無為療法 禅の講義

「道元」松原泰道著から
一休さんで知られる臨済宗大徳寺派の妙超は大悟した後に、更に修行する為に京都の四条大橋の橋下で座禅をした。今も当時も人の往来が激しい所。その時の心中を

「座禅せば、四条五条の橋の上行き来の人を深山木に見て」
と読んだ。人がぞろぞろ通って美人もいる。当然心が落ち着かない。だから人を深山の木になぞらえれば心も落ち着くと自分に言い聞かせた。これはごまかしであり、思量と言うものである。妙超は自己に恥じつつ更に座禅に励み次の詩を読む。

「座禅せば四条五条の橋の上行き来の人をそのままに見て」
と読みを深めた。前作の行く人を木に例えてのごまかしの思量が、人をそのままに見る心境にまで到達している。美人を美人と鏡に写る映像のように余計な思いが働かなくなった。非思量の境地にまで進んだのである。

神経症者からのEメール質問では次ぎの質問が多い。
「考えないようにすれば良いのでしょうか」「苦しくても我慢してやるべきをやるのでしょうか」と質問する。これは一休さんの最初の間違いと同じで、座禅の最中に美人を見て、「美人と考えないようにすれば良いのでしょうか、美人を深山の木々に見立てればよいのでしょうか」と言っているのと同じである。

神経症を治す斎藤療法は、禅と同じで、一休さんの最初の詩をダメと見る。美人は美人なのであり、そう受け止め前進しろと言うでもなく、そのまま座禅、即ち雑用を続けるだけである。神経症が治った世界とは、結果的に人をそのままに見る状態になっているが、決してそこに努力はない。

ここに、禅の悟りと斎藤療法の悟りが一致しているのを見るであろう。禅では、悟りとは”ざるで水を汲むようだ”と言うが、まさにその通りで、美人も深山の木々も、ざるで汲む様に網目から漏れていく。時間さえも漏れていき、何もたまらない。ふと後から考えると、自分は環境と時空に一体となり、転がっていたと感じる。



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