日本の円高不況とその後のバブル経済につながった「プラザ合意」から22日で30年。主要国が協調して国際金融市場を大きく動かした初めての試みだった。その歴史的評価はさまざまだが、世界経済の不均衡の修正のために主要国が連携したという点で今に通じる意義と教訓が見いだせる。

 1985年9月22日、米国ニューヨークのプラザホテルに、米、日、西独、英、仏の先進5カ国(G5)の蔵相や中央銀行総裁が秘密裏に集まり「ドル高是正」で合意した。米国の巨額の経常赤字が次第に米国経済をむしばみ、放置すれば保護貿易が台頭する恐れがあった。とりわけ対日赤字が巨額だったので円高ドル安を進め経常収支の均衡を取り戻す狙いだった。

 結果的に円相場は1ドル=240円台から翌年には一気に150円台へと急騰する。急な円高で日本の輸出産業は大打撃を受けた。不況対策と内需拡大のため、政府・日本銀行は財政出動と金融緩和を進めた。それが80年代後半のバブル経済につながったといわれている。

 とはいえこの30年を振り返れば、結果的に日本はその後の世界経済の構造変化を先取りして対応を促されていたことに気づく。生産拠点を海外に分散し、為替変動に強い経営にするグローバル化の先駆けである。

 プラザ合意の経験をいまの国際経済に生かすとすれば、日米欧の中央銀行が進めてきた大規模な金融緩和からの脱却こそ、ふさわしいテーマだろう。

 この異常な規模の世界的な金融緩和は、長期化すればするほど将来の金融市場の波乱を招きやすくしてしまう。早く脱却しなければならないが、最も経済状態が安定している米国でさえ9年ぶりの利上げに簡単に踏み切れずにいる。

 中国への示唆もあろう。中国はプラザ合意後の日本が円高不況に陥った問題点に注目し、人民元が急速に高くなるのを避けてきた。ただ、行き過ぎた管理相場がひずみを生み、金融政策や通貨政策の手足がかえって縛られている。そのなかで、先月の上海株の急落や人民元の不安定な動きが世界同時株安を引き起こした。

 経済大国となった中国は元高を受け入れ、柔軟な為替制度に転じるべきだ。そうなれば主要通貨である米ドル、欧ユーロ、日本円、英ポンドに人民元も加えた5極で、「新G5」をつくる可能性も生まれる。国際金融の安定のために、そうした新しい協調体制をめざすことも必要になってきたのではないか。