。5名いました。なんと全て女性でした。『ロリコン』やら『レイプモノ』やら『痴漢モノ』を興奮して見てしまっている・見てしまっていたことがある、という話でした。『男性』である僕が書いた加害者性についての記事に反応して、自らのことを長文で打ち明けてきた人が全て『女性』というのはとても興味深いことだと思います。これは統計的には全く意味の無い数字ですが、性暴力について思い悩むための労力が、女性の方に大きく傾いている構造になっているのではないかと予想することができました。性犯罪が多くの場合、女性のせいにされてしまうのと同じ構造が働いているのではないかと思います。

 

 結局話は自己正当化になってしまうのですが(また自己愛強いとか言われそうである)、それほど男性は自らの加害者性について認めることはとても困難なことであるので、冒頭の記事をそういった点からも見て欲しかったなと思います。『全く反省していない』とか『全く自分と向き合う気が無い』と散々言われましたが、そもそも冒頭の記事自体が現在進行形で反省中の証であり、自分と向き合っている証拠だと考えていました。母性神話丸出しだったのが原因なのですが。

 それと普通に罵倒は傷つくのでやめて欲しいと思いました。気持ち悪い記事を書いてしまったのでたくさん罵倒されましたが、僕は一つも罵倒し返しなどはしてないので、勘弁してほしいと思います。罵倒は普通に健康に悪いです。

 罵倒でかなり体力を消耗したのですが、幸いなことに心配してメールをしてくれたフォロワーさんやら、『お前やばいよ』『そのままだと人殺すことになるぞ』と諭してくれる友人がいたので、少し落ち着いて考えることができるようになりました。とてもありがたかったです。連絡くれたのが全て女性だったというのが、この問題の根深さを象徴しているような気もしますが。男性がこうした問題に関わるのはやはり難しいのか、と思いましたが、僕は突っ込んだ話を軽率にしてしまい、色んな人に過去のトラウマを想起させてしまったりして、大失態をおかしてしまったので、何も言えないです。本当に申し訳ないと思います。

  記事に対する言及のツイートをまとめる中で、『赦すこと』を社会的に強いられてしまい、苦しんでいる方が多くいるということを知ることができたのが、一番大きかったと思います。これからはその点に気をつけて、無自覚に人を搾取しないように接したいと思います。

 

 話が複雑になるので「自他の境界が曖昧なのが問題だ」という話については特に書きませんでした。それに関しては何か書くよりも、夏休みが終わったらとりあえず学生相談室にでも行こうと思います。

 

 音大の彼女ですが、いろんな方のツイートやブログを読んでも、自分の考え方は断固として変わらないようです。心配してブログやツイートしてくださった方たちの方が、僕よりもその気持ちは痛いほどわかってしまうと思います。彼女に伝えたいことがある方がメールくれたりしましたが、基本的に何でも伝えられるので、何かありましたらメールでお願いします。あまり何もかも公表するのはもう良くないと思いましたので。

 よろしくお願いします。